51)人間が生きるとは、目隠しされているようなことかもしれない。目隠しされつつ、人間は未来への明察を欲するのだ。もしもすべてが見透せてしまったなら、そのような未来は、もはや生きるに値しない未来であろう。すべてが見えるという自己過信と、なにも見えないという自己不信とは同じ事柄の表裏なのだ。どちらもともに、自己と自己を超えたものとのかかわり合いがはらむ緊張を忘れている。
52)一人の作家が何を求め、何によって生きているか、それは、初期も晩年も、意外に一貫しているものである。
53)豊富で複雑な言葉をいくら多様に用いても、言葉は事実を把えることは出来ない。ある事実に言葉を与えることで、われわれはその事実を規定するわけだが、規定した瞬間、「事実」そのものはとり逃しているわけなのだ。
54)おそらく自己同一性が非常に高い日本人にとって、日本人は表向きはたえず国家意識みたいなものに反発を感じているくせに、ほとんど無意識のうちに国家単位でしか、ものを考えることのできない民族だという気も致します。
55)思想を弄ぶ人間の存在の形式が私をつねに苛立たせてきたのである。
出展 全集第一巻
51) P535上段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
52) P552上段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
53) P554下段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
54) P585上段より 老年になってのドイツ体験回顧
55) P598P599より 後記
52の文に共感を持ちます。作家の処女作にすべてがつまっている生涯これ以上の作品を抜くことができない。
世界中,どの国の国民も自国の「建国の歴史」を明確に理解している.
ただし,一国だけ例外がある. わが日本国である.
日本だけは「建国の歴史」が曖昧模糊(あいまいもこ)としている.
日本という国がどのようにつくられてきたのか? ほとんどの国民が知らない.
日本にも「建国の日」があるが,神話(つくり話)上の日なので 出鱈目である.
だから 「建国の日」が,賛成・反対,右派vs左派,「分裂の日」になっている.
.
国民こぞって皆が祝える 「建国の日」 にするには,どうしたらいいのか?
それには,先ず “建国の歴史” をより明確・明瞭にする作業が必要だ.
難問は,日本には “歴史のタブー” があることだ.
タブーとは 「日本国は外国人(渡来人)がつくった」 ということだ.
このことを,過去1400年間,日本国の支配者層はタブーにしてきた.
日本古代唯一の歴史書 『日本書紀』 も,渡来人が天皇になって日本国をつくった
ことを隠すために書かれている.
ところが,ご聡明な平成天皇は…,
「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫である…」
と,先祖に百済人がいることを明確にされた.さらに天皇陛下は…,
「宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります.」
と,現在においても “渡来人の子孫” が宮内庁にいることを明らかにしておられる.
平成天皇は,御自ら 「歴史のタブー」 を解き放たれたのである.
.
このホームページの諸所(あちこち)に,私は,日本古代の歴史物語を書いてきた.
その要点は,「日本国は,百済国の継承国家である」 ということである.
百済国の先祖は “扶余国”.“扶余国” からは“高句麗国” も出ている.
“扶余国” の先祖はユーラシア東部の遊牧民 “ツングース族” だ.
このことは,『日本書紀』だけでは見えてこない.
中国・韓国の膨大な数の歴史書を比較・対照しなければならない.
しかし,パソコンの検索機能を使えば,短日で読める.
中国人や韓国人の歴史学者が友人にいれば,もっと早く読める.
なによりも,雄大かつ壮大な東アジアの歴史が見えてくる.
“建国の日”に,賛成だ反対だと言い争うことなど,
「ちいせえ,ちいせえ!」 …と思えてくる.
日本国のルーツは『扶余』である,と昨日書いた.
きょうは,その『扶余』の歴史を簡単に書く.
われわれのご先祖様の歴史なので,読んでいただきたい.
さて,『三国志魏書・扶余国伝』には,「夫餘在長城之北,北有弱水」とある.
翻訳すると,「扶余は長城の北に在り,北には弱水=アムール河がある」.
われわれのご先祖は,ずいぶんと寒い地方に住んでいたのだ.
