『天皇と原爆』の文庫版の刊行

平成24年(2012年)1月に刊行された『天皇と原爆』が「新潮文庫」になりました。7月末に発売です。

天皇と原爆 (新潮文庫 に 29-1) 天皇と原爆 (新潮文庫 に 29-1)
(2014/07/28)
西尾 幹二

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解説 渡辺望

前著『アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか』について、アマゾンに出た書評のひとつを紹介したい。

炎暑の刺激的な読書体験 2014/7/28

By nora

年が行ってからはあまり刺激的な読書はしてこなかった。意識的に遠ざけていたわけではないが、いまさら刺激を受けてもしょうがないだろうという気分があった。それなのに、こんな刺激的なタイトルの本を読んでしまったのは、梅雨も明けないウチから続く今年の炎夏のせいだ。
暑い夏にあえてアッツイ鍋物を食べるという避暑対策があるが、刺激的読書をすれば暑さを忘れ、ゆるんだ頭も少しは活性化するかもしれない……というわけで、扇風機の回る部屋で寝転びながら読み始めた。
十分に刺激的な読書体験となった。
まえがきから『日本は「侵略した国」では、なく「侵略された国」である。「日本はアジアを開放した」と言っているが、アジアの中で外国軍に占領されているのは日本だけである』といった刺激に溢れたフレーズが続く。私にとって初見の「歴史」が次々と紹介、展開されていく。読み終える頃には、シャツは汗でびっしょりと濡れ、アタマも妙に動き出した。そのせいで、年甲斐もなく「歴史」とは何だろう、と考えることとなった。
web検索するうちに、「歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である(イギリス歴史学者E.Hカー)」という言葉を見つけた。
カーは、『「歴史上の事実」とされるもの自体が、すでにそれを記録した人の心を通して表現された主観的なもので、「すでに主観的である」歴史上の事実と私たちが対話してゆく道は、自らの主観を相対化し問い直す存在として接しようとするところにこそ開ける』と言う。
これはけっこう大変な作業だが、せっかくこの本で、たくさんの「新しい歴史」を見つけたので、アタマがまたスローダウンしないうちに関連本を読んで見ようと思っている。

 本を読んだ新鮮な「驚き」が素直に語られていて、著者としてはまことに嬉しかった。

 ぜひこの方に『天皇と原爆』のほうも読んでいただきたい。炎暑の中のもう一度の「刺激的な読書体験」になるのではないかと期待している。

 また、ここで述べられているE・H・カーの歴史とは過去との「対話」だ、という考え方は、私の『決定版 国民の歴史』(文春文庫)に新たに追加した序文「歴史とは何か」にも通じるので、目を向けていただければありがたい。

西尾幹二全集第14巻『人生論集』の刊行

 7月半ばに遅れていた私の全集第14巻『人生論集』がやっと出ました。第10回配本です。前回は第9巻『文学評論』でしたので、第10、11、12、13巻の四冊をスキップして、いきなり第14巻に飛びました。

 そのわけは、この第10、11、12、13巻は世界の状況が急変した共産主義の終焉を第11巻に予定していて、編集が大変に複雑で難しくなってくるので、内容のまとまっている第14巻『人生論集』を先に出したのでした。

 いち早く7月15日付である方から第14巻についていきなり次のコメントが届きました。

3.西尾幹二全集14巻が届きました。毎巻、書架の装飾がわりに並べておくだけで、中身は一度の読んだことがありません(ケースから出したこともない)が、今回は、一気に全部読みました。おかげで、このところ寝不足です。西尾さんの日常が軽妙なタッチで描かれていて、大変面白かった。

コメント by 藤原信悦 — 2014/7/15 火曜日 @ 12:05:03 |編集
(「正論」連載「戦争史観の転換」へのコメント)

 箱も開けていないなんてひどいなァ、と思いましたが、第14巻は読み出したら止まらなくて寝不足になった、というくだりは正直うれしい感想でした。具体的エピソード満載の一巻ですので、この一巻は読みやすく、面白いこと請け合います。

 まだ私の全集に近づいていない方はぜひこの巻を入り口に手を出して下さい。(株)国書刊行会の販売部長永島成郎氏(Tel 03-5970-7421)が買う巻の順序などについてはご相談にあずかります。以上はコマーシャルです。

 以下に第14巻の目次を示します。巻末の「随筆種(その一)」も目玉商品です。

オモテ帯
作家 川口マーン惠美
ドイツからの手紙

全編を通して共感を覚えるのは、西尾先生ご自身がご自分を上段に置くことなしに、すべてを正直に心に問い、疑い、弱い部分もさらけ出していらっしゃるところ。それは、とくにご闘病のシーンに顕著です。そして、死を恐れるご自分を見つめ、悩み、その挙句、あらゆる患者に癌を告知するべきだという理屈は「強者のモラルの極論ではないか」と憤る場面に、読む者は心を打たれます。つまり、先生ご自身も、紛れもなく、「本当の姿を見ることを本能的に拒否し」、「自分で自分を騙して生きて」いる人間、「完全な自由も、完全な孤独も」持たない人間の一人なのです。その謙虚さを感じるからこそ、ここに掲示される多くの疑問や考察は、読む者の心に素直に染み透っていきます。
(『人生の価値について』解説より)

目 次
Ⅰ 人生の深淵について

 怒りについて
 虚栄について
 孤独について
 退屈について
 羞恥について
 嘘について
 死について
 教養について
 苦悩について
 権力欲について

Ⅱ 人生の価値について
 断念について――新版まえがきに代えて

第一部
 無知の権利
 自分への幻想
 褒められること
 成功と失敗
 人生の評価
 真贋について
 虚飾について
 ふたたび 真贋について
 虚栄について
 自由と混沌
 独創性について
 芸術と個人
 自由と平等
 ふたたび 自由と平等
 自由と競争
 自由の隠し場所
 福音について
 理解について
 行為と言葉
 思想ということ
 書物の運命

第二部
 無私について
 現実について
 運命について
 賭けと現実
 現実は動く
 理想と現実
 政治と道徳
 統治について
 思想の背後
 知ってしまった悲劇
 孤独の怒り
 始皇帝の展覧会を見て
 出会いの神秘
 聖人と政治
 ふたたび 聖人と政治
 内政と外交
 言葉が届かない
 ある歴史物語(一)
 ある歴史物語(二)
 ある歴史物語(三)
 ある歴史物語(四)
 悲劇について(一)
 悲劇について(二)
 悲劇について(三)
 行為と無
 人生の主役

