『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(七)

 もしも現世を超えた彼岸にいかなる超越原理も存在しないとしたら、静止した永遠もまた存在しない。時間は円環をなし、万物は永劫に回帰する。インドにも古代ギリシアにもあった時間観念、ショーペンハウアーやニーチェにもひきつがれた想念が、著者によって、良寛や道元のことばの中に探索され、確認される。

 回帰する時間の構造は、極大、極小ともにかぎりのない空間の構造にも照応する。時間も空間も無限であるなら、いっさいの尺度はどこまでいっても相対的でしかない。

 自分は限りない微粒子から成り立っている以上、微粒子の一つ一つを宇宙とするさらに限りなく小さい自分が存在しないという保証はない。

 また自分をも微粒子とする宇宙が自分を包んでいる以上、その宇宙を微粒子とするさらに大きな宇宙が存在しないという保証もない。しかも極大へ向けても極小に向けても、いっさいが無限である。

 著者はこういう想念に驚きを覚えるとともに、ある慰さめを得ている。救いを見ている。それが大事である。

 しかも、著者は哲学者でも、数学者でも、物理学者でもない。ロジックは不徹底であるほかない。そこがまた魅力である。肝心要(かなめ)なところにくると、歌人としての詩的イメージが決め手になる。

 良寛の手毬遊びが紡(つむ)ぎ出す時空の深奥は「三千大千世界(みちあふち)」の名でよばれる。しかしそれは「雪」が降りつもる越後(えちご)の五合庵(ごごうあん)と切りはなして考えることはできない。

 「良寛の雪は、この円環をなして回帰する時間の隙間(すきま)隙間に降っている。時の沈黙を満して降っている。」

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

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