阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十七回」

 

(4-1)ニーチェは多く読み、深く調べることで必ずしも「正解」に達するとは限らない思想家である。時代に応じ、個人に応じ、それぞれ異なった顔をみせてきた多面体である。

(4-2)われわれはとかく樗牛の時代の無理解や誤解を嗤うが、はたして当時よりもニーチェを多く知っていると言えるのだろうか。彼を概念で知るのみで、体験で知ることを忘れていはしないか。おかげでわれわれは樗牛の時代の人のように、ニーチェの言葉に対し素直に驚くことがなくなっているのではないだろうか。

(4-3)中世におけるように、もし超越せる神が実在するのなら、じつは道徳という人間的尺度は問題にならないはずなのだ。神が全能であるなら、人間の世界はすべて悪であり、道徳とか倫理とかに意味はなにもないことになるからである。

(4-4)歴史は言葉に支えられた世界であって、言葉を離れて事実そのものを捉えることが必ずしも歴史ではない。いったい歴史上の客観的事実なるものは存在するのか。

(4-5)ニーチェはさまざまな理想や道徳の背後に、自己錯覚の動機を発見して、それを根底的に追跡し、かつ情熱的に排撃した。彼は自己欺瞞をなによりも憎んだ。なぜなら自分を守るために自分でそれとは気づかずに嘘をついている自己錯覚を、理想や道徳として祀り上げるのは、自覚的に嘘をつくよりも、もっと許せないからである。ニーチェは無自覚の嘘、ないし無意識に犯す嘘を憎んだのであった。

(4-6)近代は日本人にとってときに追認の目標、そうでない場合でもせいぜい、自己の内部に侵入してくる厄介な異物、という意識であって、日本人が自己の内部にひそむ近代そのものの弱点と批判的に対決するという姿勢ではあり得なかった。

(4-7)ニーチェを全体として解釈するようなテーゼは存在しない。

(4-8)貧しい精神は自分の生立ちの経験をただ貧しくするだけで終わるのである。

(4-9)人は誰しも結果を予想して生きてはいない。ひとつの生涯は繰り返しのきかないその日その日の、生命の燃焼の連鎖から成り立っている。

(4-10)やり直しのきかない時間を、そうと知りつつ生きる以外に、人間の生き方というものは存在しない

(4-11)一人の思想家にとって、思いもかけぬ別のかたちで、後年の素顔をいち早く覗かせている少年時代とは一体なんなのであろうか。

(4-12)歴史と文学、史実と神話の接点において、歴史は文学の中に、史実は神話の中に姿を消して行き、その境界は定かではない。

(4-13)意識の表面に浮かぶ思想や観念は、肉体にどんなにあっさり裏切られるものであるか。いまの自分の肉体は、次の瞬間に変化している。意識は、ほとんど変化について行けないほど頼りない。言葉は、たしかにその変化の一点をとらえるのだが、次の瞬間には、なぜかもう嘘のように思える。

(4-14)外からくるどのような経験も、自分のなかにあるものの反映であって、自分の中にあるものと外からくるものとの戦いの中で、それははじめて経験となる。

(4-15)外国語で考えるのは、自分の内発的な感受性や思考力を一番大切なところでこわすことでもある。各国語を自在に操れる語学的天才といったタイプの人間は、その点に関し疑いを持っていないのが普通である。

(4-16)自分を他人の目にわかりやすくしようとする衝動は誰にでもあるだろう。自分を主張したり、説明したりする動機は、大抵そうした伝達衝動に発している。しかし他人の目に自分をわかりやすくする前提は、また、自分で自分をわかりやすくしてしまう欲望に通じてはいまいか。あるいは、自分で自分がわかってしまったとする傲慢に通じてはいまいか。人はなにか行動しようとするときには、自他に対するわかりやすさをともあれいったんは放棄してしまうほかない。

(4-17)なにかと手を切りたければ、まずそれをとことん相手にすることだ。やがて時間がくる。それより早くは駄目なのだ。手を切る時間をあらかじめ計算などしている者には、なにひとつ結果をもたらさない。

(4-18)感動はただ相手が与えてくれるものではない。自分の側の、瞬間から瞬間へと移り変わっていく意識、もしくは無意識の変化と不可分である。これは受け手側の、一種の化学変化であろう。

(4-19)無知は必ずしも偉大さを意味しないが、偉大さは無知、もしくは単純さを伴っているのが常である。

(4-20)研究論文を書くつもりで、安直な感想文や、センチメンタルな対象への主情の吐露に終わるのが、文学や思想を論じたがる青年の常である。文学部の卒論のたぐいを読めばすぐわかるのだが、ある対象に感激することと、ある対象を自分の言葉で客観化することとは全然別だということが、青年にはどうしてもわからない。

(4-21)多量の知識は人間をときに愚かにする。人生のもっとも肝心な知恵は、知識とは別だし、多く知っていることは、決断をにぶらせる。反省が増大することは、生産的でない。

(4-22)全体を知らずして、部分は存在しない。勿論、人間は全体を容易に知ることはできず、人間の認識は結局は部分にしか及び得ないのかもしれない。部分の中にわずかに全体が象徴的に予感できるだけかもしれない(ランゲを愛読した彼は全体知が容易に得られるとは考えていない)。しかし全体を知ろうとする意欲、もしくは全体への緊張をもし最初から欠いているならば、部分は単なる断片に終わり、知識は瓦礫となんら変わるところはないであろう。