第三部
 落ちていく自分
 破滅について
 危機の時代
 狂気と正常
 疾走する孤独
 ニヒリズムについて
 遊戯と真剣
 不自由への欲求
 青年の変貌
 自閉衝動
 深まるニヒリズム
 自由の恐怖
 違反と禁止
 真理について
 宗教と歴史
 古代の獲得
 知行合一
 歴史の死
 行為と観照
 歴史と文学
 預言者の悲劇

第四部
 インドでの戦慄
 信じられないこと
 人権について
 浄、不浄の観念
 インドの上流家庭
 カースト制度の打倒
 菜食主義
 結婚の条件
 差別の解消
 不寛容な社会
 差別と区別
 個体という幻
 裁きについて
 自然の意志
 意志と煩悩
 忍苦の世界

第五部
 懺悔について
 後悔について
 取り戻せない過去
 希望について
 ある体験(一)
 ある体験(二)
 ある体験(三)
 ある体験(四)
 ある体験(五)
 自分の知らない自分
 死の統御について
 死の自覚について
 自覚の限界について
 病気の診断について
 羞恥について
 人生の長さについて
 人生の退屈そして不安(一)
 人生の退屈そして不安(二)

あとがき

Ⅲ 人生の自由と宿命について   西尾幹二と池田俊二

 第一章 青春の原体験
 第二章 ベルリンの壁崩壊がもたらしたもの
 第三章 人生の確かさとは何か
 第四章 近代日本の宿命について
 第五章 しっていてつく嘘 知らないで言う嘘
 第六章 アフォリズムは人間理解が際立つ形式である
 第七章 ニーチェのはにかみとやさしさと果てしなさ

Ⅳ 男子、一生の問題
 はじめに 日本人が、考えなければならない「問題」がある
 第一章 「男子の仕事」で一番大事となるものは何か
 第二章 時間に追われず、時間を追いかけて生きよ
 第三章 この国の問題――羞恥心の消滅
 第四章 「地図のない時代」にいかに地図を見つけるか
 第五章 男同士の闘争ということ
 第六章 軽蔑すべき人間、尊敬すべき人間
 第七章 「自分がいないような読書」はするな
 第八章 仕事を離れた自由な時間に

Ⅴ 随筆集(その一)
 女の夢、男の夢
 蛙の面に水
 村崎さんの偏差値日記
 私は巨人ファン
 大学のことばと会社のことば
 買いそびれた一枚
 ミュンヘンのホテルにて
 西洋名画三題噺――ルソー、クレー、フェルメール
 子犬の軌跡
 音楽後進国の悲哀
 親の愛、これに勝る教師はなし
 恩師小池辰雄先生
 愛犬の死

追補一 「思想」の大きさについて 小浜逸郎
追補二 ドイツからの手紙 川口マーン惠美
後記

ウラ帯
「真に高貴な人間は怨みとか焦りとか妬みとかを知らない。ただ怒りだけを知っている。勿論それで身を滅ぼすこともある。神のみが為し得る正義の怒りを、人間が常に過たずに為し得るとは限らないからである」(怒りについて)

「生産的な不安を欠くことが、私に言わせれば、無教養ということに外ならない。それに対し絶えず自分に疑問を抱き、稔りある問いを発しつづけることが真の教養ということである」(教養について)

「他人を出し抜いて得をしようというのも虚栄なら、わざと損をして自分を綺麗に見せようとするのも虚栄である」(虚栄について)

「われわれは一般に真実を語ろうとする動機そのものの嘘に警戒をする必要がある」(嘘について)

「孤独感は自分に近い存在と自分との関わりにおいて初めて生ずるものではないだろうか。近い人間に遠さを感じたときに、初めて人は孤独を知る。孤独と人生の淋しさ一般とは違うのである」(孤独について)

(『人生の深淵について』より)
以上

「アメリカと中国はどう日本を『侵略』するのか(二)

アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか
(2014/07/16)
西尾 幹二

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宮崎正弘氏による書評

いずれアメリカは日本を捨てる日が来るかも知れない
  日本は本物の危機がすぐそこにある現実に目覚めなければいけない


西尾幹二『アメリカと中国はどう日本を侵略するのか』(KKベストセラーズ)
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 副題は「第二次大戦前夜にだんだん似てきている、いま」である。
 日本は従来型の危機ではなく、新型の危機に直面している。
 国家安全保障の見地から言えば、戦後長きにわたり「日米安保条約」という片務条約によって日本はアメリカに庇護されてきたため、自立自尊、自主防衛という発想がながらく消え失せていた。付随して日本では歴史認識が歪曲されたまま放置された。左翼の跋扈を許した。
米国が「世界の警察官」の地位からずるずると後退したが、その一方で、中国の軍事的脅威がますます増大しているのに、まだ日米安保条約があるから安心とばかりに「集団的自衛権」などと国際的に非常識の議論を国会で日夜行っている。
まだまだ日本は「平和ぼけ」のままである。
 実際に「核の傘」はボロ傘に化け、精鋭海兵隊は沖縄から暫時撤退しグアム以東へと去る。一部は中国のミサイルの届かない豪州ダーウィンへと去った。オバマ大統領は訪日のおり、「尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲」と言ったが、「断固護る」とは言わなかった。
 それなのに吾が自衛隊は米軍の下請けシステムにビルトインされており、日本の核武装は米国が反対している。
 これはアメリカにとって庇護下から日本はぬけでるな、という意味でもある。欧州との間に交わして「核シェアリング」も日本にだけは絶対に認めない。
 「日本はまず日本人で守ろう、日本は良い国なのです」と言った航空幕僚長は馘首された。
 従来型の軍事力比較ばかりか、近年は中国ハッカー部隊の暗躍があり、日本の通信はすべて盗聴・傍受、モニターされているが、対策するにも術がなく、ようやく機密特別保護法ができたほどで、スパイ防止法はなく、機密は次々と諸外国に漏洩し、なおかつハッカー対策に決定的な遅れを取っている。
 通信が寸断され、情報が操作されるとなると敵は戦わずして勝つことになる。

