田母神航空幕僚長の論文事件を考える(三)

 28日から29日へかけての深夜、例の朝まで生テレビに出て、田母神さんの論文について議論しました。ご覧になった方はいかがでしたでしょうか。
 
 知友から各種のメールをいただきました。面白いので、A さんから D さんEさんまで匿名でご紹介します。(Eさんを追加しました)

 大体同じような感想や判断であったように思います。私が気がつかず、はっと驚いたご指摘も多々ありましたので、皆様にも参考になるのではないかと思いました。

A
朝まで生テレビお疲れ様でした。
最初から最後まで拝見しました。

最後の集計結果で、まともな人が多いとわかってとりあえずほっとしました。
田原・姜・田岡・小森三氏の悔しそうな様子に、溜飲が下がりました。

たいした意見ではないですが、感想をお伝えします。
1)先生、水島さん、潮さんのお話と花岡さんのお話については、安心して聞いていました

2)防衛省と警察に近い森本さんと平沢さんには(半分予想していましたが)がっかりしました。
というより、ああいう人たちの考えが今の政府や官僚の事なかれ主義の象徴なのでしょうか?
特に森本さんは、自分への責任が来るのを嫌がっているふうにも感じられ見苦しい気持ちがしました。
この人達のようなものと今後戦っていくことになるのかなぁとも思いました。

3)先生達のお向かいの人たちはいつもと同じでしたが、今まで大嫌いだった姜さんが少し哀れに思えました。
嫌いなのはそのまま、話しもつまらないすり替えや屁理屈ばかりで全く共感できないのですが、水島社長さんが拉致問題の話しをしたときにすごく哀れに見えたのです。
この人、自分の祖国の犯罪をやはり恥じているような気がしたんです。
本当は日本人になりたいのかなぁとか、勝手に考えてしまいました。

4)田原さんは西尾先生や潮さんが大事な話をするときに、大声で制止しますね。
でもだからこそ、どこが大事かわかります。
また、今回思いがけず笑ってしまったのは、田原さんが辻元さんに「時々献金してる」ってぽろっと言った部分です。辻元のシンパなんだと改めて思いました。

B
ところで昨夜、正確には今朝まで「朝まで生テレビ」・「激論・田母神論文」がありました。姜尚中、小森両東大教授、辻元清美、共産党の議員。対するは、西尾先生、水島氏、潮正人氏、花岡氏、それに森本敏氏らでした。

 最後に発表されたアンケートの結果が印象的でした。田母神論文を指示するが60%以上、反対は33%?でした。憲法に自衛隊を明示せよ、は80%でした。

 討論の中でもどかしく感じた点は以下の諸点です。

・辻元清美の「東南アジアで大東亜戦争を評価する国々とあるが、何処ですか?」という質問に

 花岡氏は答えませんでしたが、具体的に名前を挙げた方が説得力があった、と思います
 多くの事例を挙げることは簡単なはずです。

・欧米の侵略戦争は第一大戦までのことだ、と小森などが言っていましたが、

 そうではない。欧米諸国が植民地支配を目指して東南アジア諸国の民衆と戦ったのは第二次大戦後のことだ。と答えて欲しかった。インドネシアでは4年間に80万人を殺しています。

・「(田母神氏は)政府の方針に従わなかった」ことが問題だ、という言い方。

 これには、1952年の国会決議を忘れて未だにA級戦犯などと言い続けることこそ、最高機関の決議に対する違反ではないか。日教組の国旗・国歌に対する侮辱行為こそ問題視すべきだ。
 
・シナ事変については、「日本の侵略」と森本氏までが言っていましたが、

 東京裁判でも「日本の侵略」と出来なかった事実を指摘すべきでした。連合国は取り上げたが、米国駐在武官の電文などがあって、慌てて蓋をしたのです。

・防衛大学の講師に「作る会の幹部」が呼ばれていたのは問題、と辻元が指摘しましたが

 作る会の歴史教科書は、文部科学省の検定をパスしています。その教科書を作った「作る会」が問題だということは、文科省がおかしいというのか、と反論すべきでした。
 つまり、東京書籍など他の歴史教科書の執筆者はどうするのか?ということでもあります。