紀元前2世紀,扶余族は中国の東北平原に南下して『扶余国』を建てる.
4世紀,『扶余国』は『燕国』に滅ぼされるが,王族の一人がのがれて『東扶余国』をつくる.しかし,内紛で王子が従者を連れて『帯方郡』の地に行き,ここで『馬韓』を吸収して『百済』を建国する.
660年,『百済』滅亡.王族・貴族はじめ数万人の百済人が済州島経由で大阪・難波まで逃げ,やがて日本国を名乗る.
以上が「扶余→百済→日本」というの歴史の流れだ.
.
上の『帯方郡』は,『魏志倭人伝』の冒頭に出てくるので有名だ.
この『帯方郡』は,ソウルの近辺にあった.これが日本の知識人の常識だった.
ところが,この常識,完全な誤りなのだ.
中国の歴史書には「百済は遼西に都した.そこは帯方郡の故地であった」という記述が何度もでてくる.
これは『帯方郡』が,朝鮮半島ではなくて,『遼西』にあったということだ.
すると,どういうことになるか?
『遼西』にあった『帯方郡』から『魏志倭人伝』にしたがって『邪馬台国』を目指すと,決して日本列島に到着することはない.せいぜいソウル近辺までしか到達しない.
つまり,『邪馬台国』は日本列島に存在した国ではないのである.
どこに『邪馬台国』はあったのか?
江戸時代から日本人は,九州だ畿内だと論争し,発掘し,探しつづけてきた.
しかし,見つからない.当たり前である.ないものは見つからないのだ.
『周書』百済伝
百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。
有仇台者、始國於帶方。
>百済の源流は馬韓の属国で、扶余の別種。
>仇台という者がおり、
>帯方郡に於いて国を始めた。
―――――――――――――――――――――――――
『梁書』百済伝
其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、
百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
>その国は、本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、
>西晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、百済もまた
>遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。
―――――――――――――――――――――――――
『宋書』百済伝
百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略
有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。
>百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に
>在ったが、その後、高句麗が遼東を略有すると、
>百済は遼西を略有した。
>百済の治する所は、言うところでは晋平郡晋平県。
―――――――――――――――――――――――――
『通典』百濟伝
晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、
晉平二郡。今柳城、北平之間。
>晋の時代(265年-316年)、句麗は遼東を占領し、
>百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。
>今の柳城(龍城)と北平の間である。
―――――――――――――――――――――――――
以上,百済も帯方郡も遼西にあった.朝鮮半島から
はるかに遠い満州の地に百済や帯方郡が存在したこと,
明々白々であろう.
遼西にあった帯方郡から『魏志倭人伝』にしたがって
『邪馬台国』を目指しても,決して日本列島に到着する
ことはない.せいぜいソウル近辺までしか到達しない.
『邪馬台国』の所在地.それはソウル近辺だ!
なお,『飯山一郎の古代史』は,『百済や帯方郡が遼西にあった』がメイン・テーマである.ご笑読のほど.
鹿児島ではもっぱら『日本書紀』を読んでいる.
『日本書紀』が面白いのは,「日本国成立の秘密」が垣間見える部分だ.
隠そうとしても隠せない「古代史の謎」が読み解ける箇所だ.
たとえば…,
天武天皇二年(673年)8月25日 に次のような記事がある.
「詔耽羅使人曰。天皇新平天下。初之即位。由是唯除賀使。以外不召。」
日本語に翻訳すると,「天武天皇は,済州島の使人に,自分は天下を平定し初めて天皇に即位した.よって今後は祝い事などの儀礼以外は呼び寄せることはない(済州島に帰ってよろしい)と言った」.
.
済州島は古名を「耽羅」といい,百済の属国であった.
『日本書紀』では,耽羅と日本の交流は日が浅く,耽羅国が日本国に初めて入朝したのは,661年のことだ.
それが,673年の記事では,天武天皇が耽羅の使人に対して「祝い事などの儀礼以外は呼び寄せない」と言っている.これは,天武天皇と耽羅との「付合い」が「祝い事」以外の面で非常に深かった,ということだ.
