全集新内容見本(三)

第16巻 沈黙する歴史
◆世界戦争を悲劇的にしたリンカーンの正義の戦争観
◆米国は日本攻略を策定していた
◆焚書、このGHQの思想的犯罪
◆全千島列島が日本領
 歴史には沈黙している部分がある。沈黙しつつ声を発している。簡単には言葉にならないが、外から言葉を与えられると不服従を示す。敗者にも正義の思いがある。先の大戦の歴史は日本人にとって自尊心の試練の物語である。

第17巻 歴史教科書問題集成
◆ついに証明された日韓政治決着の悪質さ
◆売国官庁外務省の検定不合格工作事件
◆公立図書館の焚書事件、最高裁で勝訴
◆受験生が裁判所に訴え出た大学入試センター試験日本史の問題
 著者は「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長として中国韓国、外務省、左翼テロ集団の妨害工作と戦い、教科書記述から採択まで運動を牽引した。その全発言を集成。「つくる会」の目指したのは常識の確立にすぎないと語る。

第18巻 決定版 国民の歴史
◆大型付録二、参考文献一覧ほか
 日本の歴史は中国や西洋から見た世界史の中ではなく、どこまでも日本から見た世界史の中に位置づけられた日本史でなくてはいけない。その信念から書かれた日本通史の試みで、72万部のベストセラーとなった。

第19巻 日本の根本問題
◆歴史と自然、歴史と科学、言語と神話
◆皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます
 古代日本人の霊魂観を縄文の森の生態系の中に求める著者は、古代史の扱い方への疑問や危機に立つ神話を論じ、現代の皇室の苦悩と困難についても発言してきた。憲法前文私案、憲法をめぐる参議院での意見陳述等を付す。

第20巻 江戸のダイナミズム
◆本居宣長が言挙げした日本人のおおらかな魂
◆中国神話世界への異なる姿勢
 ―新井白石と荻生徂徠
◆転回点としての孔子とソクラテス 
 地球上で歴史意識を有するのは地中海域、支那大陸、日本列島の三つで、西洋古典文献学、清朝考証学、江戸の儒学・国学は、古代を近代に取り戻す言語文化ルネサンスで、古い神の廃絶と新しい神の創造を目指す精神運動だった。

第21巻 真贋の洞察
◆自由の涯には破壊しかない
◆日米軍事同盟と米中経済同盟の衝突
◆中国の米国化、米国の中国化
◆日米は中国に阿片戦争を仕掛けた?
 保守は人間の生き方であって概念ではない。政治的な左右の対立にも関係がない。ニューヨーク同時多発テロから中国の台頭、世界の金融危機、グローバリズム、揺らぐ主権国家の中で何が真贋か、迷いを絶つ道を説く。

第22巻 日本人のスピリットの復活
◆天皇と原爆
◆戦争史観の転換―五百年史試論
 米国に封印されている日本はこのままいけば「戦後百年」というおかしなことになる。平和と繁栄の中で少子化、親子殺人、格差増大、内向きの政治外交力の低迷が続く。先の大戦は「宗教戦争」であったという認識の修正が必要だ。

以下の文字が小さいため、以上の内容見本を掲示しました。

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明日の講演会

全集第12回配本「自由の悲劇」刊行記念
                
西尾幹二講演会のご案内

  全22巻の西尾幹二全集も 第12回配本の「自由の悲劇」を以て折り返し点をすぎました。
  それを記念して、下記のとおり講演会を開催いたします。

                           記
 
1 演 題: 「昭和のダイナミズム」
-歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのか-

拙著『江戸のダイナミズム』を前提に、江戸時代に熟成した日本の言語文化は明治・ 大正期に西洋からの影響で一時的にぐらつき、昭和期に入って反転し、偉大なる「昭和のダイナミズム」を形成した。ここでいう「昭和」は戦前と戦後をひとつながりとみる。
戦争に向けて「昭和文化」は高揚し、世界に対し視野を広げ、戦後も二、三十年間 はその余熱がつづいた。明治維新も敗戦も切れ目とは考えない。歴史は連続している。
興隆と衰亡の区別があるのみで、歴史は維新や敗戦で中断されて姿を変えたと考えるのは間違いである。  西尾幹二

 
2 日 時: 9月26日(土) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                    (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

