ある旅の思い出

                      西尾幹二

 あれはいつ何処でしたでしょうか 山陰地方のとある城下町でしたね 武家屋敷と旧い商家の並ぶ町でした 行けども行けども同じような軒の深い屋並がどこまでも続いていて 街道沿いの溝には鯉が泳いでいました 

 先生と私は屋並が途切れた所にある一つの門をくぐりました 同行の女の子たちもがやがやとくぐりました 門の内側は床几というか木組みの坐席になっていて そこにみんなで坐りました 先生も私も坐りました 中庭には人影もなく飾りもなくがらんとしていました しかし何もない庭が良くて私たちはぼんやり眺めていました 誰も出てこない庭が良くて 私たちは眺めていました 戸口に人の動きはなく シーンと静まり返っている そんな時間が良くて じーっと眺めていました あれはいつ何処でしたでしょうか 山陰のよく知られた町であることは確かであって つい先頃までは町の名も形ももっとはっきり覚えていたはずですのに

 先生と一緒に歩いたたくさんの町がありました 足が悪いからという先生を置き去りにして 若い者が先にどんどん行ってしまう失礼を笑って見ている先生を私も遠慮なく置き去りにして 自分が見たい名所旧跡を先に見たくてどんどん行ってしまいました そうです 本当に一時間も二時間も置き去りにしてしまったのでした 銅像の並ぶ中央広場も 旧商家の豪邸をぐるりと一周する回遊式の庭園も 先生はご覧にならなかったのではないでしょうか それとも女の子たちに囲まれて賑やかに背後からついて来られたのでしょうか 先生はとある公園の中で 絵ハガキを売っている小さなキオスクの椅子の上に置かれたままにされていて 長い時間笑って待っておられました 先生はお菓子の袋をひとつぶら下げていました そういうたくさんの町がありました そんな旅が私たちの好きな旅でした その頃私は普通に歩けて 先生はほとんど歩けませんでした しかし今は私が歩けず 先生はほんの少し歩けるご様子です 天と地の違いです

 こういう旅をもう一度やりたいですね 夢に浮かんでは消える懐かしい旅の一景です

 時間は二度とめぐって来ません 今私は 閑雑な午後のひとときを 東京の老人ホームの日の射す一室でウツラウツラしながらこれを書いています 無責任な時間です 人生は空に流れる雲のようですね 一瞬たりとも止まりません 一瞬たりとも同じ形になりません しかし 明日になると 同じような似たような形を繰り返すことも間違いありません 「おーい雲よ!」と山村暮鳥のように叫びかけたくなります 子供のときのように声をかけたくなります 「何処へ行くのか?」と

 私の人生はついに終りに近づきました 「何処へ行くのか?」とたえず自分に呼びかけつづけ答のないまゝついに終りに近づきました 先生! 先生は「何処へ行くのかが分っておられるようにお見受けしました それは強みです 人生の強みです けれども ご自身はいつも人生の弱みであるかのようにお振舞いになってきましたね 先生は雲をしかと摑まえているようにお見受けしてきましたというのに 先生と私は残された時間は同じです 先生は迷いなく充実した時間になさるであろうことを私は祈り かつ確信しております

                  (二〇二三年六月七日)

「ある旅の思い出」への6件のフィードバック

  1. 6月13日、18時頃帰宅すると、西尾先生の「ある旅の思い出」といふ文章が載ってゐる。繰り返し読んだ。心象風景が活き活きと描かれてゐて、しみじみとした思ひに浸つた。句読点がないのも、内容にふさはしい。

    西尾先生の「先生」とは誰か。「その頃私は普通に歩けて 先生はほとんど歩けませんでした しかし今は私が歩けず 先生はほんの少し歩けるご様子です 天と地の違いです」とはどういふことかなどと問はれては、「心象」として迷惑だらう。言葉どほりに受け取つて、先生の思ひを我が思ひとして、その静謐の境地を共有すればいいのではないか。強ひて言へば、「その頃の私」も「その頃の先生」も、「今の私」も、西尾先生御自身だらうが・・・。

