必要があって2010年から今日までの私の出版記録をまとめてみた。私がこのところ記録を失っていたので、長谷川さんに整理してもらったら次のようになった。「めちゃめちゃ忙しいはずですよネ」と書いてこられた。
2010年 6月 草思社 日本をここまで壊したのは誰か
2010年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封4
2010年 11月 祥伝社新書 尖閣戦争 (青木共著)
2010年 12月 総和社 西尾幹二のブログ論壇
2011年 7月 徳間書店 GHQ焚書図書開封5
2011年 10月 国書刊行会 全集第五巻『光と断崖』
2011年 11月 徳間書店 GHQ焚書図書開封6
2011年 11月 文芸春秋 平和主義ではない脱原発
2012年 1月 新潮社 天皇と原爆
2012年 1月 国書刊行会 全集第一巻『ヨーロッパの個人主義』
2012年 4月 国書刊行会 全集第二巻『悲劇人の姿勢』
2012年 7月 国書刊行会 全集第三巻『懐疑の精神』
2012年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封7
2012年 10月 国書刊行会 全集第四巻『ニーチェ』
2012年 12月 飛鳥新社 女系天皇問題と脱原発 (竹田共著)
2012年 12月 祥伝社新書 第二次尖閣戦争 (青木共著)
2012年 12月 徳間書店 自ら歴史を貶める日本人(四人の共著)
2013年 2月 国書刊行会 全集第六巻『ショーペンハウアーとドイツ思想』
2013年 4月 飛鳥新社 中国人に対する「労働鎖国」のすすめ
2013年 5月 国書刊行会 全集第七巻『ソ連知識人との対話/ドイツ再発見の旅』
2013年 7月 ビジネス社 憂国のリアリズム
2013年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封8
2013年 9月 国書刊行会 全集第八巻『教育文明論』
2013年 12月 ビジネス社 同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた
2014年 2月 国書刊行会 全集第九巻『文学評論』
2014年 3月 徳間書店 GHQ焚書図書開封9
2014年 6月 国書刊行会 全集第十四巻『人生論集』
2014年 8月 新潮社 天皇と原爆(文庫)
2014年 8月 徳間書店 GHQ焚書図書開封10 予定
最後の一冊は「維新の源流としての水戸学」かまたは「イギリスの地球侵略」のいずれかとなる。
こうやって一覧してみると、全集が始まってから以後、私はろくな仕事をしていない。全集の刊行に良質の部分のエネルギーをほゞ吸い取られている。新生面を開くような企てがなされていない。このほかに『正論』連載があるからもう仕方がないともいえるが、人生最後の局面に新味の出せないこんなことでは情けないと思う。
全集はたしかに容易ではない。精力の6~7割はこれに注がれている。しかもここへ来て編集上の困難とぶつかって立ち往生している。1980年代から以後の自分については「年譜」を先に作らないと、前へ進めないことが判明した。
「年譜」とは各年・各月の寄稿記録・活動記録のことである。大学教師時代の最後の8年間は大学紀要に詳細な報告がなされている。国立国会図書館に約800篇の拙文が貯蔵されていて、うち166篇がある方の協力を得てすでにプリントアウトされている。各単行本の巻末にある初出誌一覧表を参考にする必要もある。現代日本執筆者大事典というのもある。それも利用する。新聞寄稿文は切り抜きスクラップが存在する、等々、いろいろ手はあるが、簡単ではない。
はじめ私は大学ノートに書きだしていくか、もしくはカードを作成しようかと思ったが、これは古い世代のくせで、今ならパソコンを用いるのが最善であろう。ところがこれが私はまた苦手で、難関である。
どうしてよいか分らないで昨日今日、呆然として手を拱いている。
今までは私の若い時代が対象だったので自分の過去の仕事はよく把握されていた。巻が進み、1980年代より以後、そうは行かなくなってきた。
今まで「教育」とか「文学」とか「人生論」とか、ブロック化できるものはまとめ易いので10回配本まで何とか乗り越えてきたが、いよいよそうは行かなくなって、途方に暮れている。
とにかく「年譜」を先に作ってそれからでないと作品の読みと選択を行えないのが本当に頭が痛くなるほど辛いのである。
虚構の楽浪郡平壌説〜帯方郡、玄菟郡、馬韓の場所〜
暁 美焔(Xiao Meiyan) 2013.7.19(原案), 2014.5.25(完成)
東アジアの古代史は魏志倭人伝の謎ばかりでなく、倭国の朝鮮半島支配の謎、百済の遼西支配の謎、北魏の百済攻撃の謎、など説明できない謎に満ちている。 ここでは、「玄菟郡の遼東移動の怪」、「消えた万里の長城の怪」、「夫余の楽浪郡攻撃の怪」、「馬韓の玄菟郡攻撃の怪」の4つの謎を紹介し、絶対に正しいと信じられている楽浪郡平壌説が実際には破綻した説である事を説明する。
玄菟郡の遼東移動の怪とは、前107年に衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡と共に置かれた玄菟郡が、設置後まもなくの前75年に朝鮮半島から遼東(遼河東部地域)へと大移動が行われた謎である(東亜蛮族図0から東亜蛮族図1へ)。
消えた万里の長城の怪とは、楽浪郡逐城県を起点とする万里の長城が朝鮮半島から跡形もなく姿を消した謎である。
夫余の楽浪郡攻撃の怪とは、111年に夫余が玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を攻撃した事件の謎である。
馬韓の玄菟郡攻撃の怪とは、122年に馬韓が帯方郡、楽浪郡、遼東郡を通り越して、高句麗主導で濊貊と共に遼東の玄菟郡を攻撃したが、夫余によって撃退された事件の謎である。