3 会 場: ホテル グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

4 入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

5 懇親会: 午後5時~午後7時 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円
         講演終了後、講師を囲んでの懇親会を行います。どなたでもご参加いただけます。
(事前予約は不要です。初参加、大歓迎です。 )

6 お問い合わせ: 国書刊行会 (営業部)
             電話 03-5970-7421 FAX 03-5970-7427
             E-mail: sales@kokusho.co.jp

  主 催: 国書刊行会    後援: 西尾幹二坦々塾

全集新内容見本(二)

第8巻 教育文明論
◆『日本の教育 ドイツの教育』
◆講演 日本の教育の平等と効率
◆『教育と自由』
著者の教育哲学のすべてがここにある。日独学校比較、中曽根臨教審批判、中央教育審議会委員としての中間報告から大学改革論までを総括し、少年期からの体験を踏まえ、教育の光と影を学究的に明らかにした渾身の一冊である。

第9巻 文学評論
◆老成と潔癖―現代小説を読む
◆オウム真理教と現代文明―ハイデッガー
 「退屈論」とドストエフスキー『悪霊』などを鏡に
◆作家論・高井有一/柏原兵三/小川国夫/上田三四二/綱淵謙錠/手塚富雄/江藤淳/石原慎太郎
◎ 追補 桶谷秀昭/江藤淳・西尾幹二対談
『平家物語』の世界、『徒然草』断章形式の意味するもの、人生批評としての戯作、本居宣長の問い、明治初期の日本語と現代における「言文不一致」、漱石『明暗』の結末、芥川龍之介小論、ほか現代作家論、文芸時評等、第2巻以外の文学論を一括した。

第10巻 ヨーロッパとの対決
◆異文化を体験するとは何か/漱石の文明論と現代/横光利一『旅愁』再考
◆戦略的「鎖国」論
◆講演 知恵の凋落
◎追補 入江隆則/西部邁・西尾幹二対談
 世界に中心軸はなく西欧は閉鎖社会であるのに、西欧の尺度が国際社会を圧倒している不健全に対し、著者はドイツの講演会で近代日本の真価を訴え、パリ国際円卓会議で論争し、シュミット元独首相の政治的偏見にも挑戦した。

第11巻 自由の悲劇
◆フランス革命観の訂正
◆ロシア革命、この大いなる無駄の罪と罰
◆ソ連消滅―動き出す世界再編成と日本
◆ギュンター・グラスと大江健三郎の錯覚
◆『自由の悲劇』
◆『「労働鎖国」のすすめ』
 共産主義の終焉は自由の勝利のはずだが、そこに自由の「悲劇」を見た著者は、現代世界の民族宗教対立を洞察し、わが国への移民導入の危険をいち早く予言した。ロシア革命の無意味化はフランス革命観を変え、近代の意味を変えた。

第12巻 全体主義の呪い
◆『全体主義の呪い』
◆ヴァイツゼッカー独大統領謝罪演説の欺瞞
◆『異なる悲劇 日本とドイツ』がもたらした政治効果とマスコミへの影響
 ベルリンの壁崩壊後のチェコ、ポーランド、東独で哲学者や言論知識人と「自由」をめぐる徹底討論を交わした。それを踏まえてヴァイツゼッカー独大統領の謝罪演説の欺瞞を突いた「異なる悲劇 日本とドイツ」は大きな反響を呼んだ。

第13巻 日本の孤独
◆“あの戦争”を他人事のように語るな
◆近代戦争史における「日本の孤独」
◆ニュルンベルク裁判の被告席に立たされたアメリカ
 日米構造協議や湾岸戦争処理における米国の圧力、敗戦に呪縛され続ける日本人。著者は米国を他者として突き離すことを訴え、欧州戦線とは異なる日米戦争の背景を探り、近代戦争史における日本の孤独を覚悟せよと説く。

第14巻 人生論集
◆『人生の深淵について』
◆『人生の価値について』
◆『人生の自由と宿命について』
◆『男子、一生の問題』
評論家の小浜逸郎氏曰く「西尾はモンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコー、キルケゴール、小林秀雄、福田恆存等のモラリストの系譜に連なる人間観察力、心理洞察力を持つ倫理思想家」。人生の価値、自由・宿命について他。