    「山陰地方のとある城下町でしたね 武家屋敷と旧い商家の並ぶ町でした 行けども行けども同じような軒の深い屋並がどこまでも続いていて 街道沿いの溝には鯉が泳いでいました」といふ出だしは、心象の旅の第一歩に鮮かな印象を与へてゐる。あとは先生の後に蹤いて行くだけだ。 そして、そこには「夢に浮かんでは消える懐かしい旅」があつた。

    ふと気づくと、「今私は 閑雑(?)な午後のひとときを 東京の老人ホームの日の射す一室でウツラウツラしながらこれを書いています 無責任な時間です 人生は空に流れる雲のようですね 一瞬たりとも止まりません」 といふ現実。先生がそれを甘受してをられることは間違ひない。そして、静かなお気持でをられるが、それがいつまで続くかは分らない。悟り切つてをられるとは思へない。いつ、どう変化するかは、御本人をも含めて誰にも予想できないのではないか。

    嘗て「焚書図書開封」を全集に入れるかどうかが問題になつた際、小池広之さんは「入れるために、再構成などを始めると、先生の意欲に火がついて、際限のないことになりかねない。全体の進行の為にも、それは控へた方が」といふ意見だつた。これは、先生をよく知る人の言である。私はそこまでは考へてゐなかつたが、なるほど、さうだと気づかされて、小池さんに賛成した。

    実際、火がつくとメラメラと・・・が、先生の特色の一つであらう。これまで、執筆や行動を中途半端にせずに、粘り強く取り組み、突き進んだ推力の大切な部分でもある。

    「私の人生はついに終りに近づきました」などとおつしやり、それが嘘のない実感であることはたしかでも、今後もずうつと、行ひ澄ましてをられるといふ保障はない。いつなんどき、また何かに火がついて・・・。先生より4歳半下の私が、自身の「終り」を意識しつつ、「終るのは、なんでもないやうな気もするし、怖くもあるし」と戸惑つてゐるのとは次元の違ふ話であるが。

    ともかく、これを書かれた時の御心境を、私は抵抗なくといふよりも、むしろ心地よく受け入れた。
    今日は昼間、坦々塾会員の鵜野幸一郎さんが3月に結婚されたのを、会員4人でお祝ひする会が開かれ、終つて、幹事さん達と喫茶店に寄つて話をつづけたので、帰りが遅くなつたのだ。

    私は、先生の文を読み了へるとすぐに、すぐに、頭を切り替へて、出席者に御礼メールを出した:
    「皆様のおかげで、愉しい午後を過ごすことができました。惜しむらくは、やや時間の足りない感があつたことでせうか」
    「ジューンブライドの気品と美しさ・チャームは、自づと場に漂ひ、御夫婦のありやう、お二人のお心のかなりの部分などが理解できたやうな気がします(私の勝手な思ひ込みかもしれませんが)。最初にお知らせいただいた際の昂奮や“もの思ひ”は、快い納得を以て収まりました。お似合ひの立派な御夫婦だ!といふのが、偽らざる感想です」
    「平素もの静かな小生が、今日ははしやぎ過ぎたと反省してゐます。お許しを」etc

    すぐに、鵜野さんから返事がきた:
    ―   ―   ―   ―    ―
    池田さま 浅野さま 松山さま 小池さま

    昨日(6月13日)は、我々二人の142歳婚祝いの宴を催していただきまことにありがとうございました。いい年してまことに恥ずかしいかぎりですが、皆様に祝福いただき、これほど嬉しいことはありません。

    私共二人の1999年の最初の出会い、二回目の2001年の山手線での偶然隣席同士の出会い、死者の啓示を受けて2023年の元日の出会いもあり、芸術・伝統・文化・国家など互いの哲学・歴史観を理解しあう過程も、ドラマがありました。
    私に物書きの才能が幾ばくかでもあれば皆様おっしゃるように小説に仕立てられ、男女の出会いおよび人生の機微をお伝えし共有できるのでしょうが、遺憾ながら文才も教養も持ち合わせていないので、昨日程度のお耳汚しでご勘弁ください。