そして邪馬台国論争が実は氷山の一角に過ぎない程の驚愕すべき東アジアの古代史の真実と、 楽浪郡平壌説による古代史改竄の驚くべき手口を説明する。
3.1 中国史書が示す楽浪郡、帯方郡の場所
楽浪郡の場所は遼東
楽浪郡は平壌周辺と教えられているが、中国史書では楽浪郡がどのように記述されているか知っている者はほとんどいない。 楽浪郡の位置は400年の間に変遷するが、朝鮮半島を示す中国古代史書は存在しない。 中国史書が示す楽浪郡の場所とは遼東である。 遼東とは現在の遼東半島ではなく、遼河(流れは現在と異なる)東部の地域である。
史記夏本紀:太康地理志云「樂浪遂城縣有碣石山,長城所起」
楽浪郡遂城県には碣石山があるが万里の長城が始まる所だ。(注:碣石山は秦の始皇帝も登った有名な山で、記述に間違いはないだろう。)
漢書列傳:東過碣石以玄菟、樂浪為郡,[八]師古曰:「樂音洛。浪音郎。」
碣石より東は玄菟郡、楽浪郡。
後漢書郡國志:樂浪郡武帝置。雒陽東北五千里(中略)列口:郭璞注山海經曰「列,水名。列水在遼東。」
楽浪郡は武帝が置いた。洛陽東北五千里。(中略)列口「列は川の名前で列水は遼東にある」
後漢書光武帝紀:樂浪郡,故朝鮮國也,在遼東
楽浪郡は故朝鮮国であり、遼東にある。(注:「朝鮮」という国号は高麗王朝を滅ぼした李成桂が明の初代皇帝である洪武帝により国号を選んでもらい、 古朝鮮にちなんで権知朝鮮国事に封じられた事により定められたもので、「故朝鮮国(古朝鮮)」と「朝鮮半島」は位置的に関係は無い。 もう一つの国号の候補であった「和寧」も李成桂の出身のカラコルムの別名であり、やはり朝鮮半島とは位置的に関係は無い。)
後漢書列傳:長岑縣,屬樂浪郡,其地在遼東
長岑県は楽浪郡に属し、遼東にある。
後漢書列傳夫餘:安帝永初五年,夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。
安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7~8千人を率いて楽浪郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。(注:満州北方にいた夫余が平壌を攻めるのは不可解であり、楽浪郡は遼東にあったと考えるしかないだろう。)
中国古代史書が示す楽浪郡の場所の中に朝鮮半島を示すものは存在せず、全てが遼東を示しており例外は一つも無いのである。
高句麗の軍事力は強大で歴代王朝は遼東支配すら不安定であった。 中原と朝鮮半島の間には高句麗の根拠地である険しい長白山脈があり、その支脈である千山山脈は遼東半島まで伸びている。 中国王朝にとって朝鮮半島は山や海を越えた遠方の場所である上に、高句麗の首都である集安の向こう側にあり、兵站の維持が困難な場所だ。 半島を支配しようとした唐・新羅戦争や紅巾の乱でも中国側は朝鮮側に敗北している。 渤海国を滅ぼした契丹による高麗侵攻でも契丹は兵站の維持が続かなかった。 隋の煬帝による高句麗遠征の大軍も朝鮮半島ではやはり兵站の維持が続かず、清川江にて乙支文徳により壊滅した(薩水大捷)。 日本や樺太までも支配しようとしたモンゴルの執拗な侵攻による80年間の支配を例外とすれば、後の王朝は丁卯胡乱、丙子胡乱など、一時的に攻め込む事はあっても朝鮮半島を冊封国とするのみで、直接支配しようとは考えなかった。 朝鮮半島はこのように兵站の維持が難しく、モンゴル帝国でさえ江華島(韓国No.4の島)に逃げ込んだ高麗王朝を攻めきれず、簡単に占領できたわけではない。 その上、遼東は鮮卑による度重なる侵攻だけでなく、高句麗、夫余にも何度も侵攻され、その他にも烏桓、濊貊、馬韓にまで侵攻された。 異民族による侵攻だけでなく、公孫氏の独立宣言による遼隧の戦いなどの内乱も発生し、遼東支配は決して安定していなかった。 遼東のはるか先、そして集安の向こう側にある朝鮮半島を、紀元前108年から313年までの420年もの間、中国歴代王朝が前漢、新、赤眉の乱、後漢、黄巾の乱、三国時代、西晋、八王の乱、前趙などの激動と波乱の時代を通して、一貫してこの地に執着し、安定的に支配できた理由とは一体何だと言うのだろうか。 楽浪王調の乱のような反乱が起きる度に、朝鮮半島に大軍を送り込んでいたのだろうか。
このような荒唐無稽にも見える説に対し、学者達が誰一人として何の疑問も全く抱かない理由とは、一体全体何故なのだろうか。
帯方郡の場所も遼東
帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。 定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である。
後漢書高句麗伝:「郡國志西安平、 帶方,縣,並屬遼東郡」
郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。
魏志高句麗伝:順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居鄉,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子
順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を誘拐した。
晋書地理誌:帶方郡公孫度置。列口, 長岑, 含資
帯方郡は公孫度が置いた。列口県(後漢書郡國志によると列水は遼東), 長岑県(後漢書列傳によると長岑は遼東), 含資県(魏書地形志によると含資は遼西県属)
帯方郡を置いた公孫度は黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、遼東王を自称した人物である。公孫度には遼東王の地位の確立が重要で、はるか南方のソウル地方の運営に興味があったというのも奇妙な話である。
平壌で発見された考古学的発見の正体は?