第15巻 私の昭和史
◆『わたしの昭和史』二分冊
 西尾幹二の少年記二分冊。学齢前の日米開戦、学童疎開、艦砲射撃から逃れて山奥への再疎開、美しい田園生活、詩や小説を書く自我の目覚め、終戦、マッカーサーの日本への懐疑、抑留帰国者がソ連万歳を叫ぶのを見ての14歳の懐疑。初恋。

全集新内容見本(一)

第1巻 ヨーロッパの個人主義
◆『ヨーロッパ像の転換』
◆『ヨーロッパの個人主義』
◎追補 竹山道雄・西尾幹二対談
 西尾幹二の思想形成の出発点は三つある。その第一が『ヨーロッパ像の転換』『ヨーロッパの個人主義』という西欧文明体験記で、留学記録ではなく、西欧の深さに感動し、同時に日本を確認し、日本の立場を主張する自知の書。

第2巻 悲劇人の姿勢
◆アフォリズムの美学
◆文学の宿命
 ―現代日本文学にみる終末意識
◆不自由への情熱―三島文学の孤独
◆行為する思索―小林秀雄再論
◎追補 福田恆存・西尾幹二対談
 西尾の思想形成の出発点の二番目は文学評論である。処女作「小林秀雄」、「『素心』の思想家・福田恆存の哲学」、「三島由紀夫の死と私」等、悲劇人と見立てた三者の評文を第2巻に集中した。三者の価値の尺度は「真贋」である。

第3巻 懐疑の精神
◆ヒットラー後遺症/政治の原理 文化の原理/自由という悪魔
◆老成した時代
◆観客の名において―私の演劇時評
◎追補 今道友信・西尾幹二対談
 思想形成の第三の出発点は懸賞論文「私の戦後観」から始まった時代批判である。60年代末の大学紛争と青年の反乱への徹底批判、70年代の無気力、成熟と老成という逃避への懐疑、情報化社会への懐疑、比較文化論への懐疑。知性を欠く知能への懐疑。

第4巻 ニーチェ
◆第一部・第二部全一巻
◎追補 渡辺二郎・西尾幹二対談
 著者の不朽の名作『ニーチェ』の完全本。観念的哲学論ではなく、ニヒリズムを具体的に生きた一人の人間像をニヒリズムの語を使わずに描出した「評伝文学の魅力に溢れた傑作」(斎藤忍随氏)である。資料広汎で学問的にも完備。

第5巻 光と断崖―最晩年のニーチェ
◆光と断崖
◆ドイツにおける同時代のニーチェ像
◆ニーチェ『この人を見よ』西尾訳
 第4巻『ニーチェ』の続編。最晩年に仏教に心を傾けたニーチェの謎、キリスト教の信仰が隠していた闇は露呈し、光と闇の対立のない遠い異世界のアジアに彼は何を見ていたか。『権力への意志』は幻であった。他にも未刊行の重要作品収録。

第6巻 ショーペンハウアーとドイツ思想
◆ショーペンハウアーの思想と人間像
◆ショーペンハウアーの現代性
◆ショーペンハウアーと明治の知性
◆ニヒリズムとしてのドイツ思想の展開
―カントからニーチェまで
◆北方的ロマン性
 ―ドイツ的根源性の原型
◆ドイツの言語文化
◆私の翻訳論
◎追補 斎藤忍随・西尾幹二対談
 「ヨーロッパにおける歴史主義と反歴史主義」という別系列の論文と、愛読者の多い『ニーチェとの対話』がここに収録された。ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』の全訳は著者の業績。ここには抄録のみ。

第7巻 ソ連知識人との対話/ドイツ再発見の旅
◆『ソ連知識人との対話』
◆ソルジェニーツィン氏への手紙
 ―貴方は自由をどう考えているか
◆ドイツの大学教授銓衡法を顧みて/ドイツの家/技術観の比較―日本とドイツ
◎ 追補 内村剛介/岩村忍・西尾幹二対談
「真の自由には悪をなす自由も怠惰である自由も含まれている」は、ソ連に具現化した全体主義社会への著者の批判の要諦である。本巻は1977年のロシア、80年代のドイツを歩いた小説風紀行文で、読み易く面白い。

