寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(四)

 日録のコメント欄に、ある人が拙論をほめて次のように書いてこられた。

 

 西尾先生、諸君4月号-『かのようにの哲学』が示す智恵-、密度の濃い素晴らしい論文でした。皇統の問題は、日本人の実質的宗教的信仰心の問題であると同時に、近代合理主義に対する懐疑的態度としての保守思想の問題でもあるわけです。つまり日本人固有の問題であると同時に普遍的な問題でもある。この問題を同時に解決してくれる一つの在り方が「かのようにの哲学」です。本西尾論文がここ最近沸き起こった皇室典範改定慎重論の流れの中で達した結論ではないかなと思います。(以下略)
                    総合学としての文学 2006年3月1日

 方向は大づかみされているが、こんな風に理路整然とまとめてもらえるような立派な仕上がりの論文では決してない。たゞ私は一寸考えてみて論じ尽くせなかった難しいテーマの入り口を示すことは出来て、探求はこれからだと思う一問題に突き当たった。それは日本、中国、西洋のそれぞれにおける王権と神格との関係の比較である。

 西洋にはGODという、中国には「天」という絶対超越的な神がいて、代りに世俗の王権はいかに専制的であっても神格をもたないのではないか。ところが日本の天皇はカミである。神格をもつ御一人者である。たゞし、カミの概念が西洋や中国のそれとは異なる。

 どう異なるかはむつかしい。あの論文では神話と歴史の関係で少し考察してみて、途中で深追いせずに引き返した。入り口を示すだけで終ってしまった。天皇はカミである代りに世俗の権力を持たない。一方武家のような世俗の権力には神格がない。こういう日本の歴史の二重性、いわゆる「権威と権力の分立」は、地上に神を持たない西洋や中国の権威と権力の構造とは自ずと別のはずである。

 それはそうとして、鴎外の「かのようにの哲学」は今回の論文の中心主題では必ずしもない。論文の標題は編集長がつける。私が草稿に添えた原題は「皇室問題の本質は歴史にあらず信仰にあり」であった。長過ぎたので「かのようにの哲学」が用いられたのであろう。そのために誤解される可能性がある。

 別の編集者の加藤康男さんが新刊の『人生の価値について』の礼状に添えて、次のように書いてこられた。冒頭に「書斎人」とあるのは、つくる会決別の挨拶状に私が「これからは書斎にもどる」と書いたことに応じている。

 ご無沙汰しておりますが、「書斎人」として充実された日々をお送りかと拝察申し上げております。
さて、「諸君」の信仰論を拝読して、誠に腑に落ちていたら「人生の価値について」をご恵贈いただき、後半は特に一挙に読了させていただきました。先生ご自身が過去の病との戦いの中で、何か信仰にも似たものがあって、それが読み手の側にも伝わってきたのではないかと思えたからです。
信仰とは、例え神の存在を信じていない者にでも、伝わるのでしょう。ブログにも書かれていたご友人の病へのお気遣いの中にも、似たような一種の「信仰」が見えました。
この「信仰」なるものの正体は、小生には分かりませんが、こういうものが長い年月、日本人を繋いできた皇室問題と不可分であることはもっと多くの人に知って欲しい問題です。

 「信仰」といわれるとたちまち照れ臭くなるのが私の常である。否、大概の日本人がそうである。が、皇室問題はつきつめるとそういう方向の問題ではないかと考える。それを勘違いして、歴史、歴史と人々が騒ぐので、女系でも皇統はつながる論拠が歴史の中にあるとかないとかいう横道にそれた議論(田中卓、所功、高森明勅諸氏の)になるのであろう。

 「信仰」といわれて応答の言葉に困って私は加藤さんにすぐ次のように返書を認めた。

 お久しぶりです。年をとると行動力鈍く、集中力も落ち、そのぶん一日が短く、せわしない日々をおくっています。

わたしに信仰はありません。どんな宗教もわたしには遺憾ながら単に文化的知識です。日本の平均的人間がそうであるように。しいていえば信じているのは亡き母の愛です。最近犯罪事件をみて、母に愛されなかったひとがあんがい多いのではないかと考えたりします。私はその点では幸せでした。
拙著「人生の価値について」をご一読賜りまことにありがたくぞんじます。

「諸君」4月号論文はいまの言論界に熱っぽい天皇論がおおいので、あえて声なき声をチラットだし、皆さん、ほんとうに天皇の存在をそんなに大事に思っているのは、それ本気ですか、って聞いて見たかったのです。あの論文には少し意地悪がこめられています。江戸前期の「大日本史」が古事記も日本書紀も認めていなかったのを知っていますか、なんてキザな知識をふりまわして、いまどきの保守派をからかって、ほんのすこし戦後の進歩的知識人めいたことをいって、おどかしてやりたいのです。これからもこの手を使ってみます。今の保守派はほんとうにダメです。戦後の進歩的知識人がダメだったのとよく似た意味でダメなのです。

つまり、みんな正しいことを言いすぎるのです。正しいことは犬に食われろです。正しいことの範囲が言論誌ごとに定まっていて、みんなその枠のなかで優等生です。編集者が悪いのか、読者の好みに原因があるのか。というようなことをまた一杯やりながら話したいですね。荻窪にいい店を三軒もみつけましたよ。

つくる会のことはいまあまり考えたくありません。自分から考えなくても、情報が忍びよってきて憂鬱です。今日は週刊新潮からの取材を受けました。記者は何人にも聞くのでしょうから、わたしの考えはどうせ落ち葉の中の一葉です

「寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(四)」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: なめ猫♪
  2. 今までの「保守」は、単なる反共、反社会主義者の集まりであり、もともと「ごった煮」状態であった。
    戦後の進歩的知識人が、弱くなるに従い、今までの「保守」が分裂し、いくつかに分かれていくことは、必然と言えるでしょう。いくつかの軸が考えられる。保守の中でも、反米か親米か、戦後民主主義容認か、戦前復古派か、神道原理主義か、非宗教的保守か、などが考えられる。

    わたしは、保守かどうかはわからないが、反共はまちがいない。そして、親米派で、戦後民主主義容認で、仏教徒である。

    西尾先生はどの軸なのだろうか?反米ではないが、親米でもない。非宗教的保守で、日本の戦後民主主義は問題とされても、民主主義自体には、価値を認めているのではないか?皇室問題まで、民主主義で押し通すのは間違いだが、そういう非民主主義的なものと、民主主義的なものの共存状態を、容認されているのではないかと想像する。

    わたしは仏教徒であり、アメリカ留学時に、健康診断で宗教を聞かれ、Buddistと答えた。しかし、他の日本人留学生は皆、宗教なしと答えて、看護婦の目を白黒させていたのを、横目で見て、日本的なあいまいな宗教心では、国際的には通用しないと感じた。

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