などなどですが、西尾、水島、潮諸氏の活躍が光りました。森本氏の歴史観には驚きました。
平沢勝栄議員は何のために出ていたのは理解不能でした。

C
朝生テレビを見ました。
左巻きの人たちはともかく、保守側と見られた人たち(森本、平沢氏)でも、「立場上あの発言はまずかった」というスタンス、さらに、敗戦以来、自分自身が大きな洗脳という雰囲気下で影響を受けているという自覚がまるでありませんでした。この二人は、秦郁彦氏と同根と思われますが、いかがでしょう。

西尾先生が「歴史を巨視的に観る」ことの必要性を訴えていたこと、そしてGHQ焚書図書を引用しながらの具体的な発言が目立ちました。
水島氏はいつものスタンス通りで正論を述べられていましたが、ときどきチャンネル桜に出演する?森本氏に呆れていたことでしょう。
森本氏の歴史観は政府お抱えの学者という印象で、つくる会の歴史観とはまったく矛盾するもので驚きました(ある程度は予想していましたが)。

潮氏も頑張っておられましたが、花岡氏の遠慮気味発言にはがっかりしました。
もっと、はっきりおかしいことを「否定」する言動をすべきでしょう。
花岡氏はまったくディベート向きではないことが分かりました。もっとGHQ焚書に目を通して自信をつけるべきです。

平沢勝栄議員は最初からまったく期待はしていませんでしたが、森本氏と同様、一見保守の立場で発言するだろうと思わせながら、期待に応えない。両氏ともどこか、秦、保坂氏らのスタンスに近いものがある。今後そのようにみるべきでしょう。
局側もそれをにらんでの登板要請ではないでしょうか。

田母神問題は、思想の(人物の)真贋を洞察する、いいリトマス試験紙であることを確認しましょう。

                                    匆々

D
朝生を久しぶりに、何年ぶりかで見ました。
辻元が少し丸くなった印象には笑えました。
平沢、森本は一体何を考えているのか。
あくまでも日本をアメリカの保護国としてしか見ていないのではないか。
それにしても、
西尾先生は大したものです。
まず、知識の量で他の出演者を圧倒しています。
そして、発言に一点の迷いがない。
最後に、会場やFAXで田母神さんへの支持が圧倒的であったことに
安堵の表情を浮かべていたことに、私も心安らかに眠りについた次第。

 次は高校時代の友人からです。

E
「朝まで生テレビ」拝見、ご苦労さまでした。
さぞお疲れでしょう。こちらは、DVDに収録して、昼間ゆっくり見た次第で申し訳ありません。
しかし西尾節の炸裂で、3時間は長く感じませんでした。大兄発言は時々田原氏にさえぎられていましたが、おおむね持論は展開されたのではないでしょうか。フリップ(という言い方でよい?)も要領よく、うまく出来ていましたね。最後のプロ田母神、61%という数字はサムシングですね?とくに、アンチのうちの39%?は「立場上問題」と言う反対なので、なかみを問うものではないとすると、大変な数字だと思います。大兄は「当然のこと」と昂然としておられましたが、田原氏なり、テレ朝なり、営業政策上?も方針を少しずつ転換した方が良いのでしょうか?
(まあ、皮肉ですけど。)右取りあえずの感想です。どうかごゆっくりお休みください。(というわけにも行かないのでしょうが・・・。)

 

田母神航空幕僚長の論文事件を考える(二)

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朝まで生テレビ!