では楽浪郡が遼東にあったとすると、平壌で発見された考古学的な遺物は何だったのだろうか。 それは辰韓人などの亡命中国人の遺構だったと推測している。 「辰韓」とは秦人が万里の長城建設の苦役から逃亡して韓の地に定住したという国である。 魏志韓伝には次のような記述がある。
馬韓の東の地を割いて辰韓人を住まわせたという伝承がある。
韓は帯方郡の南、東西は海で尽き、南は倭と接する。
楽浪郡の使いは大船に乗って辰韓に入り、千人の仲間を奪還した。また「万余の兵を船に乗せて攻撃する」と辰韓を威嚇した。
定説では辰韓は釜山のあたりとなっているが、釜山では南に倭と接していない。 平壌から大船に乗って行く場所ではないばかりか、朝鮮半島南西部を回っての渡海作戦は陸上作戦に比べて極めて困難であり、楽浪郡が渡海作戦を行う理由が全く説明できない。 そもそも建国できるほどの多数の人間が逃亡するには、秦から遠すぎる。 平壌は「馬韓の東」「南は倭と接す」「渡海作戦」を満たし、秦から千山山脈を越えて逃亡した者がたどり着く場所だ。 公孫氏の滅亡に伴う東アジアの激動に辰韓は飲み込まれ、 景初年間(237年−239年)辰韓は8国に分割されて楽浪郡に与えられた。 238年に隣国の女王卑弥呼に親魏倭王の封号が与えられたのは辰韓滅亡と無関係では無かろう。 その後約定が異なり、韓と楽浪、帯方は全面戦争となった。 楽浪郡によって辰韓の地が一時的に直接統治されたのは間違いあるまい。 亡命中国人の墳墓と楽浪郡統治時代の遺構を掘り当てて楽浪郡と判断してしまったのではなかろうか。
平壌から出土した考古学的発見は絶対的な証拠とされているが、それが果たして江戸時代や平安時代よりも長い420年間の朝鮮半島支配の証拠となるのであろうか。 建築物、宗教施設、生活用具、記録など多種多様の遺物が出土すべきではなかろうか。 楽浪郡の長い歴史の中で史書に名前が残されるような人物や事件の痕跡が見つからないのは何故なのだろうか。 万里の長城が朝鮮半島内で見つかるべきではないだろうか。 その程度の遺物しか朝鮮半島から出土しなかったのは、むしろ楽浪郡ではなかったことの証明ではないか。
最近の発掘調査報告(資料1)では楽浪郡平壌説の基盤となった木槨(もっかく)墓は「紀元前3世紀以前から紀元前1世紀末まで存在したと見ることができる」とされた。 その後3世紀までにグィトル墓、レンガ墓と形式が変遷し、中国で発掘される墳墓とは異なるとされた。 この報告が正しければ、楽浪郡設置(紀元前108年-313年)の百年以上前の始皇帝の時代から木槨墓が作られ始めた事になる。 万里の長城建設の苦役から逃亡した秦人達が建国したという辰韓と仮定した方が、楽浪郡と仮定するより自然である上に、文献と考古学が完全に一致するだけでなく地理条件やその後の歴史の経過とも符号するのではなかろうか。 検討すべき重要な考古学的報告に思われるのだが、北朝鮮人の研究報告など当然のごとく無視されるだけである。
3.2 楽浪郡平壌説による古代史改竄の方法
楽浪郡平壌説とは単に楽浪郡が平壌にあったかというような説ではなく、朝鮮半島の歴史を箕子朝鮮から倭の消滅までの数百年に渡って改竄する、壮大な虚構の古代史の基盤となっている説である。 そしてその最大の目的は倭国の歴史を日本列島の歴史に改竄する事にある。 歴史改竄の方法は複雑だが、資料2の山形氏の説を簡単にまとめると次のようなステップで構成される。
倭国を朝鮮半島から消去して日本列島に移動させる。
倭国の抜けた穴を埋めるために朝鮮半島北部や遼東半島にあった三韓、百済、新羅などを朝鮮半島南部へ移動させる。
それらの国々が抜けた穴を埋めるために遼東(遼河東部地域)にあった古朝鮮、楽浪郡や玄菟郡などを朝鮮半島に移動させたり高句麗を巨大化させる。
最後にそれらが抜けた穴を埋めるため、燕、秦、漢、高句麗などを全て巨大化させる。 そして楽浪郡と共に朝鮮半島に移動した玄菟郡だけを遼東に戻し、楽浪郡だけを平壌に残したりする。
以下においてはそれぞれのステップの改竄がどのような問題を発生させたかについて説明する。
1. 倭国は朝鮮半島国家
最初のステップを否定し、倭国を朝鮮半島と考えれば倭人伝以外の中国文献、朝鮮文献の記述に対する以下のような疑問も解消する。
山海経海内北経に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す」とあり、陸続きであったような書き方である。燕は河北省北部(北京周辺)のあたりにあった国で、蓋国(韓の前身か?)がどこにあったにせよ、 倭が燕の属国であった以上、遼東半島か朝鮮半島北部あたりにあったのではないか?
漢書地理誌には「樂浪海中有倭人」とある。楽浪海が何を意味するかは不明であるが、遼東湾、西朝鮮湾、黄海あたりを意味し、太平洋は意味しない。倭人は朝鮮半島にいたのではないか?