 経済方面に視点を移すと、日本は戦後の「ブレトンウッズ体制」で決められてIMF・世銀、すなわちドル基軸体制にすっかりと安住し、あれほど為替で痛い目に遭わされても、次のドル危機に構えることもなく(金備蓄の貧弱なこと!)、また米国の言うなりにTPPに参加する。
 TPPは中国を排除した知的財産権擁護が主眼とはいえ、これが安全保障に繋がるという議論はいただけず、また目先の利益優先思想は、長期的な日本の伝統回復、歴史認識の蘇生という精神の問題をなおざりにして、より深い危機に陥る危険性がある。誰も、TPPでそのことを議論しない。
 アメリカは戦後、製造業から離れ宇宙航空産業とコンピュータソフトに代表される知的財産権に執着し、金融のノウハウで世界経済をリードした。日本は、基幹をアメリカに奪われ、いはばアメリカの手足となって重化学機械、自動車を含む運搬建設機材、ロボット、精密機械製造装置で格段の産業的?家をあげたが、産業の米といわれるIC、集積回路、小型ICの生産などは中国に工場を移した。
 つまり貿易立国、ものつくり国家といわれても、為替操作による円高で、日本企業は海外に工場を建てざるを得なくなり、国内は空洞化した。若者に就職先が激減し、地方都市はシャッター通り、農村からは見る影もなく『人が消えた』。
 深刻な経済構造の危機である。グローバリズムとはアメリカニズムである。
 こうした対応は日本の国益を踏みにじることなのに、自民党も霞ヶ関も危機意識が薄く、またマスコミは左巻きの時代遅れ組が依然として主流を形成している。
 これらを総括するだけでもいかに日本は駄目な国家になっているかが分かる。

 だから西尾幹二氏は立ち上げるのだ。声を大にして自立自存の日本の再建を訴えるのである。第一にアメリカに対する認識を変える必要がある。
 西尾氏はこう言われる。
 「アメリカの最大の失敗は『中国という共産党国家を作り出したこと』と『日本と戦争をしたこと』に尽きる。(アメリカの)浅薄な指導者たちのおかげでやらなくてもいいことをやってしまった。その後も失敗を繰り返し、今回もまた同時多発テロ後、中国に肩入れをしていつの間にか中国経済を強大化させてしまった」(95p)
 「オバマ政権は世界の情報把握も不十分で、ウクライナでしくじったのも、イラクであわてているのも、ロシアやイスラム過激派の現実をまるきり見ていないし、サウジアラビアのような積年の同盟国を敵に回して」しまった(105p)。
 秀吉をみよ。情報をきちんと把握し、キリスト教の野望をしって鎖国へと道筋を付け、当時の世界帝国スペインと対等に渡り合ったではないか。
 しかし戦後の歴史認識は狂った。
 「あの戦争で日本は立派に戦い、大切なものを守り通した。それを戦後の自虐史観が台無しにした。先の大戦を『日本の犯罪だ』とう者はさすがに少なくなった。ただ、半藤一利、保坂正康、秦郁彦、北岡伸一、五百旗頭真、加藤陽子など」がいる(182p)。
 日本は確かにいま米国に守護されてはいるが「アメリカはあっという間に突き放すかも知れない。中国の理不尽な要求に、耐えられない妥協をするようアメリカが強いて来るかも知れない。『平和のためだから我慢してくれ』と日本の精神を平気で傷つける要求を中国だけではなく、アメリカも一緒になって無理強いするかもしれない」(242p)。
 ことほど左様に「アメリカは、軽薄な『革命国家』」なのである。(251p)
 憂国の熱情からほとばしる警告には真摯に耳を傾けざるを得ないだろう。
 結論に西尾氏はこう言う。
「外交は親米、精神は離米」。たしかにその通りである。

「アメリカと中国はどう日本を『侵略』するのか」の刊行

アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか
(2014/07/16)
西尾 幹二

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【新刊のお知らせ】

『 アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか 
-「第二次大戦」前夜にだんだん似ている、今 』
西尾幹二(KKベストセラーズ) 本体価格:1,000円+税
2014年7月15日配本開始!(全国書店、インターネット等で発売)

第1章 米中に告ぐ!あなた方が「侵略者」ではないか
第2章 中国人の「性質」は戦前とちっとも変わっていない
第3章 「失態」を繰り返すアメリカに、大いに物申すとき
第4章 16世紀から日本は狙われていた!
第5章 「日米戦争」はなぜ起こったか?
第6章 敢えて言おう、日本はあの戦争で「目的」を果たした!
第7章 アメリカの可笑しさ、
    自らの「ナショナリズム」を「グローバリズム」と称する

<あとがきより>
 アメリカ革命やフランス革命は、ある時期確かに新しい価値をもたらしたが、それは人類の普遍的価値ではない。ふたつの革命が時代とともに人類に禍を引き起こした面もある。

 戦勝国アメリカが「敗戦国日本に民主主義や自由主義の理念をもたらしてくれた」と思っている人が未だにいるが、それは正しくない。
ヨーロッパの古い文明は、まだ有効性を持っているかもしれないが、われわれはそれを必ずしも模範として学べばよいという時代ではない。いわんや、アメリカ文化はもう日本のモデルではない。

 「最近若い人がアメリカに留学しなくなった。日本人が内向きになったからだ」と、言う人がいる。しかしそれは、日本社会がもはやアメリカを手本にしてわが身を正そうとしなったからではないか。だから日本の若者が、アメリカに行っても得をしないと思うようになった。アメリカが世界の普遍性の代表ではなくなったのである。

 私はアメリカを否定する者ではない。決して、いわゆる「反米」ではない。外交的にも軍事的にもアメリカからすぐ離れることはできない。ただ、もっと距離をもって捉えるべきだと言っている。精神的に離れるべきだと言っている。

 第二次大戦後に毛沢東に肩入れして、今の中国をつくってしまったのはアメリカである。アメリカ人は革命好きなのである。それでいて、あっという間に毛沢東軍と朝鮮で泥沼の戦争をしたのもアメリカである。アメリカ人には幼い面がある。このことの歴史的深刻さを、よく認識しておかなければならない。

 アメリカは「世界政府」志向の帝国で、自国の「ナショナリズム」を「グローバリズム」の名で呼ぶという、笑ってしまうような平然たる傲慢さがある。
それに対し、日本はどこまでも単一民族文化国家であり、異なる独自の価値観に生きている。世界のあらゆる文明はそれぞれが独自であって、特定の文明が優位ということはあってはならない。

 平成二六年六月                         西尾幹二

「移民問題連絡会」の立上げと「トークライブ」(観覧報告)

〈ゲストエッセイ〉                  平成26年7月6日

  

                      小川揚司(坦々塾事務局長)   

 今般、西尾幹二先生は「移民問題連絡会」を立ち上げられ、関岡英之氏(評論家)、三橋貴明氏(経済評論家)、河添恵子氏(ノンフィクション作家)、坂東忠信氏(元警視庁北京語捜査官)がそのメンバーとして参加されるところとなりました。そして、西尾先生は、雑誌「正論」の小島編集長と語られ、この気鋭の論客四氏に呼びかけ、河合雅司氏(産経新聞論説委員)も加わり、7月6日(日)のトークライブ「日本を移民国家にしてよいのか」(雑誌「正論」主催)に出演される運びとなりました。

