2084年―想像しても仕方のない話(二) 

ゲストエッセイ
坦々塾会員 河内 隆彌

いまウェブサイトの閲覧や検索履歴、オンライン・ショッピングの購入履歴、街なかで使う各種カードの使用履歴などなどはすべて膨大なデータベースとして、マーケティングに利用されているらしい。いわゆる「ビッグデータ」である。政府当局の成長戦略の一環として、ビッグデータの利用増大は社会的付加価値向上策として大いに推進されている。

これがマイナンバーと結びつくと、われわれの日常生活は丸裸にされてしまう。もちろん、1億2千万国民の全員の記録をとるわけにも行かないだろうが、いざとなれば、個々人を対象にそれが出来る体制になる、ということは薄気味悪い。われわれの目にあまり触れないところで、何か大きな物事が動いているのである。ちょうど防犯カメラ、監視カメラが気が付かないところにおかれて、日々、われわれの行動を見張っているように・・。

人権々、個性々、自由々、自己決定権etc.etc.リベラルと称される人たちがそう叫びつつ、社会的価値はそちらの方にウエイトが置かれるべきである、と思わせながら、世の実像は、自らを呪縛するような方向に動いているとしか思われない。

なるほど世の中は便利になった。1901年に、「100年後の世界」として夢想した事柄はおおむね実現している。たとえば、
無線電話で海外の友人と話ができる
いながらにして遠距離のカラー写真が手に入る
7日で世界一周ができるようになる
空中軍隊や空中砲台ができる
機械で温度を調節した空気を送りだす
電気の力で野菜が成長する
写真電話(テレビ電話)ができる
写真電話で買い物ができる
電気が燃料になる
葉巻型の列車が東京・神戸間を2時間半で走る
鉄道網が世界中に張られる
馬車がなくなり、自転車と自動車が普及する
無教育な人間がいなくなり、幼稚園が廃止され、男女ともに大学を出る

などなど。

いまではあたり前のことが、100年前には大真面目だったのだ。なかにはその後の半世紀ですでに現実となったものもある。100年前の人々のどちらかといえば牧歌的ともいえる夢は今はほとんど手に入るし、それもきわめて安価である。

ところで、現代人は100年後の世界をどのように想像しているのだろうか?いま萌芽期にある3次元プリンター、自動運転車、ドローン、ロボットなどなどはこの先10年位で一層の進化を遂げる予想は立つのだが、それは人間とどのような共生関係を保ってゆくのだろうか?(たとえば、ネット通販、テレビショッピングの蔓延によって、住宅地の狭い路地をクロネコ、佐川、カンガルーなど大小のトラックが駆け巡っている。そこで宅配便業者はドローンの活用を研究しているそうだが、今度はドローンが空中を駆け巡る?次第で、衝突しないか、人間に危害は加わらないのか?と素人は心配する)

本稿の題名「2084年」は、全体主義の悪夢を描いたジョージ・オーウェルの小説、「1984年」のもじりであって、それ以上の何ものでもない。本稿で「2084」という数字自体に何らか意味があるものではない。(「1984年」は、1949年に発表されたので、オーウェルは、35年後の世界を念頭においてこの本を書いた。だとすれば、本稿の題名も、いまから35年後の「2051年」としても一向に差し支えないのだが、そうすると一層何のことかわからなくなる。)「1984年」は、冷戦構造を背景に共産制全体主義国家の非人間性を、当時の物質的技術文明進化の予測を織り交ぜて描いたものだった。人々はその世界では双方向のテレスクリーンによって「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる独裁者に常時監視され、命令も受ける。言語はといえば、体制にとって異端とされる思考を表す言葉はすべて廃棄され、最低限の意思疎通に必要な、極端に英語を簡略化したニュースピークの使用が強制されている。したがって人々は反体制的ないし、人間的情緒、感情を表現する手段を持てなくなっている。

いつの時代でも年寄りは、若いものの言葉遣いが気に入らないものだが、昨今の、抑揚の少ない話し方、形容詞の寒い、とか、うまいを、寒ッ、とか、うまッとかいう表現、早口の会話を聞いていると、やはりこれは一種のニュースピークではないか、と思われるのである。(政治家にも一定の言葉の多用が目立つ。たとえば、辞めた舛添前都知事は、「しっかりと・・」を連発、いまの安倍さんは、「~の中においてですね・・」がお好きである。)
全体主義(いまでも北朝鮮、中国などにしっかりと生き残っている)、民主主義の体制如何を問わず、いまの技術文明の趨勢とか、人々の思考の方向からして、わたしには、あまりバラ色ではない、寒々とした近未来の人間世界の光景が思い浮かぶのである。(まかり間違って核戦争で世界が消滅する、ということがないという大前提ではあるが・・)

未来小説、未来コミックなどのジャンルは確立されている様子だが、わたしはいっさいそれらに目を通したことはない。何かジュラルミン色の衣服をまとったものたちが、宇宙を舞台に、光線銃を撃ちまくるようなイメージで、荒唐無稽という先入観がある。(そうでなければご免なさい)わたしはただ、淡々と現状の延長で近未来を推定している。1936年、チャップリンが「モダンタイムス」を制作して、機械文明に翻弄される非人間的な文明を警告したが、その後第二次大戦や冷戦の学習経験を経てなお、その趨勢に変化はなく、むしろ所謂グローバリズムと経済の新自由主義傾向の進展によって、強化されているのではないか?デジタル社会は、利器を操るものと操られるものを分断し、結果的に富の偏在をもたらす。一昨年、OECDは、世界の富裕層と貧困層の所得格差は、1820年代の状況に戻っている、と発表した。

この200年の文明の発達は一体何だったのだろうか?操られている側の人間は日常の安楽、快適を求めて無意識に未来を売り渡してしまったのではなかろうか?ビッグデータにしても、個人情報の漏洩はあるまじきものではあるが、操る側は自ら管理するデータを自由に処理できるわけで、たとえばマイナンバー制度が本格的に稼働すれば、目的別に備えられた(税務、社会保障、医療、銀行、証券、クレジット・カード各社etc.etc.)ホスト・コンピュータを密かにつなげる?ことも可能なような気がする。丸裸にされたわれわれは、まさに「ビッグ・ブラザー」に支配されることになる。
電磁的な記録保存の有効性も疑問の一つである。いまのわれわれは未来に対していかなる遺産を残すことができるのだろう。それはコンピュータのディスクの中に、1と0の信号として「永遠に」残るのだろうか?ひとむかし前のワープロ全盛時代にたくさん残したフロッピー・ディスクを見られる器械はもう存在しない。いまのオペレーション・システムは始終グレードアップされているが、古いもののサポートが終了すると終りとされ、アップデートしない限り続かない。その方法が永遠に継続するのか?古代の記録は粘土板、パピルス、羊皮に残っている。グーテンベルク聖書も残っている。しかし、21世紀文明の行く末を私が見ることは出来ない。以上、想像しても仕方のない話ではあった。

“2084年―想像しても仕方のない話(二) ” への 1 件のフィードバック

  1. 河内さま
    ゲストエッセイありがとうございました。
    今日、飛行機に乗る搭乗口で、スマホをタッチしているのを目撃?しました。
    時代は、どんどんこんな風になっているのですね。
    あのQRコードもすごいです。

    007でスパイが持っていたようなものを、今や普通人?が持つ時代ですね。

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