したがってこの小説の読みどころは、時代背景の描写でもなければ、魔性の女に振り廻される男たちの哀れさでもない。あくまで刑執行のリアルな場面の描写である。
しかも一回ごとに、執行者の心の変動に応じて違って現われる首斬りの諸相のさまざまな変化こそが――いかに恐ろしく目をそむけたくなろうとも――小説として読みがいのある肝心な個所であろう。
あるときは緊張しつつもうまく斬り、あるときは動揺して斬り損じ、またあるときは多数の罪人を一人で次々と無造作に斬っていく。
「斬首ということは無機物を機械的に斬るのではなく、人間が人間を斬るのであるから、斬る人間と斬られる人間とのあいだに一つ一つの場合でそれぞれ異なった心理的触れ合いが生じるのである。したがってつねに偶発性をともなって斬り手の心理なり感覚を揺り動かす事件が絶えない。」
立派な志士たちは従容として死を迎えたといわれる。ために彼らは斬りいいように斬られていく。
斬り手にかえって戸惑いが生じるほど立派な死に方をする人々を前に、斬り手の心が乱れ、刀が萎縮する場合があるという。
「だから志士という存在は、一番斬りやすくていちばん斬りにくい。つまり斬る者の心の戦いが生じるからだ」
というような著者の鋭い分析を混じえた、各斬刑の現場描写が、いっさいの理屈抜きで、この小説の眼目をなす。
ここには人間行為の直接性の最も極端な姿が描かれている。
と同時にこの作品は、初めに述べたように、殴られるだけですぐ倒れてしまうようなわれわれ現代人、反省と議論にばかり耽って自分ではなに一つ行為しないわれわれ現代人の生き方に対する批評にもなっている。
つづく
文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より