世界にうずまく「恨」の不気味さ 「アメリカの韓国化」どう克服 

産經新聞平成28年12月19日コラム【正論】より

≪≪≪ 韓国を揺るがしたルサンチマン ≫≫≫
 
 朴槿恵大統領の職務剥奪を求めた韓国の一大政変には目を見張らせるものがあり、一連の内部告発から分かったことはこの国が近代社会にまだなっていないことだった。5年で入れ替わる「皇帝」を10大派閥のオーナーとかいう「封建貴族」が支配し、一般民衆とは画然と差をつけている「前近代社会」に見える。一般社会人の身分保障、人格権、法の下での平等はどうやら認められていない。
 
 ただし李王朝と同じかというとそうではない。「近代社会」への入り口にさしかかり、日本や欧米を見てそうなりたいと身悶(もだ)えしている。騒然たるデモに荒れ狂った情念は韓国特有の「恨(ハン)」に国民の各人が虜(とりこ)になっている姿にも見える。「恨」とは「ルサンチマン」のことである。完全な封建社会では民衆は君主と自分とを比較したりしない。ルサンチマンが生まれる余地はない。
 
 近代社会になりかかって平等社会が目指され、平等の権利が認められながら実際には平等ではない。血縁、財、教育などで強い不平等が社会内に宿っている。こういうときルサンチマンが生じ、社会や政治を動かす。

 恨みのような内心の悪を克服するのが本来、道徳であるはずなのに、韓国人はなぜかそこを誤解し脱却しない。いつまでもルサンチマンの内部にとぐろを巻いて居座り続ける。反日といいながら日本なしでは生きていけない。日本を憎まなければ倒れてしまうのだとしたら、倒れない自分を発見し、確立するのが先だと本来の道徳は教えている。しかし、恨みが屈折して、国際社会に劣情を持ち出すことに恥がない。

≪≪≪ 吹き荒れる「ホワイト・ギルト」 ≫≫≫

 ところが、困った事態が世界史的に起こりだしたようだ。ある韓国人学者に教えられたのだが、恨に類する情念を土台にしたようなモラルが欧米にも台頭し、1980年代以後、韓国人留学生が欧米の大学で正当評価(ジャスティファイ)されるようになってきた。

 世界が韓国的ルサンチマンに一種の普遍性を与える局面が生じている、というのである。こういうことが明らかになってきたのも、今回の米大統領選挙絡みである。

 白人であることが罪である、という「ホワイト・ギルト」という概念がアメリカに吹き荒れている、と教えてくれたのは評論家の江崎道朗氏だった。インディアン虐殺や黒人差別の米国の長い歴史が白人に自己否定心理を生んできたのは分かるが、「ホワイト・ギルト」がオバマ政権を生み出した心理的大本(おおもと)にあるとの説明を受け、私は多少とも驚いた。

 この流れに抵抗すると差別主義者のレッテルを貼られ、社会の表舞台から引きずり下ろされる。米社会のルサンチマンの病もそこまで来ている。「ポリティカル・コレクトネス」が物差しとして使われる。一言でも正しさを裏切るようなことを言ってはならない。“天にましますわれらの父よ”とお祈りしてはいけない。なぜか。男性だと決めつけているから、というのだ。

 あっ、そうだったのか、これならルサンチマンまみれの一方的な韓国の感情論をアメリカ社会が受け入れる素地はあるのだと分かった。両国ともに病理学的である。

 20世紀前半まで、人種差別は公然の政治タームだった。白人キリスト教文明の世界に後ろめたさの感情が出てくるのはアウシュビッツ発覚以後である。それでも戦後、アジア人やアフリカ人への差別に気を配る風はなかった。80年代以後になって、ローマ法王が非キリスト教徒の虐待に謝罪したり、クリントン大統領がハワイ武力弾圧を謝ったり、イギリス政府がケニア人に謝罪したり、戦勝国の謝罪があちこちで見られるようになった。

≪≪≪ トランプ氏は歪みを正せるか ≫≫≫

 これが私には何とも薄気味悪い現象に見える。植民地支配や原爆投下は決して謝罪しないので、これ自体が欧米世界の新型の「共同謀議」のようにも見える。日本政府に、にわかに強いられ出した侵略謝罪や慰安婦謝罪もおおよそ世界的なこの新しい流れに沿ったものと思われるが、現代の、まだよく見えない政治現象である。

 各大陸の混血の歴史が示すように、白人は性の犯罪を犯してきた。旧日本軍の慰安婦制度は犯罪を避けるためのものであったが、白人文明は自分たちが占領地でやってきた犯罪を旧日本軍もしていないはずはないという固い思い込みに囚(とら)われている。

 韓国がこのルサンチマンに取り入り、反日運動に利用した。少女像が増えこそすれ、なくならないのは、「世界の韓国化」が前提になっているからである。それは人間の卑小化、他への責任転嫁、自己弁解、他者を恨み、自己を問責しない甘えのことである。

 トランプ氏の登場は、多少ともアメリカ国内のルサンチマンの精神的歪(ゆが)みを減らし、アメリカ人を正常化することに役立つだろう。オバマ大統領が許した「アメリカの韓国化」がどう克服されていくか、期待をこめて見守りたい。(評論家・西尾幹二 にしおかんじ)