    幸いふたりとも仕事には恵まれ、健康な身体の続く限り、それぞれの道で精進し、ひいては、社会や国家に微力ながらでも寄与できれば嬉しく存じます。

    浅野さま、当宴の世話役ありがとうございました。
    池田さま、我々二人の慶事に際し素晴らしい句作ありがとうございました。
    松山さま、仄聞はしていたものの三島、西尾作品コレクションには驚きました。
    小池さま、原発、エネルギー問題の永年の取り組みありがとうございます。

    皆様の、益々のご活躍とご壮健を祈念いたします。

       鵜野幸一郎 拝
    ―    ―    ―    ―    ―
    次いで、小池さんからーー
    ―    ―    ―    ―    ―
    鵜野さま 池田さま 松山さま 浅野さま

    たいへん 有意義で 楽しい 一時を過ごすことができました。
    昨日は (あのあと元会社同僚 と深くやりましたもので )
    撃沈してしまいました。昨日は靖国参拝後 帰柏しましたが過労でPCにも迎えませんでした。 したがってお礼の返信がおくれてしまい申し訳ありません!

    池田さんの俳句の解説を聞き直しました。
    「いずれ、あちこちの歳時記に載るので、メモを取つておかれて御損はない。きっと得をされることでしょう」。お~ 確かに!

    『ジューンブライド 四囲に仰がれ 自ずから』
    「四囲」を 解説くださったのですが  もう少しと(理解をもとめ) 添付の凡例をみつけました。 なるほど、、、、、ストンとおちましたね!
    「上りきて五十四階風薫る」
    あの個室から見る風景、久々に晴れたので、若葉の香りが漂う、風薫るといった感じでしたね。

    あらためて 池田さん! 凄い。

    鵜野さんご夫妻への慶賀 池田さんの冒頭のご挨拶がすべてで 小生も共感です。
    更に 鵜野さんのご報告にありましたとおり 「運命」とは どこかに潜み、そして、誰もが持ち得るんじゃないかと 暫く興奮はとまりません。

    考えてみれば みなさま(小生も)は西尾先生のご縁を頂いたことがあっての「13日の席」で これもまた「運命」と言っても良いのでは ないかと。

    以前にも書いたかも知れませんが、西尾先生、そして皆様との出会いがなかったら『「つまらない半生・・・」(そんな評価になるかも?ですが)』

    そんなこと 考えている毎日です。 世の中不穏な情況となって、いろいろと 考え込むよりもボーっと 生きていたほうが 幸せかもしれないと。

    みなさま ほんとうにありがとうございました。

    お礼まで

    石松こと 小池

    このお二人の文で、会の概略は伝はるだらう。私はここに、会の一部始終を報告するつもりはなく、自分のことを語りたい。

    たしかに、いい会で、「楽しく」て、私は「はしゃいだ」。けれども、喋りたいことを全部喋れたわけではない。私の左右にゐる、小池さんと松山さんが、べらべらしゃべりまくる。おつ、その件なら、自分もかういふ知見を語りたいと思つても、二人の中に割つて這入るのは容易ではない。二人を制止して、「俺にも言はせろ」などと要求したりしたくない。ガツガツするのは嫌だ。最年長者として、さういふ気持を抑へて、にこにこと聴くくらゐの度量を見せたい。鷹揚でありたい。まあ、彼等も無意味なことをまくし立てるのではなく、まづまづ高尚で、面白いことを言ふので、こちらもストレスが溜ることはなかつたが。

    さういふムードの中で、「二人とも腹にたまつてゐるのだらうし、特に、越後の田舎から出てきた小池さんはなるべく多くを吐き出して帰りたいだらうから、僕の持ち時間を譲る」と恩に着せて、「でも、これだけは言はせて欲しい」と二人を黙らせ、謹聴の態度を求めて話した一事――それをここに記して終りにしたい。