この文脈で,さらに驚愕する話をしよう.
天武天皇の和風諡号は「天渟中原瀛真人天皇」.
この「瀛」は,当時の常識では「済州島」を指す.たとえば,済州島のことを記した最も古い歴史書は,『瀛州誌』.「瀛」の字が入っている.
『日本書紀』も,天武天皇の御代になると,『耽羅』に関する記事が異常に多くなる.
とにかく,天武天皇と済州島の関係は只事ではない.
そこで本日の結論である.
天武天皇は,済州島から渡来された御方である!
種子島は,来て見ると,ただの辺鄙な南洋の島だ.
しかし,歴史は,時折,種子島を主役に押し立ててきた.
鉄砲伝来は日本の歴史を大きく変えたし,宇宙センターも種子島を主役にした.
.
古代.『日本書紀』を読むと,種子島は“特別扱い”されている.たとえば…,
天武6年.種子島人が都に来た.これを天武天皇が直々に接待している.
はるか南方の遠い島から来た人間を天皇が親しく接遇する.これは破格のことだ.
この特別待遇は,なぜなのか?
.
天武8年.種子島に正副2人の高官を派遣.
これは,現代なら外務大臣と外務副大臣を派遣するようなもので,種子島が新羅や高句麗と同等に扱われている.…この別格扱いは,どうしてなのか?
.
天武10年.天武天皇は種子島人の為に飛鳥寺の西の川辺で“饗”(宴会)を開催.
この“饗”は,「奏種種樂」という生バンド演奏付きの豪華な宴会であった.
天武天皇は,常に種子島人を特別扱いだ.これは如何なる理由なのか?
.
以上の問いに答えられる歴史学者は少ない.
しかし,九州に数多い天武天皇(大海人皇子)伝説を追ってゆくと…,
「天武天皇は志布志から大阪に向った!」 …その船こそ種子島船だった! と解釈せざるを得ない.
.
いや,「天武天皇は種子島船で大阪に行った」,あるいは…,
「天武天皇は,種子島人を従えて大阪に入った」. こう解釈すると…,
『日本書紀』が種子島を執拗に特別扱いする理由が見えてくる. どうだろう?
いずれにしても,天武天皇と種子島の “関係” は,驚くほど深い.
日本という国は天武天皇(大海人皇子・百済人)がつくった. …これが日本古代の最大のキーポイントだ.同時に,日本という国のスターティング・ポイントだ.
それにしても,天武の「日本建国」が種子島の支援なしには成就しなかったであろう
ことが,今回,種子島で『日本書紀』を読んで良く分かった.
種子島(多禰嶋)のことは,『日本書紀』の天武記だけだが,4回も出てくる.
はるか遠い辺鄙な南洋の島を,何ゆえに『日本書紀』が執拗に取り上げるのか?
この理由が今まで理解されなかったのは知識人の怠慢というよりも,『日本書紀』の策略というか,狡知である.
『日本書紀』の「物語」の大部分は百済の歴史書からの借り物だが,百済国の滅亡以降は「実話」である.種子島に関する記述も,もちろん「実話」である.
.
昨日,種子島の最北端まで行った.そこ,喜志鹿崎(きしがさき)は断崖絶壁だった.
ふと見ると,佐多岬どころか志布志港も見えるではないか!
驚いた.種子島と志布志は,まさに一衣帯水なのだ.
.
…天武の狼煙(のろし)も一目瞭然だったろう.
…一斉に帆を揚げる種子島船団! 東アジア最強の倭寇の先祖達だ.
…天武は彼らを糾合,黒潮に乗り難なく難波(大阪)に行ったのだ.
…目前に碧い海があった.澄んだ空を鳶が舞っていた.
