阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十回)

46)外国に長く生活しすぎて、日本が概念的にしか感じられなくなれば、それは日本人の経験であることを止めたことを意味するのだし、逆に、日本で考えていたヨーロッパ像を打ちこわすことをせずに、既成の観念の殻に閉じこもって、妙に安定した表情で外国をひとわたり経験することも、けっして経験したことにはならないだろう。

47)ニーチェは思想の表面に現われた民衆侮蔑の言辞とは裏腹に、実際の人間は謙遜で、センチメンタルで、ひどく純情でさえある。ニーチェの思想は、知識人・教養人のもつあらゆる種類の凡庸さ、馬鹿さ加減にこそ固く門戸を鎖しているが、民衆のこころにはもっとも近いところに立っている。だからこそニーチェは誤解を怖れず、むしろ誤解されることを誇りとさえしたのだともいえよう。

48)文化が荒廃していれば様式美は生まれない。私は裏側を勘ぐり、故意に内側を分析する知性にはなにか欠けたものがあるとつねづね考えている。表面よりも内面のほうが豊富だと信じたり、表面の安定の裏に頽廃を嗅ぎつけたがったりするのは、知性のさもしさの表現でしかない。

49)この雑然とした、ときに騒然とした外観を備えた日本の都会の姿そのものが、外来文化の流入に耐えているわれわれの抵抗の姿とも言えなくはないだろう。

50)政治とは、現実に与えられた条件下で、ときに自分の立場を棄ててでも何か具体策を打出すというリアルな精神をさす。政治とは道徳ではない。

出展 全集第一巻 掌篇
46) P479下段より ヨーロッパ放浪
47) P486下段より ヨーロッパ放浪 
48) P508上段より ヨーロッパ放浪
49) P512下段より ヨーロッパ放浪
50) P522下段より 現代ドイツ文学界報告

「阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十回)」への2件のフィードバック

  1.  邪馬台国論争は、近畿説が有力となりつつありますが、九州説の論者も負けじと反論を続けています。歴史的史実は一つしかありませんから、いずれ決着が付くはずですが、これだけ真っ向から二つに分れる話は真に珍しいと言えましょう。
     邪馬台国の所在地については、有力な二説の外にさまざまなものがありますが、最もラディカルなのは本書の著者が唱える韓半島説でしょう。著者の山形氏は在野の古代史家で、昨年亡くなりましたが、40余年に亘って中国の史書古典を原典で渉猟した挙げ句、邪馬台国は日本の話ではないと結論づけました。学界から見れば異端の説ですが、深い学識に基づいていますので無視できません。
     邪馬台国のことが記されているのは、周知の如く「魏志倭人伝」で、これを著したのは中国人です。従って、当時の中国人がどのように世界を認識していたかがまず問われなければなりません。著者は次のように述べています。
     …驚くべきことに、卑弥呼の時代、二・三・四世紀前後、中国人は、
      1.現在の韓半島の存在すらおぼつかず、
      2.さらなる遥か玄界灘の波濤を越えた日本列島の存在など知らずにいて、日本列島の地理的把握はなんらなされていなかった、ということだった。
     「魏志倭人伝」は、『三国志』の中の「烏丸鮮卑東夷伝」に含まれていますが、この冒頭で選者の陳寿はこう述べています。

     「…荒域の外は重ね訳して至る。足跡車軌の及ぶ所にあらず。いまだその国俗殊方を知る者あらざるなり」

     つまり、陳寿自身が実地踏査したわけではなく、風聞したことであり、中国山海関以東の情報は、行き来があったものの幾世代もかけて伝えられ、その間に何カ国語にも翻訳されて伝わったもの故、その詳細は明確ではないと、選者自身が断わっているのです。不正確な内容であることがはっきりしている記述を元に邪馬台国論争をしても、全く不毛なわけです。「魏志倭人伝」には、邪馬台国に至る道筋が詳細に記されていますが、我国には上手く当てはまりません。伝聞故に当然でしょう。
     中国人は中華思想を持っているので、山海関を超えた化外の地に興味など抱かなかったようです。では、中国人が日本のことを知ったのはいつ頃のことなのでしょうか? それは割と最近のことで、著者はこう述べています。
     …中国人が今日の日本の所在を、うっすらと気づき始めたのは唐以後のことであり、その唐以後の時代でさえ、今日のわれわれが想像しているほど明確なものではなかった…。
     ちなみに、十三~十四世紀頃の元・明の時代に至ってさえも、中国人は日本についての正確な情報を把握していない。このことは元史や明史などの帝紀・伝記を一読すれば判然とするのであるが、非常に混乱した知識で日本を捉えている。すなわち、「倭」と「日本」との区別が定かでないのである。
     今日でも、世界中の人々の中で日本の正確な地理を知っているのは、一部の人に限られます。尖閣諸島の衝突事件により、中国内陸部の学生たちが反日デモを起こしましたが、彼らのうち尖閣諸島の場所を知っている人が何人いるのかはなはだ疑問です。ましてや、古代の中国人が海を隔てた島国のことなど知っていたとは思われません。
     朝鮮半島に高句麗・百済・新羅という国があっことはよく知られていますが、著者によれば、これらは満州から北朝鮮にかけて興亡を繰り返していたそうです。今の韓国に当る地域にあったのが「倭」という連合国家で、ここに邪馬台国があったというのが真相のようです。
     卑弥呼は、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」と「魏志倭人伝」に記されていますが、これは日本人らしくありません。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むのは日本人だけで、中国人は「ピミフ」と発音するそうです。「ピミフ」では、どう見ても日本人とは思われません。邪馬台国が日本とは無関係と知ってがっかりする人がいるかも知れませんが、「魏志倭人伝」には余りよく書かれていません。日本のことではなくてよかったと筆者は思います。

  2. 邪馬台国の論争は岡田英弘先生が40年前に雑誌諸君に掲載された論旨で尽きていると思いました。まず樹立したばかりの魏が正当性を誇示するために海東何千里から朝貢があったことを記載した。わが王朝の威はこのように遠方まで及んでいるということ示したかった。いわば風聞をもとにして倭人伝を書き実相はどうでもよかった。文革中の混乱期に毛沢東皇帝が東夷の国の酋長田中角栄を呼びつけ謁見して中華文明の精髄である詩平仄の定かならぬ漢詩まで奉呈させ日本に窮地を救われたことと共通しています。日中国交回復は向こうが求めてきたわけです。華夷秩序をもとに成り立っているという前提を見ておかないとシナ人の思考は読めないと思います。鄭和も明の最盛期に朝貢を促しにアフリカまで行ったはずです。鹿の島の金印はそのような朝貢してきた村国家に沢山出したのがたまたま出土したと解釈しています。来れば朝貢物の十倍ぐらい以上の最先進の文物をくれたわけですから競って朝貢します。多分当時の海岸沿いの都市国家は華僑が介在して作ったんじゃないでしょうか。それが大阪までつずいていたと思います。

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