言語を磨く文学部を重視せよ

産經新聞9月10日正論欄より

 自国の歴史を漢字漢文で綴(つづ)っていた朝鮮半島の人々が戦後、漢字を捨て、学校教育の現場からも漢字を追放したと聞く。住人は自国の歴史が原文で読めないわけだ。

 私はそのことが文化的に致命傷だと憂慮しているが、それなら今の日本人は自国の歴史の原文を簡単に読めるだろうか。漢文も古文も十分に教育されていない今の日本人も、同様に歴史から見放されていないか。

 ≪≪≪ 未来危うくする文科省の通達 ≫≫≫

 学者の概説を通じて間接的に自国の歴史を知ってはいるが、国民の多くがもっと原点に容易に近づける教育がなされていたなら、現在のような「国難」に歴史は黙って的確な答えを与えてくれる。

 聖徳太子の十七条憲法と明治における大日本帝国憲法を持つわが国が第3番目の憲法を作ることがどうしてもできない。もたもたして簡単にいかないのは何も政治的な理由だけによるのではない。

 古代と近代に日本列島は二つの巨大文明に襲われた。二つの憲法はその二つの文明、古代中国文明と近代西洋文明を鏡とし、それに寄り添わせたのではなく、それを契機にわが国が独自性を発揮したのである。しかしいずれにせよ大文明の鏡がなければ生まれなかった。今の日本の困難は自分の外にいかなる鏡も見いだせないことにある。米国は臨時に鏡の役を果たしたが、その期限は尽きた。

 はっきり見つめておきたいが、今の我が国は鏡を自らの歴史の中に、基軸を自らの過去の中に置く以外に、新しい憲法をつくるどんな精神上の動機も見いだすことはできない。もはや外の文明は活路を開く頼りにはならない。

 そう思ったとき、自国の言語と歴史への研鑚(けんさん)、とりわけ教育の現場でのその錬磨が何にもまして民族の生存にかかわる重大事であることは、否応(いやおう)なく認識されるはずである。ところが現実はどうなっているのか。

 文部科学省は6月8日、「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知を各国立大学長などに出した。冒頭で「人文社会系学部・大学院については(中略)組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換を積極的に取り組むように努めることとする」とあり、現にその方向の改廃が着手されていると聞く。先に教育課程の一般教育を廃止し、今度リベラルアーツの中心である人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として座視しがたい。

 ≪≪≪ 国家の運命を動かした文学者≫≫≫

 文学部は哲学・史学・文学を中心に据え、西欧の大学が神学を主軸とするように(ドイツでは今でも「哲学部」という)、言語教育を基本に置く。文学部が昔は大学の精神のいわば扇の要だった。

 言語は教養の鍵である。何かの情報を伝達すればそれでよいというものではない。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に非人間化し、野蛮に近づけることである。言語は人間存在そのものなのである。言語教育を少なくして、理工系の能力を開発する方に時間を回すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言語の能力と科学の能力は排斥し合うものではない。

 ことにわが国では政治危機に当たって先導的役割を果たしてきたのは文学者だった。ベルリンの壁を越える逃亡者の事実を最初に報告したのは竹山道雄(独文学)であり、北朝鮮の核開発の事実をつげたのは村松剛(仏文学)だった。その他、小林秀雄(仏文学)、田中美知太郎(西洋古典学)、福田恆存(英文学)、江藤淳(英文学)など、国家の運命を動かす重大な言葉を残した危機の思想家が、みな文学者だということは偶然だろうか。

 ≪≪≪訴える言葉を失ったデザイン≫≫≫

 本欄の執筆者の渡部昇一(英語学)、小堀桂一郎(独文学)、長谷川三千子(哲学)各氏もこの流れにある。言葉の学問に携わる人間は右顧左眄せず、時局を論じても人間存在そのものの内部から声を発している。

 人文系学問と危機の思想の関係は戦前においても同様で、大川周明(印度哲学)、平泉澄(国史)、山田孝雄(国語学)、和辻哲郎(倫理学)、仲小路彰(西洋哲学)などを挙げれば、文科省の今回の「通知」が将来、いかに我が国の知性を凡庸化せしめ、自らの歴史の内部からの自己決定権を奪う、無気力な平板化への屈服をもたらすことが予想される。

 今のことと直接関係はないが、オリンピックの新国立競技場とエンブレムの二つ続いた白紙撤回は、組織運営問題以上の不安を国民に与えている。基本には二つのデザインに共通する無国籍性がある。北京オリンピックのエンブレムが印璽をデザインして民族性を自然に出しているのに、今度の失敗した二つのデザインには一目見ても今の日本の魂の抜けた、抽象的な空虚さが露呈している。

