保守主義と〈スローガンの遊戯〉――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 小林秀雄が鎌倉の丘の上に住んでいるという一点で身が引き締まり、澄みきった鋭い眼で見られているような気がしていたと、追悼文にそんな表現をした人があった。今、本が手元にはないので記憶でものを言うのだが、巷の一読者にすぎない私にも、当時その哀惜の気持ちが伝わってきてしんみりさせられたことであった。

 訃報は早春にほころんだ梅が終り、桜はまだ遠い三月一日だったことを覚えている。西暦だ元号だと混乱させられ、また自分がせわしない仕事に入り、数々の過去のエポックを昭和何年と思い出すのが下手になり、小林さんの亡くなられた正確な年も忘れていたが、今調べてみると昭和五十八年三月一日である。

 最晩年に毎日新聞で今日出海との対談が連載され、これは本にならなかったが、ヤケッパチの最期のべらんめえが放たれていて、今日出海は寂しそうで寡黙な聞き役に回っていた。これを読んだとき、日本の曲がり角を私は感じた。いや曲がり角ではなく、時代の転落を小林秀雄の言葉から感じた。あまりにも不機嫌な対談だった。それから二十余年の時が流れた。

 時代の人がいなくなると、時代もまた終るのである。そう決めつけて良いと最近は思う。自分にはそうした信仰めいたものがある。空気ががらりと変わる。何も三島由紀夫の場合のセンセーションを言っているわけではない。静かな詩魂の人、深淵な思索家こそそういうことが言える。当人が時代ごと何かを持ち去るのである。大地をずっしりと抑えていた要の石が取り払われた気がした。

 禅の世界には他宗にみられない孤高な貴族性があって、例えば道元が只管打座(しかんたざ)でひたすら岩のように日日修行をしていさえすれば、この世の中は安定している、という絶対信頼の思想が存在する。小林秀雄を同じように見ていた人がいたと思う。

 小林秀雄が鎌倉の丘の上で息をしていた。その息づかいがそのまま詩魂や思索と重なっていた。鎌倉からの視線を感じて生きた人もあったし、亡き後も、ある問題に遭遇して先生ならどう答えるだろう、と心中で対話する人があった筈だ。氏の熱烈な読者ならばそういうことであろう。だが、同じ思想の列でも運動家という種類の人にはなかなか理解しがたいことである。

 保守と呼ばれる人々は歴史の連続性だとか、伝統思想の継承だとか、先人の魂だとか、そのようなことばかり書き語り叫んでいるのだが、それがどうしたというのだろう。文字通り保守的な〈表題〉だけを連呼していたら、それすなわち保守だというつもりだろうか。

 小林秀雄は偉かったという話を書きたいのではなく、小林秀雄がいつも警鐘を鳴らしていた〈スローガンの遊戯〉が始まっていることが、最近感じられてきて厭な気分なのである。

 小林秀雄は『歴史の魂』と題する講演の最後にこう語っている。

 「今日、日本の危機に際して、諸君が注意して周囲を見渡されたならば、眼を覆はんとしても不可能な現実の姿がある一方、如何に様々なスローガンが往行し人々がこれに足をとられてゐるかがおわかりの筈だと思ふ」

 「わが国の言論界、思想界は嘗て空疎なスローガンにおどらせられ、充分に味噌をつけたのである。それが今日のジャーナリズムを見てゐると、又同じスローガンの遊戯が始まってゐるのである。さういふものと僕等は戦はねばならぬ」

 〈スローガンの遊戯〉と戦うことこそ、「それが詩人の道でもあるとともに、実践的な思想家の道であると信じます」と氏は言っている。この講演は開戦間もない昭和十七年であり、状況は今と比べるべくもないが、小林秀雄の信念が平時有事で揺れ動いたためしはあるまい。

 歩き出した安倍政権に対する疑問や評価は今ここで問題ではない。今、政治権力に傾斜して〈教育〉などで花火を打ち上げている知識人は、もともと自身の言葉を持たないという驚くべき知識人が多いのだが(知識人と呼ばせてもらって良いものかどうかわからないが)、大衆をかき集めて運動の笛を吹いている。