魏志韓伝では「南は倭と接する」、「瀆盧国は倭と接する(與倭接界)」とある。倭が朝鮮半島にあったという明白な証拠ではないか?
北史百済伝では百済の構成民族に倭人が挙げられているが、倭と百済は陸続きだったのではないか?
宋書倭国伝では倭王武を倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した、とある。高句麗 好太王碑でも倭は朝鮮半島の覇権を巡って高句麗と争った事が記されている。倭国が朝鮮半島に固執した理由は何故か?帆船の無い時代に日本列島から朝鮮半島に大軍を派遣するのは現実的だろうか?
宋書倭国伝で記述された倭の五王に関し、記紀に記述が全く無い上に天皇の在位期間と合わないのは何故か?
高句麗と倭が朝鮮半島で死闘を繰り広げた時代に、大和政権が資金や労働力を戦争ではなく大規模古墳の作成に費やしていたのは何故か?
旧唐書には「日本国は倭国の別種」とある。倭国と日本国は別の国だったのではないか?
三国史記新羅本紀によると第四代国王脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあったとある。倭国を九州とすれば東北に国は存在せず、畿内とすると脱解は倭人となり、新羅の王になるのは不自然ではないか?
三国史記新羅本紀では度重なる倭国の侵入記録があり、5方向から侵入した記録もある。倭は毎回対馬海峡を越えて侵入したのだろうか?
2. 馬韓、百済は遼東半島国家
二番目のステップを否定し、馬韓やその跡地に建国された百済の位置を朝鮮半島南西部ではなく、遼東半島と考えれば以下のような疑問も解消する。
魏志韓伝では馬韓の西海上の大島に州胡があったされる。この大島は現在も存在するはずだが、一体どこか?
後漢書高句麗伝では建光元年(121年)高句麗が馬韓や濊貊と共に玄菟郡へ侵攻し、夫余によって撃退されたとある。馬韓が朝鮮半島南西部とすると、高句麗が楽浪郡の向こう側にあった馬韓と共に遼東にあった玄菟郡に侵攻するのは不可解ではないか?馬韓は玄菟郡の近くにあったのではないか?
宋書百済伝では百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったとされる。朝鮮半島南西部と考えるのはおかしくないか?
宋書百済伝では百済が遼西を支配したある。朝鮮半島南西部にあった百済が遼河の西部を支配するのは不自然ではないか?
北史百済伝では「東は新羅、北は高句麗、西南は大海、小海の南に暮らす」とある。朝鮮半島南西部とすると「小海」とはどこか?
北史百済伝では百済の南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)がある、とあるが朝鮮半島南西部から三ケ月というのは長すぎないか?
南斉書では北魏が数十万騎で百済を攻めたとあるが、渡海作戦を行ったような記述は無い。百済が朝鮮半島南西部にあったとすると陸路でも海路でもかなり困難な作戦だ。そればかりでなく、北魏と百済の間には高句麗が有り、高句麗の向こう側に数十万騎を送るのは不可能ではないか?
魏書勿吉伝では勿吉が百済と共謀して水路から高句麗を攻撃する計画を立てたが、北魏はこの計画を了承しなかったとある。百済が朝鮮半島南西部にあったとすると、不自然な計画ではないか?
史記夏本紀では「百済国西南渤海中に大島15有り、皆百済に属す」とある。百済は渤海に面していたのではないか?
3. 古朝鮮は遼東国家
楽浪郡平壌説では衛氏朝鮮、箕子朝鮮、楽浪郡なども朝鮮半島にあったとされているが、3番めのステップを否定し、遼東にあったとすれば次のような疑問も解消する。
後漢書光武帝紀には衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡を置き、その地は遼東にあったとある。衛氏朝鮮は遼東にあったのではないか?
史記朝鮮列伝では「朝鮮には濕水、洌水、汕水が有り三水が合流して洌水となる」とあり、後漢書郡國志では「列水は遼東にある」とあるが朝鮮は遼東にあったのではないか?
史記蘇秦列伝では「燕東有朝鮮(潮仙二音,水名)遼東、北有林胡、樓煩」とある。燕は北京のあたりにあった国である。記載順序によれば朝鮮は遼東より西側にあったのではないか。「朝鮮」は川の名前だとあるが、朝鮮とは遼河流域そのものを表す地名だったのではないか?
魏志韓伝では、衛氏朝鮮の宰相が東の辰国に亡命した、とある。朝鮮を平壌付近、辰韓を釜山付近とすると辰国の方角は東ではなく南ではないか?
史記朝鮮列伝では衛氏朝鮮王の右渠を打つために斉から渤海へ楼船に5万の兵を載せて出発したとある。衛氏朝鮮は渤海に面していたのではないか?
旧唐書では「遼東之地,周為箕子之國,漢家之玄菟郡」とある。箕子朝鮮は遼東にあったのではないか?
晋書地理誌では「樂浪郡漢置。朝鮮県:周封箕子地。遂城県:秦築長城之所起。」とある。箕子朝鮮があった場所は秦の始皇帝の築いた長城の始まる所(碣石山)の近くにあるとされているが、箕子朝鮮は遼東か遼西あたりにあったのではないか?
隋書では「高麗之地,本孤竹國也。周代以之封于箕子,漢世分為三郡,晉氏亦統遼東」とある。孤竹国は河北省にあった国だが箕子朝鮮は遼西あたりにあったのではないか?