 大切なのは言語である。自国の歴史を読めなくしている文明ではデザインにおいても訴える言葉が欠けている。

西尾幹二講演会のご案内

全集第12回配本「自由の悲劇」刊行記念
                
西尾幹二講演会のご案内

  全22巻の西尾幹二全集も 第12回配本の「自由の悲劇」を以て折り返し点をすぎました。
  それを記念して、下記のとおり講演会を開催いたします。

                           記
 
1 演 題: 「昭和のダイナミズム」
-歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのか-

拙著『江戸のダイナミズム』を前提に、江戸時代に熟成した日本の言語文化は明治・ 大正期に西洋からの影響で一時的にぐらつき、昭和期に入って反転し、偉大なる「昭和のダイナミズム」を形成した。ここでいう「昭和」は戦前と戦後をひとつながりとみる。
戦争に向けて「昭和文化」は高揚し、世界に対し視野を広げ、戦後も二、三十年間 はその余熱がつづいた。明治維新も敗戦も切れ目とは考えない。歴史は連続している。
興隆と衰亡の区別があるのみで、歴史は維新や敗戦で中断されて姿を変えたと考えるのは間違いである。  西尾幹二

 
2 日 時: 9月26日(土) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                    (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

3 会 場: ホテル グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

4 入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

5 懇親会: 午後5時~午後7時 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円
         講演終了後、講師を囲んでの懇親会を行います。どなたでもご参加いただけます。
(事前予約は不要です。初参加、大歓迎です。 )

6 お問い合わせ: 国書刊行会 (営業部)
             電話 03-5970-7421 FAX 03-5970-7427
             E-mail: sales@kokusho.co.jp

  主 催: 国書刊行会    後援: 西尾幹二坦々塾

新刊『維新の源流としての水戸学』(一)

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宮崎正弘氏の国際ニュース早読み4644号より

松陰も西郷も水戸学に激甚な影響を受けて奔った
  幕末日本を激震に導いた水戸学の根幹に何があったのか?

  ♪
西尾幹二『維新の源流としての水戸学』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 GHQ焚書図書開封シリーズ第十一巻は「水戸学」である。このシリーズの目的は米占領軍の日本人洗脳工作の一環として行われた重要文献の焚書本を探し当て、時代的背景の考察や、諸作の根源的なエネルギーに光を当てる地道な作業だが、この文脈から、本巻は水戸学へアプローチする。
 しかし過去のシリーズとはやや趣を異にして、これは「水戸学の入門書」を兼ねる、西尾幹二氏の解説書になっている。
 徳川御三家でありながら、尊皇攘夷思想の源流となって幕末維新を思想的に領導し、結果的に徳川幕府を倒すことになった、その歴史のアイロニーを秘めるのも水戸学である。
 「幕府は水戸学という爆弾を抱えた政権だった」(165p)。
 吉田松陰は水戸へ遊学し、会沢正志齋のもとに足繁く通った。松陰は水戸学を通じて、日本史を発見し、先師・山鹿素行をこえる何ものかを身につけた。兵法、孫子、孔孟と松陰がそれまでに学んだことに重ねてかれは万世一系の日本の歴史に開眼する。
 西郷隆盛は水戸学の巨匠・藤田東湖に学び、また横井小楠は、藤田を絶賛した。維新回転の原動力は、こうして水戸学の学者・論客と志士たちの交流を通して始まり、桜田門外の変へまっしぐらに突き進んでいく。
 吉田松陰の斬首は「長州をして反徳川に走らせる決定打」となった。西郷は命を捨てても国に尽くす信念をえた。
 その水戸学である。
 前期、中期、後期とわかれる水戸学はそれぞれの時代で中味が異なっている。
 前期水戸学の大きなテーマは「南朝の是認」であり、北畠親房の「神皇正統記」と同じく南朝が正統とみる。しかしながら前期水戸学は「天皇のご存在をものすごく尊重しておきながら、神話は排するという点でどこかシナ的です」。
 水戸光圀は、ほかにも独自の解釈で『大日本史』の編纂を命じた。

