ゲストエッセイ
岩淵 順 大学院生
拝啓
西尾幹二著作集三部作の一冊目が刊行され、さっそく私も購入いたしました。現在修士論文の作成と平行しながら着々と読み進めていて、あと少しで読了するとこまで来ています。どの章もどの章もとても知的好奇心が刺激され、且つ色々と考えさせられることが多くあります。
その感想もいずれまとめて御報告できると思いますが、まだしばらくはこれまで読んだ著作の感想の方を述べていこうかと思います。今回ご報告するのは、『日本の教育 ドイツの教育』を読んだ感想です。
この本に関してはちょっとしたエピソードがあって、実は手に入れた場所が日本ではないのです。それはどこかというと、今年の春休みに海外旅行で行ったタイで購入したものです。タイ東北部のチェンマイという町で、たまたま見つけた日本食の食堂に行った時に、日本の古本を売っている本棚が何個か置いてあり、その中で見つけたのでした。
どうやら、そこのタイ人の女性の旦那が日本人で、その人が日本で集めたものを置いていたらしいのですが、まさかこんなところで日本の書籍に、それも西尾先生の著書に出会えるとは思ってもいなかったので、非常に驚いた出来事でした。
ちなみにそこにはなんと、あの小堀桂一郎先生の『東京裁判の呪ひ』と、あの伊藤隆先生の『昭和史をさぐる』までが置いてあって、これ幸いとばかりにその二冊も購入しました。
こんな場所でこんな良い本が手に入るとは、随分と好い機会に恵まれたものだと上機嫌でホテルに帰ったことを覚えています。ちなみに、その日本人男性はかなりのインテリだろうと思われるでしょうが、実際はどうもタイ人女性の「ヒモ」をやっているように見受けられました(食堂の空いている椅子に座って終日テレビを見ているだけの生活をしていましたから)。
というわけで、この本はそのタイ旅行中に読んだものなのですが、実は教育についての本というと、どうも真面目で堅苦しいイメージがあり、最初はそんなに面白いものではないだろうとあまり期待しないで読み始めました。
ところが、実際に読んでみると、おもしろくないどころではなく、非常に興味深い内容でたちまち夢中になって読み耽ることになりました。
ドイツの教育制度との比較によって、日本の教育制度の構造が浮き彫りにされ、どこに問題点があるのかということが、とても良く理解できる内容でした。
教育の平等化をより徹底させようとすると、かえって学校間に差別が出て来てしまうという逆説は、非常に見事な洞察であったと思われます。
学校のレベルを細かく意識するというのは、まさに私の経験にそのままあてはまることでした。私は進学競争の病理にどっぶりと漬かっていて、その中でさんざん苦しめられてきた類いの人間だったので、この西尾先生の分析にはいちいち思い当たる事ばかりでした。
大学を受ける時に、少しでも偏差値の高い大学へ行く事に異様に執着し、本当に細かい数字で大学にランクを付けて、また、それを自分のアイデンティティにしようとして、大学の偏差値に対して、今から考えると滑稽なほどコンプレックスを感じていました。
ついでに、私は会社勤めを一年半程した経験があったので、企業に関する分析に関しても、本質をよく突いていると感心していました。短い期間でしたが、私が実際に会社の中で体験したことを、西尾先生の推察は驚くくらい的確に捉えていたと思います。
あまり物事の道理をはっきりとさせず、あいまいなままで上司の意向だけが通って行くというのは良くあった事ですし、仕事が出来る出来ないよりも、人当たりの善し悪しや、協調性等で評価される比重がかなり大きかった事を覚えています。(ちなみに私は、昼休みに他の同僚と一緒に昼ご飯を食べに行かないという理由で、協調性に欠けるという勤務評価をもらった事がありました)
ある一定のレベルの大学を出たという事で、それが暗黙のステイタスのようなものになっているのを感じた事もあります。(役員との交流会の時に、役員の一人が「これからは、学歴も年齢も関係ない時代になりますよ」といっていたのですが、新入社員の学歴を見ると全員いわゆる「日東駒専」以上になっていて、其れ以下の大学出身者はおらず、さらには名簿の並びが年齢順(大学院の出身者がいた)の五十音順に並んでいました)
