若いころ「朝まで生テレビ」に出演した映像を、たまたまインターネットで拾った。
日付もわからないけれど、文字起こししました。
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ドイツの話が出ているから申し上げますとね、ドイツはその五十年後の前の話はもう忘れて、あるいは許されてというけれども、おそらくドイツは千年後も許されないだろうと私は思いますね。つまり、ドイツのやったことというのは、日本のやったことと根本的に違う。ひとつの民族を地上から抹殺するために、600万700万の人間をですね、強制収容所に入れてガス室で殺したというその犯罪はですね、おそらくスターリンが似たようなことをやっているかもしれないけれど、おそらく全く日本の軍国主義なんかと比肩できるような問題じゃないんですね。
でそこでですね、日韓という関係でよく言われるのは、ドイツとポーランドの関係なんです。みなさんはね、ドイツのやった犯罪についてはユダヤ人とかジプシーのことばっかりを考えているかもしれないけれど、ドイツのやったポーランドに対する犯罪というのはすさまじくてですね、ドイツ人はポーランドの占領時代に小学校四年生以上の教育は許さないと、百まで数え、五百まで数えられるべく自分の名前が書ければ良いと、あとはドイツ人に従順な奴隷を作るために高等教育を受けたものは粛清されるべきだと言って、実際に占領地時代に百万人の指導階級が虐殺されているんですよ。百万人ですよ。そしてたとえば学校の教師とか弁護士とかってのは軒並み理由もなく連れ去られて虐殺されているんですね。
そうしてですね、そのようなことをやったポーランドとドイツの関係は複雑ですけれども、そのポーランドですらも露助よりは良いと言っているんです。ドイツには文化があるからと。ロシア人よりはまだいいと、ドイツには文化があるからと。それが世界の歴史のすさまじい現実なんですよ。
そこで比較して比較で申し上げますよ。小学校四年生以上の教育を与えないといったドイツと日本が朝鮮民族の絶滅を考えたことが一度でもありますか?夢に見たことさえないでしょう、そんなこと。それどころか、日本人になってくれと言ったんじゃありませんか。いいですか、小学校四年どころか、京城には京城帝国大学を作ったんですよ。京城帝国大学は大阪帝国大学よりも前に作っているんですよ。台北にも帝国大学を作りましたが。そしてそれはどういうことを意味したかというと、日本の優越感だったでしょう。高等教育を与えてやっているんだぞという類の、優越感があったことは間違いありません。しかし、それがその後に韓国に切り開いた近代化の道になんにも役に立たなかったなんていうことは絶対にあり得ないはずです。それを素直に認めなければ、日韓関係は正常なものにはならないだろうと、私は思います。
よく時々変なことを言う人がいるんですよね。ユダヤ人に対して十分な償いをしたドイツ人の百万分の一も日本人は韓国にやっていないと。そりゃあやったことが違うんですから。例えばエコノミストというのが七月に日本人が外国からもうとやかく言われるのはもう時代が終わりだと、五十年前の歴史は政治家が議論すべき問題ではなくて、歴史家に委ねるべきだというよう発言がありました。
私がこの動画を初めて見つけた時、まさに国民の歴史にある[32]私はいま日韓問題をどう考えているかと[33]ホロコーストと戦争犯罪で書いてあることをそのまま言及されており、言文一致な点で自らの思想を貫徹されていることに驚かされました。
また、似たような動画はいくつがあったはずですが、YouTubeで探してみたところ削除されてしまっているようでもございますが、あの若かりし頃の西尾先生の動画をもって「私の保守主義」と概要欄に書いている方がいました。この動画だけでそこまでの主義を持つのは早いと思いましたので、そこまで言うならせめて「国民の歴史を必読せよ」と投稿したことがあります。
さらには、この動画が投稿された時に多くの人がYouTube界隈とTwitter界隈では辛光洙氏が西尾先生があまりに慰安婦問題に対する日韓の歴史の問題とポーランドに対するナチスの所業の差異を的確に述べたてるものですから、反論する余地もなく頭を抱えているのだとコメントしていたことも思い出されます。しかしながら、もう少し長い動画が昔はあったんですが、軽く辛光洙氏は反論しているんですよね。それでも西尾先生の論が勝っていたように思います。まさに、反論するならば相手が持つ「神」を穿ったのだと言えましょう。
最後に驚くべきことに相手の話に割って入る田原総一朗氏が黙って聞いているんですからYouTube界隈またはTwitter界隈では歓喜に湧いていました。
西尾先生が若かりし頃にドイツ留学の際に培われた討論の数々が現在でもそうですが、YouTube界隈とTwitter界隈で通じたのだといえましょう。
鷹 様
林房雄の『文学的回想』に、次の一節があります。
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あの大詔を私とは全く逆の気持で聞いた日本作家もいたことを、つい最近『自由』二月号で、若い評論家西尾幹二氏によって知らされた。その作家は堀田善衛氏で、氏は当時上海にいたが、戦争中日本側に協力してくれた中国人の運命を心配しており、ただ、天皇がそのことについて「なにを言うか、何と挨拶するか、ひたすらにそればかり注意して聞いていた」という。そして天皇が中国人の協力者に対して、ただ「遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という「嫌味な二重否定」をしたきりで、ほかに何も言わなかったことを、氏は「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の躯にこたえた」と非常に憤慨している。
