渡辺望による全集九巻の感想(四)

 これは文学論から離れる内容で、補足的な感想なのですが、全集の後半、掌編の部分での『トナカイの置物』がとても面白く、上質の短編小説を読むような気持ちにさせてくれました。この文章は西尾氏・加賀乙彦氏・高井有一氏の三人のソビエト旅行でのある断片を描いたエッセイです。ロシア文化圏というところは本当に不思議で、こんな愉快な旅行が全体主義国家の支配下で可能だったことがとても信じられない。実に面白い楽天家のソビエト作家なんかも登場します。しかし何といってもロシア文化圏での大きな存在は酒でしょう。ロシア文化圏には欠かせない存在であるこの酒に楽しく翻弄されながら、いつのまにか氏たち御一行が、ロシア文学の世界の一齣を形成していってしまう、つまりロシア的雰囲気に飲み込まれていってしまう様が、鮮やかにわかる気がします。

 そのエッセイにこんな西尾氏の文章があります。

・・・ウォッカは人間を激昂させるなにかを持っているようだ。普通の酒とは少し違う。これを飲んでいると、ある瞬間からにわかに人が変わったようになる。しかも突然走り出したい衝動に人をかき立てる。ドミートリ・カラマーゾフがウォッカに激発されて、唐突に馬車を駆って走る場面があったように思うが、ウォッカ、それもロシア産のウォッカを飲まなければ、この気分は分からないのかもしれない。

「全集九巻」p486 

 旅行途中のある晩、この文章の説明の通り、ロシアウォッカを飲んだ西尾・高井・加賀の三氏はなぜだかわからないうちに深夜の街中を走り出してしまう。走り出して、まだ走りたりなかった西尾・加賀の両氏は、これまたなぜだかわからないのですが、相撲を取って、水溜りの中に転落した加賀氏は泥だらけになってしまうのでした。私は読んでいて心底、大笑いしました。

 またある日、グルジア産コニャックを嗜んだ三人の中で、加賀氏の様子がおかしくなる。そして、次のような場面になります。

・・・さらに暫くして、加賀さんが立ち上がった。ロシアのツァーリズムについてひとしきり弁舌した。ペトロパヴロフスク要塞監獄の印象がよほど強烈だったのに違いない。加賀さんは「俺は皇帝だ」といきなり、思いがけない言葉を口にした。それでも私たちは冗談だと思っていた。酔っているには違いないが、こういう紅潮はつねづねのことだった。それから加賀さんは自分の靴、帽子、万年筆、私のカメラ、鞄、買物袋、高井さんの上衣、シャツ、靴下、何でも手当たり次第に、空いている壁の下に持っていって、次々と並べ始めた。室内にあるものは誰のものであれ、もう彼には区別がつかなかった。しかしそれらを整然と並べることにかけては、不思議なことに乱れがなかった。高井さんがようやく起き上がって、おいどうしたんだ、止めろよ、と大きな声を上げた。加賀さんは「俺は皇帝だ」と再び言った。「見ろ、こいつらは囚人たちだ」。そう言って壁に整然と立てかけて並べたいっさいの物を指して叫ぶのだった。

「全集九巻」p488  

 加賀氏はとても優しい、責任感のある人物で、このとき壊してしまった西尾氏の骨細工のトナカイの置き土産を弁償するために翌日、西尾氏の制止にもかかわらず街中を歩きまわったといい、そのとき弁償してくれた置物はまだ西尾氏は大事にしているといってこのエッセイは終わります。終わってみればなんとも微笑ましいお話です。

 私は加賀氏の作品のよい読者ではありません。彼の作品では『宣告』と『湿原』と『フランドルの冬』、あとは彼のいくつかのドストエフスキー論を読み、それを下敷きにした解説をテレビで観たことがあるくらいです。しかし『フランドルの冬』に出てくる、まるでヨーロッパの内面そのものをあらわすような貴族出身の怪医師ドロマールは20代はじめの私の心に強い衝撃を与えたことがありました。メディアで観るときの優しい加賀氏の観念の中には、ドロマールや、あるいはドストエフスキーの世界のキリーロフやスタブローギンがひっそりと『住んでいて、ロシアの酒に触媒されて、ふと息を吹き返したのかもしれません。この全集感想で述べたように、小説家は自らが筆を起こした小説の時間・歴史の中へ、いつのまにか自己意識を見失ほどに取り込まれていき、そして最終章で再び自己意識に戻る、という意識の明晰と不明晰のドラマを演じる資質が必要とされます。不明晰のうちに住んでいる何かの謎めいた観念がなければ、人は文学などというものなんてやる必要はない。しかしそれがある人は、いつまでも文学に取り付かれる。そのことは近代文学でも、おそらく非近代文学でも同じだと思います。そういう意味では加賀氏は、実はもっとも小説家らしい小説家なのかもしれません。このさりげないソビエト旅行エッセイもそのような文学論の一つだといったら、大げさにすぎるでしょうか。

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