この本ではすでに、日本の教育の最も核心となる問題点を明らかにしてしまったので、問題を解決する方法についても、議論の余地はないように思われます。
無理に平等にしようとするから、返って差別が強調されることになるわけで、西尾先生が提案した、逆に少し差別を作った方が良いという論が、問題を解決する最良の方法だと思います。
最初からある程度の差別があれば、案外と差別を意識しなくなるというのが人間の心理ではないでしょうか。ドイツの教育現場を見ると、差別があって当たり前という社会の方が、人間の心が安定している状態にあるというのがそのことを証明していると思います。
競争が人間性を損なわせるとは限らないという意見も、私は高校の時の経験から納得できます。実は私は高校ではいわゆる劣等生だったのですが、そんな私に対して、学年で上位に入るような、いわゆるエリートといったタイプの人間の方が、成績の善し悪しに関わらず対等に接してくれたのです。
まん中よりもちょっと上くらいの人間でも、同じような感じだったと思います。それに対して、ひどかったのはまん中よりも下の部類に入る人間、あるいはもう少しで劣等生になるかならないかといった人間です。
そいつらは自分たちが感じている劣等感をごまかすために、露骨なまでにこっちを見下す言動を、ことあるごとに投げかけて来たものでした。おかげで一時は登校拒否のような状態にまで追い込まれたこともありました。
しかし、最後は開き直って、「いくらこちらを馬鹿にしたところで、お前もたいして勉強できないということは変わらないだろう」と言ってやったら、さすがにこたえたらしく、その時は激昂していましたが、それ以後は何も言って来なくなりました。
というように、競争社会においては、下になる人間の方が、自分のアイデンティティを保つために、(努力する代りに)さらに下の人間を叩くという構図になっていて、案外と上の方の人間の方がしっかりした人間だったりするものだと思います。
ちなみに、私も中学校までは学年でも上位に入るような人間だったので、その時の経験からいって、決して勉強の出来ない人間を馬鹿にするような態度は取らなかったと断言できます。だいたい、自分が努力してより上を目指すということに夢中で、下の人間のことをそんなに意識する余裕が無かったと思います。
以上のような事から、日本の教育の問題は平等化の行き過ぎであるという事は明らかであり、その解決の為には、多少の差別を容認するしかない、そのことをしっかりと認識する必要があると思われます。(落ちこぼれる人間の問題もありますが、私のようにどん底の状態に堪えて、そこから這い上がってきて、ちょっとやそっとじゃへこたれないという精神力を身につける場合だってあります。エリートの方がその点が弱かったりしますよね)
ところで、これは余談になりますが、このさい思いきって書いてしまおうと思います。それは、大学のゼミでこの本を話題に出した時のエピソードです。
私の指導教官なる人物に、西尾先生の書いた『日本の教育 ドイツの教育』という良い本を最近よんだという話をしたところ、私も昔読んだ事があるとの返事が返って来たので、ああ、読んだことあるのですかと問い返したところ、その次に予想もしなかった返事が返って来たのです。彼女がいった言葉はこうでした。
「あれって、ドイツはすばらしいと言っている本でしょ?」
一瞬面喰った私は、思わず「はあっ!?」と聞き返してしまいました。いったいどこからそんな意見が出て来るのか、あまりのことにあっけにとられてしまい、何と反論すればいいのか分らない状態でした。
いや、だってですね、西尾先生の書いた著書からは、一番遠く離れていて、むしろそうではないということをライフワークにしてずっと主張してきたはずなのに、その著書を読んだ人間からまさかそんな言葉が出てくるなんてとても予測できません。
私はべつに自分の指導教官を軽蔑して喜んだりするような行為をしたいとは思っておらず、むしろ尊敬できるのなら積極的に尊敬したいと思っている人間です。しかし、こんなことを言っているかぎりは、そうもいかないというのが実際のところです。