タイトル:~激論!田母神問題と自衛隊~
放送日時:11月28日(金)25:20~28:20
       (11月29日(土)午前 1:20~ 4:20)

 田母神俊雄航空幕僚長(当時)の論文が物議を醸しており、参議院では参考人招致が行われました。現役航空自衛隊の最高幹部が政府見解に反する論文を発表したことから、シビリアンコントロールの形骸化を指摘し、戦前回帰を危惧する声もあります。果たして田母神氏のこの確信犯的言動の原点はどこにあるのでしょうか。また海上自衛隊の暴行事件疑惑、守屋事務次官の収賄罪による実刑判決、など不祥事が相次いでいます。
 
 そこで今回の「朝まで生テレビ!」では、田母神論文の問題提起とその内容の問題点とは?今自衛隊はどうなっているのか?自衛隊に対する理解と信頼をどうすれば回復できるのかを議論したいと思います。

番組ホームページより

司会:田原総一朗
進行:長野智子・渡辺宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)

パネリスト(案)決定
○ 平沢勝栄 (自民党・衆議院議員、元防衛長官政務官)
○ 浅尾慶一郎(民主党・参議院議員・党「次の内閣」防衛大臣)
○ 井上哲士 (日本共産党・参議院議員、参院外交防衛委員)
○ 辻元清美 (社民党・衆議院議員、党政審会長代理)

○ 潮 匡人 (元防衛庁広報、帝京大学短期大学准教授、元航空自衛官)
○ 姜 尚中 (東京大学大学院教授)
○ 小森陽一 (東京大学大学院教授、「9条の会」事務局長)
○ 田岡俊次 (軍事評論家)
西尾幹二 (文芸評論家)
○ 花岡信昭 (ジャーナリスト)
○ 森本 敏 (拓殖大学海外事情研究所所長)       
○水島 総  (日本文化チャンネル桜社長) 
      

『三島由紀夫の死と私』をめぐって(六)

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 『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所)が刊行されますので、お知らせします。11月25日発売予定。この本の説明を自分でするのは難しいので、Amazonの広告文をそのまゝ掲示し、そのあと目次をお示しします。

内容紹介
1970年11月25日――日本人が忘れてはならない事件があった。
生前の三島由紀夫から「新しい日本人の代表」と評された著者が三島事件に関する当時の貴重な論考・記録・証言をもとに綴る渾身の力作。

日本が経済の高度成長を謳歌していたかにみえる1970年代前後に、文壇で確固たる地位を得ていた三島の内部に起こった文学と政治、芸術と実行の相剋のドラマを当時いわば内側から見ていた批評家こそが著者であった。

その著者が、戦後の文芸批評の世界で、小林秀雄が戦前に暗示し戦後に中村光夫、福田恆存ほかが展開し、三島由紀夫も自らにもちいた「芸術と実行」という概念のゆくえについて、40年近くもの時を経て、著者としての答を出すことを本書で試みた。

また、著者は「三島の言う『文化防衛』は西洋に対する日本の防衛である。
その中心にあるのは天皇の問題である」として、三島の自決についても当時の論考や証言を引用しつつその問題の核心に迫る。

アマゾンより

はじめに――これまで三島論をなぜまとめなかったか

第一章 三島事件の時代背景

日本を一変させた経済の高度成長
日本国内の見えざる「ベルリンの壁」
「日本文化会議」に集まった保守派知識人
スターリニズムかファシズムか
ベトナム戦争、人類の月面到着、ソルジェニーツィン
娘たちは母と同じ生き方をもうしたがらない
文壇とは何であったのか

第二章 1970年前後の証言から

日本という枠を超えるもう一つのもの
三島由紀夫の天皇(その一)
福田恆存との対談が浮かび上がらせるもの
私がお目にかかった「一度だけの思い出」
総選挙の直後から保守化する大学知識人たち
近代文学派と「政治と文学」
全共闘運動と楯の会の政治的無効性と文学表現
三島事件をめぐる江藤淳と小林秀雄の対立

第三章 芸術と実生活の問題

本書の目的を再説する
芸術と実行の二元論
私の評論「文学の宿命」に対する三島由紀夫の言及
三島の死に受けた私の恐怖
事件直後の「『死』からみた三島美学」(全文)
『豊穣の海』の破綻――国家の運命をわが身に引き寄せようとした帰結
三島の死は私自身の敗北の姿だった
文壇人と論壇人の当惑と逃げ
江藤淳の評論「『ごっこ』の世界が終ったとき」
三島由紀夫は本当に「ごっこ」だったのか
芸術(文学)と実行(政治)の激突だった
「興奮していた」のは私ではなく保守派知識人のほうだった

