9月から10月にかけて、最近の私の一連の活動がまとめて公表されます。本の形になって刊行されるのは次の二冊です。
(A)渡部昇一・西尾幹二著「対話 日本および日本人の課題」ビジネス社
(二人の行った対談8本を収録。私の解説80枚が付く。)
(B)西尾幹二著「あなたは自由か」ちくま新書
(新書とはいえ400頁を超える、近年の私には少し無理だった力業である。)
過去一年有余(B)の製作に意を注いできました。しかし目次が最終的に決まったのもやっと三日前であり、これから数日かけて本格的な校正者の手が入るので、まだまだ息が抜けません。(B)で苦しんでいる間に、(A)のほうが先に仕上がってしまった。(A)は9月初旬刊、(B)は10月中旬刊。
(A)に関係して、文藝春秋批判の問題が浮かび上がりました。そこで、
(C)『正論』10月号(9月1日発売)、に花田紀凱・西尾幹二対談「左翼リベラル『文藝春秋』の自滅」がのります。
(A)の私の解説80枚にも同じ方向の分析があります。(C)は政治的分析として明解です。(A)の解説はもっと巾が広く、裏話もあり、渡部氏と私の違いも分かります。
(D)「別冊正論」32号(次号です)に私の16ページ仕立ての写真入りインタビュー記事「老いと病のはざまで―自らの目的に向かい淡々と生きる」がのります。
(B)の私による解説もあり、病気、未来、生活、生き方等をめぐりかなりホンネを語っています。
(D)は(B)を知るのに役立つでしょう。(D)には渡部昇一氏関係は入っていません。
私のこの秋の本命はいうまでもなく(B)『あなたは自由か』です。副題はありません。たまたま(A)と発効日が近づいたため混同しないで下さい。『あなたは自由か』には文藝春秋問題も直接関係ありません。私の一生をかけて語りつづけた本来のテーマがこの一冊に凝縮されています。どうかよろしく。
(C)が発表されています。
是非感想をお寄せください。
それぞれの使ひ道
(C)を拜讀しましたが、恐らく、この點は他の方々と自分では違ふだらうといふやうな感想はありませんでした。私の感想を書けば、他の方々の參考になるかもしれないといふ期待は持てません。
そこで、對談の中身そのものではなく、周邊の事情をほんの少々(ほとんどが當り前のことですが)・・・。
先ほど、先生と電話でお話した際、この對談が先生の方で企畫されたもので
あると教へられました。
花田編集長の ”HANADA ”も、花田元編集長時代の ” WiLL ” も、安倍晉三批判は殆ど載せません。それは御法度とされてゐるやうです。そして、西尾先生が安倍さんを完全に見限つた際、「西尾先生、氣が早過ぎます」と言つたのが、花田さんでした(このことについての分析を、本欄で以前どなたかがなさいましたね)。
當然、先生はさういふことを、しつかりと覺えてをられ、むしろ、それを念頭においた上で花田さんを選ばれたやうです。テーマは文春の左翼リベラル化で、それには文春出身の花田さんが最適と考へられたのでせう。安倍批判が目的ではなく、また、文春が左翼なら、安倍さんの提燈持ちに專念する
”HANADA ” は何か、憲法9條2項をそのまま殘した改憲を口にする安倍さんを擔いでゐるのだから、まさか「右翼」を名乘るつもりはないだらうな、といつて「左翼」呼ばはりされるのはイヤか、では「保守」か、「保守ヒヨリミ」ではどうか、それにしても、今の「保守」は昔の左翼そつくりだ、などと議論を進めるわけではないのですから、この人選は正しかつたのでせう。
その花田さんとの附合ひも續けられ、更に(以前、私が本欄で少し觸れまし
たが)嘗て、つくる會に「後足で砂をかけて」出て行つた中西輝政さんや「泥水をかけて出て行つた」田中英道さんの裏切りをお忘れでないのに、一緒に對談本を出されたり、全集の月報に執筆を依頼されるとは、ほんたうにお心が廣い! 私のやうに狹量な者にはできないことです、と申上げたら、それぞれに使ひ道があるよ。第一、さうあれこれと氣に病んでゐたら、對談の相手なんてなくなるよ、との仰せ。御尤もです。
この紀凱さんとの對談では、先生と故渡部昇一さんとの、以前の對談の一部も引用されてゐて、渡部さんの次の發言は氣持よく讀めます。
渡部 (文春について)今でもはっきり覚えているのは、真珠湾攻撃の総
