「つくる会」の今への声

 本14日、命運を決する「つくる会」の理事会が開かれるもようです。コメント欄に大切な意見が出ましたので、ここに掲示します。

「つくる会」理事の皆様方へ

 小林会長が推し進めているいわゆる「三者協議」に於いて、さる11月21日扶桑社の片桐社長は以下の三点を小林会長と八木氏に申し渡したそうです。

(1)組織の一本化。
(2)藤岡氏と八木氏は教科書執筆者から降りること。
(3)教科書編集権は扶桑社にあり、それには執筆者選択権も含まれる。

この事は理事各位におかれましては既にお聞き及びかと存じますが、「つくる会」にとっては誠に由々しき事態と言わねばなりますまい。

 私たちは「三者協議」なるものの存在を知ったときから、「つくる会」が何故それに巻き込まれなければならないのか、合理的な説明を求めてきた事は、度々理事各位にお送りしたメールやFAXによってご存じのことと思います。

 しかしながら理事会は、理事会自身が合理的な判断を放棄したまま、小林会長に依る「三者協議」の既成事実化を付帯条件付きで追認してしまいました。

その条件とは(1)「つくる会」設立の趣意書に沿った教科書を作ること(2)藤岡氏を代表執筆者とすること、の2点でした。

 これを知った私たちは、なおも原点に戻って三者協議なるものに「つくる会」が参加しなければならない理由を会長はじめ理事会に問い続けましたが、今に至るまでどちらからも得心のいく説明を頂いておりません。要するに会長はじめ理事会自身に合理的な理由がないのだから説明など出来るはずもないと言うことでしょう。

 片桐社長が申し渡した三点を理事会はどの様にお考えになるか、本日12月14日は、この件につき討議なさる予定と伺っています。

編集権も執筆者選択権も失い、藤岡氏も代表執筆者から降りる「つくる会」とは如何なる存在になるのか、じっくり討論していただきたいものです。

 理事各位は扶桑社が何を「つくる会」に望んでいるのか既にお分かりでしょう。
「つくる会」ではなく「つくれない会」なのです。

保守合同してより良い教科書を作ろうなどという甘言に乗った理事各位の責任は、
「つくる会」十年の歴史を歩んだ先人達や、既に「つくる会」の教科書で勉強している子供達や、採択してくれた自治体に対して限りなく重いのです。

 この期に及んでも、扶桑社に期待を寄せる理事がいるとは思えませんが、もしも
その様な行動を採る理事がおられるならば、お辞めになることを勧告します。

聞くところに依ると、理事会に殆ど出席しない理事や発言しない理事が多数おられるとの事ですが、何の為に理事をおやりになっているのか胸に手を当ててとくとお考え下さい。「つくれない会」になっては理事も用済みとなるのですから。

 本日の会議では全員の理事が発言なさるべきでしょう。そしてその発言録を一般会員に公表してください。私たちはそれを次の行動の為の判断材料とさせていただきたいのです。

 最後に一言申し述べます。

扶桑社がこの時点で最後通牒とも言うべき三点を明らかにしたのは、不幸中の幸いでもあります。あやふやな条件を提示されたのでは判断も付けがたいでしょうが、
これほど明確な侮辱を浴びせられた以上は、戦うしかないでしょう。

先ずは扶桑社に三くだり半を突きつけ、この様な仕儀に「つくる会」を追い込んだ小林会長には責任を採っていただくのが筋ではありませんか。

「つくる会」の理念と使命をもう一度再確認し、既に一人歩きを始めた私たちの「新しい歴史教科書」を守るためならば、今が決断の秋です。

Posted by: 石原隆夫 at 2006年12月13日 23:35

長谷川様

通りすがりの部外者が無責任なことをと思われるかもしれませんが、長谷川さんが書かれたことについて海外在住(在米)のものがいつも思っていることを一言。

分裂は弱さではありません。個々の問題について、たとえ考え方が正反対であっても、『西尾幹二』が群雄割拠する国は強い国です。絶対にアメリカにも中国にもロシアにも負けません。
群雄割拠の『自由』を否定する人、八木前会長や岡崎久彦氏たちのような人たちがいる国が弱い国です。

自分たちが乗る、いい車を作ろうとするからこそ、本物の車ができるのではないですか?国内メーカーが群雄割拠して競争するからこそ外国と太刀打ちできるのではないですか?

