『週刊朝日』(3月9日号)に皇太子殿下に関する次のような記事が出ている。
「閣僚や企業のトップが被災地について話すときに、たとえ夫妻で訪ねたのだとしても、会見で『妻が、妻が』と繰り返すだろうか。」
また「天皇陛下をお助けし、改めて更なる研鑽を積まなければならない」とのお覚悟のことばについて、「研鑽を積む」という言葉は50歳の誕生日から3年連続での登場で、宮内庁幹部が嘆いて、今上陛下が皇太子だったころのお言葉には「率直な思い」「印象に残る言葉」がたくさんあったのとひき比べているという。
陛下のご手術前に秋篠宮ご夫妻から関係者に病状について細かいお尋ねがあったのに、皇太子ご夫妻からはお問い合わせはなかった。1987年の昭和天皇のご手術に際し、皇太子だったいまの陛下は何かあれば代りをつとめなければならない責任感から行動されていたのに、「いまの皇太子さまには少し危機感が欠けているのではないでしょうか」と宮内庁関係者は首をひねっているという。
『週刊朝日』は殿下が52歳であられることを今回は特に問題にしている。同年齢の活躍している社会人11人の名を挙げ、カッコ枠でかこって強調している。石田衣良、大村秀章、田中耕一、西村徳文(ロッテ監督)、原口一博、渡辺謙、川島隆太(脳科学者)等々である。相当に辛辣な、毒をふくんだ記事である。
少し前までは皇太子殿下に対してこれほどひどい批判は書かれていなかった。明らかに世間の目が雅子妃殿下から皇太子殿下に向きを変えつつあるようにみえる。
私が憂慮していた通りである。このまま行くとやがては今上陛下に鉾先が向けられるようになるだろう。その前に何とかしていたゞかなくてはならないのである。
幸い陛下のご手術は無事に修了した。皇太子殿下のお誕生日会見は年一回である。来年の会見においては殿下はこういうことを言われないで済むように脇を固めていたゞきたい。まだ時間は残されている。
週刊誌だからといってバカにしてはいけない。週刊誌と『THEMIS』以外には事実報道はなされていない。
『週刊朝日』はこうも書いている。皇室ジャーナリストの神田氏が曰く、皇太子の会見に「雅子妃をほめる内容が多いのは、雅子さまが今回の会見録を読むことを意識しているためでしょう。」
神田氏は妃殿下を「一生お守りする」といった殿下の責任感からだと書いているが、常識的にみれば、心理的なこわばりのせい、妻を恐れているためであろう。
西尾先生が皇太子ご夫妻への御諫言を展開されてから、気がついてみたらもう4年近くが経過しています。憂慮すべき根本的要素の方はほとんど好転しておらず、逆にマスメディアの皇室骨抜き策はゆるやかですがすすんでいるようです。
最近、広告評論家の川上徹也さんの『あの演説はなぜ人を動かしたのか』(PHP新書)を読んで、非常に面白かったのですが、川上さんはこの書で歴史上、名演説とされている政治家の言葉を分析して、幾つかの基本的原則がある、といっています。私がなるほどなと思った原則の一つは、名演説をなす政治家は、演説というストーリーの中で、「何かが欠落した主人公」を必ず設定し、そしてそれの「主人公のすり替え」を巧みに行うということです。
たとえば田中角栄という政治家は、ユーモアをまじえながら、自分という人間がいかにマスコミから叩かれまくっているか、ということをほとんど自虐的なほどにまず語ります。「何かが欠落した主人公」が、当のスピーチをなしている本人なのです。しかし田中氏はここから、こんな情けないほどに叩かれている自分が苦闘して列島改造の理想を抱いていた時期を語る。それは苦しかったときの日本であるのだ、というふうになかなか感動的に話を推移させていく。そしていつしか演説は、田中氏本人ではなく、この「田中角栄を選んだ」国民の感動的なストーリーとなります。「主人公のすり替え」です。その瞬間に、聴衆は田中氏とともに「何かが欠落した主人公」の物語を共有しているという感情を獲得してしまうことになる。
こうした技術は、メディア操作に慣れた人物ならば、誰しも気づいているでしょう。私がこの書を読んで気になったのは、同じ主人公でも、敵側にいる主人公の問題はどうなのだろう、ということです。川上氏は演説における「敵」の構築ということも重要な要素である、と言ってはいますが、深く掘り下げはしていません。ですからこれは私の意見なのですが、レーニンやヒトラーといった歴史上の煽動家を見ればたちまち明白だと思うのですが、彼らは「主人公」を敵の方から早く設定します。「敵」だって主人公がいてこそ、敵たりえるわけです。そして彼ら煽動家は巧みに「主人公のすり替え」をおこなっていく。ヒトラーの演説では、ドイツを不況に陥れたユダヤ資本家と、ユダヤ人全体がいつのまにかすり替えられていくのです。