遼史地理志には「東京遼陽府は、本の朝鮮の地なり」とある。箕子朝鮮は遼陽市のあたりにあったのではないか。
楽浪郡、玄菟郡と同じく衛氏朝鮮、箕子朝鮮も朝鮮半島にあったという記述は古代史書には存在せず、その場所は遼東か遼西である。「朝鮮」とは漢書地理志では楽浪郡の25あった県の一つ、後漢書郡国志では楽浪郡の17あった県の一つでしかない。即ち、元々「朝鮮」という地域は朝鮮半島のような広大な地域を示す地名ではなく、川の名前なのだ。そしてその川とは朝鮮半島ではなく、遼陽市を流れる太子河付近の河川だったであろう。
4. 漢帝国の版図の拡張
衛氏朝鮮の跡地には漢四郡が置かれたが、真番郡・臨屯郡はすぐに廃止されたため、実質的に設置されたのは楽浪郡と玄菟郡の2郡だけである。 第4のステップである漢帝国の版図拡大は、 朝鮮半島部分は楽浪郡と後に設置する帯方郡が担当し、 遼東半島部分は遼東郡が担当、 遼東部分は楽浪郡を追い出した分を玄菟郡が担当することになった。 このステップを否定すれば、次のような疑問も解消する。
楽浪郡と共に衛氏朝鮮の跡地に置かれ、その28年後に廃止されて楽浪郡に統合された臨屯郡。 定説では江原道の江陵市のあたりにあったはずの臨屯郡の太守章封泥が、 1997年に江陵市から海と山を越えて遥か離れた遼西の遼寧省の葫芦島市で発見された。 江原道と葫芦島市は現在でもほとんど政治的交流の無い地域であるが、短い期間しか存在しなかった臨屯郡の太守章封泥が遼西で発見されたのは不自然ではないか。 この臨屯太守章封泥争議は無視して良いのだろうか。
遼東郡の文県と番汗県が離れすぎているのは不自然ではないか?この問題は馴染みがなくわかりにくいが、遼東郡の説明に文県と番汗県が併記されているため、この2県は近くにあるものと推定される。 「満潘汗」が朝鮮国との国境であり、 「文」と「満」が同じ音であるため「満潘汗」は「文県と番汗県」を意味するものと推測される。 ところが朝鮮国を朝鮮半島に置いたことによって番汗県は清川江河口にある博川付近に比定されることとなった。 しかし文県は遼寧省 営口市付近に比定されており、 文県と番汗県が離れすぎているのが不自然ではないかという疑問である。これも古朝鮮を朝鮮半島に移動した結果として遼東郡を巨大化させてしまったために発生した疑問だろう。
玄菟郡が設置後まもなく遼東に移動されたのはあまりにも不自然ではないか? この「玄菟郡の遼東移動の怪」の問題もわかりにくい。 確かに濊が強大となり玄菟郡が移動したような記述はあるが、そのような大移動の跡は見られない。 玄菟郡と楽浪郡は朝鮮跡地の郡として同時に頻繁に現れ、玄菟郡は楽浪郡の近くにあった事が推測される。
楽浪郡が衛氏朝鮮の跡地に創設された事から、楽浪郡を遼東から朝鮮半島に移動させるためには、衛氏朝鮮を朝鮮半島に移動させる必要があった。 衛氏朝鮮を朝鮮半島に移すとなると、衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡と共に置かれた玄菟郡も朝鮮半島に移動する必要があった。 ところが、玄菟郡を朝鮮半島に移すと遼東を統括する郡がなくなってしまう。 それに玄菟郡は誰がどう見ても遼東に存在した郡である。 楽浪郡を平壌とするためには、玄菟郡だけをすぐに遼東に戻して楽浪郡や遼東郡が抜けた遼東部分を全て玄菟郡に分担させる必要があったのだろう。 あまりにも無茶苦茶な改竄の手口ではなかろうか。 玄菟郡が朝鮮半島に出張している間、遼東には一体何があったと言うのだろうか。
5. 万里の長城の大移動
歴史書には戦国時代に燕が朝鮮に侵攻し、障壁(燕長城、遼東長城)を築いたとの記述がある。 燕人満は長城を出て東に向かい、朝鮮との国境である浿水に向かった。 国境があった番汗県や浿水を清川江とすると、燕長城は朝鮮半島内にあったはずだ。 しかし、どれだけ探しても長城はどこにも見つからなかった。 浿水を鴨緑江や大同江などに比定してみても、やはり長城はどこにも見つからなかった。 広範囲に建築された建造物であるにもかかわらず、跡形もなく消えてしまったのだ。
楽浪郡や古朝鮮を朝鮮半島に移した事により楽浪郡遂城県の万里の長城の起点も朝鮮半島に大移動される事になった。 朝鮮半島に長城が存在しないとなると衛氏朝鮮が朝鮮半島に存在しないという事になり、即ち楽浪郡平壌説が成立しないためだ。 万里の長城の起点は碣石山と明記されているにもかかわらず。 これも「玄菟郡の遼東移動」と同様に無茶苦茶である。 中国側から朝鮮半島を攻撃するのは困難だが、同じ理由で朝鮮半島から中国側を攻撃するのも困難だ。 豊臣秀吉の朝鮮出兵時にも、小西行長は清川江を越えられなかった。 朝鮮戦争においても、補給線が伸びきった米軍は鴨緑江を越えてきた人民義勇軍を前に敗走した。 歴史上で朝鮮半島から千山山脈を越えて中国に攻め込んだ国家は大日本帝国だけである(百済の遼西侵攻は除く)。 朝鮮半島まで長城を伸ばす必要性などあったのだろうか。