 この「移民問題」と云う深刻なテーマに、主催者の観覧者募集広告に対し、応募者は6月半ばの時点で会場の収容能力の限度である八百名を超え、主催者が更に殺到する応募を断るのに大童になる一幕もあり、この問題に心ある国民の関心が如何に高いかを如実に表すところとなりました。そして、当日、会場の「グランドヒル市ヶ谷の大広間」は、忽ちのうちに真摯な観覧者で埋め尽くされました。

 開演冒頭、主催者の挨拶に続き、西尾先生は、約7分間、満場の観覧者を前に、このトークライブの趣旨とするところを次のように語られました。

「私は丁度25年前、中国人に偽装したベトナム難民の渡来事件が起こり、 外国人単純労働者受け入れの是非が世の中で問われだしたときに、外国人受け入れに慎重論を展開した。聴衆の中でご記憶の方も居られるかと思う。
そのとき確認したメインポイントが8点あり、今もなお有効かどうか、本日のトークライブを聴かれた皆様にご判断いただきたい。

1.日本人は必ず加害者になる。
   被害者にもなるが、加害者とされ、国際誤解を招くような事件が必ず起こる。フィリピン人女性の変死事件で、日本では話題にならなかったが、フィリピンでは連日新聞が書き立て、悲劇のヒロインの映画までつくられた。

2.労働者受け入れ国は送り出し国に依存する。 
  大相撲をみれば分かるように、彼等送り出し国のパワーに日本側が取り込まれてしまう。ドイツではお金をつけてトルコ人を帰国させたが、同じ数の別のトルコ人がドイツに戻ってきてしまった。ドイツ側が特定の職業の専門集団であるトルコ人を必要とするからである。例えば、洗濯屋さんはトルコ人の仕事になっていて、代わりがいない。同じようなことは日本にもあるだろう。

3.入ってくるのは人間であって牛馬ではない。
   一度入ってきて日本のために働いた人を、強制的に帰れとは言えない。妻子を呼ぶなとは言えない。大事なことは、外国人もまた日本に来たら、日本で「出世」を望むことだ。彼等も老人になり「介護」を必要とすることになるだろう。

4.期限を切っても大半は必ず定住化に転じる。
   今までの各国の実例が示している。

5.日本には労働者階級はいない。
   日本は階級差が少なく、永続的な「カースト」は日本には存在しない。   
   移民達は自国の「カースト」を日本に持ち込む。日本に来て民族間の差別、中国人→ベトナム人→フィリピン人 といった格差を持ち込み、日本の流動的な社会を固定化し、創造的な日本文化を脅かす。

6.日本人は諸外国のように外国人を冷酷に対応できない。
 シンガポールでは、フィリピンメイドが多数働いているが、彼女等は定期的検診を受け、妊娠が判明すると国外退去を命じられる。シンガポールの雇い主の男性が原因でも、責任はメイドだけが問われ、追放される。
世界中どこでも外国人に対する「差別」が構造化している。日本人は 冷酷に対応できないだろう。メイドと一緒に食事をしたりするようになるだろう。我々は犬猫の前で裸身になっても平気だが、外国の使用人の前でも裸身になることができるだろうか。欧米人は犬猫を前にしたように外国人を扱う。

7.世界は鎖国に向かっている。
   移民国 カナダ、オーストラリア、アメリカでも導入を拒否し始めている。

 8.石原慎太郎氏は判断を間違えている。
   SAPIO(6月号)で石原氏は「太古から世界の人材と文化受け入れてきた日本の寛容を知れ」と言っている。氏は25年前から似たようなことを言っているが、勘違いしている。二千年にわたって少数づつ入ってきた技術者などと、今、地球の人間大移動期、イスラム教徒と中国人の大量移動の場合とは意味が違うので同一視はできない。
   それに、宗教的に包容力のある日本文化も、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、韓国儒教などの原理主義は基本的に受け入れていない。型どおりに包み込むが、歴史の中に取り入れず、歴史の片隅に置き去りにして行くだけだ。
   日本文化は選択している。大量の原理主義の導入は、日本文化の包容力を壊す恐れがある。
石原氏に再考を求める。」

 そして、西尾先生の司会により、パネリスト報告に入りました。

 パネリスト五氏の報告は、いずれも現実を具に見据えた視点から問題の本質を鋭く指摘するものであり、憂国の熱誠と相俟つ熱弁に満場の観覧者も文字通りざわめき一つなく熱心に聴き入り、結節毎に拍手で応え、場内の熱気と凛とした緊張感は高まり続けました。途中15分の休憩をはさみ、後半のフリートークに入ってパネリストの熱弁は更に舌鋒の鋭さを増し、聴衆もパネリスト達と一体化して呼吸する空気を、聴衆の一人として筆者もヒシヒシと感じました。

 やがて、トークライブも終演に近づき、司会者の西尾先生が、パネリスト達の諸提言を素早く集約され、次の8項目にまとめて、力強く再度読上げられました。

1.外国人受け入れ政策は、諸外国の事例を踏まえるべきであり、国民的議論なく進めることは認められない。

2.外国人単純労働力の受け入れ拡大は、日本の移民国家化と同じである。(国連における移民の概念は、1年定住)

3.高度人材の受け入れ要件と審査こそ、その厳格化を必要とする。

4.外国人労働力の受け入れ拡大は、国内労働者の賃金を下げ、格差社会を拡大するため、景気回復にはつながらない。

5.労働力不足は日本人だけで解決することができる。

6.日本在留者の犯罪検挙率・犯罪検挙数・犯罪検挙人口が国別で上位3カ国の出身者については、特に厳格な受け入れ基準を設けるべきである。

7.移民政策は少子化対策・人口問題の解決にはならない。

8.移民問題は、国防問題にほかならない。

 観覧者の少なからぬ方々がこの8項目を書き留める姿を筆者も目撃し、また、大きな拍手により、満場が賛同の強い意志を表したことを筆者は確認した思いでした。そして、残り時間も僅かとなって、ようやく質疑応答の時間となり、少なからぬ方々が挙手をされましたが、当てられたのは数人の方々で、斉しくパネリストに謝意を表した後「これらの提言は具体的に政府に建白すべきである」「何故、政府が外国人労働者の受け入れを閣議決定し、法案成立に向けて画策していることをマスコミは積極的に報道しないのか」と云った厳しく鋭い真摯な質問も相次ぎ、西尾先生をはじめ壇上のパネリストの先生方も大いに意を強くされたことであろうと、また、会場に参集された方々のご見識と憂国のご熱誠も本当に高いものであったと、筆者も深く感じ入ったところです。