どんな強大国が相手でも自国は自国民で守り抜く気骨のある国であって初めて外国とまともな同盟関係が結べます。弱小国(英国)が超大国(フランス・スペイン)に存亡を賭けて戦い抜いた、その悪戦苦闘のなかで生まれてきたのがインテリジェンスですよね。岡崎久彦氏のすることはインテリジェンスの根本に矛盾しているとは思われませんか?

アメリカは心のどこかで深く日本を軽蔑しているのです、共和党政権であれ民主党政権であれ。軍事同盟の代わりに経済権益の妥協を日本に強いているのではありません。軍事も経済もあくまで自国の利益にそうよう日本との同盟を利用しているに過ぎません。だから対中関係(米中関係)は日本とは何の関係もないのです。アメリカの国益に照らし合わせてアメリカが考えることです。六カ国協議事実上中断から北の核実験にいたる一年余りの(米中)交渉のなかで、台湾に次いで日本が米中間の取引の材料になったのではないかと恐れます。

六カ国協議も『つくる会』騒動も郵政民営化選挙もつながってます。在米の人間から見れば、西尾先生・お一人がそのことを見通して孤軍奮闘されているように見えます。

人間は(自らの運命と)戦って初めて自分が何者か、自分が命を賭けて守りぬくものが何か、そして先人が残した叡智の意味するところは何なのか思い知るのではありませんか? 

私は『つくる会』に戦い続けてほしいです。本来政治とは関係のない、そしてそうあるべき『つくる会』が、つまらない出版社の政治的プロパガンダとは手を切って、自ら出版社になって何が悪いのでしょう?

Posted by: 秋の空 at 2006年12月14日 06:08

>秋の空さま
お久しぶりです。

お書きになったこと、よくよくわかります。

でも、現在その「つくる会」本体が八木・扶桑社グループの思う方向に動いていっているようです。会員としてはあまりに残念です。

教科書を出版してよい会社は、義務教育に関してはとても高いハードルが課せられていることをご存知でしょうか?今手許に詳しい資料がありませんが、会社としての実績や社長の資産提示など、ポッと出の弱小新規出版社には教科書を作る資格がないのです。

つまり、扶桑社はすべてのカードを握っているのです。
そして、八木・岡崎グループと扶桑社・産経グループが限りなく親密なのです。

Posted by: 長谷川 at 2006年12月14日 09:20

「「つくる会」の今への声」への8件のフィードバック

  1. 石原隆夫さん、ありがとうごさいます。

    「つくる会」のその後が気になっておりました。

    「新しい歴史教科書」を守り抜きましょう!

    私達日本人には【奴隷根性】という遺伝子はない。

    自分の国の歴史を語るのに、きょろきょろと周りを見る癖はいつからついたのか。

    日本人が日本人でなくなったのか? 日本人の振りをする反日人、外国に占領されたままの心が今日まで続いているのか? 

    日本人だと思っていた人が日本人ではなくなっていた。それも日本人をやめなさいと誰かに厳命されたわけでないだろうに、英語を話す元外交官が、中国語を話す代議士が「日本国のためだ」といって戦勝国を、隣国を味方する。あぁ、私達の子供に背骨がバーンと一本通ってない人間の、小心者の、裏切り者の作る日本の物語をどうして語られましょうか。

    産経新聞といえば、かつては、中国共産党に北京を一番先に追い出された「背骨がバーンと一本通っていた」新聞。

    林彪事件(1971年9月13日墜落死)のあと中国共産党の妾となった朝日新聞。

    妾だから当然、朝日新聞だけが北京に残れた。秋岡・広岡両朝日人は自国を裏切ったやつ等と中国共産党に「○秘・蔑視ノート」があるとすれば明記されているだろう。そのうち扶桑社の片桐社長の名前も・・・喜んで載せるでしょう。

