吉本隆明氏との接点(一)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 私は吉本隆明氏の必ずしも熱心な読者ではなかった。書棚に『共同幻想論』や『自立の思想的拠点』などを置いているが、若い頃、食い入るように読んだという記憶がない。

 それでも、長い評論生活で吉本氏をときに賞賛し、ときに批判するという接点があった。そのまま幾例かを紹介する。要約ではなく、引用する。

 私が文芸雑誌に初めて書いた評論は、「政治と文学の状況」(「文学界」1968年9月号)で、ドイツ留学を終えて帰国した一年後、33歳であった。

(前略)政治の文学化という「政治主義」の立場ではなく、文学の政治化という「政治」の立場をいま一度文学化へと逆転するパラドックスをくぐり抜けない限り、政治を主題にしたあらゆる文学は所詮空しい政治主義文学に転落するであろう。という意味は、現在の日本で政治はここ当分文学の素材になりえないという意味に解してもよい。

 この点で、最近の雑誌の記事のなかで私が興味深く読んだのは、吉本隆明氏と高橋一巳氏との対談(「群像」昭和43年5月号)である。両者の間に微妙なズレがあって、最後まで平行線を辿っているのは、このパラドックスの自覚の有無にかかっている。

 端的に言えば、吉本氏にとって「政治」は自分自身の問題であって、他人の問題ではない。60年安保のときの氏の身をもってした「実行」と比して著しく目立つ最近の氏の政治的沈黙は、それがすでに無言の行動になっているのだが、氏によれば、ベトナムという他国の戦争は「原理的な関心をひかない」のである。日本では「他人の国で起こっていることについては、大いに関心を働かせ、かつ行動をするけれども、自分の国家権力のもとで起こっていることについては、あまり関心をもたなかったり、よく戦えなかったりという、伝統的な苦々しさがある」ためで、それを「自分がどうやって主体的に克服していくのかという問題」以外氏にはあまり興味がなく、「自分ができないならやるなということなんですよ」という以上、ベトナム反戦などは「あんなものはアブクみたいなもの」という揶揄にさえなる。

 ここの所が高橋氏にはどうしても解らないらしい。氏は反戦の動機に賛成なら、自分はなにも出来ないでもせめて応援の言葉をもって協力すべきだという文字通り、「政治主義」の態度を暴露しているからである。これでは政治をただ戦術的に顧慮しているだけであって、政治は自分の問題にはならないであろう。文学の原理に関わってこない。こういう態度は作品に必ず反映するものである。従って、高橋氏の『邪宗門』は、吉本氏によれば、「高度なインテリ向けの大衆小説じゃないかというような面白さなんです」という、まさしく適切な、「政治主義文学」の定義を与えられることになるのである。高橋氏にせよ、大江(健三郎)氏にせよ、誠実を売り物にし、思想と実生活の不一致に無自覚である点では精神のパターンはどこか共通しているように見える。

 むろん作品には手のこんだ複雑な意匠がほどこされている。知識人の苦悩をさながら検察官のように冷やかに追及する高橋氏はいかにも苦しんでいるようにみえるが、そのじつ作者はいささかも傷ついていない。むしろ作品の人物の苦悩で、作者が自分の誠実を正当化し、救済しようとする手付きが私には先に見えてしまう。が、詳細な作品分析は後日に譲りたい。

 いわゆる教養人の偽善に対して吉本隆明氏にはそもそも自分の苦悩に対する感傷はなく、はるかに男性的で、ひたむきである。非寛容であっても、不誠実ではない。国家という原理を超えようとする氏の自由への無限の意志は、中途半端な、曖昧な立場をことごとく破壊して進む。が、政治と個人道徳とを同次元に置く吉本氏には、ただ無を意志するのでないのなら、どこかやはり政治の「善」を信じているところが感じられる。氏がどんな「体制」をも信じないというのは勝手だが、「体制」に規定され、拘束されている氏の実生活のある部分を信じないわけにはいくまい。従って吉本氏における個人の完全自律への意志は、論理的に見れば、革命か、さもなければ自己分裂か、に行き着くほかないだろう。

 今日、希薄化した日本の空洞文化の中で、「政治」に激突しり生命感を文学化しようとすれば、かように論理的には初めから破綻している以上、自己錯乱に直面するか、共同社会にフィクションとしての神話空間を仮構するか、道は二つに一つであるように思える。吉本氏の最近の沈黙がこの前者になにほどか関係があり、三島由紀夫氏の神格天皇制の提出がこうした自己矛盾を克服するための必要に発しているのではないかという問題がある。芸術の政治化を「実行」しなければ、政治の芸術化もあり得ないという生の逆説に突き当たっている人は、戦時に青年期を送った世界の中では、ともあれこの二人を置いていないのである。

 人間にとって完全な自由、完全な自律はあり得ない。私は現代に生きる私自身の「自己」などというものを信じていない。私は自己の外に、もしくは自己を超えたところに、奉仕と義務の責めを負わねば「自己」そのものが成り立たぬことを考える。「体制」としての左翼を痛罵して止まなかった吉本氏が、今直面している困難は、絶対自我の追求者であった氏を支えているものはそもそも「敵」であり、身をもって孤立の代償を覚悟してなし得た実際行動であったことだ。その意味では「他」に抗して自分を支えるものである以上、それは消極的であることを避けられない。

 個人の完全自律への意志などは可能なことだろうか?それはほとんど狂気に境を接し兼ねぬ。(以下略)

 私は吉本氏における自立への悲劇的意志に感銘すると共に、その目指す方向の空漠たる無目的性に不安を抱いているのである。

つづく

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