伊藤悠可
御全集刊行の記念講演会(第五回)を1月19日に了えられてから、西尾幹二先生はことさら誰かにお膳立てを指示されたというわけでもなく、「熱い温泉にでも浸かりたい」と洩らされたそうだ。それを聞いていたのが、このところ坦々塾の会合、講演会等の世話役を買って出てくださっている中村敏幸さんである。
中村さんは群馬県の渋川在住。山と温泉はいくら選んでも品切れにならないほどまわりにある。思い立ったら吉日で、先生は「今すぐ行きたい」と仰言る。無計画に近い旅の計画をすばやく立ててエスコートするのもまた、中村さんは得意である。道連れは何人にするかなどと悩むのはやめて、旅は一泊、「今すぐ」に応じられる人を募って締め切ろう、ということになりプランは固まった。
先生も旅人である。草津の湯は軽井沢に行き来するとき幾度も体験された、伊香保は今さほど魅力を感じない、赤城・水上はさらに物足りない。こうして候補を削ぎ落して最後に残ったのが四万温泉だった。四万温泉郷は県西北端に位置する湯治場。元禄時代、近隣の大名から農閑期に疲れを癒したお百姓まで、湯煙の途絶えぬ里のにぎわいが絵図に描かれている。伝承としては蝦夷征伐の坂上田村麻呂が登場する場所だから、古さという点ではもう説明は要らない。無論、お湯は上質である。
「なら、四万にしましょうか」と中村さんが電話で推奨すると、先生は「一度行きたかったところなんだ」と感慨深げに話されたそうだ。われわれはその理由を旅先で初めて聞いたのだが、なるほど西尾先生が必ず訪ねなくてはならない場所だったのである。後述する。
ちなみに、最近のバス旅行の便利さには驚かされる。八重洲でも丸の内でも豊富に遠距離バスの停留所があって、四方八方の観光地に向けて直行便が出ている。四万温泉へは東京駅八重洲中央口近くから『四万温泉号』に乗れば旅館の前まで連れていってくれるのだ。
2月15日朝、先生のお伴をすることになったのは小川正光さん、松山久幸さん、小川揚司さん、そして私であった。中村さんはバス到着時刻に合わせて車をとばし旅館の玄関で迎えてくれるという段取りだった。参加予定者に都合がつかず断念された方もあり、結局6人と小グループで出発した。
この日、あいにく関東一円には雨雲が下りてきていた。青空と四万川の清流をながめるはずだったのに残念だと思った。「小川揚司さんは酒さえあれば景色などあってもなくても同じだろうが、私はそうじゃない」と無言でつぶやいていると、前の座席で威勢よく缶ビールの栓を開ける音がした。先生の隣の小川さんだった。
天気に落胆することはなかった。低気圧が別の趣向をこらしてくれたのである。関越自動車道・渋川ICを降りて四万街道(国道353号線)に入ると、雨が霙となり霙がやがて雪になった。役場のある中之条町の中心を抜ける頃は、降りつもる細かな雪で山間の景色が白と黒とに分けられていた。真綿をかぶせたようにみえるが、遠い山裾の家は形からして古い茅葺なのだろう。渓谷の川面だけが深い暗がりを保ちコントラストが美しい。「まるで雪舟だね」と前の席から先生の声が聞こえた。
われわれの宿は四万温泉口を入ったばかりの大きなY旅館である。女将もテレビで有名だそうでロビー売店のポスターの顔には見覚えがあった。名を知られて却ってサービスが荒れるところもあるが、ここは何かと行き届いて親切だった。最上階の7階二部屋に陣取ると、夜中であろうと朝であろうと、四つほどある露天・屋内風呂のすべてを制覇しようと話し合った。窓の向こうには急勾配の白い山肌が迫っていて、見下ろすと青く澄んだ清流が音を立てていた。この辺り、中村さんによると熊や猪の姿は茶飯事だという。小さな滝が櫛のように氷柱をぶらさげていた。
全員で川縁の露天風呂に繰り出した。雪を見て、せせらぎを聴いて、ゆったりと体を湯に浸すだけだ。とりとめもなく天下国家の話から大小公私の浮世話をしていると、「おおっ西尾先生、お元気で少しも変わりませんね」と湯船で親しく声をかけてくる年輩があった。先生の知己ではない。向こうが一方的に知己なのである。が、考えてみると、先生なら何処へ行ってもこういう方に出くわすことがあるだろう。ご年輩は自己紹介をはじめると、先生も親しく応じて、のぼせるのではないかと思うほど話に花を咲かせていた。