    私達は追い出された産経新聞を、ということは、社長以下そこで働く産経新聞の社員を見直し、ちゃんとした報道をしてくれる新聞だと期待したのです。なかなか一流新聞という評価のないまま・・・しかし社員はそれを誇りに記事を書く。当然、何を書くのか?と読者は興味津々になる。自虐史観と戦う新聞社と国民が認めるまでになったのです。

    1996年12月2日「新しい歴史教科書をつくる会」創設記者会見。

    今から10年前、西尾幹二、藤岡信勝、小林よしのり、高橋史郎、坂本多加雄、山本夏彦の6氏がマイクの前に座した。

    「新しい歴史教科書をつくる会」10年の歩みは、大変なご苦労があったでしょう。しかし目的意識がはっきりしているゆえに、やりがいのある仕事だったのではないでしょうか。勿論、扶桑社で働く方々にしても・・・。

    政府に代って、私達国民の胸のつかえを取り払ってくれる一大事業を「つくる会」と扶桑社は行ってきたのです。このまま行けばフジ産経グループは歴史に名の残る立派な新聞社を、出版社を誇れたのです。

    北京を追い出され闘ってきた誉れある新聞社は、魂と引き換えに、上海支局を開設して、これから何を書くというのでしょうか? それにしても中国という国は・・・・。

    信念がなくなったフジ産経グループが信念のない頭の若い八木さんを懐柔し、訳のわからない会の頭目に納め、渡辺記者の処分を出来ない訳も分かってきました。

    朝日毎日読売日経産経、5社談合。もう、読む記事はありませんね。

    新聞に載せない事件が世の中に沢山ある。その事件は世の中に存在しないと山本夏彦さんは言いました。今まさに世の中に存在しない事件だらけとなりました。

    新聞ってなぁ~によ。もはやレゾン・デートルのかけらも無い新聞。 

    産経新聞よ「復讐するは我にあり」という言葉をご存知ですか?

    中国で始まり(追い出されるほど立派に戦ったのよ)、中国で終わる運命なのね?

    購読者が一人減り二人減り・・・。

    さて、岡崎久彦氏が語った言葉をご紹介します。

    「新しい教科書誕生!!」PHP研究所発行の中の小林よしのり「戦争論」をめぐって、84ページに在る平成10年の言葉。

    【・・・その後、私はオランダ史を勉強いたしまして、イギリスとオランダというのはこれまた日米関係にも似てるんでございますけども、冷戦時代じゃなしに、イギリスとスペインの戦争のあいだ、イギリスとオランダは仲良くしている。ただ経済摩擦がありまして、戦争が終わったとたんにイギリスがオランダを攻撃してつぶしてしまうんですね。

    戦争中もオランダはちゃんと戦争しているんです。ですけれどもイギリスのプロパガンダは、オランダというやつは戦争中なんにも協力しないと。金儲けだけしていたと。

    あれはヒルである。吸血鬼であると、そういうことをいっている。それでオランダの歴史がなんにもイギリスのなかにのこってない。無敵艦隊を沈めたのにオランダは非常にはたらいているんですけれど、それが一言も出てこない。いまだに出てないです。

    300年たっても出てない。

     

    それはプロパガンダだからしょうがないんですけども、私が本を書きましてから、オランダに行く私の知人はみんなその本を読んでオランダ人と話をする。そうしますとオランダ人が喜ぶと言うんですね。そこに書いてある話は、私たちが子供の頃から何十遍も聞かされた話だと。われわれが誇りを持ってる話だと。それをどうして日本人が知っているのだろうと。つまりオランダはイギリスからもアメリカからも歴史を抹殺されているんですけども、オランダ人だけが自分の歴史を脈々ともっているんですね。

    今の英語で書かれた歴史の中で、日本の歴史がオランダのような扱いをされるのは、戦争に負けたからやむをえないとしまして、日本人自身が誇りにする歴史を失ってしまった。・・・】

         以上、84ページより抜粋。

    ウォッホン!