 その気運を反映されてか、終演の挨拶において主催者も「今後、産経新聞においても、雑誌「正論」においても、特集を組んでこの問題に関する国民的議論にしっかりと取り組み、向かい合ってゆく」旨を言明されるところとなり、移民問題連絡会 代表の西尾先生をはじめとする諸先生の堅固なご決意とともに、この運動の行く手に確かな光明を見出した、そのような思いを筆者も強く感じた次第です。

 而して、降壇される西尾先生達パネリストの諸先生を、満場の観覧者は万雷の拍手で見送り、トークライブは大成功裏にお開きとなりました。

 あらためて、壇上で熱弁を奮われた西尾先生と気鋭の論客諸先生達に、またこのトークライブを企画・運営された「正論」の小島編集長達に深甚の敬意を表し上げ、そして、それを支えられた編集室のスタッフの方々、坦々塾の有志の諸兄に深く感謝を申し上げて、ご報告の筆を擱くことといたします。
以上

西尾追記

三橋貴明氏の以下の新刊本を推薦します。

移民亡国論: 日本人のための日本国が消える! (一般書) 移民亡国論: 日本人のための日本国が消える! (一般書)
(2014/06/27)
三橋 貴明

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無能なオバマはウクライナで躓き、日中韓でも躓く(四)

 気鋭の歴史研究家、渡辺惣樹氏が『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』(草思社)という日米開戦に関する新しい観点の一書を世に問いました。フランクリン・ルーズベルト大統領の戦争責任に関する、アメリカにおける論争史を整理したような内容です。ジェフリー・レコードという国防政策の専門家が分析し、二〇〇九年に発表した開戦に関する文書、「米国陸軍戦略研究所レポート」と題されていますが、これを渡辺氏が翻訳し、自ら詳細な解説を付して二部構成の書物に仕立てています。解説の方では当時のアメリカの世論の動向をていねいに説明し、ルーズベルトの功績を高く買ってその戦争指導は大筋において正しかったと評価する従来の説と、そこに陰謀やソ連への無警戒、悪夢のような冷戦、共産国家中国を作ってしまった罪責などを見届けようとする否定的な説、前者を「正統派」とすれば後者は「修正派」と呼ばれていますが、この二つの織りなす解釈の流れを語っています。

 歴史観にはやはりこのようにオモテとウラがあります。オモテは最初に公認され、通説として確立されて根強いのですが、ウラも無視できず、ウラが有力な証拠を突きつけて、通説を破壊し、少しずつ習慣化したオモテの公認史観を修正し、色を塗り替えていくプロセスは、日本の戦後史のようにオモテが硬直化し、観念化し、動かなくなってしまったのと違って、大変に参考になります。

 先述の「米国陸軍戦略研究所レポート」は基本的には「正統派」に属するのですが、日米開戦に関しては「修正派」の立場でもあり、その結論はルーズベルトが過重な経済制裁を加えて日本を「戦争か、アメリカへの隷属か」の二者択一へと追い詰めた外交政策に開戦原因の一半があったと見る方向の考え方を大胆に検証したものです。

 最近はフーバー大統領の回想録やビーアドの『ルーズベルトの責任』等により、この方向を模索する動きは勢いを得ていますが、だからといって現民主党政権内のオバマ大統領やケリー国務長官やサキ報道官の頭の中まで変えるにはまだ至っていません。第二次大戦の戦争責任はアメリカにもあった、と認めさせることはいつの日か可能でしょうが、アメリカにこそあった、と認めさせることは恐らく容易ではありません。まして慰安婦問題を持ち出せばこれは人権問題だ、と別件扱いされるでしょうから、戦争責任の問題(「侵略」の概念の問題)に結びつけるのは得策ではないと思います。(という意味は河野談話と村山談話は別テーマだということです。)

 渡辺氏の本の結論にさながら符合するかのごとく、私の最新刊『GHQ焚書図書開封9』(徳間書店)は『アメリカからの「宣戦布告」』という題で、三月三十一日付で刊行されたばかりです。開戦の直接の原因となったアメリカによる経済封鎖の実態、石油、鉄と屑鉄、非鉄金属、機械類などの禁輸、船舶航行禁止、そして最後に資産凍結に至った、日本人が今やすっかり忘れてしまった恐怖の日々の実相を伝えた内容の本です。あのときの世界情勢の中での、アメリカの暴戻と戦争挑発、ぎりぎりまで忍耐しながらも国家の尊厳をそこまで踏みにじられては起つ以外になかったわが国の血を吐く思いを切々と訴えた、貴重な記録となった一冊であります。

 いま読者の注意を促したいのは単にこの本自体のことではなく、渡辺さんの本と私の本との二冊の開戦動機の内容の接近です。私の本は昭和十八(一九四三)年刊行の古書に依拠しています。「米国陸軍戦略研究所レポート」は二〇〇九年に書かれ、渡辺さんの著作自体は二〇一三年刊です。ルーズベルトの過酷な経済封鎖に開戦の原因を見出している点で両者は共通しています。細部はいま措くとして、六十六年という長い歳月を間に挟んで、歴史は敵味方を越えて同じ現実を露呈させつつあるのが興味深いのです。あの過去は政治ではなく、だんだん歴史に、本当の歴史になりだしているのです。

 敗者が体験していたものが真の現実で、永い間勝者がそれを蔽い隠してきました。勝者のプロパガンダが真相に蔽いを掛け、敗者は法令、教育、放送、言論などを通じて、現実にあったことは考えてはならない、言ってはならないこととして、「洗脳」を強いられてきました。オモテがウラを押し隠してきたのです。そのため日米開戦については最初のうちは敗者の挑発であり、犯罪であるとされ、やがて少し時間が経っても敗者の失敗か愚行であったと言われつづけ、いまだにそのようなマインドコントロールが色濃くて、一定の締めつけを続行しているのですが、時間とはこわいもので、勝者もまたウラを覗くようになります。オモテの胡散臭さに耐えられなくなるからです。

 ただしすべての戦争がこのような経過を辿るとは考えていません。ナチスとの戦いでは右のようなことは言えないでしょう。日米戦争は欧州大戦とは異なります。戦勝国アメリカの側に日本に対する戦争目的そのものの曖昧さの自覚があり、第一次大戦後のパリ講話会議より以後に日本を一方的に追い込んだ外交上の無理強いの自己認識があるのだと思います。というのも対独戦争の記録は開戦前からほぼすべて公開されたのに、対日戦争の記録は外交も軍事も含めて未公開のものが多く、どのくらい蔵されているのかも分らないほどです。なにか表に出したくない理由が英米側にあるのだ、と国際政治学者は言っています。後めたさがあるのでしょう。全部公開されたらウラがすべてオモテになり、東京裁判の悪行が白日にさらされることになるのではないでしょうか。

