雑誌「正論」8月号(7月1日刊行)に
西尾幹二の幸運物語
――膵臓ガン生還記――
が掲載されます。ガン研究会有明病院で大手術が行われたのは2017年3月31日でした。あれから六年の歳月が流れました。ガンは克服されましたが、体重を17キロ落とし、脚力減退し、正常な歩行が出来なくなりました。今必死にリハビリに励んでいます。かたわら全集の完結と、新しい大著『日本と西欧の五〇〇年史』の仕上げにいそしんでいます。後者は「筑摩選書」として700枚を一巻本で出版される予定です。これから私の三大代表作は『国民の歴史』『江戸のダイナミズム』『日本と西欧の五〇〇年史』の三作といわれるようになるでしょう。よろしくお願いします。
きみ(古い付き合い、呼び方陳謝)は自ら
幸運を引き寄せている。本当に幸せな人だ。「日本と西欧の五〇〇年史」、雑誌連載の頃から待ち望んでいました。大いに期待しています。
河内 隆彌
ご年齢ですい臓がんの手術をお受けになったのですか。
先生にはいつもほんとうに驚かされます。
母は先生とちょうど同じ年に判明、手術は医学的にかないませんでした。
リハビリテーションのご苦労、ご努力も、すこし想像ができます。
筑摩選書『日本と西欧の五○○年史』
こころよりお待ち申しあげます。
先生の「三大代表作は『国民の歴史』『江戸のダイナミズム』『日本と西欧の五〇〇年史』の三作」ですか。頭に「大」の字がつけば、さうかもしれませんね。
『江戸のダイナミズム』が出た際、「私にとつて、これは『ヨーロッパの個人主義』と並んで、先生の代表作です」と、手紙で申し上げました。生意気言ふなと叱られるかと思つたら、「3冊目を書かなければなりません」といふ優しい御返事。
私が強い愛着を持つてゐるのは、人生論ものです。人の心の襞を分けて、深部に這入り込み、そのありやうの仔細を洞察して、先生ほど緻密に、活き活きと描いた作品が、世界中に、他にあるのでせうか。私は知りません。
本では『人生の深淵について』その他の題がついてゐますが、大元は、私の編輯する雑誌に連載された「私の人生論ノート」です。出版に際して、三木清の「人生論ノート」の存在を知りつつも、私はこの題に執着しましたが、先生は礼儀正しく、三木に遠慮、これを避けられました。
連載中、毎月、その見開き2ページをコピーして、友人たちと輪読会を催しました。あの頃が懐しい。
先生の代表作を、あれとこれと選ぶことは、私にはむつかしくて出来ませんが、歴史や政治に関するものだけが先生の本領では、決してない。それらの登場人物がよく描かれてゐるにしても、その人間の心をぢかに見つめて活写したものは、全ての根源とも言べく、先生の著作の中で、重要な地位を占めてゐるーーさう確信する者です。
2013年 の正論7月号 「戦争史観の転換」―日本はどのように「侵略」
されたのか
第1章 『そもそも アメリカとは何ものか?』③ 西尾先生の投稿文が手元にあります。ここ数年、トランプ以降を考えてもみても迷走するアメリカとはなんぞや??(たかだかイギリスからの独立240年の歴史ですが)考える上で参考になり 何度も読み返しています。
もう一つ「近世ヨーロッパの新大陸構想」④ 2013年3月号 なぜか この二つのコピーだけが残っていて 「正論40周年記念連載」となっているもののほかはありません。
これらが1冊となるのですね。 700頁 先生 自ら「3大代表作」と宣言されているので とても楽しみにしています。
石松こと小池
今日26日は、鵜野さん御夫妻が揃つて、西尾先生から結婚の祝福を受ける日ですね。そのレポートを楽しみにしてゐます。
坦々塾会員Uさんを強要して、「西尾先生から祝福を受けるの記」を書いて貰ひました。私宛の私信ですが、そのまま、ここ日録へ横流しします。私のコメントなどは一切つけません。
■西尾幹二先生にUK・Aの結婚のお祝いのお言葉を頂戴しました。
UKさんは、研究の同志でもなく、教え子でもないし、グループに入るために
来たわけでもなく、町でばったり会って話をしているうちに打ち解けて付き合うようになった。そこには義理立てとかはない、不思議な関係なのです。
UKさんの結婚のことをずーと気にしていて、UKさんが50歳頃だったか、
なんで結婚しないのか、UKさんは元気もいいし見た目も若いのに結婚に進まないのが気になっていた。
御結婚おめでとう。
■西尾先生はお元気そうで、「まだ野心をもっているんだよ」とにやりとされる、先生の幸運物語。
その一つとして「日本と西欧の五百年史」(約700枚)を上梓する予定。
宗教と暴力と科学この3つがヨーロッパなのだ。
一方、大陸との関係の希薄なハワイが実は日本と似ている。
神様が、日本と同じような自然崇拝なのだ。
二つ目は、西尾先生のまさに幸運物語。近々発売の「正論8月号」に掲載されている。
■面談の三人とも杉並区と善福寺川とは縁がある。善福寺川沿川談義。
西尾先生は、お住いが善福寺池の近く、
A夫人は、小学校時代を通じて善福寺川中流の南荻窪付近に、
UK氏は、善福寺川下流の和田堀公園近くに60年前より住まいしている
■西尾先生は話題を音楽に振る。音楽談義。ピアニスト談義
何を演奏されますか。
A夫人は、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、シューマン、リストの曲が好き
■西尾先生は、作曲家とその作品について積極的に発言する。
ベートーベンの交響曲7番は嫌いです。あの音量の大きな金属音が嫌いです。
ベートーベンの交響曲5番、第四楽章のいつ終わるか分からない最後の数小節はしつこすぎる。
モーツアルトのバイオリン協奏曲3,4番が好きだ。ドン・ジョバンニは凄い。
ショパン、ヨハンストラウスも好きだ。
芸術は、道徳も科学も吹っ飛ばす。
■西尾先生は晩年夫婦で海外旅行にしばしばお出かけになった。熟年夫婦旅行の勧め。
夫婦で緻密な計画を立てて思い出作りに行った方がいい。
ただし中国にはいかない方がいい。なにかと危険が多いから。
イギリス、アイルランド、北欧、クロアチア、ニュージーランドがよかった。
■永年ピアノを教えながら指と爪を観察してきたA夫人の西尾先生の指の爪の鑑定。
西尾先生の爪は、ひときわ長く大きいという特異な爪の形。
西尾先生のその爪は、感性と知性のバランスが整っている人が持つ稀有な爪の形。
■約2時間の面談時間を終え
玄関の外に車椅子で出て、西尾先生は、新婚の二人の姿が見えなくなるまで手を振って見送っておられた。
西尾先生は、率直であること、自然であることは、人間にとっては何といっても難しいと以前おっしゃっておられた記憶があります。今回の面談は、率直かつ自然な心持ちのやりとりで時が流れていくのが心地よかったとの後印象。このような機会を与えていただいてとても感謝です。
U K 拝
このところ「日録」を訪れることなくから遠ざかっておりましたが、うれしく西尾先生の投稿を拝見しました。雑誌『正論』七月号に再掲載された旧稿も拝読、田北編集長の編集後記『操舵室から』に意気軒昂な西尾先生の言葉が紹介され、安心もし、期待も申し上げた次第です。
それにしても、拡大移民法といいLGBT法といい、国会論戦もほとんどないままに日本を日本で無くする向かう動きはとどまるところを知らない。『全体主義の呪い』という正に現代的な書物の予言が欧米のみならず日本にも紛う方無く到来したということだろう。以前、声低く語られたこの書物の結語を本欄で引用したことがあるので、以下に単行本刊行時の江藤淳の推薦文を引かせていただく。
「全体主義体制というものは、人の心をどう変えるのだろう? ヒットラーやスターリンというような、独裁者の顔がはっきり見えていた前期全体主義と、相互監視下の官僚統治を特色とする後期全体主義とでは、どこが同じでどこがどう違うのだろう?