    「オランダ人が喜ぶというんですね。そこに書いてある話は、私たちが子供の頃から何十遍も聞かされた話だと。われわれが誇りを持ってる話だと。・・・オランダ人だけが自分の歴史を脈々ともっているんですね」

    岡崎さん、他国のことには言及できても、自分の国日本となると、敗戦コンプレックスゆえ? それとも元外交官の感が働き、いじめられる日本が見えるのですか? 何を恐れるのですか? 

    書き直しなんて余計なお世話です。オランダ人が自分の歴史を脈々と持っているように、日本人も自分の歴史を脈々と持っていたいのです。

    真の日本人は、眼(まなこ)をかっと明け、弱いものを助け、前を向いて歩き、ある日ばたんと前に倒れて死んでもいいのです。

    岡崎さん、奴隷になるのはイヤです。

    それにしても、つくる会の執行部はどこにいるのですか?会長・理事たちよ。

    「つくれない会」になった執行部よ。あぁ何処へ?

    女の涙にやられちゃったのね。

    いま流行りの男となったのね。

    闘えない、合同好きな男になったのね。

    理事たちよ、奴隷になるのはイヤです。

    石原隆夫さん始め本当の「新しい歴史教科書をつくる会」を慈しむ皆さん頑張って下さい!

    「どの民族も例外なく持っている自国の正史」の回復。

    「日本の次世代に自信をもって伝えることのできる良識ある歴史教科書」の作成。

    「日本の歴史」の誇り高き自画像に目覚めよう。

    闘う気概のある「新しい歴史教科書をつくる会」の皆さん頑張って下さい!

    一緒に闘います。

    もう一度見てください。

    新ゴーマニズム宣言 第3巻 148と149ページの小杉隆文部大臣を前にしての西尾幹二先生の迫力ある顔を。

    ここに原点があります。

    カッコイイ、セクシーな、男の中の男:西尾幹二。

    国を潰してなるものか!

    西尾幹二先生のレゾン・デートルに乾杯!  

    カンパーイ! カンパーイ!

     

  2.   私の言うことは大変初歩的な見解で恐縮なのですが、私は「つくる会」の騒動は色々調べたのですが、どうしてもよくわからないところがあります。やはり、歴史論や思想論の対立とは全く別次元で展開されていることなのでしょうか。私は西尾先生も岡崎先生も藤岡先生も八木先生も、皆さんその著作を心より尊敬していますし、その誰もが実に刺激的な行動的知識人だと思っています。対立する必要などない、とか、皆さん仲良くしようよ、みたいなことを言いたいのではないですけれど、扶桑社との確執にしても、根本のところで、それがなぜ生じる必要があったのか、が掴みづらいです。「陰謀」説をところどころで採用しないとやはり、この状況は説明できないものなのでしょうか。それならばそれでいいのですが、「陰謀」というものは、その防御が当然あるべきものであって、それが正面に出てくるときは、派対立の根拠としてはやはり薄弱な論理ではないか、と私は考える人間です。

     西尾先生が孤軍奮闘されているというニュアンスは本当によくわかります。西尾先生の倫理学の本を読んで知的育成をしてきた自分にとって、先生の胸中、察するにあまりあります。

     「つくる会」がただならない事態だということはよくわかりましたが、どなたか、私のような完全な門外漢にもわかりやすい説明をしていただけると嬉しいです。

  3. >渡辺さま

    わかりやすい説明はできません。

    なぞだらけなんです。

    なぜ 宮崎事務局長を退任させることを八木先生は急に翻したのか?
    なぜ トラブルの真っ最中に八木先生や宮崎事務局長たちが、つくる会に内緒で中国へ行ったのか?
    なぜ 八木先生は従軍慰安婦や南京虐殺については、あまりこだわらない教科書にする・・・・と言ったのか?
    なぜ 八木先生たちは、あのような怪文書を撒いてまで藤岡先生を追い出したかったのか?
    なぜ つくる会を飛び出した八木先生たちは、あんなに自信満々なのか?