 そういうわけですから日本人は自分の歴史に自信をもってよいのです。私がGHQに没収された古書の文字をこつこつと拾い出しているのは、そこからは愚直な声、真実の響きが聞こえてくるからです。例えば東欧やフランスのナチ協力者は民族への薄汚い裏切り者とされますが、アジア各国の旧日本軍の協力者は各民族の愛国者であり、戦後も民族国家の建設に邁進した人々です。もうそれだけで二つの敗戦国は決定的に違うのです。

 最近のドイツが中国や韓国の口車に乗って反日プロパガンダに興じるのは哀れな自己欺瞞です。ホロコーストは今の自分たちとは関係ない、あれはナチがやったのだと言ってドイツとナチを区別したがる彼らは、他の国の歴史の中に悪の道連れを無意識に欲しているのです。そういう苦しいドイツ人を利用しようとする中国人や韓国人のほうがよほど悪魔的ですが、最近ではユダヤ人の発言に、ホロコーストと慰安婦とを同一視されるのはたまらない、いやだというクレームをつける向きがあるそうです。それはそうでしょう。ナチスドイツはルーマニアやポーランドからの若い女性の強制連行も軍が直接手を出した慰安施設の経営管理もやっていましたが、そのていどのことはホロコーストの惨劇に比べれば影が薄く、戦後だれも問題にしませんでした。常識は物事のバランスや程度をつねに秤りにかけて考えます。いまアメリカ政府が韓国の主張にもならない主張を使って日本の不満を抑えにかかろうとするのは、考えによれば中国人や韓国人よりも悪魔的なことなのかもしれません。

 日本は外交上の戦術を考えるべきです。ワシントンで安倍首相に日本人の名誉のための記者会見を開いて欲しいという渡部提案に私は先に賛成しましたが、このほかにも日本が意図的に打って出すべき主張はあります。戦前から人種平等の精神を謳っていたわが国政府はユダヤ人排斥に政府として反対でした。五相会議で「猶太人対策要綱」を国策として決定しましたが、これを主導し提案した人は板垣征四郎陸軍大臣(A級戦犯)でした。また、ユダヤ人問題ベテランの安江仙弘陸軍大佐や樋口季一郎陸軍少将の行動をドイツ外務省の抗議から守って、ユダヤ人擁護に道をつけたのは東條英機(A級戦犯)や松岡洋右(A級戦犯)でした。くりかえしますが日本は国策としてユダヤ人排斥に反対していたのです。杉原千畝はただそれに従っていただけで、勇気ある個人的善行であったとは必ずしも言えません。杉原の行動はそれはそれで立派ですが、戦後日本の外交当局が東京裁判をひたすら恐れて、史実の全貌を示さず、杉原の個人芸を強調したために、国家としての日本の名誉は失われました。また過去の指導者たちの天に恥じない義に従った行動が曲げられてしまいました。日本政府はユダヤ世界とユダヤ人の多いアメリカ社会に向けて右の史実を明瞭な言葉で公表し、併せて東條英機をヒットラーとするたぐいの中国韓国にはびこる妄論を一掃していただきたい。

無能なオバマはウクライナで躓き、日中韓でも躓く(三)

 安倍首相は三月十四日に参議院予算委員会で河野談話を安倍内閣において見直すことはないと表明しました。さらにこうも述べたといいます。「慰安婦問題については筆舌に尽くしがたい、辛い思いをされた方々のことを思い、心が痛む」。また村山談話についても「歴代内閣の立場を、引き継いでいる」と。今までのご自身の意向をとり下げ、すべての期待をもひっくり返す驚くべき発言といわざるを得ません。海外で献身的に慰安婦像の取り下げ運動をしている愛国者たちに日本政府は合わせる顔がないでしょう。

 同じ方針を菅官房長官は十日に公表していました。アメリカ国務省のサキ報道官は十日の記者会見で、安倍政権が「河野談話を支持する立場」を明らかにしたとの認識を表明し、韓国を念頭に近隣諸国との関係改善に向けた「前向きな一歩だ」と評価したのです。そして「今後とも過去の歴史に起因する問題に取り組むよう日本の指導者に促していく」とも述べたというのです。

 菅官房長官は十一日の記者会見でこれを承けて、河野談話の継承はたびたび述べてきた通りだと重ねて強調し、さらに「決着した過去の問題が韓国政府から再び提起されている状況なので、しっかり(談話の作成過程を)検証する。国会から要請があれば、調査結果の提出に応じる」とも言っています。十二日には検証の結果にかかわらず、談話を見直す考えはないとも補説しました。同日斎木外務次官が韓国を日帰り訪問しました。参議院予算委員会における首相の十四日の正式発言はこれら全部を承けています。

 韓国がアメリカ国内のいたるところに慰安婦像や石碑を次々と乱立させようとしていることは周知の通りです。さらにフランス国際漫画祭での日本侮辱の展示、ハルビン駅頭での安重根の記念館の開設、ユネスコ・世界記憶遺産への性奴隷犯罪資料の登録や記念日制定の推進、など今や国や手段を選ばぬ狂乱ぶりです。中国もこれに歩調を合わせ、世界五十ヵ国の外交機関で、靖国参拝はナチスの墓詣りに等しく、東條英機はヒットラーと同じであるとの国際キャンペーンを展開しました。習近平はドイツ訪問に際し、ホロコースト施設訪問を希望し、そこで日本誹謗演説を企てましたが、さすがこれはドイツ政府から拒まれました。

 中国の歴史非難は、日米間に楔を打ち込む政治意図があり、韓国をそこから切り離し、引き戻そうとするのがアメリカ政府の思惑でしょう。ただ動機があるていど読める中国と異なり、韓国の心理状態はすでに病的です。日本が謝罪し後退すれば対日攻撃はこれに反比例し、笠に着て増大することは経験上明らかです。日本の忍耐は限界に達している近年の異常ぶりは、果たしてオバマ大統領にきちんと伝えられているのでしょうか。サキ報道官の言葉から伺い知る限り、アメリカ政府は困難を理解しようとする気がなく、東アジアの現実をひどく軽く考えているように思えてなりません。そしてただ日本にだけ過重な心理負担を要求するのであれば、今まで協力的だった保守的国民階層のアメリカ離れはさらに急速に進むでしょう。

 日本政府は河野談話を検証はするが見直さない、と言ったわけですが、これはいったいどういう意味でしょう。安倍氏は第一次内閣と同じようにまたまたへたれたということでしょうか。「戦後レジームからの脱却」はどうなったのでしょう。ここが踏ん張り所ではないのですか。