 後期水戸学には国学の風が流れ込む。
 その前に中期水戸学は藤田幽谷が引き継ぎ、この古着屋の息子が水戸藩では大学者となった。身分差別を超越した、新しいシステムが水戸では作動していた。幽谷の異例の出世に嫉妬した反対派の暗躍が敗退し、後年の天狗党の悲劇に繋がる。
 そして「後期水戸学」の特色は国際環境の変化によって「歴史をもっと違う見方で見るようになってくる。欧米という先進世界と戦わなければならない状態になって」、国防が重視されるという特徴が濃厚にでてくるのである。
 それでいて水戸学には儒学を基礎として仏教を排斥するとマイナスの要素があった。
 「非常に早い時期から「脱神話世界」を掲げたのが儒教の歴史観」(107p)だったから、初期水戸学は「脱神話」であるのに、後期水戸学は「神話的歴史観に近づいていく。思想が変わってきた」わけで「『古事記』『日本書紀』を認め、日本のありかたを単純な合理主義では考えなくなっていく」のである。
 そこで西尾氏は藤田東湖の父親、藤田幽谷の再評価を試みる。
 それも国際的パースペクティブから「モーツアルトと同時代人」であり、かれは十八にして藩主に見いだされたうえ、藩校を率いた大学者、立原翠軒と対立していく。これがやがて天狗党の乱という血なまぐさい事件へつながり、凄絶な内ゲバの結果、尊皇攘夷の魁となった水戸藩から人材が払底してしまうのだ。
藤田幽谷は家康を神君とは認めず、『当時の儒学者の「多くは支那と日本との国体を判別する力に乏しかった」がために立原は、幽谷との対決の道に陥った。
 幽谷の息子の藤田東湖は「なんと十年かけて『弘道館記述義』」を完成されているが、これは『儒教と神道が一つになっていることがわかります。しかも、この『弘道館記述義』は、GHQの焚書図書の対象とはならず、翻訳まででた。
 したがって奇妙なことに「国学のひとたちは儒仏思想を排斥しましたが、水戸学は仏教を排斥したものの、儒教は排斥するどころか、依存しています」(280p)。
 かくして西尾幹二氏の水戸学入門はきわめて分かりやすく、その思想の中枢と時代の変遷を活写している。
 最後に西尾氏は、「戦争体験者の歴史観、戦争観には失望してきた」として、大岡昇平、司馬遼太郎にならべて山本七平への批判を加えている。
 ページを開いたら止まらず、一気に読んでしまった。

  

坦々塾生出版のお知らせ(4)

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渡辺 望氏自身による紹介文

次に『未完の大東亜戦争』の紹介を記したいと思います。この本のテーマをアスペクト出版の編集者の貝瀬裕一さんから提示されたとき、とても嬉しい気持ちでした。なぜかというと、ずっと以前から私が書いてみたいテーマだったからです。「本土決戦とは何か」ということは、高校生くらいのときからずっと考えていたことでした。

 今年は集団安保法制云々のことがあっから余計そうだったのでしょうけど、8月15日周辺になると、憲法学者や近代史学者を中心に平和主義の合唱がメディアでおこなわれることにうんざりという方は勿論少なくないでしょうけど、うんざりするだけでなくて、どうしてこういう面々がこの国に多いかということを考えなくてはいけないと思います。よく、日本は有史以来、たいへん恵まれた存在で、きわめて早い段階から統一国家、国民国家を形成することができ、そして他国から蹂躙されたことのない幸せがあったということを聞きますが、まさにその「幸せ」が、平和主義のぬるま湯風呂をつくってしまったのではないだろうか、と私は毎年、8月になると思うのですよ。

 もし、8月15日以降も戦争が継続したらどうなっただろうか。これは間違いなく、たいへんな不幸が日本に訪れたと思います。核兵器の大量使用、米ソによる日本の分断、皇室の存続の危機、そして言うまでもなく気の遠くなるような戦死者。昭和天皇が聖断の御前会議で言われたように、この世界から日本がなくなってしまうかもしれないほどの悲劇がこの国土を蹂躙したかもしれません。しかしそのような悲劇がもしあれば、今の体たらくな日本の左派、平和主義者などがいなことも事実ではないか。そのすさまじい日本本土決戦の仮想上の悲劇は、果たして日本人にとって「不幸」なことなのだろうか。私自身は、8月15日の終戦をもっとも妥当とする「穏健論」にういつまでも依拠しています。しかし依拠しつつも、この現在の日本の精神的不幸の根源を模索するために、「終戦が早すぎた」=日本本土決戦という思考実験の必要を感じるのです。

