現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
今回は、伊藤悠可氏によるゲストエッセイです。『江戸のダイナミズム』に触発されての論文「小林秀雄に腰掛けて物言う人々」です。
伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講
本居宣長を知るのに小林秀雄を必要とするであろうか。われわれは古事記を知るには本居宣長を必要とする、というならそれは認めなければならない。しかし、宣長を読むために小林秀雄という通路を行き、門をくぐらなければならないか。
あらたまってこのような問いかけをしたくなるのは、小林秀雄の影響下にあると自認している人が少なからずいて、その人たちが自分の思想や知見を語るつもりでいながら、実は小林秀雄をなぞっているばかりでなく、価値基準を小林秀雄という定規にあてて、思想と現実と人とを測ろうとしているのではないか、と言いたくなる場面に出くわすからである。
その人にはおそらく自覚はない。自分で考え自分で語ったり書いたりしているつもりなのだが、その人自身、そこに不在であるという感じさえする。小林秀雄の真髄を知らない人間はまだ半人前だといいたげでもあり、こちらはあなたより(小林を)読んではいない、またあなたの指摘するところまでは読者として気がつかなかったという気持ちで「そうですか」と応えるしかないのだけれども、場違いな〈小林秀雄〉の割り込みということもありうるのだ。
小林秀雄をこよなく愛しあがめて〈絶対教師〉のように信じている人は、多分、私より少し上の昭和二十年初頭の生まれから、下って十数歳くらいの間までの人々に多いと勝手に想像している。最近、或る機会に長く比較文学をなさってきた大学教授にこのことを伺ったら、同感だと仰言る。時代思潮を読むうえで、こんご昭和文学史における小林秀雄の位置づけと彼が風靡した世代の風向きをとらえる確認が分野の専門家によってなされるであろう。
小林秀雄を〈絶対教師〉としてあがめて、何事につけても思考や思索の通路とする。私は仮にこれを「小林秀雄への盲目性向」と名付けおきたいが、尊敬した人間に対する問題、尊敬してやまない人間を他者に伝えるときにわきまえるべき作法の問題を投げかけており、意外と文学や思想の問題ではなく、行儀にかかわることだからやっかいでもある。
或る物にふれておきながらその物の本質を味わうことをせず、小林秀雄という定規からはずれているものは価値がないという転倒的判断をしてしまう。或いは、小林秀雄はつねに最も高峰の、それも頂上に座していなければならず、そこから眺めてこの人は小林よりもこれだけ低い、かの人は頑張ってはいるけれどもせいぜい中間辺りの山を登っている最中である、といった品定めをしてしまう。たくさんの研究をしたであろう専門家や大学教官といった知識人の中にもこうした雰囲気を持っている人がいて、どうも二の句がつげないで背中をむずかゆくさせられる。
小林秀雄に腰掛けて物を言うからである。
『江戸のダイナミズム』出版記念会で配られた小冊子で、鳥取大学助教授・武田修志先生の寄稿文を読んだときの私の印象は、残念ながら「著者の思索の跡はたどらずに、はなから小林秀雄という秤を持ち出している」という心酔者の手つきであった。おそらく著者があとがきでふれた「名だたる文藝評論家」という表現が口惜しく思われたのかもしれない。
「この名だたる文藝評論家が小林秀雄であることは、先生の読者なら、大抵の人には分かるのではないでしょうか。僅かにこれだけ書いただけで、小林の方法論を、正面から批評しなかったというのは、この著作をいささか軽いものにしている――」という妙に感情に傾いた辛い批評をつけている。しかし、なぜ『江戸のダイナミズム』の世界的本源的テーマにおいて、決してそこの住人ではない小林秀雄を論究しなければならないと著者に要求できるのだろうか。
小林秀雄で頭がいっぱいになっている人々。告白すれば、私にもそういう一時代があって、その人々のうちに所属したかもしれない。インターネット日録で私は武田先生の名前を記憶していた。西尾幹二先生があるとき山陰に講演旅行かなにかに出かけられ、その夜久しぶりに歓談の機会を得られたという話が載っていて、また別の機会に「小林秀雄についてめっぽう詳しく研究している学人がおられてね」ということも伺ったことがある。