「放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前の言うことはそれきりか、それで事がすむと思っているのか、という怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身が震えた」(堀田氏『上海にて』・昭和三十四年)
これに対して西尾氏は言っている。「一体本気なのだろうか。ふざけているのか、・・・堀田氏という人はよほど特異な感情の持主に違いない。ーー私ははっきりと言っておく。堀田氏はけっして怒ってなどいない、ただ酔っぱらっているだけである。・・・大向うの進歩主義者の喝采を期待する自分自身に甘えている。天皇への怒りが正義であるという戦後流行の観念はあっても、怒りそのものはない。・・・こうした正義派のうぬぼれは、私には、死者への冒涜であるとしか思えない」
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若き西尾先生の断裁、小気味いいですね。私自身も若かつた時から、何百回となく読んだので、今でも、先生の言葉は、宙で、楽に言へます。
数年前、ここの管理人さんが、「(西尾先生の)裏方として、先生に飛んで来る批判の矢を痛いと感じるのです」と書いた時、埒もないことに、私はこの部分を思ひ出して苦笑しました。この科白が先生の目に触れたら、何とおつしやるだらうかーー
「管理人には決して痛みなどない。ただ酔っぱらっているだけである。大向うの西尾ファンの喝采を期待する自分自身に甘えている。西尾の痛みを己が痛みとすることが正義であるといふ、坦々塾に普き観念はあっても、痛みそのものはない。・・・」
では、管理人さんは嘘をついてゐると決めつけられるでせうか。本気で、「痛いと感じてゐる」つもりなのかもしれないのです(もしも、本当の実感なら、とても恥かしくて、人には言はないでせう。自身の心の中に、そつとしまつておくべきことです。その実感がないからこそ、口に出すのです)。西尾先生には、こんな箴言もあります。
「他人の目を瞞すことは、ときには生産的でさえありますが、自分で自分を瞞すことには救ひはありません」。
プラトンンも言つてゐます「知つてゐてつく嘘の方が、知らないで言ふ嘘よりはましだ」。
この伝で行くと、管理人さんは・・・? いやはや、先生の目を誤魔化すことはできません。
池田様
ご無沙汰しております。つい最近まで日録が原因不明で閲覧できない事象があり心に穴が空いている状態でしたが、回復して良かったですね。
さて、堀田善衛氏の論に対する若かりし西尾幹二先生の反論は今西尾幹二全集第三巻「懐疑の精神」を再読しているので改めて読みました。真実を語るとき、孤独になるかもしれない自分との覚悟と言いしれないことを自分の言葉で語る葛藤があります。そして、西尾幹二先生は「男子、一生の問題」の中で討論する時は相手の「神」を打てと言及しているようにあくまでも個人攻撃の不毛さと人との闘い方を学びました。
しかし、周りからすると聞いていて小気味よいですが、それを自分でするとなるとどうでしょう。苦しさなど負の感情に苛まれるのではないでしょうか。その感情が無く意見を申し述べるほど、薄っぺらなものはありません。私は、大学生時代に所属していたサークルの学祭の催しごとに対する姿勢を質したところ、四年間その催しごとには出させてもらえませんでした。内容としては、放送系のサークルで公開収録で大きい教室や高い機材をレンタルしているのに地域住民の方は誰も来ず宣伝という宣伝せずに仲間内だけで叱咤激励しあっている姿に対しだいぶ酔っているなと感じたのです。だからこそ、四年間別の活動をしながら所属し続け訴え続けたのです。結果、公開収録に限らず地域住民の方や同じ大学の学生にサークルを知ってもらえるようにいろんなイベントで司会進行や機材操作をする機会が出来ました。
私が常々感じるのは、真実を語る者は自分で変えようとせず相手の意識や集団の意識に波紋を起こすだけで十分なんだということです。変革をするとなると、前に池田様に言いましたがGHQ焚書図書開封に対する西尾幹二先生の状態になってしまうのです。人には人の分があります。
>鷹様
コメントありがとうございます。
Twitter界隈!?でそのような反応があったのですか。
真実を語る言葉はいつでも有効だということですね。
テレビ朝日に何度もこの動画の日時と出演者など問い合わせしていますが、
不明と一度だけ返事があり、あとは全く返事がありません。
著作権の問題で本当はここに表示してはいけないのかもしれませんが、
ご本人の言葉のみなので良いのでは・・・・という判断でリンクしています。
誰かが録画し、保存し、拡散し、削除され、また拡散され・・・・・
の繰り返しだと思いますが、あのすぐ人の発言を邪魔をする田原総一郎氏でさえも、
沈黙してしまった名演説?です。ほかの出演者もじっと聞き入っています。
日本中の皆に聞いて欲しい動画です。
管理人様
大丈夫です、日本中に既に知れ渡り聞いている状態です。
なぜなら、28歳である私より下の世代が見ているのです。これが、SNSの御業と言えましょう。