西尾幹二氏は、このような二十世紀的問いをかかえて中欧に飛び、チェコ、東ドイツ、ポーランドを歴訪して『全体主義の呪い』を受けた人々と熱っぽい対話を交した。そのなかには知識人のみならず、秘密警察(シュタージ)の犠牲者となった息子の安否を追い求める老婦人までが含まれているが、それなら悪いのは一体誰なのか? 国なのか、個人なのか、いやそもそも自由とは何であったのか? 本書の最大の功績は、読者がこのような自問を繰り返すうちに、ひょっとすると、『自由』世界で暮しているはずの自分もまた、既に『全体主義の呪い』に浸されて生きているのではないかという、恐るべき認識に目覚めざるを得ないところにある」。
「静かに、辷るように、それと気づかぬうちに、するすると始められてしまっている」(西尾氏結語の一部)全体主義的な動きに対して、一撃の下に、天をつんざく稲妻のような、人々に神の怒りを知らしめるような言論をなし得るのは西尾幹二氏を措いてないと思うのは、もちろん私のみではあるまい。ご闘病中に畢生の大著と全集に力を注がれている西尾先生に、こんな非望を申し上げる失礼をお詫び申し上げなければならない。
大著『日本と西欧の五〇〇年史』が刊行されるのは、まことに意味深いトピックと言わなければならない。日本と西洋とを五百年にわたる巨視的な歴史の相で捉え、たとえばグロチウスのようなその後の世界を決定したものの、日本の教養には気遠い巨人の著したところを等身大に正確に論じるなどということは、かつてなかったことではないか。
西尾氏の「三大代表作」が並べられて見ると、今までなんとなく文芸評論家という肩書きで氏を見ていたのは誤りではないか、歴史家とするのがふさわしいと思わざるを得ない。そして、氏はブルクハルトのような、ホイジンガのような人たちを先達として歩んでこられたのだろうかと、恣(ほしいまま)な思いつきが浮んだ。
誤記を修正しました。再掲させていただきます。
このところ「日録」を訪れることなく遠ざかっておりましたが、うれしく西尾先生の投稿を拝見しました。雑誌『正論』七月号に再掲載された旧稿も拝読、田北編集長の編集後記『操舵室から』に意気軒昂な西尾先生の言葉が紹介され、安心もし、期待も申し上げた次第です。
それにしても、拡大移民法といいLGBT法といい、国会論戦もほとんどないままに日本を日本で無くする動きはとどまるところを知らない。『全体主義の呪い』という正に現代的な書物の予言が欧米のみならず日本にも紛う方無く到来したということだろう。以前、声低く語られたこの書物の結語を本欄で引用したことがあるので、以下に単行本刊行時の江藤淳の推薦文を引かせていただく。
「全体主義体制というものは、人の心をどう変えるのだろう? ヒットラーやスターリンというような、独裁者の顔がはっきり見えていた前期全体主義と、相互監視下の官僚統治を特色とする後期全体主義とでは、どこが同じでどこがどう違うのだろう?
西尾幹二氏は、このような二十世紀的問いをかかえて中欧に飛び、チェコ、東ドイツ、ポーランドを歴訪して『全体主義の呪い』を受けた人々と熱っぽい対話を交した。そのなかには知識人のみならず、秘密警察(シュタージ)の犠牲者となった息子の安否を追い求める老婦人までが含まれているが、それなら悪いのは一体誰なのか? 国なのか、個人なのか、いやそもそも自由とは何であったのか? 本書の最大の功績は、読者がこのような自問を繰り返すうちに、ひょっとすると、『自由』世界で暮しているはずの自分もまた、既に『全体主義の呪い』に浸されて生きているのではないかという、恐るべき認識に目覚めざるを得ないところにある」。
「静かに、辷るように、それと気づかぬうちに、するすると始められてしまっている」(西尾氏結語の一部)全体主義的な動きに対して、一撃の下に、天をつんざく稲妻のような、人々に神の怒りを知らしめるような言論をなし得るのは西尾幹二氏を措いてないと思うのは、もちろん私のみではあるまい。ご闘病中に畢生の大著と全集に力を注がれている西尾先生に、こんな非望を申し上げる失礼をお詫び申し上げなければならない。
大著『日本と西欧の五〇〇年史』が刊行されるのは、まことに意味深いトピックと言わなければならない。日本と西洋とを五百年にわたる巨視的な歴史の相で捉え、たとえばグロチウスのようなその後の世界を決定したものの、日本の教養には気遠い巨人の著したところを等身大に正確に論じるなどということは、かつてなかったことではないか。
西尾氏の「三大代表作」が並べられて見ると、今までなんとなく文芸評論家という肩書きで氏を見ていたのは誤りではないか、歴史家とするのがふさわしいと思わざるを得ない。そして、氏はブルクハルトのような、ホイジンガのような人たちを先達として歩んでこられたのだろうかと、恣(ほしいまま)な思いつきが浮んだ。
26日 鵜野様ご夫妻 西尾先生ご訪問 拝見しました。 13日に有志にて祝賀の会食時にこのことは聞いておりましたが、楽しい懇談の様子が窺えて 嬉しくなりました。 私もコメントは控えますが、 最後の締めくくりの文章
『玄関の外に車椅子で出て、西尾先生は、新婚の二人の姿が見えなくなるまで手を振って見送っておられた。』
西尾先生は、率直であること、自然であることは、人間にとっては何といっても難しいと以前おっしゃっておられた記憶があります。今回の面談は、率直かつ自然な心持ちのやりとりで時が流れていくのが心地よかったとの後印象。このような機会を与えていただいてとても感謝です。
西尾先生の優しさと鵜野さんのお人柄が窺えて ある意味感動を覚えました。
7月20日 先生は米寿を迎えられる、 まだまだ お元気でご活躍して頂きたい。
石松こと 小池
雑誌『正論』八月号『私の『幸運物語』 – 膵臓ガン生還記』を面白く読ませていただきました。やはり西尾先生は神々にめでられし人だと思わざるを得ませんが、ポイントポイントで果断にして的確な決断がなされ「幸運」を引き寄せていることを見ておかなければなりません。
西尾先生、ご快復おめでとうございます。十二時間に及んだ百人近いスタッフによる大手術とは、いかにがん研を挙げた難事業であったかを窺わせます。つらいリハビリを乗り越えられご健筆を揮われますことをお祈り申し上げてやみません。
「私の『幸運物語』―― 膵臓ガン生還記」からの抜き書き
手術は成功し、先生は今も御健在――といふ結末は分つてゐるのに、私はドキドキ、ハラハラしながら、
先生の世界に引きずり込まれ、一区切りごとにフーッと安堵の息をもらしつつ、一挙に読み了へた。こん
な経験は、少年時代に冒険探検物語(こつちは結末が知らされてゐない)にとり憑かれて以後、初めての
ことである。
先生の筆力には感じ入つた。失礼ながら、今まで、これほどとは知らなかつた。先生の作品の中でも出
色の出来ではないだらうか(といつて、「日本と西欧の500年史」と、この「幸運物語」を並べて品隲
するつもりはないが)。20数年前だらうか、私は「先生に小説を書いていただきたい」と申し上げたこ
とがあり、先生は笑つて答へられなかつたが、私の言もさう的外れではなかつたのかもしれない。実際、
先生には小説の習作があるらしい。私は見せていただいたことがないし、全集にも載らないやうだが。
タイトルのごとく、八つの「幸運」が次々と語られる。その中には入れられてゐないが、医科歯科大学
で、極端に横柄な主任教授に出会つたことも、一種の“幸運”と考へられるのではないか。先生が概して好
意的に語られる同大学歯学部・医学部の陣容の中で、この人は例外的に、傲慢無礼な無頼漢として描かれ
てゐる。もし、教授がこれほど非道くなかつたら、そして礼儀正しく、たとへば症状の分析などを、丁寧
な言葉で尤もらしく語つて聞かせたりしたら、先生が、セカンドオピニオンーー転院といふ重大な決断を
躊躇された(とすると、後の「幸運」に出合ふ確率も減つた)可能性もあるのではないだらうか。そのあ
たり、真贋の峻別に基く決断に揺ぎは絶対にないのかもしれないが。
そして、「幸運」は確かだが、先生御自身の重大な決断と、その源たる洞察→決意にも感服せざるを得な
い。その一つが、上記の転院だが、もう一つは、医科歯科大では、膵臓の細胞採取に失敗し、つまり先生
が癌体質かどうか分らないうちに、いきなり抗癌剤を打ち込まれようとした際、先生がこれを拒否したこ
と。たしかに、理に適はない措置だが、それをきつぱりと断ることは容易ではなからう。三つ目の決断は、
がん研有明病院で、手術後にTS―1といふ抗癌剤を飲むか否かの判断を医師から任された際、「生命に執
着」しながらも、“No”と答へたこと。この箇所で、私はホーッと感嘆の声をあげた。自分だつてさうした
よと言ひ切る自信はとても持てなかつた。
以上のやうな感銘を、己が心に定着させるために、以下、先生の文章の抜き書きを羅列する。こ
の作品を既に読まれた一般の読者(土屋さんを初めとする)には御迷惑だらうから、読み飛ばし
てもらひたい。地方にお住ひで、『正論』が手に這入りにくい方々のお役に立てばさいはひ。
かく申す私自身は、帝都の「中央(区)」に住みながら、入手したのは7月4日。発売日の1日に、
築地の弘尚堂書店に買ひに行つたところ、どういふわけか、休み。腰椎骨折の後遺症で、よたよた
と杖にすがる身では、そこで迅速な行動は取れない。すごすごと引き返すのみ。翌2日、中央図書
館に出向いたところ、運の悪いことに、移転してゐて(不敏にも知らなかつた)、またも、すごす
ご。翌3日、東京駅構内か佃島の本屋に行かうかと、食卓で思案してゐると、家内が見かねて、「ア
マゾンから取り寄せようか」と助け船。それに乗つて、結局4日の夕方に現物到着といふ次第。
自分の為の作業だが、それを利用、役立てて下さる方が一人でもをられますやうに!