 サキ報道官は日本の決定を「前向きな一歩」と評価しましたが、日本とアメリカは価値観は同じではありません。日本の歴史認識は日本人が決めるのです。サキ氏の物言いは傲慢です。われわれは単に自国愛と自尊心からのみ言っているのではなく、中国と手を組んだ韓国の度重なる対日侮辱は、日米韓の防衛協力を不可能にするようなていのものです。敵性国家はどこかを新たに露呈させました。日韓両政府の非公式協議で日本側の一人が、半島有事が起きたとき日米安保の事前協議において、日本は米軍が日本国内の基地を使うことを認めないこともあり得ると発言したとき、韓国側は凍りつき、言葉を失ったといいます(産経新聞三月十八日)。日米同盟の対策を根本から練り直さなければならないような現実の変化が起こっているのです。北朝鮮有事に際し、韓国は中国側に寝返る可能性が高いのです。ロシアの不安な心が事前に読めなかったオバマ大統領は、日本の不安な心もまったく分らないのかもしれません。

 日本の側も黙っていては何も動きません。渡部昇一氏がいい提言をしています。安倍首相自身がワシントンに行って会見を開く。事前に慰安婦に関する想定問答集をつくって研究し、効果的な応答の仕方を準備し、世界中のテレビや新聞の質問に答える。渡部氏は言います。「安倍さんが断固として発言する。そうしなければ日本の名誉は永久に回復されないでしょう」(渡部昇一・馬渕睦夫『日本の敵』飛鳥新社)

 私も賛成です。安倍さんならできる。首相の弁論能力を高く評価しています。問題は腹を括って決断できるか否かの一点です。

 慰安婦問題と尖閣の防衛問題がいま同時に現われたのは偶然ではなく、韓国と中国を用いてアメリカがあらためて敗戦国日本を抑えたがっている点に問題の本質があるのです。

つづく

無能なオバマはウクライナで躓き、日中韓でも躓く (二)

無能なオバマはウクライナで躓き、日中韓でも躓く (一)

 オバマ政権は世界が見えなくなっています。世界の中の何が重要かつ肝心なポイントであるか、自分の権能の及ぶ範囲はどこまでで、どこから先に仮に力が及ばないならきちんと計算して予防措置の先手を打つべきではないか、というようなことが分らなくなっているのです。

 韓国が昔とは違った国になっていて、中国の従属国に自ら進んで転じたことに日韓問題の新局面があることにオバマ氏は気がついているのでしょうか。イスラエルとパレスチナほどではないにせよ、日韓の間にあるのは根の深い宗教トラブルです。両国には議会制民主主義という制度上の共通点があるから、四月自分が来訪するまでに日米韓の首脳会談が開けるように調整せよ、と簡単に言って来ているのは、オバマ氏が冷戦思考にとらわれている証拠です。日韓の間に共通の価値観はありません。中国と韓国の間には恐らく一定の共通の価値観はあるのでしょう。

 オバマ氏の認識の低さはウクライナの失敗にもはっきり現われました。ウクライナの国家主権の統一を守りたかったのなら、ロシアの立場を著しく脅すような、冷戦の勝利に余勢を駆った一九九〇年代以来の西欧側からの攻勢を、アメリカは一定段階で停止し、手控えるべきでした。NATOの拡大や東欧のミサイル防衛システムの敷設などがみられるたびに、そのつどロシアはいらいらして反発し、抗議しましたが、アメリカはずっと黙殺しました。ウクライナはもともと緩衝地帯で、ロシアの影響を排除することはできない国家です。NATOやEUに参加するのを欲しているのは都市住民で、農民は必ずしも望んでいないと聞いたことがあります。ウクライナはしかも農業国家です。ロシア嫌いの住民が比較的多い西部地域で反ロシアのデモが起こったとき、オバマ政権はこれを支持するという間違いを犯しました。一気に火が点いて、ヤヌコビッチ大統領の追い落しが起こって、後もどりができなくなってしまいました。これ以上やればロシアは自らの地勢学的権益への脅威がぎりぎり限界を越えたと感じる怯えであろう、などと前もって想像できる親露派の知性が、オバマ政権の内部にはいないのです。日本に対してもそうでしたが、外交はいつも単眼的なのです。

 アメリカは武力財力ともに充実していた一極超大国の幻想の中にまだひたっています。しかもそれでいて本気でロシアを抑える軍事行動などを考えてもいません。その足元をロシアに見抜かれていました。口先で言うだけで何もしはしない。シリアへの軍不出動でみせたオバマの逃げ腰はプーチンに読まれています。そこで二言目には経済制裁を言うのですが、ガス・パイプラインを握られている西欧諸国がアメリカの望むような規模で制裁に同調するとは思えません。ロシア軍はクリミアの併合にとどまらず、アメリカの出方ひとつで、場合によってはウクライナ西部を侵攻し、全土を掌握することだって考えられないことではありません。
 要するにアメリカの失敗は、ロシアの強硬姿勢を予想していなかったことです。つまり相手を甘く見てなめていた。国境近くに迫る防衛上の脅威にはどの国も敏感で――クリミアも沖縄もその点では同じ――万難を排して予防に走るのを非難できないこと、等々にオバマ政権の理解が行き届かなかった迂闊さにあります。かつてキューバ危機で恐怖の挑戦に応じたアメリカが、ロシア側を不安にした「クリミア危機」を想像できなかったのは、ヘーゲルもケリーも焼きが回っていたとしかいいようがありません。ソ連崩壊後のロシアはもう大国ではない、と安易に考えていたに相違なく、プーチンの登場で国際政治上の立つ位置が変わりつつあるのを、考えていなかったのでしょう。

 国際政治は刻々動いていて、大国と大国、大国と中小国との力のバランスの関係も微妙に揺れつづけ、変動しています。それゆえ国際情勢の鏡に自分を写して自分の位置を知るのは難しく、日本人にはとくに苦手だといわれ、アメリカを鏡にしてわれわれは戦後、外交上の行動計画を立てていたわけでしたが、その頼みとなるアメリカが今や当てにできません。安倍首相が政権発足以来、世界中を飛び回る外交活動をくりひろげてきたのは、アメリカという基軸のこの不安定のせいでしょう。同じようなアメリカへの不安を、トルコ、サウジアラビア、エジプト、イスラエル等々も感じています。ロシアの地位が相対的に上っているのもそのせいで、ロシアに安倍首相が早くから敏感に反応しているのもその同じ不安のゆえでしょう。先に名を挙げた「戦前生まれの保守重鎮」の面々が現役であった時代には、アメリカという基軸は安定していました。自民党は「親米保守」の単一路線の上を迷わずに黙って歩んでいけばよかったのです。しかし今はそうは行きません。安倍首相のご苦心のほどが察せられますが、ウクライナ問題で躓づいたアメリカの外交知性がアジアにおいて再び同じ躓きを演じはしないかが心配です。