何度も聞かされる”言葉”
島国根性。この言葉は日本人なら誰でも一度は耳にする。一度ならず何十回も聞かされた人も多いだろう。自分が属する民族を自己卑下するこの言葉が使われはじめたのは、江戸時代からである。
幕末、寛政の改革を断行した老中松平定信は、「日本人は考え方が狭いから、下町の人は山の手を知らないし、川崎の外へ出たことがないから海といえば波の静かな品川の海のようなものだと思っているし、河といえば墨田川ていどの川しか知らない。考えもただただ目先のことだけで、遠慮遠謀などとても考えられず、ますます考え方が狭くなっていく……」と日本人の島国根性をなげいていた。
ところが、寛政三奇人の一人で警世家の林子平が、「日本橋の水はヨーロッパまで続いている」という事実を指摘して外患に対して警鐘を鳴らしたとき、上記の松平定信は林子平の説を「奇怪異説!」であるとして林子平を厳重な謹慎刑に処してしまった。
世界が見えない”条件”
幕府の頂点にいた松平定信にして以上のとおりなのだから、幕府の鎖国政策で島国の中に閉じ込められていた江戸時代の人たちの世界認識というのは、おして知るべし、まるで世界が見えていなかったのである。
こうなった原因は、鎖国政策のほかに、福沢諭吉が「日本国中の幾千万の人間がそれぞれ幾千万個の箱の中に閉ざされているようなものだ」と表現した幕藩体制の閉鎖性にある。江戸時代の人たちは、徳川幕府の鎖国政策によって小さな島国に閉じ込められると同時に、閉鎖的な幕藩体制の中にも閉じ込められていたのである。こうした二重の意味での閉塞した状況が、なんと二百年以上も続いたのだ。
日本人が、ガッチガチの「島国根性」をもってしまったのも仕方のないことなのである。(島国だから即、島国根性ではないのである。)
縄文人の”環太平洋ネットワーク”
この「島国根性」の話は江戸時代以降つい最近までの話だ。江戸時代よりも昔のことをいうと、日本列島に住む人間達はもっと広大でもっと雄大な世界を舞台にして活動し、また暮らしていた。最も壮大であったのは我々の先祖、縄文人だ。縄文人は環太平洋をぐるりと舞台にした巨大なネットワークをもっていた。縄文人の一派はアリューシャン列島を渡ってエスキモーになった。アメリカインディアンも縄文人の親戚だ。南米のペルーにインカ帝国を築いたのも縄文人の仲間だ。もちろん、朝鮮人も韓国人も中国人も皆親戚だった。蒙古人だってそうだ。
ミクロネシア人、ポリネシア人、メラネシア人等の太平洋民族の遺跡を調べると縄文土器によく似た土器が出てくる。おそらく、みんな親戚だったのだろう。そして太平洋の彼方の民族と縄文人とを結ぶネットワークは、『海上の道』(柳田国男)を流れる雄大な黒潮だったのだ。
歴史も”広い世界”のなかで
こう考えてくると、われわれ日本人の歴史も、環太平洋ネットワークのなかにおいて考えないと狭いものになってしまう、ということが理解できるだろう。
しかし、すでに大変に狭量な歴史観が氾濫している。たとえば邪馬台国論争がそうだ。優秀な頭脳が、『魏志倭人伝』を後生大事にもって、畿内だ九州だと狭い国内をえらい金と手間暇をかけて捜しまわっている。これは『魏志倭人伝』が、日本古代の重要な事実が書かれてある重要文献であると信じこまれてきたからである。しかし、通称『魏志倭人伝』は、有名な『三国志』の中の「魏書」の末尾にある「烏丸鮮卑東夷伝第三十倭人之条」という二千文字足らずの雑記録にしかすぎないのだ。
たしかに日本の古代史は、中国の資料によって明らかになってくるわけだが、世界有数の歴史大国である隣邦中国に残されている歴史資料は、実に膨大な量にのぼる。『魏志倭人伝』という小さな雑記録だけでは、日本の古代は決して明らかにはならないのである。
それでも『魏志倭人伝』は真剣に読まれてきた。それは「倭人在帯方東南大海之中」という文章がいかにも日本列島を指すように見え、また、邪馬台国の存在場所と女王卑弥呼とは誰であるのかという疑問が、民族のルーツを知りたいという我々の関心とロマンを大いに誘ってやまないからなのであった。
卑弥呼発見の旅の”出発点”