西欧の地球侵略と日本の鎖国(三)

 年表について私はもっと詳しいものを作っていますが、「年表をどう作るか」が歴史なのです。年表を見ては駄目なのです。当来の年表を見て自分で選んで作るものなのです。私は彼方此方から取って年表を作っているのですが、こんな小さな年表でも誰も言っていなかったことがちゃんと入っているのです。つまり「東南アジアと日本の歴史と、ロシアとアメリカの動きを総合的に入れた歴史年表」というのが日本の歴史家の頭の中に無いからこの地上にも存在しないのです。これは不完全ですが、そういう年表は自分で作るしかないのです。

【18世紀から19世紀頭】
1707年 ロシア、カムチャッカ領有
1716年 吉宗、八代将軍に
1719年 フランス、東インド会社創設、デフォー『ロビンソン・クルーソー』刊行
1722年 清朝、雍正帝即位。ロシア人、千島を探検する
1728年 ピョートル大帝の意を体したベーリング第一次探検隊、いわゆるベーリング海峡を確認する。ロシア人、ラッコの毛皮交易の重要性に初めて着目
1734年 ロシア、中央アジア遠征隊、キルギス征服
1735年 清朝、乾隆帝即位
1739年 元文の黒船、ロシア人シュパンベルクとウォルトン(ベーリング別動隊)千島を南下し、ふと立ち寄る風に日本本土に来航する。
1740年 バタヴィアでオランダ、1万人規模のジャワ島民虐殺
1741年 ベーリング、アメリカ大陸(アラスカ)を発見
1746年 フランス、マドラス島からイギリスを駆逐する
1749年 ジャワのマタラム国王、オランダに屈服し主権を失う
1757年 プラッシーの戦い、英仏本土での交戦(「七年戦争」)インドに波及
1762年 イギリス、マニラ占領
1763年 イギリスがカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、フロリダを獲得する(パリ条約)。フランスはカナダに続いてインドも失う
1765年 ワット蒸気機関を発明
1768年 ジェームズ・クック第一次世界周航出発
1770年 クック、ニュージーランドの3ケ所に英国旗を立て、オーストラリア東岸を英領と宣言。フランス東インド会社解散
1772年 田沼意次老中となる。クック第二次世界周航出発
1773年 英人ヘイスティングがインドを虐政により強制統治。イギリス東インド会社がインドでのアヘン専売権獲得。イエズス会解散
1774年 杉田玄白・前野良沢『解体新書』成る
1776年 クック第三次世界周航出発。ハワイに到達、アラスカ海岸を北上探索してベーリング海峡を抜ける試みに失敗してハワイに戻り、79年不慮の死をとげる。76年アメリカ独立宣言
1777年 オランダ、ジャワ全土征服完了
1783年 ロシア、コディアック島(アラスカ)を占拠、北太平洋活動拠点を固める
1784年 クック航海記刊行、世界中で読まれ、ラッ毛皮交易の拡大に火をつける
1785年 フランス、ラペルーズ探検隊、宗谷海峡を抜ける
1787年 松平定信寛政の改革
1789年 ヌートカ湾事件、フランス革命
1804年 ロシア使節レザノフ、長崎来航

 「1772年 田沼意次老中となる。」や「1787年 松平定信寛政の改革」をみれば日本がどれほど孤立して世界の動向から離れていたかお分かりになるかと思います。

 私がお話ししたいのは、この時代の世界の話です。日本人にとっての鎖国は自然に何もしないでいても安全だったという話をしましたが、もし日本列島がフィリピンの位置にあったらどうでしょう。もし日本列島がフィリピンの位置にあったら、海外勢力は東西南北あらゆる方向から自由に攻撃できたはずです。南の海、南太平洋は自由だったのです。だから私は「1762年 イギリス、マニラ占領」を入れたのです。しかし北の海、北太平洋というものは人類が全く近づくことが出来ない海域であったということは、日本が分からないだけではなく、マゼラン以降の海洋勢力、大航海時代の人達にとっても太平洋の北半分の部分は魔界、「未知の海」だったということです。私はその話に誰も気付かないのが不思議で仕方がないのですが、それが日本の鎖国の背景です。

 日本人は本当には海というものを知らなかった。越後にも海はあった。備前にも薩摩にも海はあった。至るところに海はあり、そして海辺で海を見ている平和な国民は確実に居たのですが、「海洋」という概念、すなわち「海は繋がっている「こっちの海も向こうの海もひと繋がり」という観念は江戸時代の中期まで何も無かったのです。つまり日本列島の地理的形態もはっきりとは認識されていなかった。勿論地理学を勉強している人もいなかった。いたとしても限られた知見を持った知識人でした。新井白石のような人はいろいろ勉強をしていましたが、それでも殆ど知りませんでした。調べようが無かったのです。すべての情報は西、すなわち唐天竺から来る。漢字、漢文で来る・・・。それが日本人の長い伝統でした。いちばん最初にやってきた地図がラテン語で書かれていたら、それは模様にしか見えず、屏風絵にしかなりませんでした。

