ゲストエッセイ
浅野 正美
坦々塾会員
ドイツ大使公邸にて 感想文
西尾先生が日録に連載されていた随筆、「ドイツ大使公邸にて」が完結した。
この随筆は、大使館での魅力的な会話と、先生の若い頃からのドイツとの触れ合いが交互に展開し、最後にドイツ大使が書かれた三島由紀夫論の紹介と、その感想で閉じられている。
先生の随筆で来年が日独交流150周年にあたることを知った。私は何一つきちんと勉強したものはないが、若い頃からドイツ・オーストリアの音楽を聴き、少しばかりのドイツ文学を愛読してきた。新婚旅行の行先もドイツ・オーストリアを選び、人気抜群のイタリア、スイス、フランスは訪れなかった。旅程を定めない旅だったのでその街が気に入れば連泊し、次の行き先は宿泊先で地図を拡げて決めるという呑気な旅であった。
どうしても訪れたかったのは、フュッセンとウィーンだった。フュッセンで、ルートビッヒ二世が建てたノイシュバンシュタイン城をこの目で見たかった。
フュッセンの地に立ったとき、「ルートビッヒ、貴方は壮大な浪費をしてバイエルンを困らせましたが、100年かけて充分元を取りましたね」、とこころの中でつぶやいた。
夕食に入ったレストランでは、となりのテーブルで家族連れが食事をとっていた。突然小さな女の子が泣き出して、母親がどんなになだめても一向に泣きやまない。そこで私達が折り鶴を折って女の子に手渡すと、ピタリと泣きやんだ。 「これは飛びますか?」と母親に聞かれ、「飛べないけれど、日本では幸福のシンボルです。」と説明した。作り方を教えて欲しいといわれ、周囲の客も交えて即席の折り紙教室を開いた。
幸運にもウィーンではウィーンフィルの演奏会を一回と、国立歌劇場のオペラを二回鑑賞することができた。
オペラの演目は「ボリス・ゴドノフ」と「トロヴァトーレ」で、今でも我が家にはその時持ち帰ったボリスの演奏会ポスターがパネルにして飾ってある。
もう30年ほど昔、赤坂の東京ドイツ文化センターでドイツオペラのフィルム上映会があった。8㎜と16㎜のフィルムでドイツオペラの名作を上映するという催しで、入場料は一作品500円であった。
ボツェック・薔薇の騎士・天国と地獄・魔笛・タンホイザー。魔弾の射手、これがその時観た作品である。
C・クライバー指揮によるバイエルン国立歌劇場の「薔薇の騎士」では、上映終了後満員の観客から盛大な拍手がわき起こった。この作品はそれから15年後、同じ指揮者によるウィーンオペラの来日公演でも観ることができた。カーテンコールの東京文化会館は、ホールの壁が吹き飛ぶのではないかと思えるほどの拍手と歓声に包まれた。帰りにアメ横の居酒屋に入ると、オペラ座のメンバーが先客として飲んでいた。私は彼らに冷や酒をおごった。
今さらベートーヴェンやカントでもない、という大使館側の教授の言葉は私には少し悲しかった。それは日本が、フジヤマ・ゲイシャによってイメージされることとは違うかも知れないが、ドイツの若者にとっても自国の偉大な文化は過去のものとなってしまったようだ。
ドイツ人が土偶の造形に現代日本のアニメキャラクターを連想したというのは、驚きであった。土偶の持つカリカチュアは、信仰と切り離せないものだと思う。誇張されたセクシャルな部位には、命を宿すことへの限りない感謝があり、それは豊饒への祈りにも通じるものであろう。縄文の土偶や火炎土器は、最古でありながら前衛的であり、弥生のスマートで均整のとれたものに較べて、一段と新しいイメージがある。
弥生の均整がバッハであるとするならば、縄文の過剰はワグナーかストラビンスキーに近いように思う。あるいは能と歌舞伎といってもいいかも知れない。とこんな妄想を縄文人が聞いたら、私達がドイツ人の発想に驚いたように、びっくりするだろうか。
ケルンでは一年おきに世界最大のカメラと写真用品の展示会が開かれる。私はカメラ店に勤務しており、15年程前、運良くこの展示会を見学する機会に恵まれた。ただ、その当時も今も世界のカメラのほとんどは日本が原産国であり、そういった意味ではわざわざ日本からドイツまで「Made in Japan」のカメラを見に行く必要性はまったくないといってよかった。ドイツが小型カメラを発明した聖地であることは揺るがないのだが。
初日に展示会の見学が終了したところで許しをもらい、私はツアーから離脱した。こうして二度目のドイツと、東欧の短い一人旅をする機会を得た。
この時は旅程のほとんどを東欧に割き、チェコ、ハンガリー、ルーマニアを駆け足で回った。数年前に冷戦が崩壊し、旧共産圏にも簡単に旅行ができるようになっていた。私はこの時、共産主義の墓参りをするような気分でいた。
ベルリンの壁が崩れて間もなく、新宿の路上でベルリンの壁の破片が売られていた。何の変哲もない石の混じったコンクリートのかけらで、偽物かも知れないが私はそれを1,000円で買った。今でも書棚に置いてある。
この時L・バーンスタインがフロイデをフライハイトに替えて演奏したベートーヴェンの9番シンフォニーは、CDやDVDにもなったが、いつかいつかという内に聞き逃してしまった。
当時テレビ番組で聞いて今でも大変印象に残っている言葉がある。それは旧東独の老婆がインタビューに答えたもので、彼女は「自分が生きている内に壁が壊れるなどということは考えたこともなかった。もうこの先の人生で何が起きようと、私は驚くということはないであろう。」と語った。
来年の日独交流150周年の催事が、実り多いものになることを願う。私もその内のいくつかに是非足を運びたいと思う。そして西尾先生がおっしゃったように、ドイツが生んだ偉人についてもきちんと紹介されることを祈りたい。職業に関係することでいえば、今から170年前にフランスで発明された写真術は、ドイツで小型カメラが開発されたことで、大衆の手に行き渡った。この時生み出された要素は、基本の部分では現在も変化していない。85年前のデファクトスタンダードが今も通用する珍しい分野ではないかと思う。
かつてある仏文の教授が、「日本人はドイツを拡大鏡で見ている」、と話されたことがあった。少なくとも私はそうなのかも知れない。それでも、ほんの少しであれ、若い頃からドイツの芸術に親しんだことが、私の人生に大きな彩りを与えてくれたことは間違いない。
浅野正美