中国全土の森林割合は13%と非常に少ないが、千山山脈や長白山脈は例外である。 この地域は黄海、渤海、日本海から供給される水蒸気により降水量が多く、そのほとんどが森林地帯だ。 長城には見張台としての機能が重要であり、本来見晴らしの良い国境地帯に建設するものだろう。 森林地帯に障壁として機能する長城を作るためには、簡単な土塁程度では存在自体が無意味であり相当の高度を持つ頑丈な障壁でなければいけない。 朝鮮半島どころか千山山脈、長白山脈を横断する長城の建設自体が既に困難なのだ。 建設されたのならば当然その痕跡が残されているはずであるが、現在でも見つかっていない。 歴史的にも千山山脈自体が天然の要塞であり、長城など作る必要はなかったのだろう。 朝鮮半島まで長城を建設したという説は地理的条件やその後の歴史を考えていないばかりか、技術面、経済面、戦術面などについても考えていないだろう。 明代に作られた虎山長城などを根拠に朝鮮半島まで燕の長城が建設されたという説は、考古学的に成立しない。 その虎山長城ですら中国側は遼東半島を貫く明史の長城の一部であるとしているが、明史の記述は長城の建設というより単に防衛線を記述しただけとも見られる上、虎山長城自体が実際には高句麗が建設した泊灼城とも言われている。
仮に千山山脈を横断するような長城が存在したと仮定したところで、朝鮮半島北部を分断できる地理的な線は河川以外に存在しない。 それ故に朝鮮半島内における国境線としては河川以外は誰も主張していない。 長城など存在しないのだから主張できないのは当然である。 そもそも北朝鮮の山岳森林地帯には長城を建設すべき防衛線が存在しないのだ。 長城とは森林の存在しない平原の国家が人工的に作り出す障壁であり、日本列島には不要であるのと同様に朝鮮半島にも不要である。 それに長城のような大規模な建造物ならば人目につくはずであるが、朝鮮半島内で長城を見た者は当然ながら有史以来一人もいない。 遼東半島にすら見つかっていないのだ。 しかし学会は何ら考古学的資料を示す事がないまま、 鴨緑江流域のみにしか存在しない後世の城壁を根拠にして朝鮮半島まで長城が建設されたと主張しているのだ。
朝鮮半島に長城が存在しないとなると、それは即ち楽浪郡平壌説の破綻を意味する。 それ故に長城は何があっても存在しなければいけない。 地理的、歴史的、技術的、経済的、戦術的な問題など、すべて無視すべき問題なのだ。 学会にとって最も重要視すべきはずの考古学的確証があるかどうかすらも無視しなければいけない。 定説を守るためには千山山脈の森林地帯を横断して朝鮮半島の満潘汗に至る長城が存在しなければならないのだ。 こうして学会は遼東から長白山脈を越えて朝鮮半島に至る架空の万里の長城を作り出した。 歴史地図にはその妄想の長城を書かせ、「当時の万里の長城は現在の物よりかなり北に設置されて、その東端は朝鮮半島に及んだ」などという何の根拠も無い説明を書かせる事にしたのである。 長城が見つからない理由など、北朝鮮の政治体制のせいにでもしておけば良いのだろうか。
定説という神聖不可侵な前提によって思想と行動のすべてが支配され、理性すらも失ってしまったのだろうか。
3.3 破綻している楽浪郡平壌説
楽浪郡平壌説は100年間守られてきた説であり、その論理は簡単に崩せないと思われるかもしれない。 あまり知られていないが、楽浪郡平壌説は歴史書で朝鮮や楽浪郡の場所を示す浿水、列水、帯水などの川の古名を遼河、東遼河、渾河、太子河などではなく、 鴨緑江、清川江、大同江などに比定する事によって成立している。 従ってこれまで楽浪郡平壌説を批判してきた者達は、文献や地理的条件を調査してこれらの川が朝鮮半島の河川ではない事を証明しようとしてきた。 しかしどれだけ丁寧に説明し主張したところで、学会は文献や地理的条件にはそもそも興味がなく、これらの主張は無視されるだけだった。 そして一般人にとっては遼東や北朝鮮の河川の話などには興味が無く、そのような主張に耳を傾ける者はほとんどいない。学会にとっては考古学的確証のみが重要であり、地理的な条件などの他の分野の専門家の意見など考慮する必要は無いのだ。 その考古学的確証ですら出土物だけが重要であり、当然出土すべき物が出土しない理由などは特に説明しなくても良い。 それ故に楽浪郡の歴史上の人物や事件の痕跡も、万里の長城も何も出土しなくても問題視する必要性は皆無である。 都合の悪い考古学的発見も話題にしなければ良いだけである。 そして北朝鮮が閉鎖国家であるために、誰にも再検証不可能な上に北朝鮮人の研究報告など無視すれば良いのだ。 これが荒唐無稽な楽浪郡平壌説が100年間も維持されてきた理由である。
しかし実際には定説は論理破綻した説であり、100年間それを隠してきただけである。 本来ならば先人達が示した浿水、列水、帯水などの地理条件を示すだけで定説破綻の証明は成立しているが、もっと分かりやすい方法でも証明は可能である。 定説では漢帝国の版図拡大を無理に行ったため、楽浪郡(朝鮮半島)、遼東郡(遼東半島)、玄菟郡(遼東)の3郡の位置関係にはほとんど自由度が無い。 これらの位置は東亜蛮族図1のような関係でなければならない。 定説破綻の証明は意外に簡単で、この位置関係が成立しない事を証明すれば良いだけである。 歴史書を調べればいくらでも例は出てくるだろう。
後漢書列傳/祭遵從弟肜では「(烏桓の)東は玄菟郡及び樂浪郡」とあり、玄菟郡と樂浪郡は南北に隣接し、その西側は遼東郡ではない事が示されているが、楽浪郡平壌説の破綻を意味しているのではないか?