これは青年のころにリアルタイムでテレビで見ていて衝撃だったですね。「まともな知識人はもう日本に数人くらいしかいないのか」と絶望に襲われました。西尾先生は大学入試の入試問題でも盛んに引用され、ヨーロッパも日本も理解し洞察する知識人として例外的にこの番組に呼ばれていたと推測されますが(今でも読む価値がある古典)、この番組に登場する論客は大部分が二流で茶番のような番組でした。現在はWikipediaの「ポーランド人に対するナチスの犯罪」のページあたりで、この辺の情報が整理されています。また、Youtubeなどではヒトラーやゲッペルスの狂信的な当時の演説を見ることもできます。西尾先生のリアリズムはドイツに関しては川口マーン惠美氏などに継承されているのでしょうか。客観的に当時の日本の歴史を振り返って、(ここは西尾先生と認識が少し異なるかもしれませんが)必ずしも欧米やアジアは「戦前日本もナチスドイツと同じようなものだ」という狂ったステレオタイプの像をつくりあげる欲望はありませんでした。欧米はソ連など東側と対立し日本を取り込む必要があり、アジアは日本の技術を欲しがっていたからです。わざわざ日本人を謝罪マニアに追い立てるニーズはありませんでした。(日本を独立させないため、また米国の原爆投下を正当化するため日本を謝罪地獄に落とそうとしたという解釈を私は断じてとりたくありません。当時の私の見てきた見聞とはかけ離れています。それは欧米人の一部はそういう潜在意識を持っていたでしょうが、明白な政治的意図として結晶はしていませんでした)。しかし、唯一といってよいほど、日本の朝日新聞やNHKなどメディアと学界や教育界とメディアをほぼ完全に支配した極左が、この方向にいっきに日本や世界の世論を動向づけるように集団的に突進しました。その理由は明らかでした。朝日新聞は文化大革命以来の捏造報道や共産圏賛美の軽薄報道が見直されて、極左の信奉する共産主義国家は青色吐息で分が悪かったのです。そのため極左の十八番の過去の日本の断罪に一点特化して言論を編み上げ、イデオロギーを構築していました。最悪なのは朝日新聞やNHKなどの読者や視聴者が多すぎて、その流れをせき止めることはできず、何か反論しようものなら政治家や官僚は言葉を切り取られて極左マスコミの集団リンチにあうしかありませんでした。どれほど日本の名誉を過剰に破壊したでしょうか。南京虐殺や従軍慰安婦で狂ったプロパガンダは率先して日本の極左マスコミから世界に発信され中国や韓国でその手の歴史博物館が濫造され、日本人はその反作用で苦々しいながらも、狂った集団マスコミの重圧に押しつぶされそうになっていました。現在では、何事もなかったように朝日新聞やNHKは知らんぷりして黙殺しています。しかも、その後になって色々学んでわかったのは、このメディア勢力こそが日本がナチスドイツと組むように戦前の世論をマインドコントロールし、政治にも働きかけたおぞましい勢力でした。日本がナチスドイツと同盟した罪は日本人の一人として苦々しく思い、はるか遠い時代とはいえ責任の一端は感じます。しかし、これら集団マスコミの超人格的意志は「永久に日本国民全体に罪をなすりつけることにより、これらおぞましい言論機関の罪を薄めて正当化しよう」という意図があったとしか思われません。
この番組の放映日がいつなのかは、先生ご自身に聞くのがベストだと思います。インターネットの動画サイトを調べると、この3分程の動画は、ある人が「朝生」という長い番組の要点を切り取ってアップした後、複数の人が、再度これをツイッター他に拡散したものと思われます。今残っているものを見ても、放映日の記載はありません。
私が「朝生」で記憶にあるのは、移民論争で先生が出演された時です。
『西尾幹二の思想と行動②日本人の自画像』の中に、移民賛成派の石川好氏を批判した文章(『正論』1988年3月号、『戦略的「鎖国」論』講談社所収)があるので、「朝生」での移民論争は、少なくともこの1988年前後です。テレビ朝日の「朝まで生テレビ」が始まったのが1987(昭和62)年、ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月9日で、先生はこのことに関しても様々な言論活動をされていますから、この短い動画も、ほぼ同じ頃のものだろうと思います。
私が先生の読者になったのは、ずっと以前なので、「西尾先生はテレビにも出られるのだなぁ」と驚いたことを覚えています。「つくる会」が出来たのは平成8(1996)年ですが、日本に移民を入れたい、或いは日本を潰してやろうという勢力は、『国民の歴史』が出版される以前から西尾先生を敵視していたことは明らかです。
Youtubeの日本語版サービス開始が平成19(2007)年6月19日、ネットのテレビ朝日サイトもありますが、始まったばかりの頃の「朝生」の記録はありません。もちろん担当者も変わっているだろうから、この短い動画のことも、若いスタッフは知らないでしょう。
しかし「移民」や「慰安婦」など、世論を巻き込んで“大事”にしたくない勢力は、「そんな番組内容は伏せておこう」と思っている可能性もあります。管理人さんがいくら問い合わせても、知らぬ存ぜぬ、との態度はそういうことじゃないでしょうか。
関連する内容は、2019年1月26日の文春オンラインの先生へのインタビュー記事にあるので貼っておきます。
平成の大ベストセラー『国民の歴史』の西尾幹二が語る「保守と愛国物語への違和感」
https://bunshun.jp/artides/-/10473
蛇足ですが、この短い動画の元動画は確か「頭を抱える辛淑玉」となっていたと思います。
最近はテレビにも出ないようですが、辛淑玉の言論はいくつか覚えています。
・「私、朝鮮学校は体罰があるから大っ嫌いなんです」
・「三枝さん(作曲家の三枝成彰)って、いかにもフェミニストって感じなのにワンマンなのよね~(笑)」
・「私は、この国を様々な価値観がある社会に変えていこうと思ってるのに・・・」(というような意味のことを言っていました)
・「小さい時から色んなアルバイトをした・・・・」(日経新聞 「差別」の中で必死に生きてきた人ということで紹介された記事だったようです)
あの人が最近テレビに出ないのは、以前外国に移住した云々の話があったし、テレビの出演者の世代交代もあるのかもしれません。
しかし私は思うのですが、あの人の「在日」としての派手な言論活動その他が、「まずい」と判断されたのではないでしょうか。
というより、少なくとも芸能界では、そんな「活動」をしなくても、もうすっかり日本という土壌に「彼ら」が浸透し、実権も握ったと判断しているからではないしょうか。
というのも、昔のように「日本名を使っても、あの人は実は・・・」といった話は出てこなくなった・・・というのは、つまりあまりにもそんな芸能人が多いからなのです。