☆ ☆ ☆
◇歯科で勧められたPETといふ全身癌細胞検査
「・・・四十代で舌ガンは終ったはずなのに、口の中の不安定が続くので、八十歳になって東京医科歯科大の歯
学部にあらためて診てもらい、それから一年経つとようやく口腔内の荒れも引いて、今後はもう大丈夫です、
再発はないらしい、と担当医も一安心だと仰有った。そのあとつづけて「念のためPET(全身ガン細胞検査)
を受けておきませんか」と誘われた」
「これが私の第一の幸運だった。今思えばPETを勧めた歯学部の教授は私の生命の恩人ということになる。
私の身体は医科歯科大学歯学部から医学部に転じられた。そこでPETが実施された。膵臓にガンがあるとの
情報が、体中あちこちに散らばるライトの点滅が一カ所に絞られてガンの所在が発見された」
「次にまず何処に行ったらいいのかが分からない。不安だが自由であった。フリーハンドに等しかったからだ。これが第二の幸運であった」
◇“癌の場所が悪い、手術なんてとても無理“
「最初世話になった東京医科歯科大学病院はガン治療にも定評があり、自宅にも近いので入院はここにしよう
と最初は心に決めていた。しかしすぐに最悪の障害にぶつかった。たしか田邉稔氏という名の医学部肝胆膵外
科の主任教授があまりに横柄で、ものの言い方が居丈高で、無礼きわまりなく、たちまち逃げ出すことを算段
した。『あっ、あなたのはガンだよ。ガンに決まっている。怪しげに光っている処がそれなんだ』と意気揚々
とうれしげに言う。
『膵臓ガンには早期も末期もないんだね。あなたは早期と今言ったでしょう。でもね、肝臓に転移していた
ら万事休すで、そこから先には早期も晩期もなく、末期の最終段階となるんだからね』(ざっと診察したあと
で、)『あんたのガンはまだ小さいが場所が悪い。大動脈にからみついている。手術なんてとても出来そうに
ない』
ガンの初宣告を受けている相手、手術の可能性にまだ晩年の未来を見ている者にこんな残酷な言葉を矢継ぎ
早に投げて来るこの男はどういう神経の持ち主だろう。それに彼はこうも言った。『今度の桜を見るのは諦め
た方がいいかもね」。これはスゴイ言葉だ。私はその日から七回の桜の満開を楽しんでいる」
◇七時半の開門前から並ぶ
「幸運の三番目は医科歯科大学の歯学部には感謝しつつも、医学部からはすぐに離れる決心がついた
ことだった。さて、しかし不案内の私はこれからどうするか? 事情を知っている人がいて、「今の
日本のガン病棟の第一は江東区のがん研有明病院ですよ。たしか七時半が開門です。行って並びなさ
い。紹介状なんてあってもなくても同じですからね」。私は翌朝、取るものも取りあえず、大ホール
のある入り口の順路に並んだ。右も左も分からない、とはまさにこのことだ。
早朝から並ぶ人は多く、二時間待っても列は動かない。もう今日はここまで、と打ち切られて、紹
介状もなしの早朝飛び込み組の今日の予定は終わりが告げられた。また明日つとめて早い時刻に来る
しかない」
◇走り寄つてきた女性係員
「立ち去りかけていると、見覚えのある女性係員が走り寄ってきて『さっき膵臓ガンを訴えに来られ
た方ですね』『えっ、そうです』『内科部長の一人の患者が急にキャンセルになり、部長の時間が空
いて、お目にかかってもいいと仰有っています。どうなさいますか? ただし医科歯科大にある全デ
ータ、写真ファイルその他を明後日までに持ってきていただかないと、内科部長の診断は継続できま
せん』『何とかやってみます。部長さんに今すぐお目にかからせて下さい』。
こうしてがん研有明病院とのつながりに成功した。これが何といっても大きい第四番目の幸運だっ
た。
前に並ぶ患者の一人がキャンセルだった偶然なんてそう簡単にあるものではない」
◇内科部長曰く『うちでも失敗するかもしれない』
「膵臓は前後左右を他の内臓に囲まれていて、身体の表面に出口がない。だから膵臓ガンは病巣が
見つかってもその細胞を容易に採取できない。最後の手段としては胃に穴をあけてそこから迂回し
て膵臓の細胞を一部取り出す以外に方法がない。これは一日がかりのそれなりに大きな手術だった。
医科歯科大は私の身体でそれを試みたが見事に失敗した。
有明の内科部長曰く『この手術は外科ではなく内科の担当というところが面白いのです。非常に
難しい仕事で、私たちでもちろんやらせていただきますが、同じように失敗するかもしれない』と
私にあえて煙幕を張るように言い、医科歯科大をかばった」
◇断乎拒否した細胞採取失敗後の抗癌剤投与
「問題は手術失敗後の医科歯科大の対応だった。私の身体に対しこの日のうちにすぐに抗ガン剤を
打つと言い出してきかないのだった。一日も早い措置が命に関わる、などとも言った。しかし細胞
採取が不成立だった以上、私がガン体質かどうかさえまだ正確には分からない身体のはずだ。これ
に抗ガン剤をいきなり打ち込まれるのはおかしな話だ。私は自分の身体を守ろうとしていた。同時
に私の身体の獲得にこだわる医科歯科大に疑問を持ち始めていた。そこで私はこの一連の措置を全
面的に拒否すると宣言した。医科歯科大を私が離れる前の論争だ」
◇病院間の綱渡り
「私は宣言した。がん研有明病院にセカンドオピニオンを要請するつもりでいたので、検査データ、
写真映像ファイルその他の必要書類を全部明日までにそろえてほしい、ときっぱりと言った。単に
セカンドオピニオンではなく、病院そのものの変更を私が意図していることも伝えたはずだ。副主
任の准教授某氏は別れしなに、『有明の方が参考になる症例のデータが圧倒的に多いですからねー、
ご成功を祈ります』と付け加えた。
この一連の動きに対し、医科歯科大の全体の対応が感情的でなかったことに感謝している。
二つの病院間を綱渡りしたこの一連の動きが面倒なトラブルなしで、解決したことは第五番目の
幸運に数え上げることができよう」
◇年の瀬に正式認定された膵頭部真正癌
「胃をくぐらせて膵臓の細胞を採取するという医科歯科大の手術は失敗したが、がん研有明では成
功し、膵頭部の真正ガンはやっと正式に認定された。
年の瀬だったが、がん研有明病院で抗ガン剤治療が始まった」
◇“桜の咲く頃お目にかかりましょう”
「まだ抗ガン剤治療が始まりかけたばかりの頃、私は数日間有明に検査入院していたが、そこへ三
十歳代終わりか四十歳代の人物が尋ねてきた。そして私にこう言った。『今日はお目にかかるだけ
で他に用事はありません。今度は桜の咲く頃あらためてお目にかかることになるでしょう』。桜と
いっても今度は縁起のいい桜だろう。何を意図するかは私にはピンと来た。
この人こそ井上陽介医師、がん研有明病院肝・胆・膵外科副部長だった。名は体を表すとよく言
われるが、太陽のように明るい人柄で、そこに彼がいるというだけで八方順調、困難事すべて瓦解
というような人徳の持ち主だったように見える」
◇癌の緩む三月三十一日がチャンス!