 最初に「地球は丸い」ということを教えてくれたのは、シナのイエズス会宣教師マテオ・リッチの『坤與萬國全圖(こんよばんこくぜんず)』で、北京で1602年に出版されました。木版6刷で縦1.8メートル、横4メートルという大きな地図です。世界の姿を楕円形で表現していて、当時普通の地図の書き方です。我が国の事もけっこう書かれていて、諸国の国名と七道が挙げられていました。これが日本にも紹介されて、この地図に漢字、漢文で説明が書かれていたので、「亜細亜(アジア)」、「欧羅巴(ヨーロッパ)」或いは「赤道」、「南極」、「北極」などという地理的概念はこのマテオ・リッチの地図に描かれていた漢字解説を基として今日に至るまで使われているのです。

 新井白石が理解していた世界も殆どこの地図の中に閉じ込められていました。我が国も少しずつ世界の情勢に目覚めるのですが、海に関する観念、殊に太平洋についての距離感覚はまことに頼りないものでした。以下の文は長崎に住んでいて、海外図書の閲覧だけでなくオランダ人から直に情報を得て勉強していた西川如見という人の『日本水土考』における太平洋に関する観念です。

 「日本の東は冥海遠濶世界第一の処にして、地勢相絶す。故に図上には亜墨利加(アメリカ)洲を以て東に置くと雖も、地系還(めぐ)つて西方に接して、その水土陰悪偏気の国なり。地体渾円の理を按ずるときは、則ち当に亜墨利加を以て西極に属すべし。」
(訳:日本の東は世界一大きな海原が遥か遠くなみなみと水を湛え、人知の及ばぬ地勢である。だから地図の上ではアメリカはわが日本の東に位置するといえども、大地を西に廻って西の果ての地として理解するほうがよい。その地理風土は天災を奥に秘め、正常とはいえない国である。大地の形が理論上球体であるというのなら、アメリカは西の最果ての地と看做すべきである。)

 「太平洋は何か恐ろしく巨大で、アメリカの事はもうサッパリ分からない。お手上げだ」つまり、はなから降参しているのです。「日本人にとって文明は常に西方浄土からやってくる。それならば分り易い。西のほうにどんどん行こうではないか。訳の分からないアメリカの事は後回しにしよう。地球が丸いのなら西にどんどん行けばいい。いつかは出会うだろう。それまでアメリカの事は考えないようにしたい・・・」そう言っているわけです。

 これは1720年です。これがこの後100年くらい続くのです。勿論この間にいろいろ考えられ、発見もあり本もいろいろ出てきますが、限られた知識層がこうなのですから、日本人がどのような認識で世界を見ていたかはおよそ察せられます。ここで詳しくは話せませんが、新井白石もこの程度の認識が前提でした。白石は大変な儒学者で政治家でしたが、論文を書くのは人生の最後でした。儒学者でしたが、シナのことは書かずに日本の歴史の事だけ書いたのですね。活動期は1713年から25年です。その頃はまだアメリカの歴史は展開していません。ですからヨーロッパのことは詳しいのです。有名な『西洋紀聞』や『采覧異言(さいらんいげん)』などはヨーロッパの事を書いているのです。そうはいっても西から来る知識のほうが確かなので、漢語で入ってきた知識で書いているのです。東に位置しているアメリカについては、どうも訳が分かりません。アメリカについて書いてあることは中南米についてです。あの頃はカリブ海で砂糖を作って大騒ぎしていたので、西から情報が伝わっていったのでしょう。あとメキシコやブラジルについての記述があります。しかし北アメリカはまだ無かったので当然資料も無いのです。それが今日の話のメインテーマです。

つづく

西欧の地球侵略と日本の鎖国(二)

 「見直し進む対外歴史研究・江戸時代は本当に鎖国か?」「幕府は最初から鎖国を意図していたわけではない。そんな状態がたまたま200年程続いた。何となく鎖国だったのだ」東大教授 藤田覚氏。私もその通りだと思います。

 大石慎三郎先生という江戸時代の大家の方は、「鎖国後のほうがその前より我が国の対外貿易額が増えている。密度の程度は様々だけれど、国家というのはどんな時代でも必ず対外管理体制というものをとるものなのだ。鎖国と称せられる現象は世界史のしがらみから日本が離れたということではなく、圧倒的な西洋の軍事力や文明力の落差のもとで日本が自分を主体的に守る政策であった。それが海禁政策で、つまり鎖国とは鎖国という方法手段による我が国の世界への開国であったとすべきであろう。従って寛永の鎖国こそが日本の世界への第一次開国であり、ゆっくりゆっくり世界の動向に日本が自分を合わせるために余計なところに行ってはいけない。どんどん入れたりするな。ただし貿易は政府がやるからみんな黙っていろ・・・。というのが江戸時代の考え方であってそれは第一次開国であったと。そして世に開国と言われている安政の開港は江戸という時代の訓練を経た我が国の第二次開国であると。明治の開国は第二次開国なのだと。すでに鎖国と呼ばれているものはある種の開国であった・・・」今まで私の書いた鎖国論もこの観点に立っています。朝日新聞のインターネットなどにもありましたか? 「江戸時代は本当に鎖国か? 見直しする対外歴史研究」江戸時代は鎖国といっても意図的、政策的なものは無かった、ということですね。