    「今日(6月13日)は桜桃忌だね」と誰かが言つたあと、話題は次のやうに進行した。
    桜桃忌→禅林寺→太宰治の墓と森鴎外の墓→鴎外と西尾先生(先生は西ドイツ留学中絶えず、鴎外・荷風を意識された)→西尾先生と三島由紀夫→三島由紀夫と鴎外。
    ここで、私が話を引き取つて、小池・松山両氏を制して、かう喋つた。
    ――三島は「文づかひ」に関連して、鴎外を「西欧の物語世界に参入し得た、しあはせな、最後の日本人」と呼び、「鴎外以降、その世界に這入り、そこの一員として振る舞ひ得た日本人は一人もゐなかつた」と評した。ここで私はハッとした。
    これこそ、近代日本の真実ではないか。幕末にも、明治初期にも、“西欧”社会に自然に溶け込める日本人は幾人もゐた。西欧も日本も、同等の文明社会、文明国だつたからだ。然るに、それがあとを絶つてしまつた。向かうが変質して厳しくなつたのではない。こちらが意識せぬまま変つて、“参入資格”を喪失したのだ。

    これは、三島の聡明さと透徹した眼力による大発見だ。もしも私が三島なら、大声で、オーイ、こんな真理を見つけたぞ、みんな聞いてくれと叫んだことだらう。
    しかし、三島はさりげなく、あつさりと、ぼそぼそと、日常の些事のごとく、小声で語るのみ。彼が天才であることはたしかだが、私には、時々、その片鱗の片鱗がかすかに見えるかどうか。全体像を描くことなど、夢のまた夢・・・

    後の日本人は、しかも、そのことに気づきもせず、様々な喜劇を演じた。横光利一の『旅愁』。あの中で、パリのオペラ座に燕尾服で登場する日本人、想像するだに、身震ひせずにはゐられない。得意なのは、自分だけで、ヨーロッパからは全く受け入れられてゐない。しかも、横光は、そこに「日本とヨーロッパとの対決」といつた大袈裟なテーマを持つてきた。その滑稽さに気づいてゐないのだ。福田恆存が横光を厭悪した理由は、そのあたりにあるのかも・・・。安倍総理がプーチンに対して「ウラジーミル、君と僕は・・・」と言つたのは、その滑稽・気障を何百倍にもしたものだ。しかも、殆どの日本人は、これを嗤ひせず、耳をふさぎもしなかつた。

    「最後の日本人」が鍵だ。「文づかひ」が書かれたのは、明治24年だが、鴎外が帰朝してからかなり時が経つてゐる。「最後」は10年代末になるのでは。

    大東亜戦争での敗北も、三島の自決も、これで解けるではないか。数年前、西尾先生が、「こんな国はいづれ地獄に堕ちるだらう」と言はれた惨状も然り。あれから僅かのうちに、この惨状は雪だるま式に。小池さんと「我々は、西尾先生から地獄行きの指定券をいただいてゐる。その前に、せいぜい旨い酒を飲んでおかう」などと戯れた際は、なんとなく、少し余裕があり、我々の死後のことだらうくらゐに、高を括つてゐたが、今や、焦眉の急の感も。自身の肉体の死にも平然とはしてゐられないが、それに加へて・・・。安心立命の境地にはほど遠い――

    お祝ひ会のことから、西尾先生の文章に戻るが、ここで、先生お得意の人生論をお願ひできないでせうか。我等悟れない凡夫のために。

  2. 今日(15日)、鵜野さんから、下記の嬉しい追加メールがきました、

    池田さま 小池さま 松山さま 浅野さま

    一昨日は、楽しい会を催していただきありがとうございました。

    先般、西尾先生から祝福したいので夫婦で来るようにと電話があり、松山さんも西尾先生からその
    主旨の要望を預かったとのメールを頂戴しました。
    そこで、先生の携帯に電話を掛けるのですが、なかなかお出にならないので、昨夕直接先生のおら
    れる施設に参じました。すると、幸運にも支配人の取り計らいで短時間ながらお元気そうな西尾先
    生にお目にかかることができました。
    西尾先生との日程調整の結果、26日に我々新婚夫婦で西尾先生と面談することになりました。
    先生との面談で面白い話をすることができ、差しさわりがなければ、ご披露したいと思います。

    池田さま

    池田さんが、口頭で披露された句の一つ目は下記のように表記してみましたが、正しいのでしょうか。
    いずれの句も、今回の結婚祝い会のいきいきとした情景を上手に切り取って見せていただけて嬉しい
    限りです。結婚記念にさせていただくと同時に再度御礼申し上げます。

