阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十九回」

 (5-1)本を読むことは、何事かを体験するための手段であり、ある意味では最も効率の低い媒体であって、それ以上でも以下でもない筈なのに、どういうわけか端的にわれわれの自己目的とさえなってしまう。それほどにもわれわれを取り巻いている言葉の世界は層が厚く、われわれは現実から無言の裡に距てられているためだともいえよう。

(5-2)教養主義こそが今日の教養の衰弱の原因である。

(5-3)私たち末流の時代の知識人は、ともあれ他人の言葉を手掛かりにしてしか物事を考えることができない(従って物事を書くことも出来ない)ことに慣れ切ってしまっている。私たちは研究とか、学問とか、評論とか称して、何か創造的に物事を考えた積りになっているが、所詮は古書と古書の間隙を逍遥しているだけである。今日に遺されているのは所詮古人の言葉にすぎまい。しかし言葉は何かの脱け殻であって、実体ではないのだ。しかもこの頼りない、表皮でしかない言葉をあれこれ吟味するのは、言葉の分析それ自体が目的ではなく、言葉の届かない、その先にある何かに接近することが本来の目的だということに、いったい今日の学者、批評家、知識人はどれだけ気がついているだろうか。

(5-4)歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。

(5-5)私たちはヨーロッパ近代を自分の前方に見据えながら、同時に自分の背後に克服していかなくてはならないという二重の芸当を演じて来たし、今なお演じつつある。

(5-6)ヨーロッパ的な味附けだけをしただけの日本の古典論とか、自分が近代的教育を受けて来たにも拘わらず、近代ヨーロッパからの「異世界」への問い掛けにあまり敏感でない自閉的な日本文化論などが、いささか無反省に流布しているのが、当代の知性の特徴であるように私には思える。

(5-7)ニーチェの本は何処から読み始めてもよいし、何処で読み終わってもよいのではないか。丁度音楽は何処から聴き出してもわれわれを引き摺り込んでしまうように、ニーチェの著作はあらゆる処に入口があり、出口があるのだ。論述的な著作の場合でも、文の構造が基本においてアフォリズムだということを物語っていよう。

(5-8)現在を否定し、批判する行為が、とりもなおさずそのまま理想への道だということが凡庸の徒にはどうしても分からない。代案は何か。具体的な方策を示せ。万人が歩める道を教えよ。彼らは必ず目的でなく手段を聞きたがる。(中略)自分で道を試すのではなく、人に道を教えてもらわなくては安心しない。

(5-9)現代はいわば価値の定点がどこにもない。すべての要素が同時に存在し多様化し、開放され、前進型のあらゆる試みがたちどころに古くなるような時代です。なにかの観念や、特定の視点というものは大抵相対化して、普遍的なものとしては成り立ちにくい。が、その反対に、いかなる視点も不可能になったという、いわば近代史を通じてくりかえされてきた自己解体の主題でさえが、ルーチンとなり、妙に安定した意匠となって、再検討を要求されている時代だともいえます。あらゆる問が並立しているのが、まさしくこの現代の姿なのです。

(5-10)虚偽なしで人は生きられない。その限りで虚偽は真理である。しかし真理はまた束の間に過ぎ去り、次の瞬間には虚偽に転ずる。

(5-11)真理は体系化できない。真理は容易に伝達し得ないし、認識し得ないなにかである。真理は認識するものではなく、わずかに接触することが出来るにすぎない。真理はときに言葉になり得ないものから、沈黙から、瞬間的に発現する。平生人は真理にあらざるもので表象し、行動する。真理とは生きるために人が時に応じて必要とするイルージョンである。

(5-12)歴史的教養で頭を一杯にして、自分が何をしたいのか、そして何を言いたいのかさえ分らなくなっている現代知識人の懐疑趣味、もしくは自己韜晦癖

(5-13)近世に確立した人間の主体的自我は、やがては自然を、世界を自己の外に客体化し、ねじふせ、加工し、利用する近代科学の自己絶対化をもたらすに及んだ。十九世紀は無反省なまでにその危険が増大した時代である。世界に存在するいっさいのものが主体的学問の対象となり、対象化できない心の暗部や信仰や芸術までをも解剖し、分析した。

(5-14)ギリシア人はつねに超時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が意識されたことはなかった。

(5-15)思想は今や趣味の問題でしかなく、人間は生きるために生きる以外にどんな生の課題ももち得ず、またもち得ないことに疑問すら抱かなくなっている。それでいて世間は少量の毒ある刺激をたえず求めるが、しかし本気で毒を身に浴びる者はどこにもなく、なにごとにつけほどほどで、人々は怜悧(れいり)になり、あるいは歴史書に慰めを求め、あるいは永生きするための健康書にうつつを抜かす。
 こうした状況を「成熟」とか称して現状肯定する思想家がもてはやされ、その分だけ時代の文化は老衰し、活力を失っていく。だが、にぎやかな鳴り物入りの漫画のような思想は、時代の無目標をごまかすために、人々に一時の快い夢をみさせてくれる。