具体名は挙げませんが、どう見ても容貌も演技力も大したことない俳優が、NHK大河ドラマ(まだ一応は権威があると思われている)に何度も出て来る、また日本人俳優は主役には起用されないなど、テレビでも映画でも、観客に「何かがおかしい」と思わせるようなケースがあまりにも多いのです。
4,50年前までのテレビ番組を知っている人は、現代のテレビ番組が、すべての面における質の低下で、目を覆わんばかりの状態にあることに、異論はないだろうと私は思っています。
文春オンラインの記事のURLが間違っていました。正しくは以下の通りです。
https://bunshun.jp/articles/-/10473
「朝まで生テレビ」のこの放映回、おそらく1989年頃ではないでしょうか。とすると私が高校2年生、「朝まで生テレビ」全盛期で、毎月第4金曜日深夜のこの番組が、ある種のオンライン月刊誌の様相さえ有していた頃です。
この「オンライン雑誌」で保守系·右派の常連はなんといっても西部邁さんと渡部昇一さん。西尾先生は多数回出演されていていましたが、かならずしも常連ではなかったように思います。
この番組を毎回視聴していた私からして、この3論客の比較はたいへん面白かった。まず西部さん。西部さんの左派側への批判は、足元を救うような、鋭い冷笑さの言葉の運びが強烈でした。これはたぶんに西部さんの左翼体験のなせる技だったのでしょうが、アグレッシブに相手を痛罵したい若者の本能的感性には、西部さんがなんといってもフィットするようにみえました。
渡部昇一さんは、巧みに一般論で切り替えして左翼側を翻弄する。たとえば大嘗祭や神社を非難する共産党の上田耕一郎さんに、「世の中になんの間違いも犯さない宗教なんてありますか。カトリック、イスラムなんてみんな人殺ししてるけど、それでその宗教が否定されちゃうなら、おたくの共産主義という宗教も否定されますよ」というと、上田さんはそんな一般論の逆襲にぐうの音もでず黙り込んでしまう。
この二者に比べて、西尾先生の朝生マガジンの言論は「間違ったことをいわない怖さ」という印象をいつももっていました。恥ずかしいことに、高校生の私はまだ文学書三昧で、この三者の本を一冊も読んだことがありませんでした。だからまさに、「朝まで生テレビ」のイメージがすべてだったわけですが、西尾幹二という論客は、相手を最初から最後まで情け容赦なく倒すという西部的ディベートでもなく、相手を一般論で追い詰める渡部的話術でもなく、短い時間に、問題課題の全体的内容をすべて詰め込み、「真理」を論証したのち、その真理の力で相手を圧倒する、という順の論客というイメージです。
「この人は間違ったことを言わない」という印象は、高校生くらいの若造には、親近感よりも怖さを与えるものです。セネカがたしかいってますが、若さとは複雑で、間違えるものにヒロイズム的に憧れてしまう逆説的性格がある。だから、何にも知らなかった私は、「間違えたことをいいそうな」西部さんにまず親しみを感じ、「間違えたことをいわない」西尾先生に畏怖の距離感をおぼえたのだ、と今になり気恥ずかしく思っています。
いい歳の今になってあの頃の映像をみれば、西部さんには、朝生マガジンでのロジック、思想として残るものはほとんど希薄です。少なくとも朝生マガジン内で「叩く」しか残らなかった。左翼が衰退しきってしまったいま、西部さんの映像の活躍をみても、今に生きる残るものはほとんどないわけです。自分は、西部さんのあのシニシズム的論理術に、若さゆえに、安直に憧れていたなだな、とさえ思っています。渡部昇一さんの根本もさして変わらないというべきでしょう。
この二者に比べると、西尾先生は、たとえあのようなディベート見せ物でも、後世に残る可能性を信じた「思想」「言葉」を語ろうとしていたことがよくわかります。このドイツ論、韓国論にしても、極小といっていい短い時間の制約に、(今だっていくらでも生かせる)びっしりと興味深い内容を、しかも整然と詰め込まれているわけです。繰り返しになりますが、真理を論証して、そののちに、真理の力で相手を圧する。これは本当の意味での言葉のコモンセンスにまったく一致している。高校生の無学な私にはそれはわからかったし、基本的には、言葉の不毛な論争プロレスのような「朝まで生テレビ」には、西尾先生は、ある意味、不向きだったのかもしれないと感じます。
今一つ、朝まで生テレビでよくおぼえているエピソードがあります。これも1989年くらいだったと思いますが、ほとんど知識も見識もないのに、超常連だった大島渚が、西尾先生に向かって「この人のいってること、面白くなさすぎるよ」という無礼千万な暴言を吐いたことがありました。高校生の私も、さすがに「だったら、おまえ(大島)は、単におもしろいだけだろ」と思って頭に来ました。でもよく考えてみれば、あの朝生テレビマガジンは、大島渚も野坂昭如も小田実も、さらには司会の田原総一朗も、「面白主義」の言論を振りかざしてる面々で、特に後世に残るものは何もなかったということなのでしょう。この面白主義に乗っかかることが出来る要素を、たまたま西部さんや渡部昇一さんはもっていた。「思想」「言論」を残そうという王道を決して踏み外さなかった西尾先生は、いまみれば小気味よく孤立していて、その孤立は誇るべきものだった。「孤立と真理と強さは親類どうし」(イプセン)ともいいます。懐かしい「朝まで生テレビ」の映像を前に、あれから30年以上過ぎて生きている私はそう思っています。
渡邊 様
貴論を拝読、感心して納得しつつ、あれこれと思ひ出しました。ほとんどが個人的なことですが、アットランダムにーー
①20数年前でせうか、西尾先生に、劇団四季による「解つてたまるか!」(福田恆存作)の公演に連れて行つていただきました(先生は切符が2枚手に這入つたのでせう)。幕間に、ロビーにゐると、近くを田原総一朗が通りかかり、先生と田原さんは挨拶を交しました。どこで知り合つたのだらうと考へましたが、朝ナマのことは頭に浮かびませんでした。この番組を見たことはあつたのかもしれないが、先生も時折出演されるとは未だ知らなかつたのです(後に、知つてから、「あんなものにもお出になるのですね」と冷かし気味に申し上げたことがあります)。