いったいこの人は何を読んでいたのでしょうか。どこをどう読んだら、ドイツを賛美している本であるなどという感想が出てくるのですか。どこにもそんなことは書いてないじゃないですか。
私はこの『日本の教育 ドイツの教育』という本は、ドイツの教育制度と比較しながら、日本の教育制度の問題点を見事に描き出した名著である、と思っています。
その本に対してこんな的外れの解釈しか出来ないということは、これはもう文章読解力に欠陥があると断定されても仕方がない事だと思われます。
ちなみに、私はもともとこの人には不信感を少なからず持っていたのですが、この出来事によってそれは徹底的なものとなりました。この人の経歴は、東京大学の“教育学研究科”を出ていて、専門は“ドイツの家族社会学研究”ということになっているのです。不審に思いながらも、どこかちゃんとしたところもあるはずだと思っていたのですが、どうやら根本的にダメだったらしいということが証明される結果となりました。
それにしても、西尾先生が述べられていたもので、本というものは、読者に読まれて初めて価値が出てくるものであるという考えがありましたが、この出来事はまさにその考えが正しいことを証明するエピソードだったと思われます。
読解能力の無い人間が読んだ場合には、いくらすばらしい名著であっても何の役にも立たないということを、このエピソードは見事に物語っていると思われます。私自身も、まだ西尾先生の著書の価値をすべて自分のものにしているとは思っていないので、もっともっと有効活用できるようにして行きたいと思います。
(追記)
ところで、江戸時代の教育についてこれを読むことによって、それまでに抱いていたものとはかなり違う印象を与えられました。
江戸時代の武士の教育というと、『葉隠れ』に代表されるような、「武士道は死ぬことにあり」といった、観念論に終始しているようなイメージを持っていました。
しかし、実際はもっと現実的で実践的な教育観を持っていたというのを読んで、とても意外であるという感想を持つと共に、このような事実があったとしないと、明治以後の急速な実用主義への傾倒を説明することは出来ないのではないかとも思いました。
幕末について語る人間がよく使うフレーズに「夜明け前」というのがあり、日本人は明治維新によって、それまでは全く暗愚であったのがいきなり啓蒙されたような語られ方をしてきました。
しかし、西洋の思想に触れたとたんにいきなり変わってしまうというのでは、あまりに日本人及び日本の文明を軽く見すぎているのではないでしょうか。自主性というものがまるでなく、まるっきり馬鹿扱いしていると憤りを感じます。
これと関連した話で、坂本竜馬が勝海舟の弟子になる時のエピソードがありますが、あれもどうかと思います。けしからん奴だから斬ってやろうと思っていたのに、会ったとたんに感化されて思わず弟子入りしてしまったというものですが、これも随分と竜馬を馬鹿にした話だと思います。
そんなにコロッと変わってしまうなんて、なんて主体性の無い人間だという印象を抱きますし、第一、それまで斬ろうと思っていた自分は一体なんだったのかと思ってしまいます。(おそらくこのエピソードは、後になって誰かが創作した俗説だと思われます。竜馬関連の話は十中八九がこの手のものではないかと睨んでいます。坂本竜馬という人物は持ち上げられ過ぎている気がします。本人も迷惑していることでしょう。)
実際は勝海舟はかなりの人物らしいと、事前に竜馬は知っていた上で会いに行ったというのが実際のところらしく、それと同じように、江戸時代にも実用主義に通じるような思想がすでに用意されていたと考える方が自然であるかと思われます。
常識的に考えれば、やはり歴史とは連続しているもので、何も無い所からいきなり新しい思想が生まれてくるということは、まずあり得ないことだと思います。
とするならば、明治維新が起こる前に、すでに教育に関する徳の衣更えは完了していて、日本の近代的学校制度はその延長線上に成立したとする考えにも、私は無理することもなく納得することができます。そうでないと辻褄が合わないし、やはりこれは非常に鋭い考察だと思います。
そのことに加えて、驚異的に教育が一般化した原因として、“村落的メンタリティ”に注目したことが非常に印象的であり、かつ説得力のある考察だったと思います。