    などなど、わからないことだらけなのです。
    あまりに不思議なことが次々と起こり、その現実を追うことしかできません。

    この本当の答えを知っているのは、八木先生たちです。

    私の推理では、藤岡、西尾の手を引かせ、つくる会の教科書を薄めるようにとの指令が、日中友好を目指すどこかから来たのではないか?ということです。まだすべて闇の中で、誰も本当のことがわかりません。

    ただ言えるのは、西尾先生の人格が原因だというあちら側の主張では、なぞは解けないということです。

  4. 長谷川さんのおっしゃる通りだと思うのですよ。色んな謎が八木先生たちにあることは、藤岡先生のブログを読んでもよくわかります。中国側の策謀の匂いがこの一連のことに関して、なんとなく感じられることも理解できます。
     全ては謎で闇だ、ということが理解できるということは、謎であり闇であることはわかる、つまり謎の全体像は何割か意識できている、ということでもあると思います。これ以降は詮索になってしまうのですが、いったいどういう「策謀」が八木先生達の側に行われた可能性があるのか、ということが私には気になります(これは質問ではありません)
     アメリカ政府がバックにあるのなら自信満々になることはありえますが、国際的に半ば孤立しかかっている中国政府や、世論支持を次第に失いつつある国内親中国派政治家のバックで自信満々になるのだとしたら、それは児戯に等しいことでしょう。大体、政治的権力を有しない「つくる会」を分裂させる実質的メリットなんて、中国政府にも親中国派にも少しもないのですから、策謀が存在すること自体が謎です。
     確かに、(謎が存在することがわかるだけで)謎のレベルがあまり高級なものでないせいで逆につかみづらく、結局は全てが謎だらけ、なのかもしれませんね。
     私は門外にいる人間ですが、「つくる会」は今後も心から応援し続けますので、頑張ってください。

  5.  「つくる会」立ち上げ以来の会員ですが、匿名をお許し下さい。
     ご多分に漏れず、私が所属する支部でも、会が真っ二つに割れてしまって、今後どのような方針の下に支部が運営されるのか予測できない状況にあります。求心力を失っていますから、他の保守系友好団体の草刈場となっているのが実情です。

     正確な日時は忘れましたが、私が「つくる会」に参加したのは、西尾先生が「諸君」で「一人でも多くの味方が欲しい」と訴えかけられたからです。信頼する西尾先生が一人でも多くの味方を募っているのですから、これに参加しない手はない。枯れ木も山の賑わいなら、その一本の枯れ木に成れるかもしれない。そう考えて、「つくる会」に参加しましたが、現在の惨状は真に残念でなりません。

     思うに、何かの運動を起こす場合には、象徴的な人物、誰しもがその力量を認めざるを得ない求心力のある人物が先頭に立たなければ、所期の目的を達することはできません。私はその人物は西尾先生を措いて他に存在しないと考えています。せめて、会長職を辞しても、最高顧問の地位に止まっていれば、「つくる会」の危機は回避されたかもしれません。

     自立心のある自由な精神の持ち主、他人の頭ではなく自分の頭でものを考えることのできる人、こういう方が「つくる会」の中心にいなければ、「つくる会」の存続は困難です。西尾先生の復帰なくして、退勢を挽回する方法はありません。

     冒頭にも述べましたが、西尾先生の復帰がなければ、「つくる会」は友好団体と思われている他の保守系団体の草刈場となる惧れは充分にあります。庇を貸して母屋を取られる危険は目の前に迫っているのです。この危機を好機に転換できるのは、「つくる会」の自主独立を何よりも大事にした西尾先生を措いて他に存在しません。

  6. つくる会評議員の南木(みなき)です。
    私がこの日録に書き込みをさせていただくのはこれが初めてです。
    西尾先生、藤岡先生がおられなければ、つくる会は存在せず、よって、私が現在大阪にて同志と共に活動している『靖國応援団』『沖縄集団自決冤罪訴訟』『大阪府教育委員会幹部汚職糾弾訴訟』のすべては存在しなかったと思います。なぜなら、それらの活動に最初に結集してくださった徳永、松本、稲田の3弁護士は、つくる会と、自由主義史観研究会があったからこそ、お互いに知り合うこともでき、組織化することもできた方々であるからです。つくる会がなければ何も始まりませんでした。西尾先生と、藤岡先生は我が国の現在の思想潮流を形作るに当たっての究極の恩人です。
    このことに関して、関西の全支部の幹部はどの支部も大きく異論を述べられる事はないと思います。
    近畿ブロックの最近の状況をここに発表させていただきます。
    皆様のご参考になれば幸いです。

