哲学者の川原栄峰先生が逝去されてから早くも2年半が過ぎている。ショーペンハウァー協会の小冊子に私が追悼文を頼まれたのはご逝去後一年半経ってからで、それが活字になったのはさらに半年後だった。すべてはゆっくりしている。今の時代には珍しいが、哲学者の追悼にはむしろふさわしい。
川原先生は早稲田大学名誉教授。大正10年(1921年)お生まれ。2007年1月24日にご逝去。ハイデッガーやニーチェに関するご論考、翻訳が多く、主著に『ハイデッガーの思惟』(理想社)という大著がある。贈呈を受けている。他にも多くの著作がある。
追悼・川原栄峰先生
西尾幹二(電気通信大学名誉教授)
川原栄峰先生といつ、どこで、どのようにお知り合いになることができたのか、はっきりした記憶がない。昭和50年(1975年)より前に、個人的ご交際を賜っていたことは間違いないのだが・・・。
私は先生から教室でお教えをいただいた立場ではない。先生は自分より歳下の、哲学を語り合える若い友人として遇してくださった。そして何となくウマが合った。どこを気に入っていただいたのか分らないが、先生は私に優しかった。お会いしている間、楽しそうにしておられた。
先生は私の家にもたびたびお出かけ下さり、酒盃を交した。昭和50年から54年の間、私の一家は東京の京王線の奥、日野市の平山京王住宅に初めて一戸建ての家を買って、暮していた。先生はある期間毎月一回、規則正しくわが家を訪ねて下さる習慣を守っておられた。というのには理由があった。
先生は多分その少し前ではないかと思うが、ご子息を亡くされた。登山中の遭難であったと聞く。先生はその悲運をかきくどくようなことはなかったし、ご子息のことを私の前で詳しく話されたこともない。ただ、その悲しみがいかに大きく、また悲しみを乗り超えようとする努力をいかに辛抱づよくわが身に課しておられたか、当時私の内心にこの点で小さくない驚きが宿っていたのを覚えているのである。
先生はご子息の墓が八王子にあると仰っていた。そのご命日が何月何日かは覚えていないが、毎月一回、何日かは必ず回ってくる。その日に八王子に墓参をなさる。年に十二回である。墓参の帰路、八王子に近い日野市の拙宅にお立寄り下さるという次第だった。
私も若かった。私も家内も先生にお会いするのが楽しくてその日をお待ちしていた。それがどのくらいつづいたか、何回だったかは覚えていない。四年間あれば四十八回だが、そんなに数多くはない。さりとて、全部で五、六回ということもない。
わが家にお立寄りくださっても、くださらなくても、ご子息を偲ぶ先生の月一回の規則正しい墓参はその後もずっとつづいたに違いない。昭和54年の夏、わが家は日野市の丘の上の住宅を引き払って、杉並区に引越した。それから後、先生をお迎えする機会は減り、私も44歳、多事多繁の歳月に入って、先生とのご交際も次第に間遠になっていった。
いかにわが子への思いが熱いとはいえ、いったい月に一回、中野区のご自宅から八王子へ墓参をくりかえす情熱は何なのだろう、と私は感嘆した。先生は僧籍をお持ちで、宗教上の信念はまた私などとは異なる独自のものをお備えになっているに相違ないとはいえ、並々ならぬお勤めのご意思の表われだと感銘を深くしたものだった。
学問上のご業績や達成度の高さについては、私などが贅言を重ねるべきではなく、それにふさわしいしかるべき専門学者の言を俟ちたいが、私も先生の翻訳・論文・大著のいずれもの愛読者であり、関心と敬意をずっと抱きつづけてきた。その中で、忘れることのできない一冊がある。私が先生に惹かれつづけた基本はこの一冊だという本である。
『哲学入門以前』(昭和42年、南窓社)がそれだ。扉を開くと「西尾先生奥様 恵存 川原」とペンでサインが書かれているので、贈呈していただいた本であることは間違いない。線がいっぱい引いてあり、幾度も読んだ記憶がある。
「入門以前」という標題に先生の含羞と自負の両方がこめられている。「哲学入門」は普通の題のつけ方だし、出隆に『哲学以前』があり、従って「入門以前」はそのどちらに対しても自分を抑止している謙虚の表現であると共に、そもそ哲学とはどこまでも「入門以前」の心構えでなければならず、人に哲学を説くときにも「入門以前」とは別のいかなるものであってもいけないという確固たるご信條があってのことと思われる。というのも「あとがき」に、哲学者は本を書かないものだ、といきなり先生の言葉が発せられているからである。