結論からいって、この考察は全く当を得た指摘だと思います。なぜならば、日本人のメンタリティというものは、底流では全然変わらないものだという確信があるからです。
色々と外的な要因がいわれていますが、所詮は表面的なお題目にすぎず、実際に日本人が行動する時の動機は、だいたいが無意識の「日本的な感情」から派生しているものがほとんどであると見ていいかと思われます。
現代に目を向けてみても、「自由」とか「平等」などの空疎なお題目をたいした主体性もなく唱えて喜んでいる人間にかぎって、自分というものが確立されず、結局は旧い因習にすがるしかなくなるというのが、大体お決まりのパターンであります(それだったら、最初から普通の生活を送っていた方が、ほっぽど個性的な生き方が出来たのではないかと思ってしまいます)。
戦前を否定して「進歩主義」を唱えていた多くの日本人が、その裏でもっと旧式の“村落的メンタリティ”に嵌っていたとしても、別段あり得ない話ではありません。意識していないだけに、逆にその作用をもろに受けてしまうものと推察します。
この“村落的メンタリティ”の作用は、日本社会の隅々に根付いていて、あちらこちらでそこから派生した現象が観察できるものと思われます。どこまでも日本人の行動に影響を与え続けていくのではないでしょうか。
敬具
【素読中心の幼児教育】
成長戦略のコア部分は教育で、その基礎が幼児教育です。
幼児期の脳の発達は、条件がそろえば著しくなります。
その発達促進に効果的なのが、素読です。そこで、素読
中心の就学前幼児教育を義務化するのが、いいと思われ
ます。
初等教育以上でのハークネス法†のような思考能力向上
教育、自主性教育を行うためには、脳の十分な情報処理
能力がかかせません。そのための幼児教育は必須で、幼
児期の素読、ソロバン、囲碁、英語を義務化するのがよ
さそうです。一挙に全国的に実施するのが困難なので、
まず特区での幼児教育実証実験をやるのがいいと思
われます。
論理的思考は脳の情報処理能力に依存しており、その能
力の強度は幼児期に確定します。その強度最大化に効果
的な学習法が、素読です。素読では、テキストの意味を
無視してひたすら音読を反復して、それらを暗唱できる
ようにします。これにより、文章が右脳でイメージとし
て記憶されるそうです。そのように記憶されたものは、
忘れにくいものになります。素読が習慣になると、右脳
に大容量の記憶回路が構築されます。そのため脳の質が
変化し、一度見聞きする膨大な量の情報の理解と記憶を
一度に行う能力が身につきます。ただし、この能力獲得
は幼児期のみ可能であり、それを逃すとその能力獲得は
不可能です。
素読のその他の利点として、よい文章の作成スタイルが
身につくことです。さらにそれが論理的思考能力の向上
に繋がります。ソフトウェア工学や建築でではパターン
言語というものがあり、よいとされるソフトモデルや建
築がパターン化されています。同様によい文章にもパタ
ーンがあり、素読で百人一首や名文の丸暗記をすること
により、それが直感的に身につきます。幼児期に自由作
文をさせると、自己流の悪い癖がつくだけです。モー
ツァルトのような作曲家が名曲を作曲できるのは、曲の
鑑賞を十分おこない、よい作曲法を身につけているのと
同じです。
素読を最も効果的に利用しているのが、アシュケナージ
ユダヤ人†です。世界人口の約0.2%の人口で、フィール
ズ賞とノーベル賞の30%の受賞者を持つ民族で、幼児教育
でモーゼ五書やタルムードの素読を実行しています。他
にも、フランスでは学校教育として古典の詩歌を暗唱さ
せています。(素読ではないが、ドイツでは、五十程度
の民話を子どもにきちんと教え、また自分で語れるよう
にさせるのがよい幼児教育とされるそうです。)日本で
も、湯川秀樹などの戦前生まれのノーベル賞受賞者はす
べて古典の素読を幼児期にやっていました。
素読の対象は、論語のようなものより、よい文章作成ス
タイルが身につき興味がわく現代文の方がよさそうです。
また、幼児期英語教育でも素読は有効です。幼児期には
