小林秀雄に腰掛けて物言う人々(二)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

 ところで、武田先生の指摘に対しては、間髪をいれず小冊子で著者自身が、宣長について小林秀雄から格別に新しい知識を得たものではなく、方法論もアプローチの仕方もこの本は全然別ものであることを説明しており、真に師匠とあおぐ人に対する生きかたの厳しさも論じていて、これ以上、『江戸のダイナミズム』批評のズレを第三者がただす必要はないのだが、もうひとつだけ気になるところがある。

 著者は第一章「暗い江戸、明るい江戸」(二十五頁)で「私は『近代的なるもの』それ自体が今の二十一世紀初頭に崖っぷちに立たされているという認識に立っています」と重要な姿勢を表明している。これについて、武田先生は「どうして著者がこういう認識を持っているかと言えば、学問するとは、単なる認識の獲得ではなく、同時に、学問するというこの人間的営為には、必ず自己の魂の救いと言うことがなければならないと考えているからでしょう」と学問に立ち向かう著者の基本的態度を想像し、「『近代的なるもの』は、人間の生において、無価値ではないけれども究極的には人の魂の救いには無力です」と、示唆に富んだ評価をしている。

 私はたいそう意地悪な読み方をしているのかもしれない。が、聞いて下さるなら私の見解はこうである。

 西尾幹二という思想家は「学問するという人間的営為」でこんなものを書いているのではなく、また「自己の魂の救い」を無意識のうちにも意識して、ということでもないだろうと思う。『諸君!』連載当初からこの仕事は当人の著作行為の中でも格別な仕事の部類に入ると感じていたし、今でも感じているのだが、私は『江戸のダイナミズム』の読者の筆頭は実は、荻生徂徠その人だったのではないか、という気がしている。書き終えられて、どこか秘められた愉悦さえ感じられる。今はさしづめ読者なんか要らない、徂徠との対話を至深所の麓で行う。それは楽しいものだった、と。

 つまり、「自己の魂の救い」という近代的懊悩の課題などはそっちのけで、人類史の本源的な神秘を嗅ぎながら、人間存在と世界の始原に向かって、徂徠が佇んでいるすぐ隣にまで著者は行き着いて、深淵なる蒼古の宇宙を二人して並んで眺めていたのではないだろうか。著者を突き動かしたのは、おそらく遙かなる憧憬である。

 百年の書物は百年かかり、二百年の書物は二百年の生命を看取することのできる後学を要する。つまり、著者は或る統一感のもとで世界を飛翔して廻られ、人間世界が希求しながら獲得し、また獲得しえなかった根源なるものの全体を確かめられた。時代に起伏してあらわれた各民族の「精神の事件」をきちんと選り分けて、それぞれ処(ところ)と役割を得さしめたが、筆をはこんでほとんど最終行まで無私無雑ではなかっただろうか。

 思想家・西尾幹二は、私かに徂来に語りかけたにちがいない。そんな気がしているのである。この書物には「人の魂の救いに無力な近代」に対する歎きもすでに消えている。それを感じるとき、少なくとも私たちは西尾幹二より五千年くらい若い近代人であることを思い知らされる。

 書物は今いる人間のために書かれるとは限らない。そういう行為こそ大きな提示だとわかるような素地をもっていたい。

文・伊藤悠可

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