    新しい歴史教科書をつくる会近畿ブロック会議12月11日の報告
    南木です。
    12月11日(月)夜、道頓堀の『くいだおれ』本店で、近畿ブロック会議及び、忘年会が開かれ、各支部よりの幹部代表者は人数、メンバーの重さ等総合してここ5年間で最大の充実した集まりとなった。滋賀県支部2名、奈良県支部2名、京都府支部2名、和歌山県支部2名、兵庫県支部1名、大阪支部15名。(全支部支部長、または事務局長を含む)
    本部より、小林会長、鈴木事務局長を迎えた。
    小林会長からの報告は、12月1日 ファックス通信第185号の内容の再確認であり、近畿においては、その裏がどうであったとか、実はどうであったのか等を問う質問はほとんど出なかった。
    近畿ブロック各支部は、それぞれの立場からの最終的な情勢判断として、本格的な保守政権であり、かつ教育問題に特に力点を置いている安倍内閣の下で、扶桑社、及び産経新聞が教科書を出版しないと言うことはまず、あり得ないと確信しており、このML上でその内容についても様々な懸念が表明されているが、最終的にその教科書において つくる会の初期の精神が否定される事もまず、あり得ないとの情勢判断も持っており、それら総体をふまえた上で、小林会長を全面的に支持してゆくことを満場一致で承認した。
    実に多くの情報交換が為されたが、その一つ一つは断片的なものであり、一点だけを突き詰めた議論はなかった。内容を担保するため、藤岡先生に必ず執筆者に残っていただくと言う理事会の決定についても、近畿ブロックで反対する支部はもちろん一つもなく、小林会長にこの困難な情勢を何とか乗りきって、事態を纏めていただけるよう全面的にバックアップするすることを確認しあった。
    一支部から出た質問で、扶桑社がつくった教科書宣伝用のパンフレット『虹』はしっかりとした作りである事は良いが、内容に「中国社会科学院」との和気あいあいとした意見交換を扶桑社が持った事などが掲載されており、あれはつくる会本部も承認したものなのかと、その事に疑義を示す意見が出された。それに対し、小林会長は「つくる会本部は一切関与していない。扶桑社が独自の経営戦略から、現場の先生方を攻略するため工夫したものであると認識しているとのお答えがあり、採択戦に向けてのごく普通の社会科教師用の宣伝用パンフレットである事が分かった。
    扶桑社の考え方、戦略がそうであるなら、それはそれで一つの進め方として、現段階で、そう言うことも当然必要であろうし、扶桑社のやる気が一つの形で示されている事が分かり、それ以上この点への言及は出なかった。
    近畿ブロックの全支部について、現行の教科書は歴史も、公民も、これまでの執筆者の先生方のご努力で、非常に完成されたものに既になっていると認識しており、部分改訂は必要だろうが、大きく記述を変えて、まったく別の教科書のようにするべきであるという意見の方は一人もいなかった。
    近畿各ブロックは人間的にも、つくる会以外の各種活動でも、常に小異を捨て、大同団結して活動してきた方々ばかりであり、多少の意見の違いはあっても、最終的に必ず一致できるという信頼と安心感が基底にある。また、どなたも自分をおさえ、よくよくのことでなければ和を乱される事はない。よって、逆にこの団結を根こそぎ裏切るような行為が為されたときは、誰であってもただでは済まないと思われる気迫のこもった会議であり、忘年会であった。出席者一人一人の方のどなたの脇にも、ひとたび抜かれれば燃え上がる剣が幻視される、熱い会であった。以上。

