ルポ百田尚樹現象を読んで

松山久幸氏に来たメールですが、西尾先生の意向により、日録本文として掲載します。

松山久幸 様

坦々塾でお世話になっている岡田敦夫です。
ご無沙汰しております。
先月、松山様が西尾先生のインターネット日録へ寄稿された論文を拝読しました。
そして石戸諭氏の「ルポ百田尚樹現象―愛国ポピュリズムの現在地」を小生も買いこのほど読了しました。拙き読後感想を持ちましたので松山様にご報告したくメールする次第です。差支えなければご一読いただければ幸甚です。
(長文にて失礼します)

本来、斯様な感想は日録のコメント欄へ投稿すべきなのでしょうが、最近、他投稿者の皆様との見識の広さに対する小生の僅かな人生経験で発する論の拙さに打ちひしがれており、投稿に躊躇をしております。
また、(こちらの方が本音なのですが)先に読まなければならない西尾先生のご著書を読了していない状態で本書を読了してしまったことが面目ない気持ちもあります。

まず、小生が本書を読みたいと思った理由ですが、主に以下の3点になります。
・松山様の寄稿文に「第二部はつくる会発足の経緯が一般人にも手に取るように はっきりと理解できるほど詳細に語られている。つくる会のことに関して色眼鏡を 付けずに殆ど主観を交えず恐らく事実に対して忠実に淡々と記述されていると思われ、ここはジャーナリストとしての石戸氏の面目躍如たるものがある。このように第三者的立場で書かれたものは他に見当たらない。」
 とありました。
 
小生がつくる会の存在を知ったのは小林よしのり氏のゴーマニズム宣言によります。従って会発足の経緯というものは小林氏の視線によってのみ知り得たことでした。今般、松山様が評価しておられる説明文があるとのことで興味を持ちました。
・小生の認識ではここ数か月の間に、保守層からの百田尚樹氏の人気が急落しているようです。
 今年になってから諸々事情によりYouTube上で虎ノ門ニュースを視聴することが多くなったのですが、コロナ以後、百田氏が出演するとかなりの視聴者からディスる声が上がっているようなのです。その理由についてはいろいろありましょうが、少なくとも現在では百田氏のことを保守系から圧倒的な支持を得ている論客という見方をするのは実態と合わないことだと思います。

 つまり、「え、なぜ今ごろ百田氏なの?」という驚きがあったのです。
・松山様の寄稿文には、石戸氏が本書を書くことにした動機を「川のこちら側」(左派)から「川の向こう側」(右派)へと敢えて足を運んだとのことですが、小生はこの表現に興味を持ちました。
 小生、若いころに「なぜ保守と左翼は会話がかみ合わないのか」について悩んでいたことがあり、ネットでいろいろ調べていた時に下記ページを見つけました。
 
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html

 記載者はかなりエキセントリックな人であるようで上記以外の文は全く面白くないのですが、ここに書かれている図式には納得させられるものがありました。
 つまり、保守は左翼のことを(高さが違わない)横の関係と捉えるのに対し左翼は保守のことを上下(ただしいつも保守が上)の関係と捉えているということです。この説を読んで以後、小生が左翼の人と話をするときは「この人は小生のことを上下の対立軸で見ているのだな。」と思うようにしています。
 本書において、左側にいる石戸氏が保守の側を「川の向こう側」と表現したということは上記図式に反します。そうすると石戸氏が捉えている対立軸はどのようなものなのか、若しかしたら左翼に立場を置きながら対立軸を横の関係と捉えている人なのかもしれない、という興味を持ったのです。

 前置きが長くなりました。

 読後、最も強く印象に残ったことは、石戸氏はこの本を通じてつくる会の教科書運動をポピュリズムであると断定することにより運動そのものを誹謗することが目的だったのだと思いました。一方で石戸氏の取材(というより理論武装?)が甘いため、教科書運動をポピュリズムと断定する証明には至らなかったというのが小生の理解です。

小生はノンフィクションというジャンルの読み物をほとんど読まないのですが、唯一の例外は1998年に最相葉月氏が書いた「絶対音感」です。これも絶対音感というスキルを高尚なものとして持ち上げたいために別の音感スキルである相対音感を矮小化していました。読んで吃驚したのを覚えています。
ノンフィクションって、こんなものなのでしょうか?