 オバマ政権にはまともな「知日派」がいないようです。政権はほとんどすべて「親中派」で固められているのではないでしょうか。アメリカは中国からG2時代の到来だといわれ、太平洋は米中二国で共同管理するにふさわしいなどとふざけた言葉が飛び交わされる中で、鷹揚で融和的な姿勢をとりつづけています。

 三月十九日時点で、中国はウクライナ問題について明言せず、米露の動きを固唾を呑んで見守っています。アメリカは中国を見方につけてロシアを少しでも牽制したい。しかしプーチンの力による国境変更に有効な手が打てず、これが既成事実化するなら、中国の力による尖閣や南シナ海の現状変更に道を開くことになるでしょう。アメリカはじつは今、歴史の曲がり角に立っていて、いつの日にか起こり得る中国との大規模な衝突のテストケースを迎えているのです。

 それなのにオバマ政権は複眼で見ていません。ウクライナに気を取られて、中国の力を借りてロシアを抑えようとして、アジアで妥協し、ずるずると日本に不当な仕打ちをしかねません。アメリカはロシアに対して経済制裁が可能でしたが、米国債の最大の保有国である中国にどんな制裁の手があるのでしょうか。ここまで中国を経済的に肥大化させたのもアメリカの責任です。

 クリミアに軍事的に手出しができないアメリカが西太平洋の小さな無人島のために、いかに条約上の約束があるとはいえ、率先して介入するとは思えません。日本は自分の国土を自分で守る以外にない、待ったなしの瞬間を迎えつつあるのです。

つづく

渡辺望による全集九巻の感想(四)

 これは文学論から離れる内容で、補足的な感想なのですが、全集の後半、掌編の部分での『トナカイの置物』がとても面白く、上質の短編小説を読むような気持ちにさせてくれました。この文章は西尾氏・加賀乙彦氏・高井有一氏の三人のソビエト旅行でのある断片を描いたエッセイです。ロシア文化圏というところは本当に不思議で、こんな愉快な旅行が全体主義国家の支配下で可能だったことがとても信じられない。実に面白い楽天家のソビエト作家なんかも登場します。しかし何といってもロシア文化圏での大きな存在は酒でしょう。ロシア文化圏には欠かせない存在であるこの酒に楽しく翻弄されながら、いつのまにか氏たち御一行が、ロシア文学の世界の一齣を形成していってしまう、つまりロシア的雰囲気に飲み込まれていってしまう様が、鮮やかにわかる気がします。

 そのエッセイにこんな西尾氏の文章があります。

・・・ウォッカは人間を激昂させるなにかを持っているようだ。普通の酒とは少し違う。これを飲んでいると、ある瞬間からにわかに人が変わったようになる。しかも突然走り出したい衝動に人をかき立てる。ドミートリ・カラマーゾフがウォッカに激発されて、唐突に馬車を駆って走る場面があったように思うが、ウォッカ、それもロシア産のウォッカを飲まなければ、この気分は分からないのかもしれない。

「全集九巻」p486 

 旅行途中のある晩、この文章の説明の通り、ロシアウォッカを飲んだ西尾・高井・加賀の三氏はなぜだかわからないうちに深夜の街中を走り出してしまう。走り出して、まだ走りたりなかった西尾・加賀の両氏は、これまたなぜだかわからないのですが、相撲を取って、水溜りの中に転落した加賀氏は泥だらけになってしまうのでした。私は読んでいて心底、大笑いしました。

 またある日、グルジア産コニャックを嗜んだ三人の中で、加賀氏の様子がおかしくなる。そして、次のような場面になります。

・・・さらに暫くして、加賀さんが立ち上がった。ロシアのツァーリズムについてひとしきり弁舌した。ペトロパヴロフスク要塞監獄の印象がよほど強烈だったのに違いない。加賀さんは「俺は皇帝だ」といきなり、思いがけない言葉を口にした。それでも私たちは冗談だと思っていた。酔っているには違いないが、こういう紅潮はつねづねのことだった。それから加賀さんは自分の靴、帽子、万年筆、私のカメラ、鞄、買物袋、高井さんの上衣、シャツ、靴下、何でも手当たり次第に、空いている壁の下に持っていって、次々と並べ始めた。室内にあるものは誰のものであれ、もう彼には区別がつかなかった。しかしそれらを整然と並べることにかけては、不思議なことに乱れがなかった。高井さんがようやく起き上がって、おいどうしたんだ、止めろよ、と大きな声を上げた。加賀さんは「俺は皇帝だ」と再び言った。「見ろ、こいつらは囚人たちだ」。そう言って壁に整然と立てかけて並べたいっさいの物を指して叫ぶのだった。

「全集九巻」p488  

 加賀氏はとても優しい、責任感のある人物で、このとき壊してしまった西尾氏の骨細工のトナカイの置き土産を弁償するために翌日、西尾氏の制止にもかかわらず街中を歩きまわったといい、そのとき弁償してくれた置物はまだ西尾氏は大事にしているといってこのエッセイは終わります。終わってみればなんとも微笑ましいお話です。

 私は加賀氏の作品のよい読者ではありません。彼の作品では『宣告』と『湿原』と『フランドルの冬』、あとは彼のいくつかのドストエフスキー論を読み、それを下敷きにした解説をテレビで観たことがあるくらいです。しかし『フランドルの冬』に出てくる、まるでヨーロッパの内面そのものをあらわすような貴族出身の怪医師ドロマールは20代はじめの私の心に強い衝撃を与えたことがありました。メディアで観るときの優しい加賀氏の観念の中には、ドロマールや、あるいはドストエフスキーの世界のキリーロフやスタブローギンがひっそりと『住んでいて、ロシアの酒に触媒されて、ふと息を吹き返したのかもしれません。この全集感想で述べたように、小説家は自らが筆を起こした小説の時間・歴史の中へ、いつのまにか自己意識を見失ほどに取り込まれていき、そして最終章で再び自己意識に戻る、という意識の明晰と不明晰のドラマを演じる資質が必要とされます。不明晰のうちに住んでいる何かの謎めいた観念がなければ、人は文学などというものなんてやる必要はない。しかしそれがある人は、いつまでも文学に取り付かれる。そのことは近代文学でも、おそらく非近代文学でも同じだと思います。そういう意味では加賀氏は、実はもっとも小説家らしい小説家なのかもしれません。このさりげないソビエト旅行エッセイもそのような文学論の一つだといったら、大げさにすぎるでしょうか。