「ソクラテスは本を書かなかった。吹きつける存在の嵐があまりに激しくて、とても片隅によけて本を書くなどということができなかったのだとのことである。イエス・キリストは人ではないと言われるからしばらくおくとしても、釈尊も孔子も本を書かなかった。一流の人物は本を書かなかったのである。つまりたとえどんな立派な本を書いたにしても、本を書くということは、二流以下の人物に下がることなのだ。だから私は本を書かない。――こんなことを言って大勢の学生に大笑いされたことがある。」
哲学者としての先生の並々ならぬ自負が「入門以前」というタイトルにすでに現れていることは明らかであろう。「自由、歴史、個と普遍、科学の勃興、客観性、弁証法、実存、ニヒリズム」がこの本の目次の区分である。
ひとつだけニヒリズムの章に忘れもしない比喩があった。「・・・・・である」という本質規定に対して、「・・・・・がある」という実存、何かがあるということを言うために、ヘラクレイトスは火があると言った。この「火」はそれは犬である、猫である、机である、私であるというような「・・・・・である」と規定されるたぐいのものではない。「何である」かはいえないがともかく「何かがある」というときの不気味な「ある」を説明するために、川原先生は面白い比喩を用いた。
「仮に地上や人間の営みを一万年分ぐらい撮影しておいて、そのフィルムを1時間ぐらいで回して映写してみたらスクリーンに何がうつるだろうか?すべての色は抹殺されて灰色になってしまうだろうか、そして多分、戦争も平和も、大きなあやまちも小さな親切も、デモクラシーもコミューニズムも、何もかもごっちゃになって、『何である』ということは全部消えてしまうだろう。が、しかし灰色の『何か』が、どこからどこへということなしに、不気味に動いているだろう、――永遠に生きる火として!」
このくだりを私は後日何度も思い出していた。ニーチェのいわゆる「根源的一者」すなわち「ディオニューソス的なるもの」も川原先生のこの比喩でうまく説明できるのではないかと思ったものだった。
ともかくこの『哲学入門以前』は分り易く書かれていて、しかも根底的に思索することをわれわれに誘ってくれる。私には得がたい、素晴らしい一冊だった。
その頃私と親しくしていた講談社現代新書のTさんがやはり私と同じようにこの一冊に感激して、先生に執筆を頼みに行った。そうして出来あがったのが『ニヒリズム』(講談社現代新書468号)だった。昭和51年秋刊行である。
ところが、Tさんは本が出来てから少しがっかりして私に言った。「少し違っちゃったんですよ」「何がですか」「『哲学入門以前』のあのういういしい感動がないんですよ」「あっそうですか。」
人間は同じことを二度出来ないのである。『ニヒリズム』は別の意味で重要な本だが、すでに先生は次の思索世界へ向かって旅立たれていたのである。
『ニヒリズム』は昭和48年~49年の私の『歴史と人物』連載中や昭和51年『新潮』掲載のニーチェ論が参考文献として掲げられていた。
日野市の住宅で先生からハイデガーやカール・レーヴィットに出会った日々の生き生きしたお話を伺った往時の対話を思い出さずにはおられない。
先生の最晩年、私は多忙にかまけ、つい先生のおそば近くに行って、新しいお話を伺わないで終ってしまったことが残念でならない。
年賀状にはいつも、「表の宛名書きは孫の手で書かれました」と記されてあった。
(平成20年9月9日記)
日本ショーペンハウァー協会会報 第42号(2009.1.15)。
終りの方に出てくるT氏とは講談社専務をつとめられた田代忠之氏(昭17年生れ)で、氏も今年の5月に病没された。若い時代に私の『ヨーロッパの個人主義』を出してくださった人だ。
謹んで両氏のご冥福を祈る。
初めまして。私は、川原栄峰の曾孫です。
私は、もうおじちゃんの記憶が殆どありません。
特に元気だった頃の記憶はありません。なのに最後の日。いつも最後に言っていた『バイバイ、またね』の一言を言い忘れてしまったことと、静かに眠るおじちゃんの横で無理に笑うおばあちゃんの姿だけはっきり覚えています。
最近おじちゃんのことを考えることが増えました、なぜかわかりませんがおじちゃんのことを知りたくなったのです。
西尾さんの知る私のおじちゃんのことを教えてください。
私のおじちゃんはどんな人だったのですか?