(5-16)なにもかもが煩わしいからわれわれは差別を恐れ、福祉を唱え、健康を重んじているのであろう。

(5-17)日本にはキリスト教がないからニーチェの言う「神の死」はわれわれの問題ではないという日本人がよくいる。しかし明治以来、近代化の洗礼を受けて、日本人をつつんでいた江戸文化の有機的統一体が失われ、今や国家にも個人にも目的がなく、「彼岸の世界」への信仰ももち得なくなっているのは、まさに現下のわれわれの問題ではないだろうか。「神の死」とはなにも西洋だけの問題ではない。われわれ近代文化全体をつつみこんでいる宿命である。

(5-18)いっさいの現象の仮面を剝いで、裏側の真実を見ようとすること自体が、ひとつの嘘になり、自己欺瞞を招きやすい。

(5-19)本当の不安のうちに生きるとは、ときに仮面を剝いでその裏を覗き見、ときに仮面をそのまま素朴に愛するということを交互にくりかえす以外にはない。いいかえれば、ときにあらゆる真理を疑い、いかなる信念をも使い捨てて、懐疑の唯中に立つかと思えば、ときに嘘と承知でなにかを信じ、いわば手段としての信念を気儘に用いる立場へと転ずる。立場は次から次へと瞬時に変わっていく。どこにも定点はないのかもしれない。

(5-20)一切の価値意識を排除して、純粋に科学的な、厳密に客観的な認識は不可能であるばかりでなく、真の学問にとって有害でさえある。認識には価値観が必要である。と同時に、行動を伴わない単なる認識はけっしてなにかを認識したことにはならない。行動や価値は過去の研究を通じてもなお現在に作用していなければならない。

(5-21)そんなことを言っても、もとより音楽の理解にはなんの助けにもならないが、音楽が一種の文学性(あるいは近代的な感傷性)をもつことによって、かえって音楽自身のために演奏されるようになり、他の従属物でなくなっていったということは、まことに不思議な逆説といえるかもしれない。

(5-22)実人生に敗れた弱い人間、社会の落伍者、失敗者に限って、自分の敗北にも意味があることを別の論理で拡大解釈しようとして、救済を自分以外の世界に求め、自分の弱さから目をそらし、弱点の正当化を試みようとしたがる。これは生命力の衰退のしるしであるが、しかしまた、この自己欺瞞は群をなして、集団力に危険な力として伝播して行く傾向がある。いわば「伝染的な作用をする」のである。

(5-23)デカダンスとは自分で自分を瞞して、眠らせる、麻薬のような世界である。当然、大変に心地良い世界だと言える。そして近代人ほど、幸福の原理でなく快適の原理を求めて倦み疲れている存在もないと言ってよいだろう。

(5-24)真理と名のつくものはことごとくフィクションではないだろうか?物という「概念」が発生したのは、到達できるたしかな「物」が存在しているからではなく、むしろ「物」が存在していないからではないだろうか?同じように、真理という「言葉」が発生したのは、「真理」が認識可能であるためではなく、むしろ逆に、「一つの」真理が必要から捏造(ねつぞう)されたせいではないだろうか?

(5-25)言葉の及ばぬ部分に、言葉を用いることで、なにかの真理が得られたためしはなく、多くの場合には、むしろ逆に、真理(16頁上段から下段「光と断崖」)

にあらざるものに真理という「言葉」を与えただけに終わってしまう(中略)それくらいならむしろ、嘘を嘘としてはっきり自覚した方がよい。言葉の及ぶ部分がどこまでであるかをよくわきまえていることが必要であろう。

(5-26)理解とは理解し得ない自分にまず直面することから始まる、という問い

(5-27)狂気の淵のそば近くまで歩み寄ることによって、正気はかえって明晰になり、洞察の目はますます深く、ますます鋭く物事の核心を捉える

出典 全集第五巻
光と断崖― 最晩年のニーチェ より
「Ⅰ 最晩年のニーチェ」より
(5-1)(9頁下段から10頁上段「光と断崖」)
(5-2)(11頁上段「光と断崖」)
(5-3) (16頁上段から下段「光と断崖」)
(5-4) (24頁下段から25頁上段「光と断崖」)
(5-5) (60頁下段「光と断崖」)
(5-6) (62頁上段「光と断崖」)
(5-7) (97頁上段から下段「幻としての『権力への遺志』」)
「Ⅱ ドイツにおける同時代人のニーチェ像」より
(5-8) (319頁上段)
「Ⅳ 掌篇」より
(5-9) (396頁下段「人間ニーチェをつかまえる」)
(5-10)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-11)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-12)(453頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-13)(472頁上段「「教養」批判の背景」)
(5-14)(474頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-15)(478頁下段「ニーチェと現代」)
(5-16)(479頁下段「ニーチェと現代」)
(5-17)(481頁下段「ニーチェと現代」)
(5-18)(486頁上段「実験と仮面」)
(5-19)(487頁上段「実験と仮面」)
(5-20)(493頁上段「批評の悲劇」)
(5-21)(496頁下段「ニーチェのベートーヴェン像」)
(5-22)(501頁下段から502頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-23)(504頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-24)(516頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-25)(522頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-26)(532頁上段「和辻哲郎とニーチェ」)
「後記」より
(5-27)(559頁)

“阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十九回」” への 2 件のフィードバック

  1. 今朝の産経に待望の西尾先生の「正論」が掲載されました。文字通りの正論でしたが、先生は恐らく腹ふくるるまま相当表現を抑制されたのではないでしょうか。“9条2項は無修正、3項で自衛隊を再定義”という安倍・公明案を、「思考停止」と評されましたが、本音は「思考回避、思考逃避」ではなかったかと忖度します。この案の論理的矛盾を直視することを回避し、手足を縛られた自衛隊の永久化して、中国の尖閣侵略、北のミサイル恫喝という現実から逃避するものだと仰りたかった、否、よく読めば行間にはそう書いてあります。

    3項加憲論は、自衛隊のウソの上塗り、占領憲法の恥の上塗りに他なりません。

    アフォリズム(5-8)は、“現在を否定し、批判する行為が、とりもなおさずそのまま理想への道だということが凡庸の徒にはどうしても分からない。代案は何か。具体的な方策を示せ”でしたが、エセ保守の凡庸の徒には、自衛隊を戦える軍隊にする、国民と国土を防衛できる本物にするという理想を実現するための代案を示すことが、健全な批判精神と理論的思考力の欠如から、出来ないのです。

    気鋭の保守論客と目される小川栄太郎氏のFBは以下の通りでしたが、この方にも健全な批判精神の不足のみならず理論的思考力の欠如が感じられます。安倍支持派の代表的思考に思えます。

    “(途中一部省略)安倍総理の憲法9条3項加憲論に失望してゐる人達が多いので驚いてゐる。総理が9条改正を明言した事が画期的なんです。しかも公明党山口代表が総理発言を評価した。野党時代の自民党草案から公明党が賛成できる9条加憲案を目標に設定し直した。これは国民投票時の基礎票1千万なのだから大変な事なのです。ただし!!3項加憲は非合理なのだから、2項改正をきちんと輿論にすべきだと私は考へる。その為にここから努力するのは自民党保守派や民間の我々の力。総理が9条に踏み込んだ事を評価しつつ、私は、3項加憲ではなく、2項改正を主張し続け、その方向に輿論を説得する努力をします。それが言論の力といふものではないのか?なんでも安倍総理を論評するといふよりも、ぶれない軸を持ちながら実現を見据える言論人が増える事も大切な事なのです”

    安倍総理は、公明に配慮して、つまり1000万票が欲しくて、「2項には触れない」と明言しているのですが、小川氏らは「2項改正」で俺たちはぶれないと宣言しています。「2項削除」または「削除の上、自衛隊明記」が正しいことは言うまでもないのですが、この小川氏ら、「2項改正」でも宜しいですが、安倍案通りに改正せず、2項が無修正で残ったら切腹する覚悟があるのでしょうか。国民に対して、評論家としてどう責任を執る所存でしょう?

    政治は妥協の産物ですから時には譲歩することもあるでしょう。しかし、譲歩でプリンシプルを曲げればそれは最早譲歩ではなく変節と同志への裏切りに他なりません。これは何度も繰り返されました。おそらく憲法問題でも繰り返すのでしょう。しかし、政治的現実から安倍総理御自身が正面から2項削除で公明を説得できないまでも、正面から理想を目指して戦う気概があるのなら、小川氏でも誰でも応援団を使う、根回しという手法もあるのです。

    戦後、国際政治のなかで日本のリーダーが主導的役割を果たせなくなったことは、外遊の盛んな安倍総理も同様です。海外のニュースに国際政治のプレーヤーとして注目され脚光を浴びた日本の政治家は、記憶する限り、第1回サミットで三木首相がアジア代表として珍しがられた以外ありません。 

    世界の国々にとって日本は怖くない、ODAの有難い国、ATMのような国家、米国の属領、本当の意味で軍事的脅威にはなり得ぬ、いくら怒らせても全く怖くない存在であれば、その発言にも重みがなく注目もされません。古今東西、現在に至るまで武備と軍事が重んじられる理由です。WGIPで平和病の毒針を挿され、大多数の国民が感染させられて以来喪った存在感と国際的発言力を、我が国が取り戻すには核保有の軍事大国化が必須条件となります。それを支えるのは勇気と気概のある国民ですが、いま日本列島で絶滅が危惧されています。