「私のガン細胞は頑固で、大動脈にからみついたまま動かなかった。明るいゆるみはいつ見られる
か分からなかった。しかし井上氏にかかった頃から少しずつ変化が生じ始めたという。濃霧のよう
にさしもの厚い靄の一部が少しゆるんで、大動脈の姿が見え始めた。
『三月三十一日、この日に行います』。井上先生はきっぱり言った。『チャンスです。手術の用
意できますか』『えっ、ぜひお願いします』。私も思わず叫んだ。千載一遇のチャンスだ」
「井上先生の説明によると、固まっていたガン細胞は抗ガン剤の効果でふんわりと広がり始め、す
き間が見えて来た。このあと何日かするとこのすき間がまた見えなくなるかもしれない。『だから
今がチャンスなのです』。先生は繰り返した。そして私に決断を迫った。この医師にしてこの声あ
り。私に今さら特別の決断など必要などなかった。『どうかお願いします。まっすぐ進んで下さい。
すべて仰せの通り準備いたします』」。
◇外科と内科の合同会議
「得てして多くのガン関係の病院では外科と内科の間の内紛が絶えない。迷惑するのは手術のタイ
ミングを外されてしまう運の悪い患者らしい。・・・三月三十一日に決めたのは外科と内科の合同
会議で、どちらが主流という話ではないという。ついぞこういう事で衝突したことはない。私はそ
れを信じた。他の病院ではゴタゴタしがちな手術の日がサッと決まったのは、第六番目の幸運に数
えることができよう」
◇手で結ぶ300ヵ所もの毛細血管
「あるとき井上先生は『今日は大事な話があります』と仰有った。手術から一年ほど経ってからだ。
手術の全結果の集計がなされていた頃ではないかと思う。『西尾さんの約数十本の残されたリンパ
腺にはたった一本もガン細胞は残っていませんでした。普通は五、六本残っているものなのですが・
・・。これが再発の可能性をゼロに近づけているんですね』。取りも直さずこれは先生の能力の証明
である。他人ごとのように仰有っているが、あるとき先生は自分に言って聞かせるようにこんなこと
を言った。『毛細血管の先端を手術のたびに三百ヵ所も手で結ぶんです。これ、私は得意なんです。
これができなくなったら、外科医を辞めます』
井上先生の最良の能力と結びついて十二時間に及んだ百人近いスタッフと組んだ大手術が、三月三
十一日に成功裡に終了した。これが何といっても最大の第七番目の幸運に挙げることに何の異論もな
いだろう。
それにこの間、合併症らしい合併症は何一つ起こらなかった膵臓ガン治療というのも珍しいのでは
ないだろうか。合併症がこじれて最悪の道に落ちていく話はよく耳にする。これも八番目の幸運に数
え上げておかないと話の辻褄が合わないのではないだろうか」
◇消化器は精神の抑圧器官
「しかし何から何まで苦痛も異常もなしに打ち過ぎ、平穏無事だったわけではない。三月の大手術が
終わってからゆっくり嵐がやって来た。
膵臓ガンは消化器の病気だとは分かっていたが、消化器がどういうものか分かっていなかった。消
化器は全身を支配し、精神も知力も気力も奪い取り、ほんの僅かの自由も許さないーそういう抑圧器
官だということを初めて知った。消化器とは口唇に始まり肛門に至る、入るから出るまでの一直線の
通路だ。そんなことは分かっているつもりだったが、本当には分かっていなかった。一本の通路だが、
それがいつもリズミカルに流れるとは限らない。膵頭部といわれる膵臓の半分が切り取られた。同時
に十二指腸と胆嚢とが切り取られた。膵頭部には下痢をコントロールするする神経組織が張り巡らさ
れているということも今度知った」
◇晴れた日にやつて来る“大嵐”
「そのままでは下半身の着衣もできないし、入浴もできない。
何らかの強力に抑止する薬が必要だった。・・・阿片という麻薬から作られるアヘンチンキという
飲み薬だった。信じられまいが、私はそれを七年間飲みつづけたのだ。
朝起きるとすぐに過呼吸になる呼吸器不全症になったのもそのせいかと思えるし、夕方になると庭
の立木が大揺れに揺れ出し、また玄関の外は真暗になり、雨のない晴れた日に嵐がやって来て、外の
嵐が何も見えない家族を不安がらせた。
しかしそういうことも今はすべて過去になった。安心してほしい。今はアヘンチンキももう飲んで
いない。朝から苦しくなる呼吸器不全は残っているけれど」
◇医師を安心させた術後抗癌剤の回避
「・・・手術後にもTS―1という強力な抗ガン剤を抑止力として再び飲むべきだという意見が病院
内でもテレビ・新聞報道でも盛んに言われていた。つまり念のためガン細胞の起ち上がりを抑える
ダメ押しの大きな効果が実証的に喧伝されていたのである」
「薬の分野の相談、決定権は井上先生ではなく最初から内科部長に決められていた。彼は私に判断を
委ねた。私が自分の生死に関する、右か左かの決断を下す何らかの決定権を与えられたのはこの時が
最初であり最後であった。もちろん私はどうしてよいか分からなかった。食欲の途絶えた身体の現状
からすればもちろんTS―1の採用はNOであった。しかし生命に執着する私はYESにしがみつく場面
でもあった。内科部長は後でそのことを心配していた。外から私を見ていた感想とかを伝えてくれた」
「翌日、内科部長にTS―1は飲みません、と決心を伝えた。彼は『それは良かった。私はあなたが正
反対の判断を言うんじゃないかと心配していたのです。あなたの今の体力を見ると、追加抗ガン剤はと
ても無理だと思える」とご自身の判断をその時になってやっと示された」
◇『生き証人』の務め
「にこやかな(井上)先生はいつもと変わらず、『今日は丁度手術後四年目です。あなたが一人で気を
もんでおられるのではないかと思い、必要な調査結果の点検を先に済ませました。ご覧のように何もあ
りません』。機械にデータが映し出されるページをパラパラとめくって、『肝臓もどこもきれいなもん
ですよ』と仰有った。
それでも言葉をつづけて『おめでとうございます』と仰有った。まだ残されている歳月に何が起こる
か分からない以上、慎重であるべき主任担当医の口からは出るまいと思われていた『おめでとうござい
ます』の一語に私はあっと短い驚きの声を発していた。今日はここまで言われるとは思っていなかった。
私の叫び声には万感の思いがこもっている。井上先生の『確信』は新しい炎となって私の身体をつつんだ。
それ以上多くの説明の言葉は私には不必要だった」
「・・・それから一年経った二〇二二年三月三十一日に・・・こんな言葉が先生の口から出て、印象に
強く残っている。
『これからお身体を大事にご長命を祈っています。あなたの存在は病院にとっても無関係ではありま
せん。がん研有明にとっても何しろあなたは「生き証人」ですから』
『生き証人』―この言葉に私は思いもよらぬ驚きを覚えた」 (以上)
☆ ☆ ☆
以上、下手な要約で、場所を塞いですみません。肝腎なことを省いたり、逆に、削つてもいいことを、そのまま
写したりしたかもれません。当り前のことですが、できれば元の雑誌に当つて下さい。しかし、自分自身には実
に有益でした。溢れる思ひを次々と胸に吸ひ込ませた。そして、しかと全身の栄養になつたと信じてゐます。
7月6日投稿の
☆「私の『幸運物語』―― 膵臓ガン生還記」からの抜き書き☆
には次の(追記)がついてゐましたが、翌7日13時に見ると、削られてゐました。昔の左翼の手口です。多分、管理人さんの仕業だらうと想像しますが、試しに、もう一度投稿します。
(追記)最近、ここの管理人長谷川女史から私あてに、「西尾先生とも相談の上、申し渡すが、あなたの管理人批判は好ましくない、就中、自分(女史)が、中核派による松本楼焼き討ちに加はつたといふ過去に触れるのはよろしくない。以後控へよ。さもなくば・・・」といったメールが届きました。
なにしろ、女史は「裏方としては、西尾先生に飛んで来る批判の矢が痛いと感じるのです」と、平然と、恥かしげもなく宣ふ “裏方” さんなのです。
西尾先生の箴言「他人を瞞す嘘」「自分を瞞す嘘」の意味を理解できる程度の御仁なら、何かお答へしても、通じませうが、そんなものを持ち出しても、馬耳東風なことを、私は経験上、熟知してゐます。
でも、虎の威をを借りることには天才的に長けてゐて、トリエンナーレ広島反対運動の顧問に〈西尾幹二・岩田温〉の名前をチャッカリ並べた際は、その凄腕に舌を巻きました。ただし、そこまで。さういふ猪口才を超えたことには、全
く感じがなく・・・。げに度し難し。いやはや。
以上、西尾先生の「幸運物語」とはまるで次元の違ふ話。天と地、月とすっぽん以上の差。勿論、同日に論ずべきではない。しかし、「幸運物語」の感動を反芻してゐる最中に、管理人さんのメールが来て、サッと読んだ私は、どちらも同じ人間世界のこと、しかも西尾先生と無関係ではない、高貴さと、この浅ましさ!とー一そこに、一種の感慨をおぼえ、考へさせられました。そして、人の品格の差・貴賤は、学問の有無で決まるのではない、自分でことを突き詰めて考へるか、それとも、与へられた、世間流行の物差しで計つて事なれりとするかが決定的ポイントなのだと悟りました。私は、その両極端の例に、ほぼ同時に接したと言つてもいい。その意味で、女史にも感謝すべきかもしれないといふ気がしてきました。
後者(全てが借り物・自身のものはnothing)は、私がもの心ついた頃は、進歩的文化人に著しい特徴でしたが、今は全ての種族に拡がつてゐますね。否、進歩的文化人が四散したといつた方が実情に近いかもしれません。我々の周囲は進歩的文化人だらけ。先生は、駆け出しの頃は、進歩的文化人を敵とされたのではないでせうか。嗚呼!