以上の視点から、いろんな角度から日本本土決戦を検討してみたのですが、たとえば「本土決戦」というと何か日本人にとってとてつもなく恐ろしい存在に思えますが、世界の国民国家間の戦争はほとんどが「本土決戦」だという事実がありますね。また昭和20年当時、内地にいたいろんな日本人知識人の手記に描かれている「本土決戦」=竹槍での戦い、のイメージは、実は8月6日の原爆投下以前の地上戦のものでしかない。「核兵器が使われる日本本土決戦」の想像というのをおこなう前に戦争が終わってしまったともいえます。それから大本営の一部には、1944年に日本本土に連合軍が侵攻してくると考えた面々もいました。もしそんなことがおきたら、大東亜戦争の終結と日本本土決戦は別個の問題になりますね。そんなふうに、「日本本土決戦」の想像というのも、実は単一ではないんですね。

 また、アメリカにとっても日本本土決戦はたいへんな歴史的苦境でした。日本本土決戦がおこなわれて、日本軍と国土義勇隊が沖縄戦・硫黄島戦並みの抵抗をすれば50万人の死傷者(ベトナム戦争でのアメリカの死傷者は39万人)が予想されたからです。この数字に怯えて、マンハッタン計画に異常な熱意を傾けたのがトルーマンであり、また陸軍長官スティムソンらは日本への降伏条件を緩和すべきという立場を展開しはじめたりもする。ところがマッカーサーは、日本本土決戦を自分の軍人人生のフィナーレとするヒロイズムにこだわり、総計で140万人の地上軍、42隻の正規空母と24隻の戦艦を投入する地上最大の作戦=日本本土決戦に執拗にこだわり、トルーマンと対立します。この対立、そして「日本本土決戦のやり残し感」が、その後の朝鮮戦争などに重大な影響をもたらすことになります。

一方、スターリンはすべての秘密情報を把握しつつ、ソ連にとっての最大限の利益を日本列島の地図を前にして毎日考えている。またイギリスはイギリスで、日本本土決戦により大東亜戦争が長期化すれば、南方に取り残された300万の日本兵が植民地独立勢力と結託して反英ゲリラになることを恐れ、日本への降伏条件をなるべく緩和するべしとの立場を主張します。要するに、1945年夏の世界情勢は、日本本土決戦を中心に動いていたということができるでしょう。日本人はとかく、日本人の視点からしか日本本土決戦のことを考えたがらないですが、こうした世界情勢の中での日本本土決戦への思考ということは、たいへん大事なことだと思います。

けれどこうした客観的視点をおおいに投じても、最後は当時の日本人の精神がどうだったかということを問題にしないといけなくなります。核戦争にせよ、地上戦にせよ、対米ソ両面戦争にせよ、日本人が本土決戦に挑むには「滅亡」を覚悟しなければならないのは厳然たる事実でした。このような「滅亡」の覚悟を、日本人は有史以来経験したことがなかったのです。しかし、この「滅亡」を全肯定し、「日本本土決戦をなすべきであった」という危険なロジックに足を踏み入れ、そしてついにそれを完成させてしまったのが三島由紀夫でした。この紹介文では省きますが、本書ではところどころに、三島由紀夫のこの本土決戦論のかかわりについて触れ、考察を展開しています。三島のあの自死でさえ、本土決戦論と重大な関係があると思います。ある意味で本書は裏道からの三島由紀夫論といえるかもしれません。

 また後半部分では、純軍事的側面から、日本本土決戦のシミュレーションの章も設けました。8月15日以降も戦争が続いた場合、「鈴木貫太郎内閣で戦争が継続するのかそれともそれ以外の内閣で戦争が継続するのか?」、「アメリカは原子爆弾を日本本土決戦にどれほど生産投入することが可能だったか?」「ソ連軍の南下のスピードはどれくらいか?」「天皇の聖断とアメリカの対日降伏条件融和派が一致を見せることはありえたのか?」「本土決戦がおこなわれた場合の特攻作戦の戦果は?」などの諸要素について考察しています。これらの思考実験を通じて、「思想としての日本本土決戦」とうべき史学の分野の生成に資することができればと思い、終戦の季節に刊行完成いたしましたのが本書でございます。