    『昇り来て 五十四階 風薫る』
     
    『じゅーんぶらいど 四囲に仰がれ 自ずから』

    『五十四階に哄笑起きぬ梅雨晴れ間』

    小池さま

    鴎外・漱石・露伴の中では作品の中に古武士の雰囲気が漂う鴎外が好きなのです。
    しかしながら、戦後文学界において漱石等に比べて評論が少ない乃至評価が低いようなのが昔から気に
    なっていました。西尾先生も鴎外を高く評価されていことは嬉しいことです。

    一昨日の東天紅前での写真を添付します。

       鵜野幸一郎

  3. 気弱な先生と、強気に鼓舞する自分(声をかけながらも どちらも西尾先生ですね)
    さらりと 紐解いて書いた 池田さん 流石です。 ぱちぱちぱち♬
    私は
    2020年11月 「伊勢、熊野、高野山」坦々塾有志の旅でこの情景に近いことを思い出したのです。先生が
    三島由紀夫の憂国忌 40周年での講演を終えた あとの旅行でした。 当時、坦々塾の世話役(幹事長)の大石さんに 「あんた 西尾先生の世話役になってね」と 依頼されていました。
    13年前ですから現在ほどではないと思うのですが「足腰が 弱ってとなぁ」と先生。
    「転ぶと大変ですから」そう言ってずっと 先生のお供をしていました。

    旅の初日、
    伊勢の参拝を済ませ、五十鈴川と紅葉をバックに記念撮影、次の行程まで、時間があいたので  30分ほどの休憩、出発まで自由行動としました。みなさんは
    おかげ横丁での 土産の買い物で出かけましたが 私は先生と一緒していました。集合場所となった、おかげ横丁のある茶店で先生と座って雑談をしていました。そのうち、陽射しが気持ちよかったのでしょう、目を閉じられ少しお休みになって
    いました。 集合時間どおり、にみなさん その茶店にやってきたのですが、先生の様子(うとうと)をみて誰一人として 先生に「さあ、出発の時間ですよ、先生!起きてください」と、声をかける人はいませんでした。
    「お疲れになっているのだろう」誰も口にしませんが、そういう雰囲気でした。この旅に参加した有志(私を含め)心根の優しい方ばかりです。 素晴らしい!

    熊野古道では 2班に分かれて1時間ほどのコース(2~3KM)といあったところでしょう、歩かれました。 何処から拾ってきたのか、杖のような棒を抱え込んで「こんなに弱ってしまったところを写真とってよ」
    と言います。 その写真を 再見すると 笑顔なんですよ(笑) 繰り返しになりますが、あれから13年です、先生74歳。それから月日は流れ 大病もされた、体力の衰えは日々感じておられるのでしょうね。(弱気の先生が窺われます)

    一方で 気力、知力は衰えを知らず、まだまだ お元気な先生も容易に想像できます。
    万一私の思い違いであれば 
    この物語を 読んでいる 西尾ファンに対して(想像を壊してしまって)また、先生に対しても失礼になりますので 池田さんの文章に相乗り? させてもらい、ジエンドと致します。 鵜野さんのお祝いは 池田さんへの反論込みで 別途 アップします。(笑)

    小池

  4. 石松(小池)親分

    伊勢、熊野、高野山の旅――13年前、さういふものがあつたのですね。大石さんから、先生の世話役を。適任ですね。

    喫茶店での情景、見事に描かれてゐますね。
    熊野古道では、棒を拾つて杖代りに!いいところを記憶してをられますね。その時の先生が、今度の文章で、先生から、「先生」と呼ばれる先生のやうな感じです。

    感動しました。いやはや、石松親分がこれほどの名文家とは!?先生に対する思ひが滲み出てゐることは勿論ですが、先生の人物研究上の史料的価値もあります。ブラボー!

    私へのメールでは、写真が3枚添付されてゐましたね。どれも、いい場面です。
    写真(1)石段を降りる先生。左手は手摺りに、右手は杖(棒?)を。その横、先生に付き添ふ石松親分。
    (2)先生は左手にマフラー、右手は棒(?)に。うしろに蹝くは鵜野幸一郎氏。石松親分は先導(露払ひ)?
    (3)石段の途中で一息入れる先生。両手を棒に。
    いづれもbest shot。

    日録にこれらの写真が載らないのは残念!でも、名文だから、読み手のimaginationを刺戟して・・・。Good job!