 でもねぇ・・・。鎖国はあったんだよ。(笑)私は10世紀から鎖国だったと思っています。そういう観点を入れてみる必要があります。10世紀というと唐の崩壊です。そこで東アジアは国際社会ではなくなるのです。それまでは唐を中心とした渤海国とか高麗国などの国際秩序がありました。そして正月一回、宮廷を中心とした大式典がありました。シナで行われ、日本の朝廷でも行われ、そして使節を呼ぶのです。日本からは空海や最澄が行ったりしています。そして皇帝の前で平伏す。「元会儀礼」といいます。素晴らしい壮麗なる儀式をやる。それに負けてはいけないと日本の朝廷もまた元会をやる。そういう華やかな記録が全部残っています。歌舞音曲を伴い、たくさんの人を集めます。それは国際的な「礼」の競争、ある種の戦争であって、国際的な競い合いだったのです。「俺のところはこれだけ立派にやっているが、お前のところはどうだ? 日本もなかなかやるじゃないか」というように各国から使節を呼んで行っていた。

 しかし唐が崩壊したら止めてしまったのです。いっぺんにではなく、だんだんやらなくなる。つまり張り合う必要が無くなってしまったのです。東アジアに国際社会が無くなってしまったのです。すると同時に日本は何をしたかというと、朝廷というものが二次的になってしまう。天皇が権力を失うのです。それから何が出てきたかというと、天皇の権力というものが宗教化してゆき、ご存知のとおり上皇が出てきて、院政が出てきて、武士階級が出てきて、というご存知のとおりの日本の歴史の展開となってゆきます。ということは、これは文字通り鎖国ではないでしょうか? つまり「朝廷を柱にして、それを前面に押し立てて世界に面と向かってゆく」という国威発揚の意識が要らなくなったのです。天皇はもう顔ではない。後ろのほうに隠しておいて祭主のようになってゆくわけです。これが何を意味するかというと、鎖国ではないでしょうか・・・。だってその後ずうっと戦争も外交も殆ど無いではないですか? なにも江戸時代になってからの話ではありません。ずうっと何も無いではないですか? 確かに17世紀には南蛮が入ってきます。しかしそれもそれほど危険でも怖かったわけでもありませんでした。ですから日本は10世紀からある意味で鎖国をしていたのです。私はそういう見方もあると言っているのです。加えて江戸時代における鎖国があったかどうかという問題について、これは16世紀~19世紀という、歴史の展開を見ないと言えないのです。今日はこれからそのお話しをします。

 16、17世紀と18世紀はガラリと対外関係が変わります。まず16世紀から17世紀を以下年代記風にまとめてみます。

【16、17世紀】
1511年 ポルトガル、マラッカ海峡制圧
1521年 マゼラン、フィリピンに到着
1543年 種子島に鉄砲伝来
1577年から1580年 英人ドレイク、世界一周に成功
1580年 ポルトガル、スペインに併合される。この頃、オランダが登場し、イギリスをまじえてアジアの海は騒然としてくる。
1581年 ロシアのコサック兵団、西部シベリアに侵入。
1590年 秀吉の天下統一
1596年 オランダの商船隊、ジャワに到着。
1600年 イギリス東インド会社設立。オランダ船リーフデ号、大分の海岸に到着。英人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗っている。
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年 徳川幕海幕
1623年 アンボイナ事件(英人と日本人がオランダ人に虐殺される。)
1632年 台湾事件(末次平蔵、濱田彌兵衛の活躍)
1635年 幕府、日本人の海外渡航を禁じ、所謂「海禁」政策発足。翌年出島完成。
1640年 ロシア、ヤクーツクにバイカル湖以東の侵略策源地を定める。
1641年 オランダ、ジャワとその周辺諸島の決定的支配権を握る
1651年 ロシア、イルクーツク市を創設
1655年 鄭成功の西太平洋における海軍勢力(艦船1,000隻、兵力10万)最高潮になる。
1681年 鄭、海戦に敗れ、ヨーロッパが世界の海のほぼ全域を監視対象にすることとなる。
1689年 露清間にネルチンスク条約
1698年 ロシアによるカムチャッカ半島の初探検が行われる

 1623年のアンボイナ事件というのは、オランダがイギリス人と日本人を虐殺した事件です。アンボイナというのはモルッカ諸島ですから、インドネシアの島ですね。そこでオランダがイギリス人を10人、日本人を20人殺しました。イギリスは断固抗議するのですが、一旦諦めて、インドネシア海域から離れてインドのほうへ移動します。イギリスはもうインドネシアで戦うのを止めて、インド経営に集中する。イギリスがオランダに敗退した事件です。その代わりイギリスは執念深い。現地オランダで戦争を始めるのです。そこで条約を結んで、インドネシアでやった怪しからん出来事に対して賠償金を取り上げるのです。

 ところが幕府は日本人が殺されているというのに一言も抗議をしないのです。それが日本人だよ。今も昔も変わらないんだよ! メリハリが無かった、国家意識が無かった・・・、ということかもしれませんが、そんなことを言ったら、その当時はどこの国にも「国家意識」があったか、などということはよく分からなかった時代です。それから10年ほど経って「鎖国」です。つまりアンボイナ事件は日本人が東南アジアにたくさん出て行った時代です。それをやってはいけません、というのが鎖国で、日本人の海外渡航と帰国を禁じたのは1635年です。