 どうやら政治家とタッグを組んで、という意味らしい。それは日本語では〈野合〉というもので、知識人が最もしてはならないことだと記憶している。こちらの頭がおかしいのだろうか。「安倍晋三を首相にするために」という合言葉がどこからか出始めたときに、ああ、ここも後援会事務所なのか、と思って家に帰りたくなった。

 知識人は、政治家や官僚が「文化」や「伝統」という言葉を使い出したら、あなたたちは一番それらとは遠い存在だから、「どうか口出ししないでくれ」というべきなのだ。安倍首相の「美しい国、日本」も、本来余計なことである。
 
 政治権力への傾斜というのは、時の権力者に知識人として認めてくださいという行為である。筋違いの人にハンコを押してもらう行為である。そのような人がどうして政権を批判し、審判できる立場を取り返せるのか、私にはまったくわからない。

 私たちが目撃しているのは〈スローガンの遊戯〉よりもっとグロテスクな世界なのだろうか。

つづく

「保守主義と〈スローガンの遊戯〉――(1)」への3件のフィードバック

  1.  「スローガンの遊戯」というのは、本来的には、コミュニズムやファシズムの専売用語だと私は思っていました。
     これら全体主義的体制にとっては、本質的なことは絶えず大衆の支持の獲得であって、刺激的なスローガンを失えば、たちまち体制危機に陥ってしまうからですね。もちろん、デモクラシー一般にスローガンを弄する体制への転落という危険性はあるのですが、「スローガンとは何か」という自省の意味空間が開かれていること、これがデモクラシーにおける健全と不健全の一つの分水嶺だ、ということも、「スローガンの遊戯」という小林さんや西尾先生のご指摘から、言えてくるのだと思います。
     現代デモクラシーが「スローガンの遊戯」体制に陥っても、全体主義国家のような殺戮と収容所の世界は訪れないのかも知れません。しかし言葉は確実に殺戮と収容所に入れられてしまいますね。私は戦後民主主義批判も憲法改正も大賛成の立場の人間ですが、そういう議論の場にいて、かつて「スローガンの遊戯」を弄していた人々の雰囲気を継承してしまっている、というような奇妙な脱力感をよく感じます。「戦後民主主義批判」は、私達が見失っていた正統的なリベラルデモクラシーへの果てしない検討のプロセスへの一部分にしか過ぎず、また「憲法改正」にしてもそれは理想社会への到達などではなく、ある意味でスタートラインにたつことである、という当然の認識がみるみる失われていく。私に言わせれば、腹が据わっていない。「スローガンの遊戯」の中で、言葉が埋没してしまっている、としかいいようがないのですね。カントは「世間語」という言葉で、他律的世界にしか生きない人々の反道徳性を激しく批判しましたが、スローガンの遊戯に生きる世界の人々には、世間語、他律しかないのですね。
     埋没しているのなら、浮き上がらせるしかない、ということになります。世間語でない自分語、他律でない自律、そういうことを、小林さんは言いたかったのではないかと思います。

  2. つくる会評議員の南木(みなき)です。
    私がこの日録に書き込みをさせていただくのはこれが初めてです。
    西尾先生、藤岡先生がおられなければ、つくる会は存在せず、よって、私が現在大阪にて同志と共に活動している『靖國応援団』『沖縄集団自決冤罪訴訟』『大阪府教育委員会幹部汚職糾弾訴訟』のすべては存在しなかったと思います。なぜなら、それらの活動に最初に結集してくださった徳永、松本、稲田の3弁護士は、つくる会と、自由主義史観研究会があったからこそ、お互いに知り合うこともでき、組織化することもできた方々であるからです。つくる会がなければ何も始まりませんでした。西尾先生と、藤岡先生は我が国の現在の思想潮流を形作るに当たっての究極の恩人です。
    このことに関して、関西の全支部の幹部はどの支部も大きく異論を述べられる事はないと思います。
    近畿ブロックの最近の状況をここに発表させていただきます。
    皆様のご参考になれば幸いです。