第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する

小林秀雄「文学者の思想と実生活」より
明治大正の文壇小説と戦後の近代批評
二葉亭四迷の“文学は男子一生の仕事になるのか”
私小説作家の「芸術」と「実行」の一元化
『ドン・キホーテ』や『白鯨』にある「笑い」
“西洋化の宿命”と闘う悲劇人の姿勢
三島由紀夫の天皇(その二)
割腹の現場

あとがき

〈付録〉不自由への情熱――三島文学の孤独(再録)

 尚、私はこの本と同じ題目の講演を第38回「憂国忌」で行います。

 11月25日(火)午後6時(5時半開場)九段会館3階真珠の間¥1000

非公開:佐藤優さんからのメッセージ

 佐藤優さんのご活躍には目覚しいものがあるが、私はまだお目にかかったことはない。いままでの論壇人の枠にはまらない新しいタイプの思想家として理解しているのは、佐藤さんが各方面の雑誌にとらわれなく広く健筆を振るっておられるからである。

 こういう方が登場して、言論界の既成の枠を壊してくれることを私はかねて期待しているし、佐藤さんがその役を引き受け、風を起こし、世の思考の柔軟さ回復に寄与されんことをつねずね祈っている。どうか乙に取り澄ました大家にならないで欲しい、と思っていたので、今回佐藤さんが拙論をとりあげ、いま述べた同じ趣旨のことを強調してくださったことは大変にうれしい。

 自由でありすぎる時代に生きて、自由であることはむずかしい。枠にとらわれないでいようとするだけでは自由にはなれない。枠をこわすことに意識的であることも必要である。そのために枠にはまった思考にあえてとらわれてみる実験も求められる。一筋縄ではいかない。

 いまは未来がまったく見えない時代に入ったから、かえって生き生きできるのである。間違えることを恐れる人間はかならず脱落する。精神は冒険を求めているのである。佐藤さんがそういう意味の拙論の趣旨を最大限にくんだ次のような評論をあえて新聞に書いてくださったことに感謝し、ご承諾を得て、ここに再録させていただく。

【佐藤優の地球を斬る】
雑誌ジャーナリズムの衰退 西尾幹二氏の真摯な言葉

 右派でも左派でも、論壇において論争と言えないような罵詈(ばり)雑言の応酬が行われることが多い。沖縄の集団自決問題、靖国神社への総理参拝問題、原子力発電の是非、憲法改正問題など、執筆者の名前を見るだけでどういう立場かすぐに想像がつき、実際に読んでみても、先入観を確認するだけの論文が多い。

 このような状況に突破口をあけたいと思うのだけれども、力不足でなかなか現状を変化させることができない。この問題について、最近、素晴らしい論文を読んだ。
『諸君!』12月号(文藝春秋)に掲載された評論家・西尾幹二氏(73)の「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」だ。西尾氏は現下論壇の問題をこう指摘する。

 <言論雑誌がなぜ今日のような苦境に陥ってしまったのか、本質的に、これはイデオロギーの災いであると私は見ています。

 イデオロギーといえば、だれしもかつてのマルクス主義を思い浮かべるでしょうが、私がいうのは、そんな複雑、高尚なものではありません。手っ取り早く安心を得たいがために、自分好みに固定された思考の枠組みのなかに、自ら進んで嵌(はま)り込むことです。

 イデオロギーの反対概念は、現実--リアリティです。リアリティは激しく動揺し、不安定です。たえず波立っています。その波の頂点をとらえつずけるためには、極度の精神的な緊張と触覚の敏感さが必要となります。>

 ■「不可能の可能性」に挑む
 この箇所を読んで、中世の実念論者(リアリスト)のことを思った。筆者は、世間ではロシア専門家のように思われているが、本人の自己意識では専門はチェコ神学だ。15世紀のチェコにヤン・フス(1370ごろ~から1415年)という宗教改革者がいた。最後は、カトリック教会によって火あぶりにされてしまうのであるが、マルティン・ルター(1483~1546年)らより100年も前に本格的な宗教改革を行った。

