「斬」の解説(五)

 作者・綱淵謙碇氏は大正13年樺太の登富津(とうふつ)という漁村に生まれた。旧制新潟高校から敗戦の年の2月に陸軍に入隊し、9月に復員した。学籍はすでに東大に移っていたので、昭和21年4月から翌年3月まで大学に通ったが、学資がつづかず東京生活をやめ、新潟でそれから数年の間職を転々とし、物心両面の苦労がつづいたと聞く。

 昭和26年に大学に復学して英文科を卒業し、中央公論社に入社して、20年近くベテランの編集者として活躍した。編集者時代に谷崎潤一郎全集やエリオット全集を手がけたというが、前者は氏の作風に影響を与えているに違いない。出生の地が樺太であるせいもあって、幕末の樺太や千島といった北方の日本人の暗いロマンチシズムにも氏は強い関心を寄せていると聞くし、樺太を舞台にした大型の歴史小説『狄(てき)』(文藝春秋刊)もすでに書かれている。

 さて、本書を最後まで読んだ読者は、土壇場における死刑囚の血しぶきの匂いに、一方ではやり切れない思いを抱くのではないだろうか。

 さらにまた現代人の多くはこの本に少なからぬ現代的な疑問を抱くかもしれない。まるで殺人機械のように事務的に人間を斬首する山田家の人々は、彼らの日々の仕事に疑いをもつことはなかったのだろうか、というような疑問である。

 ことに幕藩体制が崩壊してから以降は、昨日の正義が今日の犯罪になるこの世の有為転変を、山田家の人々も目撃していた筈である。

 人の世の正義の相対性を、殺すも殺されるも時の運という政治の尺度のはかなさを、痛切に身に染みて経験する立場に彼らはいた筈である。

 とすれば、斬首が刑罰であるからといって、とくに国事犯の場合に、自分が直接に手を下して人を殺すことにいかなる道徳的な根拠もない。山田家の人々はそのことに苦しまなかったのだろうか。

 彼らは立派に死んでいく政治犯につねに最大の敬意を表している。彼らは死に場所での態度いかんが、志士や反逆者の器量を決めることを実際に目撃していた人々である。

 吉亮の斬った人の中には、斬るには惜しいと彼が思う人すらいたと述べられている。それなのに、山田家の人々を苦しめたのは、道徳的な根拠を求めての抽象的な煩悶ではなく、家業を奪われ、社会的地位を失いはしないかというきわめて即物的な不安でしかなかった。そこに現代人の多くはまず大きな疑問を抱くことと思う。

 さらにまた、斬る相手が、国事犯でなくても、人が人を殺すことを職業とすることへの、根源的な不安といったことが、浅右衛門一族に存在していないのはおかしい、とわれわれ現代人は考えたくなるであろう。

 斬られる罪人は勿論それなりの罪を犯している。しかし単なる性格の弱さが、凶悪犯罪を犯させる例があるし、動機の善良が、結果の悪行を生むという例もある。

 実際にこの本の、斬られた罪人の逸話の中にはそうした例が語られている。現代人は、だから当然のことだが、悪とは何か?絶対悪ははたして存在するか?といった抽象的な道徳論議を、法理論に重ね合わせて考える傾向をもっているのである。

 なるほど悪とは何か?という疑問に悩んでいてはおよそ首斬り刑の執行吏は務まらない。したがって浅右衛門一族に抽象的な道徳論、あるいは役人に関する宗教的な煩悶がなかったのは当然であるにしても、しかし作者にそういういわば形而上的な問題意識が欠けているのでは困ると考える人もいるかもしれない。人が人を殺すという主題を扱いながら、作者が人間の存在に関する根源的な問を提出していないのは、文学としてのこの本の最大の欠陥ではないだろうか、と。

 しかし前にも述べたとおり、以上のような抽象的な諸疑問は、この小説を成り立たせている領域の外にあり、これら諸疑問をきっぱり閉め出したところに、この小説の小説としての成立の根拠があるのである。

 勿論、読者が以上のような疑問を抱くのも一方では当然であるが、それはこの小説に対する最初からの「ないものねだり」である。むしろ作者がこうした疑問にかまけていたなら、この小説のもつ本来の長所は死んでしまうことにもなりかねなかったであろう。

 現代人が巻きこまれている思想的・道徳的・政治的なさまざまな反省、そういうものこそがかえって月並みで、ありふれていると、著者はおそらく確信しているに違いない。

 現代的な反省を拒否するところに、小説のリアリティを賭けてみようという思いが、おそらくこの著者の、題材に斬を選んだ最大の動機ではないかと思う。

 したがって浅右衛門一族は、政治によってどうにでも変わる正義の観念にも、、悪とは何かという宗教的な問にも疑問をもたない存在として設定されている。それがこの小説の強みである。

 人間をこのように単純な存在として限定することが、直接的な行為を描くこの小説の本来の目的である。

 私がこれは一種の「観念小説」であると先に述べたのは以上のような意味合いにおいてである。そのため小説『斬(ざん)』は、間接的・抽象的な生き方しか知らない現代のわれわれの文明を裏側から批評している小説になり得ているのである。

つづく

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より

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