7月1日早朝 元産経新聞社 のM氏から電話が入った。 正論8月号の「幸運物語@西尾先生」記事感動を覚えたとのことで興奮気味。(池田さん同様ハラハラドキドキだったのでしょう)更に地方では正論の販売が遅れるからコピーをすぐにでも送りましょうとまで言ってくれた。日録に先生からの本書の紹介もあり、やんわりお断りし、7月4日地元書店にて購入、熟読しました。あらためて凄いステップがあったものだと感動しました。
土屋様が「西尾先生は神々にめでられし人だと思わざるを得ませんが、ポイントポイントで果断にして的確な決断がなされ「幸運」を引き寄せていることを見ておかなければなりません」
この投稿に共感し、自身が感じたことをストレートに書き込むことができませんでした。
私はこのステップの大半を西尾先生から直接聞いておりました。
手術が2017年3月31日 私は同年4月19日に がん研究会有明病院F棟へのお見舞いにお許しを頂きました。 大手術のあとですから、先生の負荷も相当なものとご挨拶のみで失礼するつもりでしが、事病院への根回し、時間調整などもしていただき1時間ほど懇談できました。腹囲には管が何本も刺さっていてオペの凄さを感じましたが、オペに至るまでの経緯を丁寧に説明してくださいました。(私が地方なので、考慮して頂いたので、数日前には長谷川さん見舞われたとか、 池田さんを無視されたのではありません たぶん)
今回の幸運の中で(どれも奇蹟に近いのですが)3点ほど感想を書いてみます。
1. 医科歯科大のT 医師の発言を聞いた時「今度の桜は諦めたほうがいい」そんな酷い医師がいるとは(T医師 医科歯科大卒 肝胆膵 科長)「知能」「知性」のうち「知性」がないどころの話にはなりません。非常識極まりないと思ったからです。
しかし、その一方で今回の幸運の重要な引き金となったのがこのT医師ということ(医科歯科大を離れる決心がついた いくつもある奇蹟のなかで、この判断こそ「幸運」引き寄せのトップ?)
2. これは幸運ステップとは離れますが、四国の某県からやってくる女性の声。
どうにもならない 苛立ち「地獄ですね、地獄より酷い。。。。」ガン病棟には絶望の声が渦巻く~~ 東京には大きな病院、優秀な医師も多数 そんことわかりきって言うのですが、 私も新潟 地元の病院環境を考えますと大都会と地方差は歴然。
3. 「最後に神々にめでられし人」は土屋さまの引用ですが 西尾先生を愛してリスペクトする人々も入れてもらっても良いのではないかな と(笑)
実は今も 4月19日にがん研究会有明病院の入館カードを今も大事に持っています。 これは確信的に持って帰ってきたわけではなく 返すの忘れただけなのですが、この日をもって先生との再会はなくなるのではないかと思っていたからです。帰宅(いけない!と反省しつつ暫くはこの入館カードを記念にとっておこう、と。
もちろん、今回の「幸運物語」~膵臓がん生還記でお元気な先生のご様子が窺えて書きこむことができたという次第です
石松こと 小池
池田俊二様
生意気を言って申し訳ありませんが、管理人様を執拗に攻撃されるのはお控えいただけませんでしょうか?
私にそのようなことを申す資格も立場も無いと、池田様が思われることを承知でお願い申し上げます。
小池 様
様々な仰せ、実感が籠つてゐます。
さうさう、私はもつと早くお見舞ひに伺ふつもりでしたが、風邪を引いて、先生に移しては大変なので延期し、その旨、先生に葉書でお傳へしてありました。小池さんが行かれると聞いて、では御一緒に、風邪もほぼ治つたのでいいだらうといふことになつたのですが、先生から、予後もウィルスは残つてゐて危ない、池田は駄目と断られたのでした。小池さんから、「池田さん、ごめんなさい」と御自分の責任ででもあるかのごとく謝られて苦笑すると同時に、小池さんの人の好さと優しさに感銘を受けました。結局私は、「明日退院する」と先生からお葉書をいただき、お見舞ひには行かずじまひ。不甲斐ないことですが、皆さんのお人柄に触れて必ずしも、マイナスばかりではありませんでした。なほ、長谷川さんからもお見舞ひ報告のメールをいただきました。
阿湯葉 様
資格とか立場は問題外です。
「幸福物語」の余韻に浸つてゐる最中に、「管理人様」のメールに接して、その両極端のありやうに、大袈裟に言へば、近代日本の栄光と悲惨が反映してゐると感じ、その旨記したまでです。これは我が生涯のテーマですので、その関連で感じたことがあれば、また書かせていただくつもりです。悪しからず。ただし、出禁の措置がとられるかもしれません。
患者の気持ちなどはどうとも思っていない。いや患者の生死にさえ本当は一切の興味もない。そういう医者はおります。そして、そういう医者と死ぬまで付き合い、自分の運命を預けざるをえない、そういう患者は多いです。
東京医科歯科大学の主任教授の元をきっぱりと去り、がん研有明病院の井上医師と巡り合い、西尾先生の生還のドラマはハッピーエンドで終わりました。
それでも、西尾先生は死神教授の医科歯科大で一度はそのまま手術を受けておられる、命を預けているわけです。その当時の先生のお気持ちは、今の私の想像を超えています。そして、自分がもし同じような状況になったときに果たして精神的に耐えられるのだろうか?という恐怖に襲われます。
重い病気を抱えながら紹介状なしの早朝飛込み組の長蛇の列に並んだのに、あわや打ち切りに合いそうになったり、明後日までに医科歯科大のデータを用意できないなら受け入れられないと言われたり。
これでは病気と闘う前にボロボロになってしまいます。
日本は医療大国ではなかったのですか?
先生の幸運を喜ぶ気持ちの前に、まず私に沸き起こったのはそのような怒りでした。
運命はどう転んでもおかしくなかったじゃないですか。
それでも、この「幸運物語」を読んだ限りでは、西尾先生からは怯えとか悔しさとか怒りのようなものをほとんど感じません。
「これはスゴい言葉だ」というのはおそらく西尾先生にしか書けませんし、絶望が渦巻くガン病棟の地獄絵図について親しくなった女性と語っている場面でも、「先生自身が悲惨さを感じている」風にはまったく見えません。
そういえば著書「人生の価値について」では先生の舌ガン闘病記が掲載されていましたが、この時も先生は自分の病状について冷徹な描写をされていたように思います。勇気を与えてくれたとか、そういう話ではなかったのですが、なぜか私は自分が病気になったときは、いつもこの先生のこの闘病記を思い出してしまいます。
これからは「膵臓ガン生還記」がそうなるでしょう。
西尾先生の膵臓癌克服記の雑誌論文、遅ればせながら本日、拝読いたしました。
自分はずいぶんたくさんの作家なり思想家の識者の難病体験記を読んできたつもりですが、大概の体験記はあまり面白くはなかった。なぜ多くの体験記がつまらないかというと、死への不安や病の存在をあまりに重く受け止めて、それらを観念的に描いてしまうからだ、と思います。死は観念かもしれませんが、病は観念ではない。ところが、病を死と一緒くたにして、観念にしてしまう。かくして病(大概は病の名前)に打ち負かされていく自分の治療や衰え、時々の昔の思い出話などを記録するだけの貧しい闘病記が再生産されていく。
これは文章じゃなくてルポルタージュ映画で、作家の井上光晴さんの癌との闘いの最期の何年かを描いた「全身小説家」という原一男監督の作品があります。井上光晴という作家は、ラディカルな左翼的心情を持ちながら党派的な群れを一切拒否したり(吉本隆明は井上を、孤立無援をイデオロギーにした唯一の左翼といっている)瀬戸内寂聴さんとの激烈な不倫愛(これは先年ドラマ映画化された)などなど、その存在感をなかなか議論の的にしやすい人物ですが、この映画に関していうと、はっきりいって面白くなかった。癌を前に、あまりにルポルタージュカメラも井上さん本人も、その重さに身動きできないまま、闘病の場面だけが、彼の幼少期その他のエピソードと坦々と動いていくだけだからです。つまり単調な闘病記映画の再生産だったといえます。
