『真贋の洞察』について(四)

 文芸評論家の富岡幸一郎さんからお葉書をいたゞき、間もなく次のような『真贋の洞察』への懇切なる書評をいたゞいた。『産経新聞』11月2日と『SANKEI EXPRESS』(11月10日)に載った。

【書評】『真贋(しんがん)の洞察』西尾幹二著
2008.11.2
 ■知識人の在り方を問う

 「真贋」とはもちろん本物と偽物の区別ということだが、現代ほどこの区別が見えにくい時代はない。価値の基準、尺度が多様化し、超越的な絶対者が見失われているからであるが、それはいきおい知識人の言論を場当たり的なものにする。これは保守とリベラルといった思想的立場にはかかわりなく、むしろ思想のレッテルをはれば済むという態度こそ、物事の本質を洞察する力を奪う。

 本書を貫くのは、今日の言論界において跳梁跋扈((ちょうりょうばっこ)する「贋」にたいする著書の憤りといってよい。「憤り」というと感情的な反応と受け取られかねないが、「冷静な知性」を装った言論がいかにひどいものであったかは、丸山真男や鶴見俊輔ら戦後の進歩的文化人の屍(しかばね)のごとき言説にふれた一文にあきらかである。これは保守派も同じであり、政局論に落ちた昨今の「保守」言論もバッサリと切られている。

 後半ではグローバル経済の「贋」の構造が、米中経済同盟などの具体的な現実から鋭く言及されているが、その根本に著者が見ているのは、物心ともにアメリカに依存してきた、戦後の日本の欺瞞(ぎまん)である。「日本は独自の文明をもつ孤立した国」と著者はいうが、「孤立」とはネガティブではなく、自国の歴史と伝統を信ずる力を生む。本書の福田恆存論には「『素心』の思想家」という表題が付されているが、「素心」とは時代の“様々なる意匠”のなかで、自らの精神と生き方を貫くことであろう。それは個人の姿勢にとどまらない。明治以降の、そして戦後日本の「近代」化とは、「孤立」をおそれるがゆえに、自分を見つめる「素心」を失い、価値の尺度を西洋(あるいはアメリカ)という他者に委ねてきたことではないか。本書は、政治・経済・社会の喫緊の危機的事実への著者の直言であるとともに、真の思想とは何かという知識人の在り方の本質を問うた批評集である。(文芸春秋・2000円)

 評・富岡幸一郎(文芸評論家・関東学院大学教授)

 いろいろな題材についていろいろな時期に書かれた文章なのに、統一テーマをさぐっていたゞけてまことにありがたい。富岡さんには篤く御礼申し上げる。

 先にいたゞいたお葉書には「福田恆存論をとくに感銘深く拝読いたしました。『素心』という言葉の力と美しさに打たれます。」と書かれてあった。

 『素心』は滅多に使われない言葉であり、福田先生も多用されていない。角川版文学全集の、福田恆存、亀井勝一郎、中村光夫の一巻の内扉の自筆書きのページに、筆で『素心』と記されていたのを採った。

 私は11月6日に『三島由紀夫の死と私』(PHP)が校了。目下『GHQ焚書図書開封』第二巻の校正ゲラ修正の大波に襲われている。

 田母神空自幕僚長の一件についてこれから『WiLL』新年号(11月26日発売)に20枚書く。『日本の論点』2009年版(文藝春秋)に、皇室問題について書いてあり、目下発売中である。

 尚『GHQ焚書図書開封』は3刷になったことをお伝えしたい。                

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