指揮官であった淵田美津雄の手記が、掲載されたことです。まだ昭和二十
年代でしたが、その手記には「三百何十機という戦闘機を引き連れて朝日
を浴びて真珠湾に向かいながら、よくぞ日本男子に生まれけり、これで死
んでもいいという気持ちになった」というようなことが生き生きと書かれていた。あのような手記をどんと掲載する雑誌というのは、当時日本にはありませんでした。
文春も立派だつたし、それを認めた渡部さんも立派。
しかし、その渡部さんが、あの日本奴隸國家宣言とも言ふべき、安倍總理大臣の「戰後70年談話」を ”百點滿點”と評したことを、西尾先生がどう評價なさつたかを忘れてはなりません(私も正確には存じません。皆さん、どうか想像力をお出し下さい)。
使ひ道・使はれ方によつて、人は眞の愛國者にも、非國民・賣國奴にもなる
のでせう。
本日の産経西尾正論
企業では東芝、神鋼、日産。スポーツでは日大、レスリング、ボクシング、体操と続いた不祥事の本質を指摘し、現下の日本の危機への、いつもながらの深い洞察に強い共感を覚えましたが、ここで触れられなかった「国松長官暗殺未遂事件迷宮入り」をこの洞察対象に加えたいと思います。
先日のNHKドキュメンタリー「警察庁長官狙撃事件―未解決事件ファイル」で事件の真相を改めて知りましたが(以前、テレビ朝日でも報道)日本の根本問題をNHKが図らずも抉り出してくれました。詳しくは「そよ吹く風」に書きましたが、「中村泰」というオウムとは無関係の一匹狼の限りなく黒に近い証拠を現場が時効直前に掴みながら上層部が、証拠不十分として、却下し、「未解決として時効に突っ走」らせたにも拘らず、だれも責任をとりません。警察・検察も御同様、「組織の奥で権力をたらい回し」しています。公共放送で明るみになりながら、番組に登場した初動捜査指揮者の元警視総監も、事件に関わった元東京地検公安部長も現警視総監もみな当事者でありながら他人事の発言に終始し、重大なミスを犯した自覚もなく、自己の責任から逃げ、週刊誌も責任を追及していません。中村が「積年の敵の首領」と見做して暗殺を企てた自分たちのトップが襲撃された前代未聞の事件を迷宮入りにした責任を誰も取らないまま放置されています。これが自民党政権下の法治国家日本の姿です。
NHKは中村との間の私信を公開し、中村を英雄視するような番組にしただけでなく、中村がNHKに教えた銃の隠し場所をNHK職員が発掘するのを許したのも警察でしょう。
「安部政権の行動に学校の先生のような教育効果があり、国民は深く諦めている」と論評するだけでは日本は変わりません。決して諦めていない憂国の士は私の身辺にも多く、楽秋庵主様はブログで「自民党に代わる受け皿の政党」の立ち上げを呼びかけています。
深く諦めている国民は恐らく「正義感」や「廉恥心」を忘れた人達でしょう。団塊の世代にも次世代にも「合理性」「精神性」を失っていない人々が多くいます。
9月3日の日経に論説フェローの注目すべき記事が掲載されました。今年の明治150年の節目に、安部首相が①戊辰戦争150年談話(佐幕派への朝敵解除宣言)を出し、②靖国の官軍資格撤廃を提言しています。戊辰戦争は150年間総括されず、朝敵の汚名を着せられた東日本には未だにわだかまりが現実に残っています。海外は無論、国内にも反対する勢力は最早いないでしょうから票につながるこの談話をだして、靖国改革に手を付けることで、日本の「国全体が大きく動き出す」モメンタムになると思います。「戦後レジームからの脱却」は度胸不足で実行できなかった安部首相も投票につながるのであれば真剣に取り組むのではないでしょうか。保守新党が誕生すれば真っ先に取り組むでしょう。
今日、坦々塾の仲間から送られてきたメール〈原子力問題から逃げる安倍政権が電力危機を招く〉には、
「安倍首相が原子力問題について判断したのは、2013年10月のオリンピック招致演説が最後だ。このとき『汚染水』の処理について、首相は『国が前面に出る』と言い『状況は完全にコントロールされている』と宣言した」
「安倍首相は5年前にそう約束したにもかかわらず、その後ずっと、原発の問題を避けてきた。官邸の司令塔とされる今井尚哉秘書官(経産省出身)も、処理の方針を示さない。それが再稼動も『トリチウム水』も前進しない最大の原因である。今の政権では、官邸の意向がはっきりしないと誰も動けない」