よく知られているように「癌細胞」というのは、一定の環境状態におかれれば、数万年数十万年の生命を保つことができる存在です。「不老不死」は癌細胞において実現されているということもできるし、癌細胞は「神」といえるのかもしれない。癌治療とは、せいぜい百年を上限の生命体である人間と、「神」やもしれない癌細胞との闘いなんですね。だけれどもこの必敗の戦争ほど、文学物語に相応しいテーマもまたないのでしょう。もしかしたら「神に勝てる」かもしれないという望みがあるからこそ、皆さんがん治療に期待し、癌研究は医学的にすすめられている。人間は神と戦っている、だとしたら、癌という神に勝つためには、癌を観念的にとらえてはいけない。「神」と思い込んだ時点で癌に先に精神的に負けてしまうからです。文学者であるにもかかわらず、井上さんの闘病映画は、最初から癌に負けているものでした。監督の側の撮りかたの問題もあったかもしれませんが、映像の中の彼はいわば、最大の作品を描くことができなかった、とある意味いえるでしょう。
私が非常に面白いとおもったのは、この西尾論考(この論考はほとんど巧みな私小説になっています)あらわれる様々な医師への描写です。日本は伝統風土的に、医師への信頼がきわめて高い国です。これはたとえば魔術の気配からいまだに抜け切れていない中国の医学世界(ゆえの中国庶民の医師への不信)と大きな違いをもっています。しかし、そうした日本のよき風土と、「医師の言うとおりに自分の難病に対処すべきかどうか」の問題はまったく違うことです。病と闘うのは徹頭徹尾自分自身で、それをサポートするのが医師と医学であるという真実は日本だろうが中国だろうがヨーロッパだろうが、古今東西変わりない。たとえば西尾論文の始まりにあらわれる医科歯科大学の田辺医師の描き方は、これはほとんどブラックユーモアではないかといえるほど面白いものでした。バルザックあたりなら、この田邉医師だけ題材に、人間喜劇を一作つくってしまうかもしれませんね。
癌との闘いでは、私達が前線兵士なら、医師は軍師ともいえる存在です。軍師の指示に従うのは戦の基本、しかし軍師の能力に相当の差があることは、医療の世界を深く知れば知るほどわかることです。はっきりいって、軍師(医師)の差配や能力で、兵士(患者)が敗れることなど無数にあるのです。ただ、医事法と薬機法に手厚く保護されている医師はよほどのことがない限りは問題化はされないだけです。患者は病を見極める前に、医師を見極めなければならないんですね。ここが実は病の最初にして最大の難関なのかもしれません。
私小説的場面は医師への描写だけではない。癌の検診のため、財産をはたいて毎月、がんセンターに四国からやってくる女性患者が「この世の地獄ですよ」という姿への西尾先生の静かな描写。幸運の周囲には、無数の不条理な不幸がある。こうした重い画面を、無病健康なジャーナリストが描いているのではなく、自身が癌との闘いの只中にいる西尾先生が描いているから読者には迫力が襲ってくるのです。癌という存在が自分の危機に向きすぎると、こうした私小説的観察は不可能になるでしょう。他人の幸運不運を観察している余裕が失われるからです。
この論考には、思索的要素もあちこちによく備えられていますね。たとえば、手術後、膵臓の切除により排泄の困難に直面したときの「消化器は全身を支配し、精神も知力も気力も奪い去り、ほんの僅かの自由も許さない」こうした言葉は、精神物質二元論の哲学とどう相容れるのかという哲学的認識の問題を投げかけているような気配があります。人間の意識は脳にある、と単純に思っている人がいるやもしれませんが、内臓のわずかの部分を欠いただけで意識は全面的な危機に直面するのです。「精神」の本質はいったいどこにあるのでしょうか。私小説要素だけでなく、こうして思索の深みも盛り込んでいることで論文全体はどんどん重さを増していくようです。
また抗がん剤治療のくだりは、ほとんど医師との駆け引きの観を呈していますが、これは医療上の重大な問題提起にあたります。抗がん剤治療の投入云々は、実はがん治療最大の問題であり、安易な投入は逆に延命にならないという観方もあるし、その観方への反対説も強くある。その部分を有明病院の医師の先生たちとの心理的駆け引きの形で伝えているのは、読み物としてだけでなく医療知識の論考としても、秀逸なものだといっていいでしょう。
西尾先生は幸運と苦闘の末、癌という神やもしれない存在に勝利をおさめることになります。これはなんといっても、最前線で病と闘う兵士だった西尾先生が、軍師たる医師を、ある意味で利用し、心理的に飲み込まれず飲む、という、治療以前に「味方内部を束ねること」をまずなし得たことが大きい、ということがわかってきます。大概の癌患者は、この段階で戦略崩壊し、戦闘体制を整えることができないまま、いろいろな誤謬にたらい回しにされて、自分を見失った敗戦に転落していくことになります。癌は不老不死の神かもしれませんが、しかし実は全能ではない。高体温では死滅するといわれるし、糖質しか栄養にできないという説もある。一つの病であることにやはり変わりはないのです。野球人の故·川上哲治さんが、やはり膵臓癌で闘病し苦しんでいた弟子の土井正三さんに、「人間は病で死ぬのではない。寿命を終えて死ぬのだ。だから病と闘うことはできる」と励ましたことがあります。癌細胞が不老不死の神の如きものだとしても、それと闘う意味というものは決してないわけではない。運命に逆らうことは不可能でも、神と闘うことは許されるのです。病の名前に負けてはいけない。運命、という言葉にたぶん言い換えてもいい寿命が自分を見放すまで癌と闘う意味があるのだ、という誰しもへの勇気をあたえてくれる私小説のようなすぐれたこの論考と終章で「生き証人」と評された西尾先生の存在は、日本の医療史の一つの財産として語り継がれることになるでしょう。
渡邊さんの論考の「運命、という言葉にたぶん言い換えてもいい寿命が自分を見放すまで癌と闘う意味があるのだ、という誰しもへの勇気をあたえてくれる私小説のようなすぐれたこの論考と終章で『生き証人』と評された西尾先生の存在は、日本の医療史の一つの財産として語り継がれることになるでしょう」といふ結語に、私は目の覚めたやうな思ひをしつつ、満腔の敬意を以て共感同意するが、意外に思つた一語もあつた。それは「日本の医療史の一つの財産」である。「医療」に無知なせゐだが、私なら、この部分以降は「日本の近代文学の最高峰の作品の一つとして、後世に永く伝はることになるでせう」と書いたことだらうーーそして、それも間違ひであるとは思はない。
けれども、「『癌細胞』というのは、一定の環境状態におかれれば、数万年数十万年の生命を保つことができる存在です。『不老不死』は癌細胞において実現されているということもできるし、癌細胞は『神』といえるのかもしれない。癌治療とは、せいぜい百年を上限の生命体である人間と、『神』やもしれない癌細胞との闘いなんですね」には、真に驚き、目から鱗であつた。全てが初耳だつたからであるーー渡邊さんは、「よく知られているように」などとおつしやるけれども。
渡邊さんの学識には今更驚きはしないが、『パンデミックと漢方 日本の伝統創薬』(勉誠出版)といふ本を出された頃から、医学・薬学についての知識も増やしたのだらうか、この碩学にそんなこと関係ないか。
私は井上光晴のルポルタージュ映画を初めとして、「作家なり思想家の識者の難病体験記」にはあまり接したことはないが、その内容について、およその想像はつくやうな気がする。そして、その面白くない理由は、渡邊さんの「必敗の戦争ほど、文学物語に相応しいテーマもまたないのでしょう。もしかしたら『神に勝てる』かもしれないという望みがあるからこそ、皆さんがん治療に期待し、癌研究は医学的にすすめられている。人間は神と戦っている、だとしたら、癌という神に勝つためには、癌を観念的にとらえてはいけない。『神』と思い込んだ時点で癌に先に精神的に負けてしまう」といふ指摘が図星で、そのシャープなことに舌を巻くと同時に、仰せで全て尽きてゐるーーと感じた。そして、それは逆に言へば、私が西尾作品に魅せられ、のめり込んだ事情を見事に説明してもらつたことになり、我が意を得た気分になつた。
「私が非常に面白いとおもったのは、この西尾論考(この論考はほとんど巧みな私小説になっています)にあらわれる様々な医師への描写です」にも同感だ。そして「医科歯科大学の田辺医師の描き方は、これはほとんどブラックユーモアではないかといえるほど面白いものでした。バルザックあたりなら、この田邉医師だけ題材に、人間喜劇を一作つくってしまうかもしれません」は、さもありなむと思つた。
バルザックは、「従妹ベット」「谷間の百合」「ゴリオ爺さん」(の一部)「人間喜劇」(の一部)と論文だか雑文を読んだと思ふが、たしかに、彼に田邉医師を描かせれば、面白い筋、展開を考へ出して、読者を楽しませてくれさうな気がする。