②「解つてたまるか!」に出てくる進歩的文化人の映画監督について、「あれは大島渚(がモデル)ですね」と先生に申しましたが、私の声がよく聞えなかつたのか、反応はありませんでした。先生は大島渚のことを御存じないのだと思ひました。先生・大島の有名なやりとり(後に、先生御自身が、そのことを語られました)を私が知らなかつたのです。
③西部、渡部、西尾の比較論には、肝腎要をしかとまとめられたものだと感服しました。「西尾幹二という論客は、相手を最初から最後まで情け容赦なく倒すという西部的ディベートでもなく、相手を一般論で追い詰める渡部的話術でもなく、短い時間に、問題課題の全体的内容をすべて詰め込み、『真理』を論証したのち、その真理の力で相手を圧倒する、という順の論客というイメージ」とは見事な総括!そして、西部さんも渡部さんも、「今に生きる残るものはほとんどない」には頷かざるを得ません。
⓸「『思想』『言論』を残そうという王道を決して踏み外さなかった西尾先生は、いまみれば小気味よく孤立していて、その孤立は誇るべきものだった」も、そのとほりですね。もつとも、先生は「不向きだったのかもしれない」にも同感で、エンタメ番組での孤立がどれだけの意味を持つのか、リアルタイムで見たら、あまり評価しなかつたかもしれませんが。
私は我が子よりも若い渡邊さんを仰いで、教えを乞うてきましたが、朝ナマに関しては、加へて、実体験にも大きな格差があり、愈々その権威を認めざるを得ません。これまた、人生の楽事なるかな。
鷹 様
「今西尾幹二全集第三巻『懐疑の精神』を再読しているので改めて読みました」には敬服の至り。私は、全集については、「特別の場合以外、パラパラとめくる程度です」と、西尾先生に申し上げて「パラパラぢや駄目だよ」と叱られました。貴兄のやうな真面目な読者を得て、先生はおしあはせです。
「真実を語る者は自分で変えようとせず相手の意識や集団の意識に波紋を起こすだけで十分なんだということ」ですか。私は、そこまでは、考へが及びませんでした。
私が感じたのは、先生の怖いほど冴えた感覚・神経です。堀田善衛の贋物性は即座に、その神経にひつかかつて、これをピリピリと震へさせた。つまり、先生は堀田の本質を瞬時に見抜かれた。あとは、これを論証するために、言葉を選んで論理を整へられたーーといふ順ではないでせうか。
堀田は、初めは時流に媚びたのでせう。しかし、時流に受け容れられ、これに乗つてゐるうちに、自分でも、本当にさうだと思ふやうになつてしまつた。つまり、「人を瞞す」→「自分で自分を瞞す」と、御多分に漏れず、一層下落したのではないでせうか。
先生のやうな若造による批判を多分、堀田は読んだのでせうが、どう反応したかは全く知りません。従つて、全て想像ですが、西尾先生によつても、堀田の酔ひは醒めなかつたのではという気もします。私は自分が酔つ払ひなので、分りますが、酔つてゐ時には、人の言葉が耳に入らず、ハッと気づくなどといふことは滅多にありません。その点、堀田が死ぬまでにどう思ひ、何か進化したのか御存じでしたら、ぜひお教へを。
貴兄が、それで十分とされる、「相手の意識や集団の意識に波紋を起こす」ことは、これまた、その相手が酔つ払ひ集団の場合、至難の業だと思ひますが、その点、実際にはどうだつたのですか。「波紋」は起きたのですか。
ここの管理人さんが、「痛いと感じた」ことはなく、「痛いと感じた」つもりになつただけと、前回申しました。この人は自分で酒を飲むかどうかは別として、常に酔つ払ひ達の中にゐるので、周りが変らない限り、自ら醒めることはありません。
ここで、先生が拙著の「添え書きの口上」(後書き)にお書き下さつた文の一節を思ひ出しました。
「私のような評論家は社会的にこの『破裂』を繰り返して来ている。第三者に向けたこの手の『公開の口上』を課題とし、職業化している。それだけに同窓会のような場面では決して口を開かない。無駄口を噤んで穏和しくしている。怒りや軽蔑感を気取られぬようにしている」
先生は永年そのやうにしてこられたので、今は慣れられ、かくもアツサリとおつしやるが、「口を噤む」ことは、私のやうな凡人にはそれほど楽なことではない。精神衛生に悪く、限度を超えると、発狂するかもしれません。やはり先生は並みではない。だいたい、あの教科書運動で、有象無象に取り囲まれた中で、時々の感情を一々公開してゐたら、一歩も進まないうちに、崩壊したに違ひありません。
私などは、どんなに修養しても「口を噤む」境地には達せられないーーさう考へたら、恐ろしくなつてきました。
鷹さん、またお付き合ひを。
池田俊二様
パラパラめくって西尾思想を読んでは頭に入りませんよ、声に出さないと。まさに、このコラムに載せている若かりし西尾先生の弁舌や講演会で著書を読む西尾幹二先生のように。紙に書いている字は声に出すと頭に残るものです、殊更自分に合った文章は残ります。
またご質問いただいていた「貴兄が、それで十分とされる、「相手の意識や集団の意識に波紋を起こす」ことは、これまた、その相手が酔つ払ひ集団の場合、至難の業だと思ひますが、その点、実際にはどうだつたのですか。「波紋」は起きたのですか」は「サークルの伝統」という言葉の壁が厚くてひとりでシュプレヒコールをしても変わりませんでした。だからこそ、アメリカンフットボールの実況という個人活動をしながらサークル内の後輩が変えていけるように風穴をあけるように訴えていました。結果、言及しているように大学のさまざまな催事の司会・進行をしてまずはサークルを知れ渡らせてそれを続けていきながら公開収録に来てもらおうとする活動方針に変わりました。ちなみに、私が訴えた内容は「学祭での催事は地域住民の方にサークルを知ってもらうためでもあるのに誰も来ず宣伝もしなければサークル内で叱咤激励して自分たちに酔っている。ましてや、高い機材を高い会員費で払っている無駄使い。いっそのこと、他のサークルのように規模を小さくして機材も自分たちで賄える状況にすれば予算に余裕が出来て後輩を飲み会にによびやすくもなるんじゃ」ないかと訴えました、機材のために会員費が高いのを払わせるくせに飲み会をあまり開かないので後輩が楽しめる憩いもなかった状況でもあったのです。