 中世神学では、実念論(リアリズム)と唯名論(ノミナリズム)が対立していた。哲学史の教科書をひもとくと、当初優勢だった実念論が唯名論に徐々に地位を譲っていったと書いてある。15世紀になるとヨーロッパ大陸の神学部はすべて唯名論を採用していたが、ただ一つだけ例外があった。カール[プラハ]大学の神学部だ。この大学の学長がフスだったのだ。実念論者は、リアルなものを人間がとらえることはできないと考える。しかし、人間はリアルなものをとらえようとしなくてはならない。いわば「不可能の可能性」に挑むことが重要と考える。

 <(リアリティの)その波の頂点をとらえつずけるためには、極度の精神的な緊張と触覚の敏感さが必要となります>という西尾氏の言葉に触れて、こういう本質的な事柄に気づき、発言するのがほんものの知識人であると思った。

 ■「言論人も実行家たれ」
 米国発金融危機について、西尾氏はこう述べる。

 <新聞や雑誌で、この件に関連する論を立てている人々には、不安の影は見いだせません。アメリカの経済はかならず復元すると思い込むにせよ、もう回復不能なところまで来ているととらえるにせよ、かれらはさしたる逡巡(しゅんじゅん)もなく易々(やすやす)といずれかの意見に与(くみ)し、とうとうと自説を述べて倦(う)むことを知りません。実行している三菱(UFJフィナンシャル・グループ)や野村(ホールディングス)の人はリアリティに触れているから未来は見えません。不安に耐えています。さも未来をわかっているかのように語る人はすべて傍観者です。見物人です。イデオローグなのです。だから不安がありません。

 私がいいたいのは、不安が必要だということです。言論人も実行家たれ、ということです。実行家は必ず何かに賭けています。賭けに打って出る用意なくして、安易な言葉を発してはいけないのです。>

 筆者も西尾氏の発言に全面的に賛成だ。率直に言うが、筆者自身も、論文を書くときは、必ず何かに賭けている。今後も知行合一(ちこうごういつ)につとめたい。西尾氏には人知の外にある超越性をつかむ力がある。それだから、現下の世界における出来事を読み解くキーワードとして「不安」をあげるのだ。

 特に、普段、西尾氏の言説に触れない朝日新聞、『世界』、『週刊金曜日』などの読者に西尾氏のこの論文を是非読んでほしいと思う。真摯(しんし)な言葉には、左右のイデオロギーを超え、人間の魂に訴える力がある。その力を是非感じてほしい。
 (作家、元外務省主任分析官 佐藤優/SANKEI EXPRESS 平成20年11月13日)

『真贋の洞察』について(五)

『WiLL』12月号

編集部の今月のこの一冊より

真贋の洞察―保守・思想・情報・経済・政治 真贋の洞察―保守・思想・情報・経済・政治
(2008/10)
西尾 幹二

商品詳細を見る

『真贋の洞察』西尾幹二

 著者は常日頃「保守を標榜している勢力の思想が硬直している」と嘆く。本書では例えばこう述べる。

 「反米、反中の時代は終わりました。ということは、親米、親中の時代も終わったのです。

 どちらかに心が傾くというのは、イデオロギーにとらわれているということです。イデオロギーにとらわれるとは、自分の好みの小さな現実を尊重し、救われた気になってホッとし、不愉快な現実を含むすべての現実を見ようとしないことです。」

 これはすなわち真贋の「贋」を排そうとする著者の声だが、では「真」とは何か。言論界では「本当のことを言うこと」。それができないのは「大抵は書き手の心の問題」だと言う。そして「真」は自分に心地よいつくり話を書いてしまうきわどさと常に隣り合わせだと警鐘を鳴らす。

 真贋の判定を読者に委ねると言い切ってふるう筆の気概は凄まじい。

「WiLL」12月号より

『真贋の洞察』について(四)