そして、「様々な医師」はバルザックに限らず、多くの小説や戯曲の恰好のテーマになりさうで、その作品はゴロゴロとある筈だが、私は殆ど知らない(如何に不勉強でも、その点、自分でも不思議なほど)。フランス文学で、唯一の例外は、ジュール・ロマンの「クノック」(岩田豊雄=獅子文六訳)といふ戯曲。
これは実に面白かつた。クノックは田邉主任教授よりもかなり高級。彼は近代のイデオロギーの傀儡であるが、同時にといふか、さうであるからこそ、そのイデオロギーの下に存在する社会・国家を支配する。彼は常に、近代社会に於ける勝利者である。近代といふ奇怪な時代について、観客として(私は読んだだけで舞台は見てゐないが)絶望的になりながら、その居丈高さ(その点は田邉教授と同じ)による勝利の勝ち取り方にはゲラゲラ笑ひ続けた。これほど痛快な芝居(戯曲)は滅多にあるものではない。
しかし、私がこれを読んだ動機は、たまたま(訳者の)獅子文六の熱狂的ファンであり、彼の追つかけに夢中で、彼のものなら、手当り次第の時代に、その網にかかつた――といふのが実情。文六はこれを翻訳し、解題を書き、論評し、日本での舞台を演出し、その感想を詳述した。私はそれを全て熱読した。ただし、文六以外の人が「クノック」を論じるのは聞いたことも、読んだこともない。日本に於けるフランス文学愛好者にとつて、どんな存在なのか知らない。かなり高く評価されてゐるのだらうと想像するが、少くとも、モリエールほどには親しまれてゐないのではないか。
渡邊さんのやうな稀代の文人に対して失礼ですが、①「クノック」が日本でどう読まれてゐるか②その他に「様々な医師」を描いた小説など(和訳が出てゐるもの)をお教へいただけないでせうか。
「無病健康なジャーナリストが描いているのではなく、自身が癌との闘いの只中にいる西尾先生が描いているから読者には迫力が襲ってくるのです。癌という存在が自分の危機に向きすぎると、こうした私小説的観察は不可能になるでしょう。他人の幸運不運を観察している余裕が失われるからです」――これは私にも容易に理解できるが、大抵の作家等が失敗することに、先生が大成功されたのは、その才能、気力プラス若干の幸運だらうか。
「人間の意識は脳にある、と単純に思っている人がいるやもしれませんが、内臓のわずかの部分を欠いただけで意識は全面的な危機に直面するのです。『精神』の本質はいったいどこにあるのでしょうか。私小説要素だけでなく、こうして思索の深みも盛り込んでいることで論文全体はどんどん重さを増していくようです」には、西尾作品を目の前にして、勿論全面的肯定あるのみ。
「抗がん剤治療の投入云々は、実はがん治療最大の問題であり、安易な投入は逆に延命にならないという観方もあるし、その観方への反対説も強くある。その部分を有明病院の医師の先生たちとの心理的駆け引きの形で伝えているのは、読み物としてだけでなく医療知識の論考としても、秀逸」――この問題があることは西尾作品で初めて知つたが、当然、「医療知識の論考としても、秀逸」であらう。
ともあれ、私の最初の読み方が基本的に大きくは間違へてゐなかつたことが分り、ホッとしたが、それに根拠を与へて下さり、毎度のことながら感謝に堪へず、渡邊さんに改めて最敬礼!
(付記)最近二度、続けて西尾先生を訪ねられた人から知らされたのですが、一回目は先生極めてお元気で、談論風発されたが、二回目はやや御不調で、下を向かれ、口数も少かつたとか。後者については少々残念ですが、已むを得ませんね。私でさへ、歩くスピードや距離は体調の良・不良により、5対1くらゐの差が出るのですから、先生に波があるのは当然かもしれません。
池田さま
ジュール·ロマンの『クノック』は名前だけ耳にしたことがありますが、読んだことはありません。こうやって言われてみると、医師を主人公にした文学はすぐには思いつかないものですね。
自分の頭の中で例外的に間髪入れず浮かんできたのは、カフカの『田舎医者』北杜夫『夜と霧の隅で』遠藤周作『海と毒薬』やや通俗小説まで広げると井伏鱒二『本日休診』山崎豊子『白い巨塔』といったあたりでしょうか。チェーホフは自身が医師でありながらあの人間観察を小説にほとんど向けなかったのは不思議です。カフカの作品は、医師を主人公的に描きながら、カフカらしい不条理の交錯を作品世界に生み出していて、これはたぶん、肺結核に苦しんでいたカフカの絶望感から生まれた作風ではないのでしょうか。
話は少し脱線雑談しますが、一昨日、産経新聞が8月からの約15%の大幅値上げ(月500円上げ)を突然発表したことがニュースに出ていました。ニュースのついでに、一般新聞の発行部数の統計をみると、2000年に全体で約5300万部だった部数が、2022年には3000万部を割っていることがわかりました。約20年で新聞はその数を約半分に減らしているのです。一つの業界が生産数を半分にしたら(たとえば自動車や半導体なら)これはもう、業界沈没の危機に値します。この減少ペースは加速化しており、2030年には一般新聞はゼロ近くになると統計予測されます。
産経新聞はというと、これは10年前の2013年は、160万〜170万部でした。しかし2022年後半には99万〜102万部にまで減っています。大手新聞でここ10年で最大の減少をきたしたのは朝日新聞で、700万台から400万台に減じましたが、減少率でいうなら、実は朝日の次に産経がつづいているのです。加えてここに来て、朝日も先月に大幅値上げし、月購読費が5000円近くになっている。いったい、商品マーケットで、売れないのに値上げして採算を維持しようとするのは経済学的に完全に矛盾しているのではないでしょうか。
インターネットの速度に新聞がついていけないから、ということはよくいわれます。しかし実はいま、インターネットの議論世界も大幅に低調になっている。私がみたところ、インターネットの議論がもっとも盛んだったのは2005〜2010年あたりです。実は、インターネット論壇の衰退と期を同じくして、新聞の瓦解が始まったのです。つまるところ「言語文化の衰退」が急に進展しはじめたのが10年あたり前からです。世間をよくみれば、学者の学会や、文壇の場といったあらゆる言葉の文化媒体がこの時期から消え始めました。代わりにいま主導権をとっている「言葉の世界」がSNSの陰謀論で、これはほとんどオカルトと変わりありません。
「新聞がなくなっても言論界の維持には関係ない」という意見があるかもしれません。しかしこれは恐ろしい間違いです。雑誌ことに言論雑誌や、硬派の新刊文献書籍は、拡散宣伝力の大半を新聞広告と書評に依存しています。新聞が衰退消滅すれば、新刊文献書籍はともかく、オピニオン雑誌は新聞に比べ早い時間差で確実に消えていくでしょう。来るべきものが来た、ということなのかもしれませんが、たとえば右派保守派のリーダーを自負していた(ようにみえる)産経新聞は、この最大の危機にどう対処するつもりなのでしょう。
産経新聞にとって、看板だった石原慎太郎さんと安倍さんの死は大きすぎる打撃でした。石原さんの場合は89歳というご年齢だから致し方ないとしても、依存していた安倍さんの件は完全に予想外だったでしょう。また売れ行きを回復するために、ここ数年、産経新聞は、奇妙な方針転換をしはじめていたのは事実です。右派イデオロギー色を弱めれば、購買者が左側から獲得できると思った気配がある。あれほど熱心にかかわっていた教科書問題に急に冷淡になったのはその一例でしょう。それでここに来ての大幅値上げです。原材料費の高騰を理由に紙面ではいっているようですが、しかし「敵」の朝日新聞が部数を激減させたのがここ数年の度重なる理由ということを故意に見逃している。読売新聞が部数減が小幅で、依然、日本最大(どころか世界最大)の部数を維持できているのは、値上げをほとんどしないところに踏みとどまっているからでしょう。イデオロギーの問題は関係ないのです。
繰り返しになりますが、一般大新聞が崩壊すれば、オピニオン雑誌や論壇も最終的に瓦解する。書籍は維持されるかもしれませんが、これはバラバラに発表されるもので、左右イデオロギーの「柱」は消えます。この「終わりの始まり」を、最前線の産経ジャーナリスト、記者たちはどう考えているのでしょうか。「自分たちは生活防衛したいのだ」ということなら、もっと収益の確かな世界に個人個人シフトされたらよいでしょう。大破している「紙の媒体」の浮沈の責任はやはりかなり新聞が担っているのであり、いまの状況は二次大戦の枢軸国でいうなら、1944年半ばにさしかかっています。しかし戦略は変わらないどころか、悪い方にさらにむいている。モノをたくさんの人にうる商いは「売れないから値段を吊り上げる」なんてことがいつまでも許されるほど甘くないのです。一昨日の産経新聞に関してニュースに、ふとそんなことを感じまして余談を記しました次第です。
