宗教とは何か(一)

 『寺門興隆』(興山社)という雑誌に「宗教とは何か」という文章を書いてほしい、という難題をぶつけられた。その四月号に次の文を記した。三回に分載する。

 私はドイツ文学の研究者から出発し、政治や歴史について考えたり書いたりする仕事を主にする人生を送った。特定の宗教に帰依したことはなく、信仰心を持つ人間とも思っていない。つねに宗教に関心を持ちつづけてきたが、文化史や政治史における宗教の影響力に関心があるのであって、したがってあらゆる宗教に関心があり、宗教そのものには関心のない人間なのかもしれない。教養主義は宗教の敵であるが、私はそれに毒されている。

 教養主義はさまざまな知識を横並びに広げ、あらゆる価値を相対化する。しかしさまざまな知識を潜り抜けなければ、いかなる価値も樹てられないという矛盾もある。宗教は価値に近づくのに異なる入り口から這入る世界なのかもしれない。異なる入り口から別の通路を抜けて一直線に価値に迫るのが信仰であろう。

 自然科学者は山川草木森羅万象を、社会科学者は社会、法、国家、経済組織等をそれぞれ「実在」と見なして、それらを対象化し、それらの理法を究めようとするのだが、認識主体である「自己」をとり立ててあまり問題にしない。人文科学ではそうはいかない。私はドイツ文学者であり、文芸評論家でもあったので、若い頃から外国文学を学んだり研究したりすることの矛盾に悩んできた。

 私が当時対象とする実在は「外国」であった。外国を主観と客観の対立する認識の相において客体として捉えようとするのだが、ここに留まっている限り、外国研究は実はほとんど前へ進まない。日本人である自己を捨ててある特定の外国の人間になり切るくらいの所まで行く、すなわち主観を捨てて客観の世界へ没入する所まで行く、そこではじめて何かが見えてくるといっていいだろう。私自身がそこまでやったという自覚はなく、私は中途半端だったが、自己を捨てることが必ずしも自己を失うことにはならない場合がある。

 夏目漱石のロンドンの憂鬱はこの点で示唆的である。図書館で万巻の英書を読もうとした漱石は自己錯乱の果てにふと悟るところがあって、外国は結局分らない、イギリス文学を知るのにイギリスの専門家の手引きにいつまでこだわっても駄目で、英書より漢籍のほうが良く分る自分の感受性を信じることが大切だと気づいて、「自己本位」ということを言い出した。

 これは漢籍が分る東洋人の自分の主観でイギリス文学を割り切ればいいという話ではなく、いったんはイギリス人になり切ろうと努力する「自己」が先行していた。しかしその「自己」が邪魔だということに気がついた。それはまだ、自意識の段階の「自己」だからであり、そこで悪戦苦闘して、万巻の英書を読破しようと思い込むなど錯乱に近い状態を経て、ふと悟るものがあり、外国という「実在」に直接するリアルな瞬間を持ったのである。

 漱石の外国体験は宗教的悟りに似ているといえないだろうか。

つづく

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