文法を教えず、アルファベットと主な単語のスペルと発
音を教えます。その後、英語の素読をネイティブスピー
カーの朗読のオウム返しで音読し、暗唱するのが、幼児
に適した効率よい英語能力習得法です。教材としては
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E6%95%99%E6%9C%AC-%E5%85%A5%E9%96%80%E7%94%A8-W-L-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF/dp/4327440388
(アメリカ口語教本)
のようなものや、
http://takaojimba.blog.so-net.ne.jp/2008-08-30
https://spreadsheets.google.com/pub?key=p3G3JGWcrtP4BZbRlMIA2AA
のようなものを参考しにて作成するのがよいでしょう。
パラグラフごとにネイティブ同然に声を出して音読して
暗記します。意味はその後ワンポイント的に説明するだ
けにし、自然に英語が身につくようにします。おとなの
感覚では難しそうですが、幼児期は抵抗なく英語力が身
につきます。日本語がしっかりしないと英語が身につか
ないのは、小学校以降に英語学習を始める場合にいえる
ことで、幼児期の英語学習には当てはまりません。幼児
期ならば日本語も英語も過渡的な状態なので、並列的に
同時に両方しっかりとしたものにさせることが可能です。
逆に幼児期を逃すと、等価な英語能力習得には、より膨
大な時間と労力が必要になります。(平均IQが110以上と
優秀なアシュケナージユダヤ人は、幼児期にヘブライ語、
英語、居住地言語の教育を行っていますが、独自の文化
を維持しています。)
素読同様、以下の事柄が右脳発達に効果的です。
・珠算式暗算
頭の中にソロバンのイメージができ、右脳活性化に効果
てきです。またインド式暗算以上に実用的です。
進化形のフラッシュ暗算の紹介が
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Px_hvzYS3_Y
で見られます。
・囲碁
囲碁の情報処理は、ほとんど右脳で行われます。
・サッカー、ラグビー
静的な野球より動的なサッカーやラブビーの方が、包括
的な戦略能力育成にはよいそうです。
†ハークネス法
数学界の21世紀最大難問のABC予想の500ページ以上の
証明論文を発表した望月新一教授が2年で卒業した、アメ
リカの最優秀boarding schoolのThe Ten Schoolsのひと
つのPhillips Exeter Academy
( http://www.exeter.edu/ )で採用されている学習法で、
10人程度でハークネス机と呼ばれるひとつの長円形の大
きな机のまわりで、生徒がお互いの顔を見ながら、教師
が作成した演習書の問題を、黒板で解き合います。
参考:
http://www.jpost.com/LocalIsrael/TelAvivAndCenter/Article.aspx?id=188988
https://www.youtube.com/watch?v=ZUZOlwJ2TqA
(Southridge 高校(公立オレゴン州)でのハークネス法に
よる数学の授業)
最終目標はIQ 110以上のアシュケナージユダヤ人に追い
つくことです。
†アシュケナージユダヤ人:
ユダヤ人一派で、ドイツ東欧系で、現在多数がアメリカ
に住んでいます。シオニストは認めていませんが、一説
にはユダヤ教に改宗したハザール人とも言われています。
人口は1170万人(世界人口の約0.2%)ですが、ノーベル賞
の22%(170人以上)、フィールズ賞の27%(14人)の受賞が
あります。一方日本人はノーベル賞が約20人、フィール
ズ賞が3人です。アメリカのCEOの約20%、アイビーリー
グ学生の約20%(特に最優秀レベルはほとんど)を占めてい
ます。有名人には、アインシュタイン(相対論)、フォ
ン・ノイマン(数学、量子論)、ボーア(量子論)、オッペ