前述ではあるが、漢書の「碣石より東は玄菟郡、楽浪郡」という記述は楽浪郡平壌説の破綻を意味しているのではないか?
前述の「夫余の楽浪郡攻撃」であるが、夫余にとって楽浪郡は攻撃できる範囲内の距離にあったはずだ。玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を攻撃するのは不可能であり、楽浪郡平壌説の破綻を意味しているのではないか?
前述の「馬韓の玄菟郡攻撃」であるが、馬韓にとって玄菟郡は攻撃できる範囲内の距離にあったはずだ。帶方郡、楽浪郡、遼東郡を通り越して玄菟郡を攻撃するのは不可能であり、楽浪郡平壌説の破綻を意味しているのではないか?
楽浪郡平壌説はとっくの昔から論理破綻しており、それに気付いている人は多いのだ。 しかし、定説は絶対に否定してはいけない説なのである。 それ故に、一般人には定説の「問題の認識」がされないように細心の注意が払われている。
420年の歴史の中で史書に残されるような人物や事件の痕跡が見つからない問題については、「上級官吏は生まれ故郷の墓に葬られるという漢の習慣に従ったため、楽浪漢墓には葬られていない」などと適当にごまかす。
広範囲な建造物であったにもかかわらず万里の長城が見つからない問題については、「この時代の長城は粘土質の土を固めて作った簡単な物で、当時の遺構は消失した」などと適当にごまかして、場所も示さないままとにかく朝鮮半島を起点としたと平気で主張する。
夫余が玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を攻撃した問題については、「玄菟郡攻撃の間違いだろう」と適当にごまかす。
馬韓が帯方郡、楽浪郡、遼東郡を通り越して玄菟郡を攻撃した問題については、ごまかしようが無いほど奇怪なのでそもそも話題にしない事にする。
遼西地域において臨屯太守章の封泥が出土した問題についても、そもそも話題にしない事にする。
楽浪郡設置の100年以上前から楽浪漢墓が作られたという報告についても、そもそも話題にしない事にする。
これらの問題に比べると「玄菟郡の遼東移動の怪」などはさらに巧妙で、表沙汰にはならないように必死だ。 すぐに廃止された重要でない真番郡・臨屯郡や漢四郡を強調して朝鮮跡地に玄菟郡が設置された事は目立たないようにして玄菟郡には興味を持たせないようにしたり、 玄菟郡に興味を持った人に対しては第一、第二、第三玄菟郡などという怪しげな名称を用意して焦点をぼかし、 まるで頻繁に移動される奇妙な郡であるような印象を与え、 「玄菟郡の遼東移動の怪」に対する疑問を持たないように細心の配慮をしている。 そのような数々の障壁を越えてまでも玄菟郡の遼東移動に疑問を持った強者に対しては、 嫌韓感情までも持ち出してその主張の動機を激しく個人攻撃して叩き潰すのだ。 このような手法に騙されている者達は哀れである。
定説が破綻しているかどうかなど問題ではないのである。 定説は公理であり、 学会が100年かけて構築した歴史はこの公理に基づいている。 これを否定するのは自己を否定をする行為なのだ。 定説の間違いなど疑ってはならず、 定説の間違いには気付かせてはならない。 定説の間違いを主張する者は無視しなければならず、 声を出して間違いを主張する者は抹殺しなければならない。 そしてそのような主張には決して耳を傾けないように世論を誘導しなければならないのだ。 「考古学的確証が必要だ」というと聞こえが良いが、その実態は論証からの逃避である。 築き上げた砂の城が現実という波によって流されてしまわないようにするために。
3.4 虚構の古代史と決別せよ
楽浪郡平壌説によって倭国が半島から消去されたため、つじつまを合わせるために高句麗は巨大な国家となってしまった。 対馬海峡の向こう側にいた倭国が半島国家群を属国にして、その強大な高句麗と朝鮮半島で覇権を争う事になったのである。 当の大和政権は巨大古墳の作成に夢中で、高句麗との戦争の記録が記紀に全く無いにも関わらず。 こうして荒唐無稽な虚構の古代史が出来上がっただけではなく、そのような偽歴史が教科書にまで書かれているのである。 定説は歴史教科書の朝鮮半島から倭国を消去する事には成功したが、歴史書の朝鮮半島の倭国までをも消すことができなかった。 ましてや、邪馬台国の移動先までは用意してはくれなかった。 定説に基づいて100年という長い期間、おびただしい数の人間が邪馬台国を探し続けたが誰にも見つけられなかった。 もちろん、未来永劫見つかる事はない。 邪馬台国とは夢の中にのみ存在する国家であり、現実において見つけ出す事は許されていないのだ。
見つからない邪馬台国、見つからない侏儒国、見つからない州胡、見つからない万里の長城、 裸国黒歯国の謎、倭国の半島支配の謎、夫余の楽浪郡攻撃の謎、玄菟郡の遼東移動の謎、 馬韓の玄菟郡攻撃の謎、百済の遼西支配の謎、北魏の百済攻撃の謎、文県と番汗県が離れすぎている謎、 日本国は倭国の別種だという謎、倭の五王や高句麗との戦争が記紀に記録されていない謎。 これらは全て謎などではない。 誤った定説に基づいて組み立てられた虚構の古代史の中で、どうしてもつじつまが合わせられない問題として一斉に噴出したものだ。 楽浪郡平壌説という壮大な嘘を否定するだけでこれらの謎は全て氷解し、 嘘で塗り固められた東アジアの古代史から解放される事だろう。 これまでに失われた膨大な時間はもう、取り戻すことはできない。 しかしせめて我々の次の世代だけにでも、真実の歴史を教える義務があるのではなかろうか。