私は皇太子殿下の問題に関してのメディアの報道は、しっかりこの原則、
「主人公のすり替え」ということに従っておこなわれてきているのだと思います。西尾先生が言われるように、世間の目が雅子妃への疑惑からいつのまにか皇太子殿下への疑惑へ、そうして皇室全体の疑惑へと「主人公のすり替え」を展開していく。この「主人公のすり替え」ということを何処かでストップさせないと、危機は皇室全体へと波及していくのは必然でしょう。
日本史上、皇室の歴史を止めてしまえる可能性をもった政治的人物は足利義満をはじめ何人かいました。あるいは歴代天皇の中には、後奈良天皇のように、経済的困窮のあまり即位式を十年近くもできなかった帝もいて、しかしそれほどになっても日本人は皇室断絶をよしとはしませんでした。歴史上のキーマンや各時代の民衆がなぜ皇室廃止に踏み出さなかったかといえば、皇室の側で皇室であり続ける条件を絶えずクリアし続けているからです。
条件の一つには「血統」があります。たとえば、ヨーロッパのように、外国皇室や一般外国人と婚姻する皇室が続出するようになれば、皇室は国民の支持を自然に失うでしょう。もちろん外国人と婚姻する皇室があらわれる可能性はほぼゼロですけれども、ヨーロッパ人からすればきわめて不思議なその国民感情というのは、日本人にとって「血統」ということが皇室への大きな関心事の一つであることを意味しています。
血統と並んで今一つ、最重要といっていいのは、先祖霊信仰の祭祀の担い手としての皇室ということです。加地伸行先生がどこかでおっしゃっていましたが、この面での役割の認識を皇室が忘れて、たとえばこぞってクリスチャンに改宗するということがあったら、やはり国民は皇室を見限ることになるでしょう。日本人にとって「皇室が国民を守る」というのはおそらくこの意味においてです。雅子妃殿下の宮中祭祀の問題は、そこにこそあるということになります。
長い皇室の歴史の中では、はっきりいって性行や思想に問題があったといわざるをえない天皇も何人かいます。しかしそのような天皇であっても、祭祀という皇室にとっての重要要素に対して否定的行動を取る人間は誰一人としていませんでした。ですから、問題行動をおこす過去の天皇の存在がただちに「皇室の危機」を招くことはなかったわけです。しかし、現在の皇室にはその火種がまかれてしまっている。それが西尾先生の勇気ある指摘だったわけです。そして今では、その火種が、マスメディアの「主人公のすり替え」の操作によって、かなり深刻な火事になる気配が出てきている、といえるでしょう。
近未来、皇室がなくなるかもしれない、という西尾先生の発言の揚げ足をとって、西尾先生のことを「反天皇」だとか「左翼」だとか言う面々は、以上のような歴史とメディアへの理解を寸分もできていないことになります。反天皇というなら、「私が一番斬りつけたいのは天皇本人なんだよ」とギリギリの言葉で皇室への敬愛を表現した三島由紀夫さんも「反天皇」「左翼」になってしまいます。三島さんにそういう非難が湧かなかったのは、当時の日本の方がまだ文化力が高かったからとしか言いようがないでしょう。それくらい今の日本の文化力のレベルは低落しているんですね。
西尾氏の「GHQ焚書図書開封9」を読み、改めて目をひらかれる思いでした。今、8を読んでいます。
私は68歳の中学、高校とミッションスクールで学んだ女性ですが、世代的にも教育背景においても、戦前の日本のことをなにも知らず、知らされずに
まさに、GHQ的価値観を身に着けてしまった、洗脳されてたとの思いを強くしました。そのことにすら気づいていない場合もあると思うと恐ろしさを感じます。
この欄を見つけたのですが、2年も前のものですね。 最近のコメントは
ないのでしょうか。
>sumireさま
コメントありがとうございます。このサイトの管理人です。
奥様と言っても、西尾先生の本当の奥様ではありません、私のハンドルネームです。
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なお、私も中高ミッションスクールで過ごしました。