夕げは旨かった。ビールも酒も肴もみんな旨かった。他のテーブルの客はさっさと部屋に帰り、先生を囲んだわれわれのテーブルだけが延長戦をやっていた。部屋に戻ると、今度は宴の第二ラウンドをはじめた。卓袱台につまみが並べられ、またビールからはじめて焼酎や日本酒も飲んだ、と思う。思うというのは半分の記憶だからである。この夜、よく笑ったがよく叱られたような気もする。
翌日、『積善館(せきぜんかん)』を訪ねた。旅館から徒歩十分ほど上流のほとりに立っている四万最古の旅籠である。易経に「積善の家に余慶あり」とある。当主の祖先はもと源氏に仕えた武士。下関から関東に移り、何代かを経てこの四万の地に分家したのが初代「関善兵衛」で、関が原の戦と時代は重なる。以来、子孫の当主は代々この名を襲名し、明治になって15代関善兵衛が自分の名と〈積善〉をかけて宿を『積善館』にしたという。
本館玄関部分は元禄4年に建てられたもので県重要文化財。江戸の典型的な二階建て湯治宿の面影を残している。大正ロマネスク様式の大浴場「元禄の湯」(昭和5年建築)などは道後温泉と同様、記念に入浴したいと思わせる風情がある。後藤新平、中村不折、佐藤紅緑、徳富蘇峰、柳原白蓮、榎本健一、岸信介…とここを訪れた文人墨客を数えればきりがなくなる。近いところでは人気アニメ、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の湯屋の舞台が積善館である。
けれど、先生がぜひ積善館を訪ねたいと仰言ったのは、伝統があって著名人が喜んだ歴史的名所だからというような話ではない。先生の父君と母君が初めて出逢った場所がこの積善館だったのである。ご両親から聞いていた先生の記憶によると、昭和初年頃、銀行員でいらした父君は慰安旅行で遠路遥々、四万を訪れたそうだ。一方、母君はその頃、結核を患っておられ湯治客として滞在していた。
団体客の一人であるお父さまがどうして治癒目的のお母さまと遭遇したのかというと、これは意外なめぐり合いによる。積善館は裏手の山を上るように宿泊施設が建っている。今はエレベーターで手軽に昇降できるが、昔は長い外階段を巡らせていただけかもしれない。どのような状況にあったのか想像するしかないが、とにかくお母さまが階段で転ばれた。そのとき通り掛かったお父さまが咄嗟にお母さまを受けとめ助けたというのだ。
玄関受付すぐ横の板張の梯子段を昇ると、二階廊下の外は急勾配な崖の下にあたる。そしてその崖には斜め上に石段を刻んでいる。昭和初年と今とでは施設形式の異同はわからない。「転んだのはこの階段ということにしておこう」。先生は懐かしそうに廊下の窓から写真を撮っておられた。慰安旅行がなければ、また病気をしておられなかったなら、西尾幹二はこの世に生まれなかったのである。
昼、蕎麦を食べながら先生はこんな話をなさった。「二人(父母)は四万を訪ねたいと言ってたんだ。きっといつか、と待ってたのかもしれない。結局連れてきてあげられなかった。それを思うと悲しいというより、かわいそうという気持ちになりますね」。この旅の三日前まで、私は郷里に帰り父母のいなくなった家で一人、着物やら日用品やらを片付けていた。私の母にも「連れてってほしい」という場所があった。私は「また今度」と先送りして、とうとうそのままにしてしまった。先生の話に思わず胸が詰まった。
帰りのバスの時間になった。一泊とは思えない長い旅だった感覚で帰途についた。先生、皆さん、お世話になりました。
文章:伊藤悠可
(了)
TPPはあくまでも私自身の勘ですが歴史 の中で照応するのが対デンマークに対抗するハンザ同盟であり崩壊を免れるために海洋覇権を狙う中国に対して、結成するのが意図ではないかと思います。中心軸が日米同盟であり東南アジア諸国とインドを加えて包囲網にするのが戦国の合掌策かと思います。