石戸氏のストーリーは以下のようなものです。
まず第一部で百田尚樹氏の現在と経歴を丁寧に取り上げ(この辺の記述は面白く読めました。小生は元関西人であり探偵!ナイトスクープは今でも毎週録画して週末に視聴するのが楽しみです)、彼のことを究極のポピュリストである証明をします。そして第一部の最後に無茶振りでつくる会を取り上げ、百田氏の言動はつくる会の運動と連綿と繋がっていると断定をします。
第二部でつくる会の運動の足跡をたどるべく藤岡信勝先生、小林よしのり氏、西尾先生へのインタビューを試みます。その中で藤岡先生および小林氏が運動の支持を普通の人々に求めたということを訊きだし、これを以てつくる会の運動がポピュリズムであると断定しています。

しかしながらこのようなこじつけが通用する訳はなく、本書の記述は常に迷走し続けているようです。例えば、P.127からP.128にかけての記述です。西尾先生の「国民の歴史」と百田尚樹氏の「日本国記」を同列に扱うかのような質問をして西尾先生から「書いた動機が違うんだよ。」と叱られている。にもかかわらずその後も「おかしいなー。つくる会と百田さんとは連続しているはずなんだけどなぜ断絶しているのかなー。」と問いかけている。
終章に至っては、改めてつくる会の運動と百田氏の活動が繋がっていると断定しておきながら詳しい分析に踏み込むと相違点ばかりが浮かんでくる。
これは結局両者は繋がっていないんだという証明になってしまっていると小生は考えますが、著者の石戸氏は分かっていないようです。

 斯様な感想ばかり書いてしまうと、まるで小生が本書を読んだことを後悔しているように感じられたかもしれませんが事実は正反対で、この本を読んで良かったと思います。
ひとつは、つくる会の活動の流れを知ることができたということです。

 小生も2002年から西尾先生が会を離れられるまでの間、短期間ですがつくる会に在籍していたことがあります。そのころを思い出しながら、西尾先生はじめつくる会に携わった方々の思い、悩み、葛藤、苦しみについて少しでも思いを馳せることができた気がします。
次に、登場する人の人物像がよく見えてきたということです。藤岡先生と小林氏は、上述した左翼と保守の分類で言うと若しかしたら左翼側におられるのかもしれないと思いました。本書において両氏とも権威(朝日新聞)に対抗する思いを強く述べています。当然、西尾先生も権威に対する対抗心はお持ちですが藤岡小林両氏の思いは権威との上下関係であるのに対し西尾先生の捉え方は横の関係であるように思います。

 著者の石戸氏はどうでしょうか?小生にはよく分かりませんでした。というのは小生の理解では、石戸氏の捉え方には上下の関係と横の関係の両方が存在する様に思えたからです。
石戸氏は、藤岡先生や小林氏(百田氏も)が権威に対抗する思いを語るとき、わが意を得たりと言わんばかりの反応を示しています。逆に西尾先生にはこういう対立軸を見いだせず、消化不良なインタビューになっています。石戸氏にとっては上下の関係で対立をとらえた方がしっくり来ているように思いました。

 一方で、西尾先生、藤岡先生、小林氏、百田氏に対し著者の石戸氏はきちんと敬意を払って接しているように思いました。思想信条が異なる相手にインタビューをするのですから、対立軸を上下関係に捉えている人だとどうしてもやっかみや(逆に)蔑みなどの感情が露呈してしまいそうなものですが、本書では斯様な感情は見いだせませんでした。
ただ、西尾先生をはじめ、登場人物を全て呼び捨てで表記するのはけしからんと思います。せめて冒頭に断りの一文でも書くのが礼儀ではないかと思いました。

さて、話題は全く変わりますが、小生が住む神奈川県藤沢市で、市民としてまことに恥ずかしい出来事が起こりました。来年度より、市立中学校で使う歴史教科書が育鵬社版から東京書籍版に変更されることになったのです。
https://www.asahi.com/articles/ASN705WMXN70UTIL01B.html
コロナ禍に気を取られているすきに、敵は着々と運動を進めています。教科書問題については小生近年は勉強不足であり、どう行動をしたらよいのか戸惑っているところです。ただ一人で憤っているだけではダメだということは解っているのですが、、、、、、、

岡田敦夫 拝