 文芸評論家の富岡幸一郎さんからお葉書をいたゞき、間もなく次のような『真贋の洞察』への懇切なる書評をいたゞいた。『産経新聞』11月2日と『SANKEI EXPRESS』(11月10日)に載った。

【書評】『真贋(しんがん)の洞察』西尾幹二著
2008.11.2
 ■知識人の在り方を問う

 「真贋」とはもちろん本物と偽物の区別ということだが、現代ほどこの区別が見えにくい時代はない。価値の基準、尺度が多様化し、超越的な絶対者が見失われているからであるが、それはいきおい知識人の言論を場当たり的なものにする。これは保守とリベラルといった思想的立場にはかかわりなく、むしろ思想のレッテルをはれば済むという態度こそ、物事の本質を洞察する力を奪う。

 本書を貫くのは、今日の言論界において跳梁跋扈((ちょうりょうばっこ)する「贋」にたいする著書の憤りといってよい。「憤り」というと感情的な反応と受け取られかねないが、「冷静な知性」を装った言論がいかにひどいものであったかは、丸山真男や鶴見俊輔ら戦後の進歩的文化人の屍(しかばね)のごとき言説にふれた一文にあきらかである。これは保守派も同じであり、政局論に落ちた昨今の「保守」言論もバッサリと切られている。

 後半ではグローバル経済の「贋」の構造が、米中経済同盟などの具体的な現実から鋭く言及されているが、その根本に著者が見ているのは、物心ともにアメリカに依存してきた、戦後の日本の欺瞞(ぎまん)である。「日本は独自の文明をもつ孤立した国」と著者はいうが、「孤立」とはネガティブではなく、自国の歴史と伝統を信ずる力を生む。本書の福田恆存論には「『素心』の思想家」という表題が付されているが、「素心」とは時代の“様々なる意匠”のなかで、自らの精神と生き方を貫くことであろう。それは個人の姿勢にとどまらない。明治以降の、そして戦後日本の「近代」化とは、「孤立」をおそれるがゆえに、自分を見つめる「素心」を失い、価値の尺度を西洋(あるいはアメリカ)という他者に委ねてきたことではないか。本書は、政治・経済・社会の喫緊の危機的事実への著者の直言であるとともに、真の思想とは何かという知識人の在り方の本質を問うた批評集である。(文芸春秋・2000円)

 評・富岡幸一郎(文芸評論家・関東学院大学教授)

 いろいろな題材についていろいろな時期に書かれた文章なのに、統一テーマをさぐっていたゞけてまことにありがたい。富岡さんには篤く御礼申し上げる。

 先にいたゞいたお葉書には「福田恆存論をとくに感銘深く拝読いたしました。『素心』という言葉の力と美しさに打たれます。」と書かれてあった。

 『素心』は滅多に使われない言葉であり、福田先生も多用されていない。角川版文学全集の、福田恆存、亀井勝一郎、中村光夫の一巻の内扉の自筆書きのページに、筆で『素心』と記されていたのを採った。

 私は11月6日に『三島由紀夫の死と私』(PHP)が校了。目下『GHQ焚書図書開封』第二巻の校正ゲラ修正の大波に襲われている。

 田母神空自幕僚長の一件についてこれから『WiLL』新年号(11月26日発売)に20枚書く。『日本の論点』2009年版(文藝春秋)に、皇室問題について書いてあり、目下発売中である。

 尚『GHQ焚書図書開封』は3刷になったことをお伝えしたい。                

田母神航空幕僚長の論文事件を考える

 アメリカ発の金融危機がどこまで深刻で、どのように今後の世界を変えていくかはまだ分らないが、アメリカの力が落ちて、政治的にもかなりの影響が出てくることは間違いないだろう。日本が自ら傷つかずにアメリカからどう距離をとっていくかが今後のわが国の最大の課題と思う。

 つまりわが国はこれから困難な状況を迎えるとともに、好機をも迎える。好機とはいうまでもなく、アメリカの事実上の「保護国」にある立場からの脱却、すなわち「独立」のチャンスの到来である。