さてさて「邪馬台国発見の旅」の出発点は、楽浪郡と帯方郡だ。これは誰でも知っていることだ。そして帯方郡は朝鮮にあって、その場所は朝鮮半島のソウル近辺だと。……ちょっと待った! 違う違う。これが大間違いのはじまりなのである。
現在の朝鮮半島が「朝鮮」とか「韓」と呼ばれるようになったのは14世紀になってからなのだ。正確には、明(みん)の太祖の洪武25年、西暦では1300年代の初め頃だ。明史巻三本紀第三太祖の記述中に、「高麗李成桂幽其主瑶而自立以国人表来請命詔聴之更其国号曰朝鮮」とある。「高麗の李成桂その主瑶を幽して自立す。国人、表を以て来り命を請う。詔(みことのり)して之を聴き、その国号を更めて朝鮮という」、つまり、高麗末期、明の太祖が李成桂に与えた国号が「朝鮮」ということで、今の朝鮮半島が「朝鮮」と呼ばれたのは、14世紀初頭のこの時からだった。これ以前は「朝鮮」とか「韓」と呼ばれた場所は、別の場所にあったのである。
“正しい地図”で旅をしよう!
3世紀のことを書いた『魏志倭人伝』を読み解くのに14世紀の地図を使っていたのでは、邪馬台国はいつまでたっても発見できない。旧来の定説は、古代の朝鮮を何の疑いもなく現在の朝鮮半島に当てはめて語っていた。だから旧来の説は、その出発点からして誤断にもとづく謬説であるといわざるをえない。
ではいったい、朝鮮は、そして、帯方郡や楽浪郡は何処にあったか? ということが問題になってくる。
古代中国に関する膨大な文献を丹念にたどってみると「朝鮮」と指称した場所は、遼河の東・遼陽・開原・瀋陽方面にあった。つまり今日の「遼寧省東部一帯」に「朝鮮」と称された古代国家は存在していたのである。たとえば後漢書巻一の光武帝紀には「楽浪は郡、もとの朝鮮国なり。遼東にあり」と明確に書いてある。この朝鮮を征服し、楽浪郡をはじめとする四つの郡を設置し、朝鮮を直接統治下においたのが漢の武帝であった。紀元前108年のことである。したがって、漢の楽浪郡は今日の中国東北地方に存在していたのであり、現在の朝鮮半島では断じてないのである。
「帯方郡」は楽浪郡の南方に分治された郡であるから、その所在は現在の遼東半島ということになる。この遼東半島にあった帯方郡から『魏志倭人伝』に従って邪馬台国を目指すと、決して日本列島に到着することはない! 邪馬台国は、日本ではない所の、別の「倭人の国邑」にあったのである。よって、畿内説も九州説も錯覚にもとづいた誤謬の説なのである。のみならず、壮大な歴史の流れを小さな日本列島の中に矮小化するところのタコツボ的な歴史観と言わねばならない。
卑弥呼は”公孫氏”の係累である
中国の史書中には「韓伝」と称すものがあり、「韓」が楽浪・帯方2郡の南方に存在したことを伝えている。この韓とは、馬韓・辰韓・弁韓の「三韓」で『魏志韓伝』の記載では楽浪郡の南に位置していた。
韓伝には「韓の南、倭と接す」という記事がある。三国志魏書韓伝では、倭が韓に「界接」しているとも記載されている。「界接」とは、境界を接しているということである。これが『魏志倭人伝』では「倭は帯方の東南海中」に存在していたとあるのだから、総合すると、倭は、黄海を囲む陸地の広範な区域を指すものと解釈すべきであろう。『邪馬台国』はこの広範な地域のある一地方に存在していたのである。
注目すべき説がある。耶馬とは祁馬で、祁馬は蓋馬と順々に転訛されてきたことを文献的に証明したうえで、邪馬台国は、実は「蓋馬国」という国のことであるというのである。この説については、またの機会に述べたいが、この蓋馬国は4世紀まで実在し消滅している。となると「謎の4世紀」は決して謎ではない。
最後に、大問題の女王卑弥呼についてであるが、『晋書』巻九十七四夷伝に、「その女王の名を卑弥呼という。宣帝の平らぐ公孫氏なり……」と記載されている。すなわち、「卑弥呼は公孫氏の係累である」 と明記されているのだ。四夷伝の記述は他の倭伝中の記述と前後は同じである。だが、諸多の倭人伝が遺漏したと思われる記述を見事に載せている。正に御撰なのである。なお、上記の宣帝とは司馬仲達である。こういう重大な記述を日本の歴史学者は何故に注目しないのであろうか?
