阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第九回)

41)われわれはなにものかに、自然に、歴史に、共同体に支配されていることを予感する瞬間をもたないかぎり、われわれ自身が生活の支配者になることはできないであろう。

42)なにものにも拘束されない個人とは、要するに生物個人でしかない。束縛を打ち破って自由になったというだけでは、人間はけっして自由にはなれない。われわれは個人を超えたなにものかをもち、そのなにものかへの奉仕と義務の責めを負うたときにはじめて、われわれは自由になる、もしくは自由の何であるかに触れ得るのである。

43)自由主義体制は、自由の不在のままに、自由の探求を自由に任せている。共産主義体制は、自由の問題をすでに解決しているのではないか。解決してしまったから、それは真の解決になっていないというもう一つ別の側面があることを忘れてはならない。

44)だが、私はなぜニーチェを愛読しているのだろうか?ニーチェの文章を読んでいると、思想的にも、生理的にも、いや、慥(たし)かに頭の訓練としても快適だからである。私は快適なことをするのが好きだからである。そして私は、不快なことをするのが嫌いだからである。それならば、私は不快なことをするのが嫌いだから、バーゼルでニーチェの昔の下宿をさがしているのだろうか?それがなかなか見付からなくて苛々しているのは不快なことではないのだろうか?私には不快なことが結局、愉快なことなのだろうか?それとも愉快なことが、不快なことなのだろうか?

45)他人を笑うこころと、笑われまいとするこころとは同じ精神構造なのだが、・・・

出展 全集第一巻 
41) P410下段より 掌編 留学生活から
42) P463下段より 掌編 ドイツの悲劇
43) P464上段より 掌編 ドイツの悲劇
44) P472下段より 掌編 ヨーロッパ放浪
45) P477上段より 掌編 ヨーロッパ放浪

「阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第九回)」への1件のフィードバック

  1. やっと使えるようになりました。ごぶさたしております。またよろしくお願いします。

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