渡邊 様
御懇篤なお教へ、忝く存じます。
貴論に接し、所感を書かうとすると、それだけで、自分の考へが進化発展するやうな気がします。貴重な機会を与へられてゐるわけで、感謝に堪へません。
まづ、前回申し忘れたことをーー
私は西尾作品にずゐぶん勇気づけられましたが、作品に対する貴兄の評にも同様に励まされました。「『癌細胞』というのは、一定の環境状態におかれれば、数万年数十万年の生命を保つことができる存在です。『不老不死』は癌細胞において実現されているということもできるし、癌細胞は『神』といえるのかもしれない。癌治療とは、せいぜい百年を上限の生命体である人間と、『神』やもしれない癌細胞との闘いなんですね。だけれどもこの必敗の戦争ほど、文学物語に相応しいテーマもまたない」――なるほど、さうでした。文学にふさはしいテーマであるといふことは、我々が実地に戦ふ大義も甲斐も十分にあるといふことになりますね。『太平記』の眼目・魅力も、必敗を期してなほ戦ふところにありませう。
なれば、自分も戦はう。今のところ、癌はないらしい(13年前に前立腺癌に罹つたが)が、自分は老化の進行と死を恐れてゐる。それらを神=敵として、必ずこちらが負ける敵に怯え続けることをできるだけ控へ、気持だけでも明るく立ち向はう。神に敵対できるとはなんたる光栄!大袈裟に言ふと、勇気凛々といつた感じでした。そして、渡邊さんに感謝しました。人様にはお笑ひ草でせうが。
カフカには、サルトルに対する反感(西尾先生同様、サルトルを読まなければ人間ではないといふ風潮に腹を立ててゐました)の影響で、両者の区別もはつきりとはつかないのに、一つも読んでゐません。『田舎医者』を試しにと、言はうとして、「絶望感から生まれた作風」とのお言葉で逡巡してゐます。
『本日休診』『白い巨塔』は映画を見たので、もういいと思つてゐます。因みに、井伏鱒二は、大いに尊敬しつつも、どうも体質的に合はないやうに感じて馴染めません。『荻窪風土記』も、私自身の住んだ土地のことが語られ、且つ太宰治だの檀一雄だの大山康晴名人だのといふ懐しい名前が出てくるにもかかはらず、一読しただけで、井伏の世界に浸るところまではゆきませんでした。出久根達郎といふ直木賞作家が、古本屋の丁稚小僧の時から、鱒二に心酔したと聞いて、偉いものだと思つたことがあります。井伏がテレビで、漱石と内田百閒のユーモアを比較して、百閒の方が上、「漱石のユーモアは中学生並み」と評したのを聞いて、(私が鱒二に近寄れない理由は)これだと感じました。その結論に異議はないし、自分も百鬼園先生の作品はかなり読んで、愛着・敬意も感じるけれども、漱石に対するほど熱狂的にはならなかつた、生まれつきの生理的反応だらうと感じました。
有益な「雑談」ですね。産経が値上げしたことは知りませんでした。渡邊さんから、新聞を取つてをられないと聞いて、天下の碩学・文人が!?と驚いたのは何年前でせう。大先生だからこそ、それでいいのだらうと考えへもしました。当時、我が家は産経でした。長女の家も次女の家も、産経です。どちらの婿殿も私を尊敬してゐるので、その影響でせう。オホン。貴兄のお言葉との前後は分りませんが、小学生の孫から、「同級生の家では、新聞を取つてゐないところが多い。まして、産経の家なんて殆どない」と聞いて、さうかと思ひました。ここで、産経との因縁を少し喋らせて下さい。
我が家が産経に替へたのは50数年前でせうか。それまでは読売でした。論壇時評の担当者(田中美智太郎)が進歩派でないのは、読売だけだつたからです。産経に替へたのは、文革についての報道がユニークである、就中壁新聞の紹介が面白いと聞いたからです。それを担当してゐた柴田稔といふ記者は、どのくらゐ経つてからか、北京を追放され、東京本社の外信部次長になりました。私はすぐに、自分のオフィスと道一本隔てた産経ビルの編集室に柴田さんを訪ねて、自分の編輯する雑誌への連載をお願ひし、快諾を得ました。以後、外信部長→論説委員長時代を通じて、病に斃れられるまでお付き合ひ頂きました。西尾先生から「柴田さんと僕との対談はどう?」と軽く持ち掛けられたことも。それはどういふわけか、実現しませんでしたが、かなり後(昭和54年)、柴田稔―村松剛対談を行ひました。福田内閣・日中条約の時代で、(ソ連に対する)反対覇権条項などがメインテーマでした。天安門事件の10年前です。
その他にも、産経にはずゐぶん御世話になりましたが、嫌になつて久しくもあります。特に、私の嫌ひな安倍さんべつたりなのが不愉快でした(西尾先生は、その前から“小泉べつたり”だと産経を嫌はれましたが)。阿比留瑠比とかいふ記者の安倍提灯記事は、既にお笑ひの域に達してゐて、目くじらを立てる気にもなりませんでしたが。
かく産経を嫌ひながらも止めなかつたのは、他にbetterな新聞がないか誰方に尋ねても教へてもらへず、新聞なしでは寂しいだらうと思つたからです。そのままズルズルときましたが、昨年骨折で40日ばかり入院したのを機に、3月から実験的に、no newspaperの生活を始めました。ところが、案に相違して、殆ど支障ないのです。以前一番お世話になつたのはテレビの番組欄ですが、怪我よりも大分前から、普通のテレビは殆ど見ず、ほぼyou tubeオンリーになつてゐたせゐもありませう。あまりきれいでないものを包みたいとき、新聞紙なしでは若干の不自由を感じますが、まあ、問題外と言つてもいいでせう。
今年、元産経外信部長・論説委員I氏への年賀状に、「産経がかくも与太新聞になるとは思はず・・・」と書いたところ、「至極同感」と電話で言はれました。つい先日、日本文化会議主宰の佐藤松男さんから頂いた電話で、「西尾先生が『正論』にお書きになつた論考」と言はれた私がヘドモドしてゐるので、佐藤さんは「去年の3月、産経の『正論』蘭・・・」と(註)をつけられました。「その3月から・・・」「なんだ、止めたのか」と呆れられました。そんな不都合はありますが、貴兄同様、新聞なしでも、基本的にはビクともしない大物の気分も味はつてゐます。
「依存していた安倍さんの件は完全に予想外だったでしょう。また売れ行きを回復するために、ここ数年、産経新聞は、奇妙な方針転換をしはじめていたのは事実です。右派イデオロギー色を弱めれば、購買者が左側から獲得できると思った気配がある。あれほど熱心にかかわっていた教科書問題に急に冷淡になったのはその一例でしょう。それでここに来ての大幅値上げです」か。
右派イデオロギーとおつしやいますが、安倍さんは左派なのか、右派なのか。私は、骨の髄までGHの毒薬に侵されたこの売国奴を極左と分類してゐますが、貴兄も嘗てこの欄で、「バカ左翼は、安倍さんを右翼だのファッショだのと言ふが、そんな上等なものなら、日本はもう少しなんとかなつてゐただらう」と仰せになりましたね。私は貴見に100%賛成ですが、産経は(そして世間一般も。我が坦々塾会員の多くも)久しく、“バカ左翼”と同じ見方をして、“右派”に阿るつもりで、阿比留記者などを重用してきたのではないでせうか。
とすると、「方針転換」とは、脱安倍を目指して(そのふりをして)ゐるのかもしれませんが、それは、私から見ると右傾化で、極右を自任する者としては慶賀すべきですが、どうもムードとしては、“バカ左翼”に近づかうとしてゐるやうでもあります。そして、それは安倍総理が嘗て「日本会議の指導によつて、ウイングを左へ拡げようとした」(西尾先生による総括)のとそつくりで、亡国への道を辿ることでせう。・・・何が何やら、わけが分らなくなつてきました。その辺について、例の、一刀両断の御断裁をお願ひ申し上げます。
「売れないのに値上げして採算を維持しようとするのは経済学的に完全に矛盾している」「新聞が衰退消滅すれば、新刊文献書籍はともかく、オピニオン雑誌は新聞に比べ早い時間差で確実に消えていく」「いまの状況は二次大戦の枢軸国でいうなら、1944年半ばにさしかかっています。しかし戦略は変わらないどころか、悪い方にさらにむいている」等々、大事なポイントで、しかも他では聞かれない意外・有益な御指摘ですが、私は感服しつつ首肯するのみで、異論も疑問も一切ありませんので、言及を控へさせていただきます。お許し下さい。
貴論に満腔の共感と敬意を捧げます。おかげさまで、私としては、まづ上出来な議論になつたと喜んでをります。