西尾幹二先生の「それだけに同窓会のような場面では決して口を開かない。無駄口を噤んで穏和しくしている。怒りや軽蔑感を気取られぬようにしている」はよく分かります。端的に言えば、自我を殺しているんです。おとなしい自分を演技しているだけなんですよ、無駄口が最も人から嫌われるとわかっているし聞くに堪えないんです。口を噤むというのは、盾であり矛でもあるんです。盾は、おとなしさという盾で口から出される侮蔑さから身を守るようにすること。矛は、口を噤んで言葉がもつ畏れを自分に訴えつづけて相手が持つ「神」が何であるかを知る機会に恵まれるからです。
鷹 様
真剣な御返事忝し。しかし、貴兄と私では、話が噛み合ひませんね。
私がお尋ねしたのは、西尾先生による堀田善衛批判に対して、堀田自身や、その仲間たる進歩的文化人はどんな反応を示したのか、「波紋」は起きたのか、更には、その後の堀田には何か変化・進化はあつたのかーーといふことですが、一切御存じないやうですね。それなら止むを得ません。
そのことと、貴兄が「ひとりでシュプレヒコールをしても変わりませんでした」とはどう繋がるのか、よく分りません。なんとか類推すれば、貴兄が「ひとりで」駄目だつたやうに、先生一人の声は集団に届かなかつたのではと想像されると言いひたいのでは、といふ気がしますが、さうだとすると、貴文あまりにも冗長。支離滅裂の一歩手前のやうな感じです。
西尾先生は後に、「つくる会は終つた。『国民の歴史』一冊を残して」と淋しさうにおつしやつたさうです。これは、極めて辛辣な批判でもあり、先生は「他の人が聞いたら、アタマにくるだらうけれど」といふ註をつけてをられます。では、教科書運動には、後悔と絶望しか残らなかつたのかと言へば、必ずしもさうではないやうです。
全集第17巻を「パラパラとめくつて」、拾ひ読みをすると、敵味方とも、ほとんどが有象無象だつたがゆゑの運動の歪み、先生の受けた理不尽な仕打ちや苦労などが語られますが、同時に、それらに堪へつつ、なんとか、あのこと・このことをなし遂げたといふ満足・喜びも表れてゐて、トータルでは後者が前者を上回るやうにも思はれ、ホッとします。やはり、運動に携はられてよかつた・・・。
「公開の口上」では、考へをしかと述べる(破裂させる)が、者どもの理不尽さについての、日々の感情については「口を噤む」ーーこの後半の部分を、貴兄が「おとなしい自分を演技しているだけ」と評したのは的を射てゐます。それを一々露はにしては、組織は四散五裂、先生の個人生活さへ破壊されかねません(「先生に飛んでくる批判の矢が痛いと感じる」などといふ科白に対して、「ウソつけ」などと咎めてゐては、寄りつく者がゐなくなります)。
「おとなしい」ふりをして、組織を率ゐ、運動を進めるには、先生とされては我慢せざるを得なかつたことでせう。多分そことを言ひたいのでせうが、「口を噤むというのは、盾であり矛でもあるんです。盾は、おとなしさという盾で口から出される侮蔑さから身を守るようにすること。矛は、口を噤んで言葉がもつ畏れを自分に訴えつづけて相手が持つ『神』が何であるかを知る機会に恵まれるからです」とは、これまた、冗長です。「神」などといふ大袈裟な比喩も、意図どほりに効いてゐるとは思へません。ここも、文章の整理が十分でなく、「口から出される侮蔑さから身を守る」などと、粗雑な言葉が並びます。第一、「侮蔑さ」などと言ふ日本語は存在しません(「さ」について、国語辞典ででも調べられては如何)。
以上、失礼なことを申しました。テーマについて数語示すだけで、「全集○○巻」と。すつと出てくるほどの精進ぶりと、真摯な態度に惚れ、それとは対照的な悪文に呆れ、貴兄の大成には、文章の改善が不可欠と見ての忠告と受け取つていただければさいはひです。
明晰な文を書くには、筋道を正し、論理をきちつと整へることが第一です。それには、考へ、考へ、考へることしかありません。なほ、「自分は文章が下手で・・・」などと、いかにも、考へそのものはいいのだがと言ひたさうな人がゐますが、「文は人なり」(The style is the man.)で、文が全てで、人はそれ以下でも、それ以上でもありません。文体を離れたアイディアだの人格など、あり得ません。
御発展を切に祈り上げます。
池田俊二様
「西尾先生による堀田善衛批判に対して、堀田自身や、その仲間たる進歩的文化人はどんな反応を示したのか、「波紋」は起きたのか、更には、その後の堀田には何か変化・進化はあつたのかーーといふことですが、一切御存じないやうですね。」とのことですが、私の学生時代にしたことに対し波紋は起きたのかという質問だと受け取りました。失礼しました。私は堀田自身や、その仲間たる進歩的文化人はどんな反応を示したのか、「波紋」は起きたのか、更には、その後の堀田には何か変化・進化はあつたのかまでは知りません。
冗長でしたか。失礼しました。簡潔な文章になるよう精進いたします。
どうぞよろしく。
西尾先生・西尾作品に対する真摯な態度と、言葉・文章の雑な扱ひ方に、あまりにも差があつて、他にかういふ例を知らないので、驚いてゐます。前者には心底敬服しますが、一寸例のないほどのひどい悪文には目を反けて逃げ出したくなります。その二つが、同一人物の中に同居するとは!
お若いのだから、まだ間に合ふかもしれません。是非ご精進を。言葉、言葉、言葉。文、文、文です。文を離れた思想、人といふものはありません。Hang in there !