ンハマー(物理)、ファインマン(場の量子論)、シュレー
ディンガー(量子論)、ウィッテン(M理論)、ザッカーバー
グ(Facebook)、ペレルマン(ポアンカレ予想)、サミュエ
ルソン、ドラッカー、スピルバーグ、ハリソン・フォー
ド、バーブラ・ストライサンド、ニール・ダイアモンド、
ポール・サイモン、アート・ガーファンクル、セルゲ
イ・ブリン(Google)、ラリー・ペイジ(Google)、グリー
ンスパン、バーナンキ、ローレンス・サマーズ、ポー
ル・ボルカー、ジャネット・イエレン、…がいます。
【ヘイトストーカー南朝鮮からの横槍でオバマ国賓訪日絶望的】
常に纏わり付き、どこまでも日本の不利益を執念深く追
求する、永遠の反日ヘイトストーカー南朝鮮からの、新
たな横槍により、オバマの国賓訪日が絶望的となりまし
た。国賓待遇訪日により日米の絆の、国際社会、とりわ
け中国へのアピールを期待していた日本にとって、かな
りの痛手です。
国賓待遇訪日阻止狙いで、南朝鮮は急遽、オバマの南朝
鮮訪問を要請したため、議会日程上オバマの日本滞在を
一泊とせざるを得なくなり、二泊以上必要な国賓待遇訪
日が絶望視されています。
過去にもこのような横槍のため、日本は、名古屋オリン
ピック招致失敗、ワールドカップ単独開催消滅などの、
煮え湯を飲まされて来ました。
中韓の国際社会での発言力増大、それに伴う日本の存在
感低下により、アメリカにとって、日本はもはや南朝鮮
並みあるいはそれ以下の価値しかない、存在になってし
まいました。一方、貿易赤字に苦しむ日本に対し、反日
の中国は、去年貿易額が世界一となり、GDPも現在約978
兆円(日本の約倍)で、2020年ごろには世界一となる予想
があります。このような反日民族に対峙するには、アメ
リカとの協調が必須です。そのためにもこれからは、ア
メリカから見て価値ある存在に復活せねばなりません。
本来ならば、その実現のための行動計画を、すでに立案
していなければならない事態です。最優先行動として、
相転移的な教育改革により、世界一質(特に理数系能力)
の高い人材国家を構築することが、考えられます。(量で
は漢族に勝てません。)
>岩淵 順様
初めまして。あきんどと申します。
貴殿が読まれた西尾先生のご著書『日本の教育 ドイツの教育』は、実は私は未読なんですが、この作品の内容に関する先生の他のご著書にて、この本の内容は認識させていただいております。
「教育」という問題を、他の評論家とはまったく違う角度から論じられている西尾先生のご意見は、結局「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げる際のテーゼだったんだろうと、私は思います。ただし、その後の先生の教育論を色々と読ませていただくと、昔の日本型教育制度の方が、まだ今よりもましだったという内容も時々見受けられます。(昔というのは、つまり教育戦争時代ですね)
現在は「ゆとり教育」が横行していて、結局この制度は、教育現場に立たされている人間を攻撃する羽目に陥りました。被害者は生徒だけに留まらなかったという皮肉な現象ですね。
元々教育者というのは、私が思うには、教えながら学ぶべき立場なのではないかという哲学を、私は西尾先生のご著書に触れるようになってから認識し始めました。つまり、教える側の向上心なくしてどうして人を教育できるのかという観点です。
日本の社会人が疲弊してしまう最大のネックは、たった18歳の人間に、その後の社会の仕組みをすべて押し付けている現実にあると、西尾先生はおっしゃいます。これからいろんなことを学ばなければならない人間に、教育現場はその舵取りを若い彼らに押し付けている現状を、西尾先生は痛烈に批判されていました。
ちょっと前までは戦前生まれの教育者がいて、まだ今よりも理不尽な教育現場が散見していたのではありますが、しかしそれは「人情」の裏っ返しであって、要するに個々の教師に現場責任の認識が強かった証なんだと思うわけです。つまり「自由」な教育がまだ成り立っていたのでしょう。