  7. これは西尾先生の本(「全体主義の呪い」)に記されていたことだと思うのですが、トーマス・マンはある時期から世界情勢への理解がストップしてしまった、という箇所があって、以前読んで、非常に面白いな、と思いました。ロマン・ロランなどもそうでしょうけど、こういうヒューマニストは、ファシズムに敵対する社会主義勢力が、新たな全体主義勢力であるという視点を養えず、今になってみると実に稚拙な世界情勢論を多く記しています。
      80年代、90年代というのは、保守派にとってまだまだ「幸せな時代」だったと私は思います。敵対的勢力であった戦後民主主義やマルクス主義勢力の論理パターンが明確で、保守派の団結やロジックもはかりやすかった、のです。しかし実は、「保守派」の論客の中にも様々なディテイルがあったことは見逃せません。たとえば私は大学院で、非常に有名な改憲派の憲法学者の先生(八木先生ではありません)のゼミに出席したことがあります。確かにその先生の「改憲」論は非常に鋭いのですが、彼の価値観の全体像は、現行憲法は正統派の民主主義ではない、というもの以上のものではない、ということと読み取れました。私からしてみれば、「民主主義」そのものの懐疑が、保守主義的世界観にあってしかるべきだ、と思います。私は彼の改憲論には大賛成でしたが、憲法改正が成功したそののちの時間においては、この先生とは対立してしまうかもしれない、と思いました。「資本主義」という言葉の意味の何割かが、社会主義国家の対立という中で存在しており、社会主義国家群の崩壊とともに、その意味を失ったことを私は連想しました。改憲論者が即、保守派といえるような時代は、いずれ終焉するでしょう。
      私自身は「つくる会」の門外漢と言いましたが、「つくる会」に熱心な会員の友人は実は何人もいます。誰もが非常にナイーブな方で、愛国や憂国の情に燃えていたことは非常に感動しました。しかし、ナイーブということは、ディテイルの差異を見逃しがちだ、ということでもあると思います。見逃すだけならいいですが、いざ、改憲その他の段階に到達した後で、対立が人間対立に簡単に以降してしまいがちになる、ということだと私は思います。戦後民主主義やマルクス主義ははっきりいって瀕死の状態ですから、これからは、「保守派」の中のディテイルの違いを志向しなければならないと思います。あるいは「保守とは何か」という答えの模索が必要だと思います。答えは非常に遠いところにある、と考えるべきだと思います。ところがナイーブな私達の友人は、答えは近いところにあると思っています。結論好きは戦後教育の悪い面の最たるものですが、「つくる会」に集う青年達が、果たして、そういうことと無縁であると言い切れるかどうか。そこら辺りの防御ができていないと、たちまち、外部からのくだらない謀略が浸入してくるおそれが今後もあるでしょう。トーマス・マンの話ではないですが、今後はこういうナイーブな青年達が、時代変化を理解できないヒューマニストに陥る可能性というものは、残念ながら、充分あると私は思います。
     西尾幹二先生以外の「つくる会」の諸知識人の方には失礼な言い方かもしれませんが、西尾先生の政治観・歴史観は、先生が長らく地道に培ってきた哲学・倫理学に強固に支えられており、正直いって、他の先生方とは格が違う。トーマス・マンの話一つとっても、西尾先生の見解から、これほどの応用ふができるのです。私は、だからこそ西尾先生が孤立し、いわれのない人格論を受けてしまうのだ、とさえ思います。西尾先生以外の方々は、感受していなかったディテイルの登場にふりまわされてしまって、予期していないことだっただけに、それが「ナイーブに」人間対立に移行してしまうのではないでしょうか。西尾先生にとっては、それらのことはほとんどお見通しだったと思います。今、「つくる会」をはじめ、保守派的思想を志向する団体や個人にとって大切なことは、これからは根源的な意味で「厳しい時代」がやってくる、ということではないか、と思います。たえず問いかけをし続けないと、アイデンティティを喪失してしまう、ということでしょう。そうでないと、西尾先生のような、正真正銘の保守派知識人の良心をこの国から失うことになってしまうのではないでしょうか。
      ふと思いついた意見を記させていただきました。今回のブログの方向性とは違う方向性になってしまったかもしれません。もしそうでしたら、お詫び申し上げます。

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