池田俊二様
西尾先生というより池田様の質問を汲み取れなかっただけですよ
日々、精進します。今回はこの動画が初めて世に出たに対して当時のネットでの反応を伝えたかったのです。
鷹 様
期待してゐます。「痛いと感じる」などと宣ふインチキ西尾シンパ達に辟易して、本物西尾シンパの出現を待望します。折角ご精進を。
>そのポーランドですらも露助よりは良いと言っているんです。ドイツには文化があるからと。ロシア人よりはまだいいと、ドイツには文化があるからと。それが世界の歴史のすさまじい現実なんですよ。
私がこの映像で体が震えたのはこの部分でした。
丁度、ロシアとウクライナが戦争中というせいもあるのですが、民族浄化の憂き目にあっても、文化がある方がましだよと言える東欧人の恐るべき精神のタフネスと自尊心。
最初、露助というのは何を仰ってるのか意味がわかりませんでした。
たぶんポーランド語でロシア人をロスケというのだろうなと。
これは日本語におけるロシア人の蔑称だったのですね。
実は鬼畜米英や露助という言葉にこそ、日本人の逞しく高貴な精神が反映されていたのだと私に教えて下さったのが西尾先生です。
私は無学で若いころにほとんど勉強してこなかった人間なので、西尾先生がお書きになったり、お話になったりすることが、私にとっての「世界史」でもあります。
最近は、先生の過去の講演をyoutubeで閲覧するのが楽しみで、中でも
「日本に鎖国はあったのか?」は本当に知的興奮の連続がありました。
先生は書いても、話してもどちらも凄い、まさに思想界の二刀流なのだと思います。(失礼)
結婚しました 初婚同士二人合わせて142歳
標記の題のメールを坦々塾会員のU氏(私とは同日入会の同期生)からいただいた。数人の坦々塾会員宛てにも、なつてゐた:
いたるところで花が咲き競う春たけなわのこの頃ですが、ご健勝の事とお慶び申し上げます。
かねてより皆様には坦々塾にて大変お世話になりました。
私事ながら、ここまで四分の三世紀の間、独身を貫いてきましたが、此度好きな女ができて先月21日(春分の日)に結婚しました。
相手は、7歳下で同じく初婚。大学で教鞭を執る女性です。
鬼籍に入る時期が近づいており、もはや子作りなど論外ですし、互いに薹が立つのにいまごろ何が結婚だと冷やかされるのがオチかと思います。
しかしながら、当人同士は至って本気かつ正気です。
昨年クリスマスイブの私からの電話に始まって大晦日まで私から彼女への電話攻勢、元旦の夕方に初デートして、4回目のデートの1月10日にプロポーズ、3月中旬過ぎて彼女からOKが出たといった具合です。
春分の日の前日、私と彼女とで東京八王子市高尾に眠る私の両親・先祖の墓前および、鎌倉の彼女の両親・先祖の眠る墓地に結婚の承諾を得に墓参しました。
家庭、親族関係、近隣社会、国家をあえて大切にせず、「今だけ、金だけ、自分だけ」が大事とのご時世に、亡き両親や遠い祖先敬愛のきもちを持つこころ根も互いに共感するところでしょうか。
なお、 二人合せて142歳の身で結婚式や披露宴は野暮だと感じるので特段要請がないかぎり控える所存です。
今後共、末永くよろしくお願い致します。
追伸; 西尾幹二先生にはお手紙にて上記の旨お伝えしました。
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これに対して私は次の返事を送りました(他の人たちにも届くやう、「全員に返信」で):
Congratulations !
いやはや、驚きました。その成り行きについて、あれこれ想像し、思
ひを巡らせてみましたが、確たるイメーヂは得られません。しかし、
とても新鮮な気分で、心を洗はれるやうな感じがします。夜中に起き
てPCを開き、貴メールを発見、以来二時間余、読み返し、反芻し、や
や新たな思ひに至り、また読み返し・・・を繰り返してゐます。当分
はこの気持を維持でき、楽しめさうで、自身のために喜んでゐます。
以前、貴兄が独身にもかかはらず、子供がゐると伺ひましたーー親友
夫妻の遺児を引き取つて育ててゐる。更には、今、スイスの学校にや
つてゐる等々。
その印象は深く、以来、貴兄を、自分とは異次元に住まはれる、端睨
すべからざる哲学者と仰ぎ畏れつつ、今日に至りました。今度のお知
らせによつて、その根本は変りませんが、+親しみのやうなものが湧
いてきました。そこで一句。
エクレアの影に彩生れ春の昼 三 寸
「会わせて142歳」ですか。流石に我々の方が大分上です。うちは
「合はせて163歳」になります。さる4月2日は53rd anniversary
でありました。こちらの近況もちとーー
今の私が最も恐れるのは家内に先立たれることです。愛してゐるわけで
はありません。身の回りのことが、自分では一切できないので、娘二人
を嫁に出し、夫婦だけの生活をしてゐる今、おいてゆかれたらと思ふと
慄然とします。もちろん、先に逝きたい・・・
然るに、困つたことに、自身の死についても、必ずしも、平気ではゐら
れません。先月、小6の孫と日比谷公園のルーパロマーナの彫像を前に、
こんなやりとりをしました。
私「このやうに、人間が精一杯活動した集積が歴史だが、その時々の人間
は、その時々に消えてゆく。だからこそ、歴史にロマンも悲哀もあるのだが、
おぢいちやんは死ぬのが怖い・・・」
孫「おぢいちやん、死ぬといふことは、意識がなくなるといふことだよ。だか
ら、怖いも怖くないもないよ」
私「・・・!?」
一寸ギャフンといふ感じでした。
いま一番の楽しみは一番上の孫(今春大学を卒業・就職)と、日本の近代を
論じることです。孫はレーヴィットの1階・2階論を理解してゐます。
それに関連して、あるブログにこんなことを書きましたーー
晴海埠頭公園が最初にできたのはいつか知りませんが、そんなに古いこ
とではないでせう。でも、岩は苔蒸し、少しは古味が出、風格さへ感じ
られました。ところが3~4年前、オリンピックの選手村になるとかで、
公園は根こそぎ掘り返され、岩も木も、ごろごろ放りだされてゐるのを
見て、なんとも無残な思ひがしました。
国立競技場も同じ。古くなれば壊して、新しい、一寸見は、その時だけ、
気の利いたやうなものを作る。着せ替へ人形みたいなものですね。鴎外
が”普請中”と評した時と変らない、否、年々ひどくなる日本全体の風景
です。荷風はお堀端の柳を憎んで「あんなものは、城郭を眺めるのに邪
魔だ」と言つたが、それは後づけで、彼にとつては、江戸時代になくて、
明治になつてから作られたものは全て悪なのでした。
まあ、その心には共感せざるを得ません。明治維新は目のくらむやうな
大成功を収めたが、後続者の怠慢により、引き換へに、「伝統」といふ
意識を失った。あとは亡国あるのみ。
先に、ロンドンの古さ・重厚さと、東京の新しさ・薄っぺらさの違ひにシ
ョックを受けたといふ孫と私が意気投合した際も、この埠頭公園を引き合
ひに出しました。