4. 邪馬台国論争の真相(問題の真相へ)
参考資料1):「平壌一帯楽浪墓に関する研究」李淳鎮(北朝鮮)
参考資料2):「卑弥呼の正体〜虚構の楼閣に立つ「邪馬台」国 〜」山形明郷
漢文資料:台湾中央研究院「漢籍全文資料庫」
「免費使用」(無料で使用)を選ぶ。次の画面で「先秦」、「秦漢」、「魏晉南北朝」のみをチェックすれば古代史書のみを検索するように設定できる。検索箇所に「楽浪」、「帯方」などを入力し、「捜尋」を押して楽浪郡や帯方郡がどこにあったのか、自分の手で調査してみよう。一般人が東大教授の過ちを指摘できる便利なツールだ。日本の大学は一般人に真実がばれないようにするためか、このような史書は公開していない。台湾という奇跡の存在に感謝すべきだろう。
暁美焔(Xiao Meiyan):学生時代に古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」に出会い、邪馬台国論争の世界に入る。 その後長い空白期間を経た後、山形明郷氏の著作に出会い衝撃を受ける。 山形氏の説の真偽を確かめるために倭人伝以外の古代史書を読み始め、やがて魏志東沃沮伝を目にする。 そして古代中国人が日本列島を認識していなかった事に衝撃を受け、山形説の正しさを確信すると同時に邪馬台国の位置に関する数学的証明を思いついた。 理系的な感覚では反論のしようがない程の完璧な証明に思われたので、興奮して学会関係者数人にその証明を打診する。 しかしその全員から何の反論も無いまま「我々は文献だけでは物を言いません」とか「中国史料の翻訳が正しくないので翻訳し直しなさい」などと門前払いされる。 その時山形氏の心境を理解すると共に、邪馬台国論争が解けない真の理由は学問的な理由とは別の所に存在する事に気付く。 それは例えどのような混乱が発生したとしても日本人が自ら向き合い、日本人の手でいずれ解決しなければならない問題だ。 知らないまま永遠に放置して良い問題でもなければ、棚上げして不幸の再生産を繰り返して良い問題でもない。 そしてすぐに「邪馬台国論争の真相」の執筆を始め、現在に至る。 なお、山形明郷氏の著作は論争仲間の友人に貸し出したところ、立腹した上に返してもくれなかったので彼の著作は一度読んだのみである。
謝辞:草葉の陰から常に無言の激励を送り続け、ついに邪馬台国論争の真相へと導いて下さった故山形明郷氏に感謝します。
あとがき:最近は嫌韓感情の高まりから、朝鮮半島の歴史を全て否定する者が増えている。高麗時代は軍事的にあなどれない国家だったし、技術的にも高麗製の船は中国製よりも丈夫だった。文化的にも仏教美術が盛んな時代であり、決して価値の無い国ではなかった。どうか現代人の民族感情という色メガネを通して過去の歴史を論じないでほしいと願っている。なお、倭人伝には倭国が猿がいたとの記述があるが現在の朝鮮半島には猿は生息していない。伝説の高麗産の猩猩毛筆を作るために乱獲してしまったのだろうか。
喫緊の言論著作活動などと並行して、途方もない分量の全集刊行のための整理、
編集の困難に手を拱いていらっしゃるご様子に、
どれもが重要で、しかも先生ご自身しか為し得ないこと故に、とても胸が痛みました。
周囲が本当にハラハラするようなお忙しさの中に身を置かれながら、当面される難題に呻吟されながらも、それに真正面から取り組まれる先生のお姿に瞠目するばかりです。
そのようなご多忙の中で、私ども つくる会東京支部の懇望にお応え下さり4月下旬には公開講座・東京塾で3時間にわたる渾身の独演をいただきました。3年間続けた「日米歴史検証シリーズ」の完結編として「幻想としての文明」(欧米のキリスト教文明)と題する視座広く次元高いご講義に満堂は唸り、私どもも幸甚に存じました。しかし、夜更けて先生から「このような長時間講演はこれが最後になるであろう」と云うお電話をいただきました時は、また大きなご負担をおかけしてしまったことに胸がつまりました。しかし、この「日録」でも放映されたこの大講義は、吾が国をめぐる近現代史の文明論的考察において比類のない最高峰であり、歴史観を歪められたまま今に至る吾が国・吾が国民にとって、なくてはならないご高論であり雄叫びであったと、しみじみと思いをいたしております。
更に顧みれば、昨春の外国特派員クラブにおける先生の辞立から「歴史認識」に関する本質的な論議(自虐史観の固定化の外圧との戦い)が始まりました。そして、現在、あろうことか政府(安部政権)が検討を進めている外国人労働者の受入拡大策も、世界の趨勢に逆行する「移民大量受入」であることを洞察され、警鐘を連打下さっているのも先生です。(7月6日のシンポジウムには必ず参加(聴講)させていただきます。)やはり、時代を鋭く洞察されるご炯眼と警鐘を乱打される憂国の熱情は余人の追随を許さぬ先生のご存在です。
詐は然りながら、先生はお一人しかいらっしゃらない「無二無双の存在」です。異常気象が続き猛暑に向かう昨今、どうか決してご無理をなさらず、曲げてご自愛下さいますよう、一向にお祈り申し上げます。