 その後17世紀は鄭成功という母親が日本人で父親がシナ人の男が出てきて、台湾を中心に暴れまわります。でもこの人が暴れまわるのは僅かの期間で、台湾をオランダから解放するのは日本ではなくて鄭成功です。しかしこれが敗れるのが17世紀の終わりで、そうしたら実はヨーロッパは世界の海をほぼ制圧することになったのです。この後ずうっと今に至るまで「世界はヨーロッパ」ということから動いていません。日本は今に至るまで鎖国です。教科書や歴史学者はやっと私の次に「鎖国は無かった」と言っています。私は「鎖国はあった」。10世紀からずっと鎖国ではないか? と言っているのです。

 以上16,17世紀の年表にロシアの動きを入れましたが、両世紀はオランダが大きな役割を果たしているのがよくわかります。ロシアは少し動きだしていますが、まだ日本の近くには来ていません。

つづく

西欧の地球侵略と日本の鎖国(一)

開催日:平成28年4月24日 
場所:豊島区医師会館
主催:日本の伝統と文化を語る集い
企画・運営:「新しい歴史教科書をつくる会」東京支部
【<歴史・公民>東京塾・第30回研修会】

(一/六)
 今日はすこし細かい話になると思います。私たちにとって重大な歴史の概念である鎖国を『国民の歴史』で「鎖国は本当にあったのか」という一節で表現しました。そうしたら歴史学者たちから、そんなことはもう言われていることだと頻りに言われました。ところが歴史の教科書その他における「鎖国の見直し論」というのはその後、だいたい15年くらいなのです。最近になると、全ての歴史教科書から鎖国という言葉は消えつつあります。「江戸時代に鎖国は無かった」と・・・。私が「果たして鎖国はあったのか?」と言ってそれに影響された、ということは口が裂けても言いたくないのですよね。(笑)でも鎖国は複雑な概念で、私は再び「鎖国はあったのだ」ということを言おうと思っています。

 「鎖国は無かった」という議論のおおむねは、日本は自分を守ったわけでもなければ、何となく余裕があったのだ、ということが言いたかったわけです。通例「鎖国論」のおおむねは「鎖国得失論」から始まります。代表的な一人は徳富蘇峰。日本は鎖国をしたために植民地獲得競争に敗れて損をしたのだという議論。得失の「失」のほうで、損をしたという議論です。もう一人は戦後になって出た和辻哲郎。これも「失」のほうで、日本は鎖国によって科学の精神を持たなかったから、科学の発展が遅れてしまい戦争に負けたのだ。分かり易く言えばそういう概念で論じて、暗いイメージで鎖国をとらえています。それに対して「得」をしたという議論もあります。その間に日本の文明が成熟する時を持ち得たのだから得をしたのだ、という議論です。しかし損とか得とかいう議論がそもそも成り立つのか、ということが大きな問題です。

 17世紀の後半にはポルトガルやスペインの衰退に続いてオランダも衰退し、代わりにイギリスとフランスが登場します。それでも日本の海域が両国に脅かされることはありませんでした。イギリスとフランスは本国でも戦争ばかりしていて、インドやカナダにおいても事々に激しい争奪戦を重ねて、日本は暫しの間高みの見物を楽しんでいればよかったのです。日本は鎖国していたのではなく、海外へ敢えて出ていく必要が無かっただけではないか? というのがもう一つの観点です。つまり損得とは違うもう一つ別の歴史の観念を受け入れてみてはどうか? ということです。

 日本は金銀銅の埋蔵に恵まれていて、無理して海外に出かけて行って危険な貿易をしなくても国内から産出する富によって、十分に外国の商品を買付けることが出来ました。日本は決して眠っていたのではありません。本の出版点数は、少なくともヨーロッパに関するものは江戸時代に入って急激に増えていて、日本の輸入した最大の商品は絹織物に次いで漢籍つまりシナの本であったことも一つの判断材料になります。しかし国内から産出する金銀が底をつく時がすぐにやってきました。八代将軍吉宗の代になると輸入を抑制して、むしろ海外から生産技術を手に入れて色々なものの国産化を急ぐようになりました。

 ヨーロッパと争って東南アジアの物産を買い入れたりしていた、といっても日本が船で出掛けて行って買付けるのではなく、オランダ船に持ってこさせていたのです。当時のヨーロッパの船はヨーロッパから「ヨーロッパの製品」を運んでアジアに売っていたのではないのです。売る物なんて大して無かったのです。ヨーロッパは貧しくアジアは富んでいたという情勢を頭の中に置いてみてください。ヨーロッパに何も無かったわけではありませんが、しかし価値のある物はシナから日本に運び、日本からシナに運ぶ・・・。オランダ船の役割は海運業だったので、ヨーロッパの人たちはそうやって稼いでいた可哀想な人たちだったのです。