 私は『WiLL』12月号「麻生太郎と小沢一郎『背後の空洞』」にそのような今の日本の置かれた位置について語った。また『諸君!』12月号に「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」でも、現実は動いていて、波立っていて、その波のひとつひとつを掴まえるには、今までの固定した思考の枠組み(イデオロギー)を取り払わねばならないと書いた。ご一読くださった方は分っておられると思う。

 ところが、今の日本は相変わらずまったくそうなってはいない。アメリカからの「解放」が目前に来ているというのに、新しい現実の動きがまったく分っていない。

 田母神航空幕僚長の論文は普通に立派なことを語っていて何も問題はない。しかるに日本政府はなにかに怯えて、彼の地位を外し、彼は解任はされなかったが、定年退職の形式でやめさせられた。政府としては苦肉の策だろうが、なぜそんなにビクビクするのか。アメリカから一歩ずつでも「独立」した方向へ進もうとする今の日本人の精神的情勢がまったく分っていないのである。

 政府のほうが時代遅れである。沖縄の集団自決事件の裁判第二審の判決例を見ても、今の日本の司法はとち狂っているとしか思えない。行政も司法もなにかを恐れている。

 占領軍の命令に怯えた60年前のマインドコントロールがずっとまだつづいていることは間違いないが、昭和60年前後に一度悪化し、それから教科書・拉致などあって少し好転したが、ここへきて近年またまた一段と悪化しているように思えてならない。

 これは「解放」が近づいている証拠でもある。どうしてよいかわからずノイローゼにかかっている現われである。日本の対米依存心理はそれほど根が深く、病理現象を呈している兆しでもある。(このことは前記『WiLL』『諸君!』の12月号二論文でも分析しておいた。)

 私はいま『GHQ焚書図書』第二巻の原稿整理のまっ唯中にあるが、第8章の冒頭に次のように書いている。

 戦後日本人が忘れさせられた「侵略」の真実

 まず、注目していただきたいのは『亜細亜侵略史』『印度侵略史』『米英東亜侵略史』『英国の南阿侵略』『アジア侵略秘史』といったタイトルです。この五冊はたまたま焚書の並ぶ棚から拾い出してきたもので、この手の本は非常にたくさん出版されていました。『大英帝國侵略史』とか『太平洋侵略史全集』というのもあります。多くの本に「侵略」という言葉がかぶせられています。当時の日本人は欧米諸国を「侵略国家」として認識し、指弾していたのです。日本は侵略されなかったアジアの最後の砦であった――そういう捉え方が当時は当たり前でした。

 ところが、いまの新聞、雑誌、テレビ、あるいは教科書を見てください。日本がアジア各国を侵略したという話しにガラリとすり替わっています。そんな馬鹿な話はありません。アジアの国々を侵略したのは欧米諸国であって、けっして日本ではありません。日本は侵略された側の最後の砦だったのです。それなのにいつの間にか日本は侵略した側に回されてしまった。というより欧米は無罪で、日本だけが侵略国にされてしまった。そんなとんでもないことが起こっているのは敗戦国の現実で、現代の敗戦国は領土だけでなく歴史も奪われる端的な証拠です。そしてその手段の一つが焚書でした。

 もしも「欧米諸国=侵略国」という常識を記した本がGHQによって焚書にされずに、日本人の常識からすっかり消されてしまわなかったら、記憶の一部は必ず強く甦り、常識の復権に役立ったでしょう。ところが、現実には、教科書によって、あるいは新聞やテレビによって、米軍の指示に従った歴史観が国民の頭に刷り込まれて来ました。そのため、私たちの国が侵略したのだと思い込むようになってしまったのです。

 ご覧の通り「焚書」が決定的にマインドコントロールの役割を果したのだった。現在の日本政府も、裁判所も、脳髄の中枢をやられているのである。

 私は根本から日本人の意識を変えていかなければダメだと思っている。無力とはいえ、私の言論も少しは役立つでしょう。しかし、それよりもアメリカが財政破綻の結果、日本列島の防衛を事実上もう不可能とみて、日本から誰の目にもはっきり分るほどに離れていく局面が生じることが、日本人の自立の切っ掛けになるのではないだろうか。