ところが、今日初めて行ってみて、腹が立つかと思ったら、さうでもなく、
逆にスッキリしました。原っぱだけになつてゐるからです。これなら、新
しいものを作るにも、古いものを壊す手間が省ける。どうせ我々は伝統の
形成に与ることはできないのだから、頭のいいやり方です。後は潔く・・
・――
妄言多謝。貴兄の大慶事にかこつけて、しばらくあれこれと空想を楽しみま
す。
Bon voyage ! 三寸 池田 俊二
――――――――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーー
この件について、A氏から「祝福の宴を開いてはいかが」といつた趣旨のメールが来ました(や
はり、「全員に返信」方式で)。私は次のやうな返事をしました:
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固より小生は、強く要請したり強要をし得るやうな立場にはありません。
しかし、もしもAさんが御本人と相談の上、祝宴などを企画され、そこに
小生も呼んでいただけるのであれば、欣然参加させていただきます。
その理由の最たるものは、Uさんが、坦々塾の90数%を占める、賤業
保守や、その餌食たる惰眠保守(安倍総理の戦後70年談話や、憲法9
条3項論にすら、怒ることも知らない、つまり本当に日本人なのか疑は
しい人々が圧倒的に多数でした)とは断然選を異にし、自身で「見て・
感じて・考へ」た上で判断してをられる、稀有の存在であることを感じ、
その発展・活躍を、心底願ふからです。
巷に溢れる賎業保守乃至は惰眠保守とは、西尾先生御自身もずゐぶん、関
はりを持つてこられました。因みに、全集の月報の筆者の中に、商売が賤
業ならざる人が何人ゐるでせうか。全員が賤業であるとしても、私は先生
を咎める気にはなりません。
教科書改善といつた政治運動を進めるには、人数の確保が絶対的に必要で、
賤業も惰眠(民)も、有象も無象も欠かすことができないといふ事情があ
る(加へて、先生は寛容です。八木秀次さんをも許すかもしれないとおつ
しやつたこともあります)に決まつてゐるからです。そして、その延長た
る坦々塾も同様の構成になることは不可避でせう。
まあ、たまには、さういふ場を離れてUさんの心を知る人々のみと集ふ
――これは、私の切望するところです。
Aさん、是非ご尽力をお願ひします。
なほ私は、その為のお力になれないどころか、1年前、腰椎を骨折したた
めに、杖をついてヨタヨタといつた醜態を晒さざるを得ませんが、なるべ
く御迷惑をおかけせぬやう、努力することを誓ひます。何分の御高配を賜
りますやう、皆さまに願ひ上げます。
池田 俊二
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さて、どういふことになりますか。楽しみが殖えました。
先の「結婚しました 初婚同士二人合わせて142歳」のお祝ひについて、一歩前進しました。
昨日、U氏たちと私との間で次のやりとり:
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
此度は142歳婚でお騒がせしております。
私の新婚を機に坦々塾有志の旧交を温めつつお祝い会をしていただ
くのは嬉しい限りです。
但し、私の伴侶は少女期よりクラシック音楽畑を邁進してきた女性で、
坦々塾の皆さまと異なり政治、哲学、歴史の分野に長けておらず、
むしろ関心の外のこととして人生を歩んだ女性です。
亡き両親がしっかり育てておられたようなので保守主義的な指向を
もちますが、確固としてものではありません。
そのような女性であることを前提でお祝い会を催していただくので
あれば、嬉しい限りです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
U 様 A様
「前提」については了解致しました。”保守”などといふ陳腐な言葉は見る
のもイヤで、私にとつても好都合です。
とすれば、後は、A さんに、Uさんと相談の上決行して下さるやうお願ひ
するのみです。
何やら、ワクワクしてきました。
因みに、小生は超弩級の音痴で、楽譜もよめません。けれども、クラシッ
クファンです。しかし、造詣は皆無です。
Youtube動画「軍艦行進曲を指揮する三島由紀夫」を愛聴(視)してゐま
す。彼の指揮は、お世辞にも、軽快とか颯爽とか重厚とか言へるものでは
ありません。怖づ怖づといつた感じで、優しすぎ、時に遅れることも。そ
こは、もつと大きくタクトを振れと声をかけたくもなります。しかし、そ
の姿に、如何にも、この醒めた大天才の初心(うぶ)な生真面目さといふ
本質が表れてゐると思はれ、好感を抱いてゐます。
春ぞ逝くタクトにマーチ昂まりて 三 寸
おつと、これ以上の駄辯は慎み、あとは謹んで祝賀の宴の御案内を待ちま
す。皆様、何分の御高配を。
三寸 池田 俊二
西尾先生、御無沙汰しております。
左翼の大学で虐められて、論文が書けなくなり早20年、ようやく体も回復の兆しを見せて、新たに論文を1つ書きました。
何のことはない、慰安婦問題がテーマですが、日本軍の慰安婦は批判するのに、韓国軍にいる慰安婦は無視するのは、ダブルスタンダードと指摘する、子供でも出来る内容です。
件の動画は私も見ていましたが、確かにかなり影響は広がっていたようでした。
ドイツ人はしたり顔で自分の罪の大きさを、無かったことにしますよね。
あるいは、犯した罪が大過ぎて、誤魔化さざるをいられないのか⁉️
恩着せがましくするつもりは毛頭ありませんが、私は西尾先生をめぐって、指導教授と大喧嘩をして、結果として、大学教授のポストを棒にふりました。
ま、実力が無かっただけかもしれませんけどね。
ゼミで輪読していたのは上野千鶴子です(❗)
なんで俺が上野の本なんかと思っていたら、上野は恐れ多くも西尾先生を揶揄していました。
そこで、「この批判はどうかと思います」と一言言っておきました。
すると、指導教授は、「あなた、西尾のシンパなのね⁉️」とのたまった‼️
「は❓」、俺は西尾先生の著書は2~3冊しか読んでいない、どうすればシンパになれる❓❓
しかし、指導教授は容赦なく、私をネチネチと虐め始めました❗
最初は我慢していたが、ついに堪忍袋の緒が切れた‼️
そこから反転開始です‼️
知識を仕入れるために西尾先生の著書を購入して、時間の許す限り読みました。
まあ、結果は直ぐに出て、私は指導教授を論破しました❗
ま、元々、大して知的レベルの高い人物でも無かったですしね。
私が西尾先生の「日本の教育 ドイツの教育」読んだ話をしたら、指導教授は「あれはドイツの教育の方が優れていると言いたいのよね❗」(そんな単純なわけない)と自信満々に言われ、思わず卒倒しそうなりました‼️
あんた、一体、西尾先生の著書の何を読んでいるんだ⁉️
とまあ、はからずも、大学院で西尾先生をめぐって、指導教授と大喧嘩をした話でした。