 いつ頃からそれが変わり始めたかというと産業革命です。後でその話をしますが、18世紀の中頃から大きく変わり始めるのです。日本は国内に東アジアの物産を移植して、それを自ら生産するシステムを確立します。言い換えればアジアから輸入していた砂糖や他にもいろいろな物産を日本人が自家生産するようになって、だんだん国内の生産力が高まってそれによって経済的に輸出入から独立するようになります。これもヨーロッパと歩調を共にしています。ヨーロッパはイスラムと争っていて、そのイスラムを打倒するまでは行きませんが、とにかく抑えて大西洋経済圏をつくります。カリブ海から砂糖を運んできたり、アメリカ大陸で綿花の栽培をする。そういうものによって近代世界システムが生まれてきてアジア、東南アジアの物産から解放されるのです。

 それとパラレルだったのが日本における鎖国体制で、アジアの物産からの解放という点でヨーロッパと極めて合似た歴史的展開をしていました。ヨーロッパはそれをほとんど奴隷貿易で行っていました。奴隷を使っていたヨーロッパですが、日本の場合は欧米と違い国内の勤勉によってそれを保持しました。ですから近代化が始まったときの、資本の蓄積という点では、欧米は奴隷による物産の生産と交易によって資本を蓄積しましたが、日本は主に農村に貯まっていたお金によって資本主義が離陸するという経験をしているのです。日本の農村は貧しかったのではなく勤勉で、蓄積をしていた農本資本主義でした。皆さんご存知の第一勧銀という銀行がありましたが、それは昔第一銀行があったからで、第一銀行と日本勧業銀行が一緒になったからです。今はみずほ銀行ですね。軽井沢に行くと八十二銀行というのがありますし、幾つかまだ残っていますね。農村の銀行はみんな番号が付いていたのです。そして東京には第一銀行があったのです。渋沢栄一の発案で出来た銀行制度です。それによって何が言えるかというと、「農村に貯まっていたお金を基本に作られた銀行」ということです。日本は貧しいながらに独立して孤独に立ち上がった資本主義です。明治以降のことは皆さんご存知でしょうけれど、江戸時代、幕藩体制のなかで日本の近代化は少しずつ出来上がってゆきました。

 「外国を締め出す」「行ってはいけない」「人に移動の自由を否定する」ということを海禁政策といいますが、これについては東アジア共通の問題で、シナも朝鮮半島も海禁政策をとっていました。ですから徳川日本の時代は自分が諸外国から締め出されている、という閉塞感はあまりありませんでした。つまり、ごく自然なことをしていただけで「別に努力しなくともいいじゃないか。最初はお金があって、そのうち自立するようにもなって、外国からとくに滋く出入りする必要は何も無いではないか・・・」ということです。「鎖国」という言葉がそもそもなかった。国を閉ざすという意識もなかった。意識が無いのだから鎖国という言葉があるわけないのですね。オランダの通使がエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』を翻訳したとき、“to keep it shut up”という“shut up”という言葉を遣ったから翻訳されたときに「鎖国」という言葉が出たのですが、それはそういう文字が「翻訳された」というだけであって、日本人には自分の国を閉ざしているという自覚は無かったのです。

 ところが他国意識が生まれ、自分で自分を閉ざしていてはいけないのではないか、という認識が出てくるのは、実際に海外渡航が可能になってから、すなわち明治に入ってからです。それも明治の末年から大正期にかけてからなのです。進歩に反するとか、世界の体制から立ち遅れる・・・、というような暗いイメージが一斉に付き纏いはじめたのはこの頃から、大正文化の影響なのです。江戸時代の人はそんなことを考えていなかったのです。閉ざしているという自覚も認識も無かったのです。明治時代だって無かったのです。例えば内田銀蔵という人は、明治36年の『明治近世史』に「江戸時代を鎖国としたものの、貿易は当時むしろ盛んになり諸国との外交を閉ざしたわけではない。」ということを寧ろ強調しています。また中村孝也という人が、『江戸幕府鎖国史論』という大正3年の本でも「鎖国は幕末に出た言葉で、17世紀の用語ではなく国政の若干部分に対して自ら封鎖したのに過ぎざるなり。孤立独在に近づけるものに非ず」、ようするに「鎖国は無かった」ということをちゃんと言っているのです。

 先ほど言った徳富蘇峰と和辻哲郎の「鎖国は損をした」という得失論が出てくる背景というのは、江戸時代には意識も認識も無かったし、現実においてそんな暗いイメージは何も付き纏っていない。それが明治になって、国を開いて始めて彼方此方(あちこち)みんなで行けるようになってみたら、急にそういうことを言い出す空気になる。そして戦争に勝つか負けるかという話になったとき、徳富蘇峰は「鎖国していたから損をした」と言い、和辻哲郎は「鎖国していたから負けたのだ」という議論になりました。そのことについては今から15、6年前、ちょうど私の『国民の歴史』が出た頃から、歴史学会も鎖国を批判して、鎖国は海禁という言葉に取り換えられて歴史の教科書もそうなりつつあるかと思います。

つづく

新保祐司さんの出版記念会

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 去る11月17日に新保祐司さんの『「海道東征」への道』(藤原書店)の出版記念会が銀座ライオンズビル5Fで開かれ、私は求められて次の挨拶を行った。