ゆとり教育に象徴される今の教育現場はその骨格を失いました。これが最大の悲劇です。教師も生徒もお互いに人間扱いされていないのが、今の日本の教育現場です。そんな現場から「やる気」が起きますか?不可能ですよね。
そんな悲惨な現場を象徴する現象かもしれないんですが、なんと卒業式で一番涙を流す役目は「担任の先生」なんですよ。
私には3人の子供がおりますが、その子供たちの世話をしていただいた担任の先生は、皆卒業式の際泣いていました。しかも一番最初にです。
その気持ちもわからないではないのですが、それが一種の風潮だったならば、何かがおかしいと言わざるをえません。涙を見せることを惜しまないのならば、生徒が一番苦しい時にそれを見せたっていいんじゃないかと言わざるを得ません。それが出来ないのなら、最後まで我慢すべきじゃないかと言いたい気分です。
こんな現状ですから、親も親で、まるで舞台の最後の場面でクライマックスを期待しているような輩ばかりで、「来るぞ来るぞ」とばかりにハンカチが一斉に花開くのです。
生徒たちもその瞬間を暗黙のうちに認知していて、机の上にひれ伏して泣き始めます。
そんな中で、一人だけ気丈な生徒がいましてね、その子は幼い時に母親を亡くした子なんですが、周りが涙している時も全く同情せずに、きりっとしているんです。その姿を見て、私は「はっ」としましたね。
「今の時代の子供たちは、幸せすぎて不幸な子ばかりだ」と。
ゆとり教育というシステムは、結局教える側の都合でしかなかったのが始まりで、結局はゆとりが与えられず、しかも自分たちもゆとりのない教え方をせざるを得なかったという羽目に陥りました。
義務教育期間は、とにかく土曜日のお休みを廃止すべきです。労働時間がどうのこうのではない。子育て中の親にとっては、土曜日に子供が学校に行ってくれた方が、働きやすいという現実がまずあります。教師だって、長い時間を与えられるわけですから、おそらくかなりゆとりが生まれるはずです。生徒だって、やる気のある子は望むはずです。
この三者が全て都合の良い現場を生みます。
実はこの事が、我々社会人にも直接影響を受けていることを認識しなければなりません。基本的な労働時間の短縮は、生産性の面からも実に不利益で、
労働時間の短縮は、いかに日本社会に不利益と不幸をもたらしているかを、真剣に検証しなければならない事態だと思います。
平成の世になってからですよ、こんなに日本が活気を失ったのは。その根本的な理由は「労働時間の短縮」以外にありません。
日本人は働き者なんです、元々。働くことが幸せの象徴なんです。
昔は土曜の夜が楽しかった。毎週土曜の夜は贅沢を許された。それが一週間の中の楽しみの一つだった。忙しい毎日の中、土曜日だけは家族が一緒に食事をするような決まりがあった。そして次の日は必ず出かけてショッピングを楽しむ風習があった。それが日本の幸せの象徴だった。
それがどうだろう、今はまるで毎月のようにクリスマスパーティーを開かなきゃならないようなイベントが横行し、季節のメリハリが全く無くなってしまった。実際クリスマス商戦がこのところ期待できない現実が続いていることは事実です。昔はクリスマスがターゲットではなくて、お正月がメインだったんです。初売りにかける商人の思いは格別でした。年末は黙っても売れる時期で、クリスマスは単なる後付けだったんです。
国際的な日本の立場が問われているのは世の常ですが、そんなことは後回しでいいじゃないですか。我々が望むものをまず構築してから、よそ様とどう付き合うべきかを考えればいいじゃないですか。
違いますでしょうか。
東大出の指導教官の話、さもありなん。読んでないのか、読んでもこの認識なのか?多分その両方。題名だけで見当をつけ、あとは流し読み。本質を読みとれないのはもともと本人の中に問題意識がないから。
おそらく自分の「研究論文」にしか興味が無いんでしょうね。なんのための、誰のための「研究」を「教育研究科」でしてきたものか?
私も教職のはしくれですが、人が人を指導はできません。本人にモチベーションがあった上でのほんの手助けの域を越えるものではないとの自己規定で仕事をしています。
「教育とは自己教育のことである」西尾先生の言葉はすんなりと私の身に染みこみます。
「教育文明論」これはグッド・ネーミングです。