    新しい歴史教科書をつくる会近畿ブロック会議12月11日の報告
    南木です。
    12月11日(月)夜、道頓堀の『くいだおれ』本店で、近畿ブロック会議及び、忘年会が開かれ、各支部よりの幹部代表者は人数、メンバーの重さ等総合してここ5年間で最大の充実した集まりとなった。滋賀県支部2名、奈良県支部2名、京都府支部2名、和歌山県支部2名、兵庫県支部1名、大阪支部15名。(全支部支部長、または事務局長を含む)
    本部より、小林会長、鈴木事務局長を迎えた。
    小林会長からの報告は、12月1日 ファックス通信第185号の内容の再確認であり、近畿においては、その裏がどうであったとか、実はどうであったのか等を問う質問はほとんど出なかった。
    近畿ブロック各支部は、それぞれの立場からの最終的な情勢判断として、本格的な保守政権であり、かつ教育問題に特に力点を置いている安倍内閣の下で、扶桑社、及び産経新聞が教科書を出版しないと言うことはまず、あり得ないと確信しており、このML上でその内容についても様々な懸念が表明されているが、最終的にその教科書において つくる会の初期の精神が否定される事もまず、あり得ないとの情勢判断も持っており、それら総体をふまえた上で、小林会長を全面的に支持してゆくことを満場一致で承認した。
    実に多くの情報交換が為されたが、その一つ一つは断片的なものであり、一点だけを突き詰めた議論はなかった。内容を担保するため、藤岡先生に必ず執筆者に残っていただくと言う理事会の決定についても、近畿ブロックで反対する支部はもちろん一つもなく、小林会長にこの困難な情勢を何とか乗りきって、事態を纏めていただけるよう全面的にバックアップするすることを確認しあった。
    一支部から出た質問で、扶桑社がつくった教科書宣伝用のパンフレット『虹』はしっかりとした作りである事は良いが、内容に「中国社会科学院」との和気あいあいとした意見交換を扶桑社が持った事などが掲載されており、あれはつくる会本部も承認したものなのかと、その事に疑義を示す意見が出された。それに対し、小林会長は「つくる会本部は一切関与していない。扶桑社が独自の経営戦略から、現場の先生方を攻略するため工夫したものであると認識しているとのお答えがあり、採択戦に向けてのごく普通の社会科教師用の宣伝用パンフレットである事が分かった。
    扶桑社の考え方、戦略がそうであるなら、それはそれで一つの進め方として、現段階で、そう言うことも当然必要であろうし、扶桑社のやる気が一つの形で示されている事が分かり、それ以上この点への言及は出なかった。
    近畿ブロックの全支部について、現行の教科書は歴史も、公民も、これまでの執筆者の先生方のご努力で、非常に完成されたものに既になっていると認識しており、部分改訂は必要だろうが、大きく記述を変えて、まったく別の教科書のようにするべきであるという意見の方は一人もいなかった。
    近畿各ブロックは人間的にも、つくる会以外の各種活動でも、常に小異を捨て、大同団結して活動してきた方々ばかりであり、多少の意見の違いはあっても、最終的に必ず一致できるという信頼と安心感が基底にある。また、どなたも自分をおさえ、よくよくのことでなければ和を乱される事はない。よって、逆にこの団結を根こそぎ裏切るような行為が為されたときは、誰であってもただでは済まないと思われる気迫のこもった会議であり、忘年会であった。出席者一人一人の方のどなたの脇にも、ひとたび抜かれれば燃え上がる剣が幻視される、熱い会であった。以上。

  3. >南木隆治さま

    コメント欄への投稿、本当に有難うございます。

    こうやって、衆目のうちに意見を出し合うということはとても大切なことです。

    一つお伺いしたいことがあります。

    扶桑社の要望が、近畿ブロックの全体のご意見と一致しないことをどのようのお考えですか?

    近畿ブロックでは部分改訂は必要だが、大きく改訂する必要はないとの認識を示しておられますが、扶桑社は執筆者の中から藤岡先生をはずすことを要求してきています。また、西尾先生をもはずすことを通達してきていると聞きます。西尾先生は旧版も新版も35%の著作権を有しておられますが、それを外すとなると全面改訂ということです。

    この点の、扶桑社の戦略をも良しとされるおつもりなのでしょうか?

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