 新保さん、本日はおめでとうございます。いつの頃でしたか、もう10年以上も前になりましょうが、美の概念の中には「崇高」の美というのがあるとしきりに言っている人がいると知って、今どき珍しいし、得がたいことを言う人がいるものだと思ったのを覚えております。それが新保さんとの出会いでした。

 日本人の美の概念は調和のとれた、日常的世界、具体的で私小説風の小じんまりした、つつましい小世界を映し出した例が多く、それに対し「崇高」は偉大や雄大に境を接し、悲劇的概念でもあります。いわゆる普通の美が個人の範疇にとどまるのに対し、「崇高」は個人を超え、超個人的なものに関わる概念です。今の時代にこういうことを言える人は本当に限られた貴重な方だと思いました。

 そういう方向に関心を寄せている新保さんが産経新聞のコラム「正論」にたびたび登場するようになりました。すると小林秀雄についての言及が多いんですね。たびたび小林さんが取り上げられ、引用され、尊敬されている。それはいいんですが、私なんかの世代には絶対にできなかった。小林秀雄に託してものを言うことは難しいし、なぜか恥しい。余り小林さんのことは口にしない。〝小林秀雄に腰かけてものを言う人″と思われたくないという意識が強く働いていました。

 私より上の世代のことを言うと、これはもっと面倒だった。福田恆存氏が小林さんに最初に会ったとき、いきなり「貴方ほど邪魔な人はいない」と言ったといいます。さすが私の世代では小林さんの前でそこまで言った人はいないし、聞いたこともありません。けれども「邪魔」という意識は私にもあります。痛いほどこの一語はよく分る。

 皆さん、それはそうではありませんか。小林さんは時代の精神のほとんどすべての問題の問題点を語っています。全部彼に言われてしまっている。20世紀のヨーロッパの知識人がすべての問題の問題点をニーチェに言われてしまっている、というのにも似ています。
 
 小林さんは「尺度」として扱われてきました。物を書いている評論家の多くが、私を含めてですが、永い間あなたは小林の「尺度」に従えばどのあたりに位置し、今のところまだ頂上からほど遠く、何合目あたりを歩いているようにみえる、といった風な意識でみられてきました。これほど「邪魔」な存在はないではありませんか。

 ところが新保さんにはそういう意識はまったくないみたいなんです。あっけらかんとして小林の名を持ち出す。尊敬の対象として何のけれんみもなく平然と小林秀雄をもち上げる。私はそれが久しく気になってならなかった。でも、彼はびくともしません。

 で、だんだん気がついたんです。あゝ、そうか、これでいいのかもしれないな。私と新保さんとの年の差は18歳もあります。小林さんは私の世代には余りにも生々しかった。しかし、今小林の名はついに歴史になった。福沢諭吉や乃木将軍と同じ歴史上の人物になったのであろう、と。

 でも、私にとってはそうではありませんでした。小林と同じ道を歩んではいけない。小林と違うことをしなければいけない。小林と同じテーマでも違う型にしなければならない。一口でいえば、小林と戦わなければいけない。「邪魔だ」と言った福田恆存だけではありません。中村光夫も、江藤淳も、吉田健一も、小林を意識した同時代人はみなそこからの「脱出」を企てなければなりませんでした。けれども、新保さんはその必要がないみたいです。時代が動いたんですね。この問題意識そのものが「歴史」になってしまったんです。私の世代まであった苛立ちは誰ももう理解してくれないでしょう。

それにはこういうこともあるようです。私の時代には小林のエピゴーネンがわんさといた。だから自分はそうでないというために、小林を無視した風をしていなければならなかった。しかし今のこの時代では、小林秀雄をきちんと読む人さえも少なくなっている。エピゴーネンなんかいない。この環境の違いもあるのかなと考えるようになりました。

 新保さんのお書きになっているテーマでもうひとつ心に響くのは先の戦争の問題、「開戦」をめぐるテーマ、日本は無謀な戦争を始めた、勝ち目のない戦争を始めた、という戦後を蔽いつくした俗耳に入り易い言い方にきちんと疑問を呈しておられることです。

 加藤陽子の例の本に反論して、勝ち目のない「にもかかわらず」、それでも日本は短期決戦の方針で開戦に踏み切った。この「にもかかわらず」が大切なのではないかと論じています。「戦わなければ、戦わずして敗戦後の日本と同じ状態にさせられていた」(209ページ)と新保さんはお書きになっている。これは現実を正確に見ている表現です。こういうことを今明言する人が少なくなったので私は嬉しいのです。

 勝ち目のない戦争を戦ったというのなら、日露戦争だって同じだったのではありませんか。結果的に勝ったといっても、薄氷を踏む思いの辛勝だったじゃないですか。ロシアが内政で倒れた面がかなり大きい。とにかく二つの戦争は日本が愚かだとか、間違えていたとかいう前に、あっという間に襲ってきた運命の襲来でした。