小林秀雄を研究している、と聞いただけで、私にはとても難題でありすぎて、あとずさりしてしまいそうだが、純粋に敬意をもってその御仕事(研究論文)を読んでみたいと思う。酒場のカウンターに小林秀雄が訳した「ランボー」を持っていって、一人でしこたま飲んでみたいといった青首ダイコンのような無頼派ぶった小林愛好家も居るには居たが、小林秀雄がどのように捉えられているのか、本筋の研究家の仕事を垣間見てみたいという思いがある。
それゆえに、「小林秀雄の『本居宣長』が先行作品として存在しなかったら、この本は現在のものと相当違ったものになったのではないか」というような〈小林秀雄という定規〉を持ち出されると、ちょっと待ってほしい、専門家も大丈夫だろうか、という心細い気持ちになってくるのだった。
一昨年の初夏の頃だったか、日比谷にある美術館で、めずらしく全国の秘蔵家が名作を持ち寄ったという「鉄斎展」を觀に行った。畳何枚にもなるほどの「富嶽」の大作の前には親切にも大きなベンチをしつらえてくれ、私は何十分でもそれを堪能することができた。ところが、ふと小林秀雄の『鉄斎』の文章が浮かんできたものだから、とたんに雑音が入り込んできたようでしばらく困惑し面白くなかった。小林秀雄が絵をみるときの邪魔になるのだった。
私は鉄斎をみたいとおもって来たのに、小林秀雄が絵から受けた心の動きをたどらなくてはならない。小林秀雄の眼を借りて、一回切りの鉄斎を見たいとは思わない。それは自分が神経症的な癖をもっているからだろうか。或いは、世の中には小林秀雄に感化されて「鉄斎」を楽しく見る人もあるだろうし、あっても差し支えはない。それはそのとおりだが、私は先行知識というものはときどき人を困らせるものだという気がしている。
『宣長』の先行作品が小林秀雄だというなら、国学者の蓮田善明のものも先行している。神道方面の遠い過去からの注解書においては、まだたくさん先人を見い出すことができる。小林の『本居宣長』をただ一つの鑑とすることは、文字なき時代の言語生活の完全さについて、「これらの洞察を深い理解をもってひろく我々に伝えてくれたのはやはり小林秀雄であった」と、武田先生が感謝をもって讃えることに異論はないとしても、「『江戸のダイナミズム』の中で取り上げるべきだった」というのは不必要な拘泥でしかないと言わざるを得ない。
つまりこういうことである。本居宣長を語るには小林秀雄をまず読まなければならない、と思っている人を私は何人か知っている。「小林を読まずして宣長を語るなかれ」と直截的に言われたことはないが、ラストワークの『本居宣長』を読んだという人の中には、宣長を論じたいのか小林を論じたいのか、こちらには弁別がつかないまま、とにかくこの書物の賛辞を聞かされるだけという図式があり、こちらは「A」の話をしているのに相手は「小林が書いたA`」の話しか返して来ないというありさまとなる。それは少なくとも対話ではない。
早い話、これは対話を拒否する態度の開始である。知的論議ではなく排他の表明でもある。「尊敬」ということばにしても、あまり出し抜けに人前で使うものではないと同時に、「尊敬の念」の表明の仕方も厳密にいえば、ある程度人間をやってみた人でないと美しく始末をつけられない六ケしい人間わざなのである。
「尊敬」は勿論、美徳かもしれないが、時として「臭気」を発する恥ずかしいことを私たちが知っているからであろう。おそらく、「褒める」ことと同じで、「劣悪なるものはプラトンを褒めることは許されない」といったアリストテレスの忠言に含まれる羞恥や謙譲など繊細な感情を用意して、はじめて発せられる真っ裸の言葉だからであろう。私たちは師を褒める前に、私たち自身が向上しなければならないものである。昨今の学生が「尊敬する人は父です」とハキハキ応えて、なかなか素直な青年だと大人から讃えられる気持ちの悪い時代にあっても、やはり「尊敬」というものは用心深く扱われなくてはいけない、と私は思っている。
実際、小林秀雄の『本居宣長』の正確な評価はまだなされていないのではないだろうか。「本論は物足りず、『補記』をもってようやく眼睛の開かれる一境地を得る」という批評もあるのである。もう一つ、小林秀雄は多分、自分に寄り掛かる人がやがて出てくることを知っていたと思う。定規にされて困っているのは小林秀雄自身であろう。彼はよく「自分で発明したまえ!」と叱咤していた人だった。