訃報を受けて(二)

宮崎正弘氏

■訃報■
西尾幹二氏
●●●●●
 けさ(11月1日午前四時)、息を引き取られた。個人全集二十四巻、あと一巻で完結というところだった。編集は終わっており、年譜を作成中で、じつは小生もちょっとお手伝いをした。それは西尾さんがたった一度だけ三島由紀夫とあった日付けのことだった。
 

 西尾全集はわが書架の福田恆存全集のとなりに並んでいる。よく拙著から引用され、評価していただいた。氏の特技は長電話。朝九時か十時頃にかかってくる。最低一時間のお喋りになる。

 思い起こせば三十年に及ぶおつきあいのなかで、私と会うときは、話題は三島由紀夫であり、国際情勢だが、ニーチェの話は殆どしたことがない。拙著『青空の下で読むニーチェ』には、感想がなかった(苦笑)。 
 

 『江戸のダイナミズム』で出版記念会をやりませんか、と提案すると真剣に応じられ、準備状況、発言者、当日用意する冊子など、およそニケ月の準備の時間は殆ど毎日、氏の自宅や版元の会議室で膝つき合わせ、あるいは会場での打ち合わせに費やされた。当日は四月というのに小雪が舞い、出足を心配したが、会場は四百人以上の熱気で埋まった。

 二次会はカラオケだった。氏は♪「湖畔の宿」を、小生は♪「紀元は二千六百年、病に伏される前まで毎年、忘年会は高円寺の居酒屋にお招きいただき、周囲構わず大声で論議風発、愉しい時間だった。大いなる刺激をいただいた。
 

 氏が主催する「路の会」は四半世紀続いた。月に一度、保守系の論客を講師にお招きして、ああだこうだと激論を闘わせる知的昂奮の場だった。西尾氏が急用時には、小生が二回代役の司会をつとめた。田村秀男氏と中西輝政氏を招いた時だった。おわると近くの居酒屋に場所を移して、さらに激論が続き、氏は割り箸の袋にもメモを取るのである。かえりは方向が同じなのでタクシーに同乗するのだが、延々と論争の続き、耳が疲れるほどだった。
 

 或る時、知り合いの雑誌の編集長から電話があって、カラーグラビアに「路の会」をとりあげることになり、大勢のメンバーがあつまって写真を撮った。全集の口絵に好んで使われた。 

  憂国忌には二度講演をお願いしたほか、出番がなくても時間が空いていれば出席された。

 氏は論争が大好きで、また相手構わず激論を挑む。現場で見たのは岡崎久彦氏への面罵、そして小泉首相を「狂人宰相」と名付け、また安倍晋三首相をまるで評価しない人だった。

 台湾に一緒に行く前日になって、台湾大使が「野党が西尾氏の訪台を政治利用しようと、いろいろと企んでいるので、延期して欲しい」となって、せっかくの旅行はそのまま中止となった。国内旅行は三重の長島温泉など。

 氏はまた読者、ファンをあつめて西尾塾とでもいうべき「坦々塾」を主催され、二回ほど講師に呼ばれて喋った。初回は四谷のルノアールに二階を貸し切った。

 次々と走馬燈のように思い出が尽きない。西尾幹二氏は不出生の論客にして思想家だった。
 合掌
 ■■■

「訃報を受けて(二)」への1件のフィードバック

  1. 本日久々に落ち着いた休みの日でして、先生へのお話をさせていただこうと思います。

    いつかこの日が来ることは覚悟していても、流石に現実となると、この世に先生がいないということの、ひとつの地球の可能性が失われたことの気持を、自分の中で強く感じます。

    常に戦い、常に己を磨き、先頭に立って全包囲網と正面から向き合う、思想と生き様が本当に重なる人生だったのではないでしょうか。時間が経てば経つほど、恐らく私の悲しみは増し、ふと気がつくと、先生がご尊名の時が、いかに贅沢で幸せな時であったかを実感するでしょう。

    語り尽くせないものがあります。どうやってこの文章を終えたら良いのかさえわかりません。
    先生!貴方は本当にもう、この世にいらっしゃらないのてすか!私は、さよならは言いません。貴方はいつまでも私の中で大きく生きてます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です