(4-23)背景に闇があってこそ、光点はじめて輝くのである。われわれは過去の人間、とくにヨーロッパのそれを研究する場合に、背景の闇から掘り起こす基礎作業を、あまりにも怠っているのではないか。そして表面に現われた光り輝く結論だけに、あまりにも安易に飛びつきすぎるのではないか。

(4-24)その時代の中で生きている者には後世の人間にはわからない空気がある

(4-25)ただ、いずれにしても、資料はすべてを語り得ず、細かな事実の探求は一人の人間の統一性を解体させ、謎を残すばかりである。人間は複義的に生きている。

出典 全集第四巻 ニーチェ 
第一部
「序論 日本と西欧におけるニーチェ像の変遷史」より
(4-1) (28頁上段「Ⅰ 一八九〇年」)
(4-2) (45頁下段から46頁上段「Ⅱ 一九〇〇年―一九二〇年」)
(4-3) (55頁下段「Ⅱ 一九〇〇年―一九二〇年」)
(4-4) (66頁下段「Ⅲ 第一次世界大戦―一九三〇年」)
(4-5) (73頁上段から下段「Ⅲ 第一次世界大戦―一九三〇年」)
(4-6) (85頁上段「Ⅳ 一九三〇年―第二次世界大戦」)
(4-7) (95頁上段「Ⅳ 一九三〇年―第二次世界大戦」)
「第一章 最初の創造的表現」より
(4-8) (124頁上段から下段「第一節 早熟の孤独」)
(4-9) (135頁上段「第二節 思春期の喪神」)
(4-10)(136頁下段「第二節 思春期の喪神」)
(4-11)(186頁上段「第三節 ヘルダーリンとエルマナリヒ王伝説」)
(4-12)(195頁上段から下段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-13)(207頁上段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-14)(210頁上段「第四節 音楽と文献学のはざま」)
(4-15)(216頁下段「第五節 書物の世界から自由な生へ」)
「第二章 多様な現実との接触」
(4-16)(254頁上段「フランコ―ニアの夢幻劇」)
(4-17)(263頁上段「フランコ―ニアの夢幻劇」)
(4-18)(288頁下段「ショーペンハウアーとの邂逅」)
(4-19)(296頁下段「第三節 文献学者ニーチェの誕生」)
(4-20)(314頁上段「第三節 文献学者ニーチェの誕生」)
第二部
「第一章 自己抑制と自己修練」より
(4-21)(356頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-22)(356頁下段から357頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-23)(367頁下段から368頁上段「第二節 ラエルティオスとアリストテレス」)
(4-24)(384頁上段「第三節 恋とビスマルク」)
(4-25)(403頁下段「ライプツィヒの友人たち」)

「阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十七回」」への2件のフィードバック

  1. 阿由葉さんが選ばれた西尾先生のアフォリズムは、過去の分も含めて、ど
    れも先生の思想の核心を突くようなエキスの部分だけを、実に見事にピックア
    ップされているので、いつも息を呑むような気持ちで読ませて頂いています。

     その中で、これまでも自分が過去読んだ覚えのある短文に出会うと、「そう
    いえば、自分もこの部分を読んで立ち止まったことがあるなぁ」などと考えな
    がら、それが何時の事だったか思い出したりしています。

     西尾先生の文章は、過去試験問題に採用されたことがあるということですが
    最近はどうなのでしょうか?
     私は、時々中高生の問題集や試験問題を見る機会があるのですが、長文読解 
    に使われている文章は、よい文章ばかりではありません。
    明治の文豪の小説からの抜粋ならまだよいのですが、現代の作家や評論家な
    どの書いた文章が多いように感じます。それは何も、「天声人語」みたいな内容
    だから、というのではなく、読んでいる生徒も迷うような選択肢が並んでいたり、
    抜粋された一部を読んだだけでは、筆者の言いたいことがはっきりしない、と
    いう場合が多いからです。

     青少年にこそ、西尾先生の文章のように、難解でも、よけいな贅肉をそぎ落と
    した文章を読ませるべきだと思います。そんな偶然の出会いで、将来先生の
    読者になる生徒も出て来るかもしれません。
     もし最近先生の文章が試験問題に使われていないとすれば、試験問題を作成
    している人々の質が落ちているか、若しくは、意図的に先生の文章は読ませな
    い、としている人々がいるからではないか、と私は疑っています。

  2. 黒ユリ様:
    ありがとうございます。お褒め頂きとても嬉しく思います。
    3年前の5月から長い連載を頂いておりますが、『悲劇人の姿勢』第1章の「アフォリズムの美学」や、池田俊二様との対談本、『自由と宿命・西尾幹二との対話』第6章「アフォリズムは人間理解が際立つ形式である」から、容易ならざることとの認識は拭えませんが、これを切っ掛けに少しでも全集の読者が増えて頂ければ・・・、という願いがあります。

    国語については私も同感で、歴史教育「学会」同様の根本的な闇(高等教育機関に)が潜んでいることと思います。いつか歴史教科書のような運動が興るべきかもしれません。

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