「蓋馬国」も「公孫氏」の勢力圏内にあったというのに……。
☆
紙数が尽きてしまった。以上の邪馬台国論は、栃木県在野の偉大なる歴史家、山形明郷先生の著書『卑弥呼は公孫氏』(発売元:栃木県足利市の岩下書店)に全面的に依拠している。島国根性という言葉を思いださせる旧来の狭隘な歴史観を完璧に超越している山形先生の本は、我々に、より雄大な構想でアジアの歴史を徹底的に見直すべき必要を痛感させてくれるのだ。 (飯山一郎)
近年DNA多型分析を中心とする学際的な人類学を研究された、崎谷満氏(京都大学医学博士、1954生)の著作(『DNAでたどる日本人10万年の旅』2008年初版ほか)を読んだ。
その最近のDNA多型分析人類学から、日本人の和の本質、異文化・異民族受容、国風化の背景が見えたような気がする。
世界的には十数年前から、ミトコンドリアDNAとY染色体の分析研究が進展し、グローバルな人類の移動拡散の歴史、特に7万年前ごろの現人類の出アフリカと拡散の様子が分かってきている。
崎谷満氏はさらに、タイムスパンの長い追跡に効果的なY染色体のDNA多型分析を中心に、言語学と考古学との学際研究を進め、東アジアを中心とする人類の移動の歴史を考察研究し、日本人の特異なDNA多様性を明らかにされた。これまでの考古学のみの人類史はもはや通用しないようである。
氏の著作によると、7万年前頃の出アフリカを果たした人類はまずY染色体の3グループ(C系統、D~E系統、F~R系統)に別れ拡散し、さらに分化していった。アフリカに残ったグループは、A系統とB系統の2系統。 そして、現在の人類のY染色体DNAの型の分布を分析すると、日本では出アフリカの3グループ全てのY染色体の型が観察されるが、世界の他地域では1~2グループしか観察されず、日本人のDNA多様性が際立っているそうである。
さらに、日本(特に縄文人)とチベット・ビルマにD2亜型が観察されるのに対し、漢民族ではO3亜型が卓越し、D2亜型がほとんど観察されないことにも注目されている。
氏は、これらの特異性を中心に言語学や考古学を含めた学際的研究から、日本列島と東アジアでの人々の移動定住の様子を描いている。
日本列島では多様なDNA型の種族が前後して流入したが、その温和湿潤な風土の故もあってか、先住の種族は後続の種族を排斥せず共存して最終的には日本人を形成(アイヌと琉球についても詳しく研究されているがここでは割愛)していったのに対し、世界の多くの地域では先住の種族と後続の種族の争いが常であり、DNA多様性が生じなかったと解釈せざるを得ないとしている。 そして、多分中国黄河流域に縄文人とチベット・ビルマ系の人々の祖形の種族(D2亜型)が居住していたところに、2~3万年前頃に漢民族の祖形の種族(O3亜型)が流入して彼ら(D2亜型)を駆逐したと推定され、D2亜型の一部が日本に逃れ、他の一部がチベットやビルマに逃れたと推定されるようである。この他にも前後して多くの種族が大陸から逃れる?ような様子で日本列島に渡ってきたようである。
以上の知見から、和を尊び他文化を受容し土着化国風化する日本人の行動様式・性格の成立の背景が見えたような気がするのは私だけではないと思う。