 私は日本の近代化が短すぎた無理が祟った、とは思っていますが、道徳的に非難する気にはなれません。今はその話はこれ以上止めましょう。

 ともあれ、新保さんの新しいこのご本は静かな決意と勇気を与えてくれるもの言いや分析に数多く出会え、貴重なご本と拝察しました。ありがとうございました。

全集第16巻『沈黙する歴史』の箱の帯の文章

私は12月中ごろに全集第16巻の『沈黙する歴史』を出します。全集編集部から文中より選ばれたなにかいい言葉があったら、箱の帯に用いたいので、といわれて、以下のイからトまでの七つの短文を本文のテキストから拾い出しました。実際に用いられたのは最初の四つでしたが、ここでは七つ全部をご紹介しておきます。これらの短文集で「沈黙する」歴史という言葉の意味はお察しいただけるでしょう。

イ 今はもう終わった自分の戦争を是認することと、未来の戦争一般を忌避することとは、少しも矛盾しない。(62ページ)

ロ 終戦の日から二週間たってなお、日本の新聞は公然と「戦意」を表明していた。(69ページ)

ハ たいていのことに関し米国に調子を合わせ利益を損なうようなへまをしない戦後日本が、「謝罪問題」にだけはこだわり、抵抗するのはなぜだろうか。平成七年夏の戦後五十年国会謝罪決議に五百万人もの反対署名が集まったのはなぜだろういか。(77ページ)

ニ われわれはたしかに戦争をした。しかしなぜ戦争もしたと考えることができないのだろう。(97ページ)

ホ あらゆる国が自国の利益を第一にしている。「自存自衛」のために戦うのが戦争の第一目的であって不思議はない。さりとて他方、日本が「アジア解放」という戦争目的を心に秘め、一部にそう公言して戦ったことも紛れもない事実なのだ。そこには当然、二重性がある。戦後の日本人がおかしくなったのは、この意識の二重性を失ってしまったことである。(96ページ)

ヘ 過去の行為の間違いを正すことにおいて、現在の人間は果てしなく自由であるが、現在の行為の間違いを正すことに、それがほんの少しでも役立つと考えるのは、ほろ苦い自己錯誤であろう。(186ページ)

ト 日本人は戦闘に負けたが、戦争に負けたわけでは必ずしもない。その自覚が戦後なおつづいている間はまともだったが、戦勝国が占領政策を通じて仕掛けてきた功名で粘り強い戦後における戦争にやがて敗れることになるのである。」このほうがずっと影響は大きい。(71ページ)

目 次
序に代えて 歴史には沈黙する部分があり、沈黙しながらそこから声を発している

Ⅰ 沈黙する歴史
歴史は道徳の課題ではない
限定戦争と全体戦争
不服従の底流
日米を超越した歴史観
『青い山脈』再考
日本のルサンチマン
ニュルンベルク裁判の被告席に立たされたアメリカ
焚書、このGHQの思想的犯罪(講演)
全千島列島が日本領

Ⅱ 世界史の中に大東亜戦争を置いて見る
日本人の自尊心の試練の物語
日本人は運命の振り子を自ら動かせたか
二つの世界大戦と日本の孤独
オレンジ計画について
イラク戦争が「人道への罪」を変質させた
そもそも「世界史」は存在しない

Ⅲ 内と外からの日本の幽愁
あらためて「終戦の日」に思うこと(二〇〇〇年八月十五日)
日本人が敗戦で失ったもの
「第二占領期」に入った日本
健全な民主主義は権力の集中を必要とするワイマル時代のドイツと今の日本
日本人の自己回復(講演)
中国の無法と米国の異例な法意識
一〇〇パーセントの「反米」も一〇〇パーセントの「親米」もない
『沈黙する歴史』新版まえがき(二〇〇七年)

Ⅳ 台湾の精神的自立を信じればこそ
わたしの台湾紀行
「わたしの台湾紀行」補説

Ⅴ 公開日誌(二〇〇二年七月十五日~二〇〇三年五月十八日)私は毎日こんな事を考えている
Ⅰ ノルウェーの森と峡江フイヨルド
Ⅱ みかんの花咲く丘
Ⅲ 「小泉訪朝」終日テレビ・ウォッチング
Ⅳ 韓国人の対日観は変わるのか
Ⅴ 拉致家族五人の帰国とその後
Ⅵ 嗚呼、なぜ君は早く逝ったのか
Ⅶ 日日是憂国
Ⅷ 元旦・朝まで生テレビに意味ありや
Ⅸ アメリカ政府に問い質したきこと
Ⅹ 靖国会館シンポジウムでの私の発言
ⅩⅠ クラウトハマーとブキャナンとイラク戦争
ⅩⅡ 世界は安定を捨て次の局面に入った
あとがき

Ⅵ 「路の会」合同討議 日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか
第一章 「静かなる敗戦」の衝撃
大島陽一 井尻千男 高森明勅 遠藤浩一 尾崎 護 田中英道 西岡 力 宮崎正弘
片岡鉄哉 小浜逸郎 藤岡信勝 黄 文雄 萩野貞樹 西尾幹二
第五章 失われた「国家意識」
萩野貞樹 小浜逸郎 宮崎正弘 田中英道 藤岡信勝 東中野修道 小田村四郎 
黄 文雄 高橋史朗 西尾幹二

追補一 『沈黙する歴史』解説(徳間文庫)・西岡 力

追補二 『沈黙する歴史』解説(WAC文庫)・高山正之

追補三 富岡幸一郎・西尾幹二対談 林房雄『大東亜戦争肯定論』をめぐって

後記