に始まり、安倍政權の不作爲が時系列に竝べられてゐて、よくぞここまでと改めて感心した。何かをするのはたしかに大変だらう。しかし、これほど徹底して逃げる方がもつと大変ではないか・・・
「何もしない、何も考えない今日の日本人の現状維持第一主義」は國民が先か、政府が先か。
私自身は、肝腎なことから必ず逃げる逃げる安倍さんに失望して久しく、その安倍さんが、議員票の7(8?)割を固めたとされる總裁選の投開票が20日とは、今まではつきりとは覺えてゐなかつた。しかく興味がないといふことは、諦めてゐたといふことだらう。不謹愼ながら、酒がまづくなることを恐れて、なるべく考へないやうに してきた。
安倍政權に何かを教育してもらふ氣などないつもりだつたが、「政府の行動は学校の生徒に与えるのと同じような教育効果がある。だから怖いのである」を讀んで、ゾッとした。「国民は諦めてこの現実を認めている。安倍政権支持はこの諦めの表現である」(註:それが全てではなく、いまだに安倍さんは ”右翼 ”であるとの誤認による支持もありさうだが)といふ現状に腹を立てることに疲れて、諦めるのも、難しいことには手を出さない安倍さんに學んでのことか!?
「決して諦めていない憂国の士は私の身辺にも多く」といふ勇馬樣のお言葉は頼もしい。「諦めている国民は恐らく『正義感』」や『廉恥心』」を忘れた人達」との御託宣に、自分は斷じて違ふと言ひきれないのは遺憾にして、お恥かしい。
今回のコラム正論「、何もしない、何も考えない今日の日本人の現状維持第一主義のムード」「さしあたりは仕方がない」・・・、全体のトーンに『ニーチェとの対話』の「現代について」から「末人」の時代を想起しました。ニーチェがツァラトゥストラの序説で描いた「末人」の西尾先生の解釈は今も心に深く響きます。長くなりますが、引用を紹介させてください。
〈ここから引用〉
人間は昔より多くを理解し、多く寛大になったかもしれないが、それだけに真剣に生きることへの無関心がひろがっている。すべての人がほどほどに生きて、適当に賢く、適当に怠け者である。それならば現代人に成熟した中庸の徳が備わっているのかというと、決してそうではない。互いに足を引っ張り合い、互いに他を出し抜こうとしてすきを見せない「人に躓く者は愚者」であって、「歩き方にも用心深く」なければならないのだ。人間同士はそれほどに警戒し合っているというのに、孤独な道をひとりで行くことは許されず、べたべた仲間うちで身をこすり合わせていなければ生きていけない。「温(ぬく)みが必要だからである。」彼らは群れをなして存在し、ときに権威あるものを嘲笑し、すべての人が平等で、傑出した者などどこにもいないと宣伝したがっている。それなら本気で、権威と敢然と闘おうとしているのかというとそうではない。彼らはすぐに和解する。「そうしなければ、胃をそこなうことになるからだ。」せいぜいその程度の保身、その程度の衛生的配慮が、現代人の掲げている立派な標識なのであって、人間はこうしてだんだん小粒になっていく。〝最大多数の最大幸福〟が、いわば生の目標、絶対的な基準にほかならない。貧富の差があることはもうただ面倒なことなのである。国民を統治する者に、今や孤独な苦悩はなく、統治される国民に、忍耐の喜びはない。どちらも、ともに「煩わしすぎる」のである。
(中略)
すべての政策決定は、大衆社会における漠然とした好ましい印象によってなされていく。口あたりのいい福祉とか、ものわかりのよさを売り物にする進歩的ポーズとか、そんなことばかりに政治家は血道をあげて、憎まれる損な役を誰も引き受けようとはしない。こうした風潮に抵抗する人物が出てくれば、民衆はたちまち「嘲笑の種子」を見つけたとばかりに大喜びし、無責任に愚弄するが、だからといって本気に反抗するものでもなく、怜悧な彼らはすぐに慰撫され、和解してしまう。というようにして、どこにも人間の真に価値ある行為を見出すことが出来ず、すべては茫洋とした情緒のままに流されて動いていく。
〈引用おわり〉
ニーチェの時代から百年以上の時間が経ち、『ニーチェとの対話』からも40年。今日のニヒリズムは当時よりさらに重症化しています。