「斬」の解説(四)

 幕末から明治にかけての歴史小説はこれまでも無数に書かれてきたが、その多くは英雄や志士の立場から書かれている。そうでない場合でも、時代の動向に対する正邪の判定が、すなわち歴史への評価が、なんらかの形で書きこまれていない小説は稀であろう。

 しかしこの小説にはそういう視点がまったくない。体制を譲るにせよ壊すにせよ、時代へのなんらかの価値判断がありうるわけだが、それを切り捨てたところにこの小説の独自の立脚点がある。

 体制がいかようであれ、斬刑を執行する精密な機械に徹することが、山田浅右衛門一族に課せられたプロとしての職業モラルであった。

 職業選択の可能性の閉ざされていた封建的階級制度下では、誰かが引き受けなければならないこのおぞましい家業を、ともあれ世襲として守り抜くことは一つの倫理ですらあったと思う。一族は社会的な屈辱に耐えながら、しかしプライドをもってこの仕事を守った。それは封建的体制下における一つの役割であったに違いない。役割に徹することにはなんらかの自足があり、安心がある。枠の固定した社会の中では、たとえ卑しまれた立場であれ、自分の分を守るということが、一番尊敬され、それなりの誇りをもちうるよすがにもなりえたのである。

 が、やがて新しい時代が来て、この一族を支えていた精神的支柱が崩れ去る。山田家が〈徳川家佩刀御試御用〉という役割を失い、明治に入って新政府の指示通りに、〈東京府囚獄掛斬役〉になるほかなくなったときに、この一族に荒廃の影がしのびこむ。

 小説を一読した方ならどなたにも明らかなことだが、この荒廃は外と内の両方からやってくる。すなわち廃刀令以来しだいに斬刑が時代遅れの刑罰とみられて、絞首刑にとって代わられていく外側の変化がその一つである。これにより一族が精魂こめて修業した、罪人に苦痛を与えない立派な斬り方という彼らの道徳はナンセンスになっていくからである。

 さらに加えて山田家の内側からひろがる荒廃は、父親の後妻となった素伝(そで)という若い女の存在によって引き起こされる。四人の兄弟はそれぞれ彼女によって感情の混乱の渦の中に置かれる。長男は不倫と放蕩に走り、次男は父に殺意をもって迫ったあげくに父に殺され、四男は家出をして、反政府運動の匂いのある強盗の集団に入る。一族はこうして外と内からしのびこむ荒廃の犠牲となり、運命に翻弄されて、四分五裂の状態に陥るのである。

 この崩壊の感覚が小説全体の主調音である。

 ところで素伝という女の特異な役割であるが、これはおそらく作者の小説的設定であろう。素伝は魔性あるこわい女として設定されているのに、肝心のこの女の描き方が不十分だという批評をある人が述べているのを読んだが、それは尤もな意見だと思う。

 素伝はたしかに魅力と魔性をかねそなえた女としては十分に描かれていない。作中の重要な位置に女を配することで、時代の変化による運命悲劇というこの小説の本来の主題がぼやけてしまうのではないだろうか。つまりこの点でありふれた小説の類型に近づいてしまう部分があることを私も読みすすみながらやはり残念に思った一人である。

 なるほど素伝という女を設定しないかぎり、小説はばねを失い、これだけの分量の長編小説にはなりえなかったかもしれない。しかし女の魔性をもち出すというあまりにも小説的な着色は、男性的な行為の極限を描く小説にはかえって不向きではなかったかと私は思う。

 吉亮の恋愛感情や個人的心理を、少なくとも刑執行の場面などからはできるだけ省いて、即物的な冷淡な描写に終始した方が、文学としての純度は高まったのではないだろうか。つまり歴史の重さの前で、個人の心理などはなにほどのものでもない。吉亮が女囚を斬るとき、母・素伝の幻影を斬っているというような心理的な説明が、私には小説的な空想でありすぎるように思えて面白くなかったのである。

 しかし、それはともかく、この小説は封建体制から近代社会への移行期を、いいかえれば人間が血や行為に直接的であった時代から、すべてが間接化していく文明社会への移行期を、特異な題材と視点をもって描き出した力作である。その功を買われ、この作品は昭和47年度上半期の第67回直木賞を受賞した。同じときに井上ひさし氏も受賞し、直木賞を分けあったが、選者からほぼ満票に近い圧倒的支持を受けたのはこの作品の方であった。

つづく

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より

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