  5. 投稿の訂正です

    2020年11月 →2010年11月 (正確には27日~29日です)
    です。 26日の深夜11時 東京発 車中泊で伊勢のお参りは早朝6時頃でした。

    ちなみに翌年 2011年9月に台風 12号が 紀伊半島を襲い 死者2名行方不明1名と被害甚大 とても旅行とはいかなかったでしょう。 

  6. 「ある旅」の一コマを老人ホームの一室で思い起こすひとときを、「山陰のよく知られた町」ということ以外示さなくても、風景やその場の心情がはっきりと私の心に浮かぶ詩です。

    西尾先生は、山村暮鳥は小学生の頃の愛読書だったと先週(6月15日(木))、お電話で教えてくださいました。

    じつは今からちょうど一年前の六月下旬の日曜日、『西尾幹二全集第21巻B』の拙文に登場する方々のお名前が正しいかを確認するための茨城県再探訪の際、水戸市内の二十三夜尊門前の多田商店を訪ねました。その折に、西尾先生の附属中学時代の同級生、故多田尚弘(よしひろ)さんのご子息で、商店の現総領の尚朝(よしとも)さんが二十三夜尊の近傍の常盤共同墓地の回天神社や天狗党、藤田幽谷、東湖の墓所などを案内してくださいました。

    続いて案内してくださった所は、常盤共同墓地から少し離れて、小さな谷や杉林の小径の坂道を登り、ようやく抜け出た所にある他所の寺院が管理している墓地。そこに山村暮鳥の墓所がありました。墓所の看板には『「雲の詩人」山村暮鳥』として以下の詩がありました。

     おうい雲よ
     いういうと
     馬鹿にのんきさうぢやないか
     どこまでゆくんだ
     ずつと磐城平(いわきだいら)の方までゆくんか

    多田さんは西尾先生が小学校時代に愛読されていたことはご存知ではありません。暮鳥の墓所は、ご自宅近傍の名所の一つとして案内してくだったのでしょう。
    西尾先生も暮鳥の墓所が二十三夜尊の近くにあることはご存知ではありませんでした。多田さんが暮鳥の墓所を案内してくださったことをお伝えしたことも先週初めてお伝えしました。
    恥ずかしながら、私も暮鳥のことはよく知りませんし、多田さんが案内してくださったときも、それほど気を惹かれませんでした。

    結核を患っていた暮鳥は、『雲』の出版を見ることなく四十歳で早逝されたそうですが、詩は次のように続きます。

     雲もまた自分のやうだ
     自分のやうに
     すつかり途方にくれてゐるのだ
     あまりにあまりにひろすぎる
     涯(はて)のない蒼空なので
     (以下略)

    過去は戻らず、今現在が永遠に続くのみで、未来は今現在の中で、想い描いたり追いかけることしかできません。文学や詩などの芸術表現は、過去も未来も今現在の自分に引き寄せてくれる作用があるのかもしれない。西尾先生の『ある旅の思い出』と暮鳥の『雲』を照らしてそんなことを考えさせられました。
    そして『雲』の序文を目にすると、西尾先生のご執筆活動の姿勢まさにもこうなのではないか、と思わずにはいられません。以下引用いたします。

     藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。

     詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。

     だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。

     詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。

     善い詩人は詩をかざらず。
     まことの農夫は田に溺れず。

     これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
     なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

     ――藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。
     藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に關はる。
     その妖怪を逃がすな。
     それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。
    (引用おわり)

    多田さんを訪ねた時、西尾先生からの『西尾幹二全集 第15巻 少年記』と私の地元(栃木県足利市)のお菓子を手土産に差し上げましたが、多田さんからは群馬県館林市の珍しい2015年製造のヴィンテージのお酒を頂きました。まだ封を開けず拙宅の冷蔵庫にありますが、この機会にこそ頂こうかと考えております。

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