  2. フリードリヒ·ニーチェも足掻いた、頭と心の芯を、万力で挟み続ける様な苦しみを、受容させるだけの言葉と情報、そして「記録」が、現代の我が国にようやく染み渡り、それらを降らす事叶う処まで、いよいよ刻満ちたと考える。

    私もやはり人の子、個人的に「この事態」を最も憂いていたが、やはり人が「自然と相対する姿勢を真理とする錯覚」の延長上にある自由は、思考、思想、学術、そしてそれらの元成す言葉までも、鋭角にし、硬質化させ、液体の様な揺らぎを無くしてゆく。哀しい哉、この流れを止める事そのものが自然に反している期間が長過ぎた。

    「その理性を信仰し過ぎた成れの果て」

    何時の世にも訪れた、世界を覆い尽くす篩に対し、我が民は半傍観者でいられた筈であった。しかしながら、一世紀半前に襲った近代の大波、その中枢に蠢いていた嫉妬や反骨、狂気を、我が国の達りし者たちは、確かにそれ解してはいたのだとは思うが、言の葉に現しきることが出来なかった。それはその篩の中へ、民に己自らの能動を刺激して放り込む必然性を選択したということだろう。

    言葉にしなければ人の世では導く具現としての力は無い。しかし我が国は、その言葉を瓦礫の様に積み上げたり、絆創膏の様にその場しのぎをする事に慣れたり、それらを必要以上に、政や世に下ろすという事が、いかに危うく、幼稚であると、十分に識として解しており、我が国の深層、表層共に、文化として流れていた。その、あえて鍛えてはならないと知っていた部分を攻められ、まるで膝裏の柔い肉を削がれた様に両膝を着き、そこからの反撃もまた始点を誤り、その土俵に乗って戦う事を選択し、我が国の言の葉、日本語のそれを改造し過ぎてしまった。音を下げ、紙に書くことを希望とし過ぎたのだ。天秤の片側だけに、次々と錘を乗せていく。

    言葉は情報として中継し、その精神を善くも悪くも侵食してゆく。
    端的に言うなら「ニーチェを受け入れる礎」を我が国は選択した。

    「記憶を罪の温床」とする事を選択した以上、それは、自らの歴史を黒く塗り潰し、時に傲慢なまでの開き直りを合理化した言葉を自らの脳に埋め込むことや、非常に短い期間の有用性を真理化する癖や、そこから進歩的価値観に酔うたり、過去を蹴り飛ばすことを強さと信じたりと、各々個人に色々に現れるであろうが、どの様態もまさに負荷の嵐である。寒風に当てられた身体は、その身をより守ろうと硬くする。精神とて同じだ、それは対人や社会への構え方の姿勢として現れたり、精神系、神経系の疾患とやらの種にもなろう。

    そして、この作業にも似た言葉の濁流は、音、文、化けて、行政、経済、政治、学術として下りてきた。そしてついにインターネットという化物と下りた。世の理は、情報そのものである事に、再び人は気付き、それは地球規模で覆い、再びヒトは「人間」と「獣」と「歯車」に分かれる。精神の礎無き処に知をばらまけば、まるで砂糖に群がる蟻の如く、人はそれを欲しがり出す。

    ···近代とやらが始まって、一世紀半、それら「日本ならざるもの」は多種に姿形を変えながら、ついに民の中に染み渡ってしまったと言わざるをえない。

    「正しいこと」

    この言葉は、本質的に普遍性を纏う性質を持ち合わせていない。また理念や信念とも固結びされてはいない。元来我が国は、ただひたすら均衡を保とうとする、実に刹那的な判断による行い、言葉の下ろしを「正しい」と置いた。否、置いたという意思や認識すら無いかもしれない。
    その行いや言葉が、その色々な「間」に次なる流動、反転、拡散を促す事や、時にダムの様にせき止める効きめを、ある則の元で働くこと十分に解して上で判断し行った。ありのままの、実に自然体の有り様として下ろした。その確たるものの大きな一つが、神仏習合の現れとも言えるだろう。

    これらを実践出来る者、範囲を洞察出来る者、武士道であれ、聖職者であれ、会社経営者であれ、そして「家族」であれ、この者が上に居なければ、その範囲は、いずれ日本らしさは風化してゆくのである。端的に言えば、その範囲、組織などから「日本人らしい、あの微笑みが出来る人々」や「時計の外側で労する事をなんら苦としない感性を持つ人々」が消えてゆくのだ。

    「正しいこと」を「下ろしたものに被せた」、つまり言葉に正義を着せるのが、近代の正しさの恐ろしさである。伝達「手段」にし過ぎたのだ、言葉にする事自体が目的である事を忘れたのだろう。

    「愛」や「平和」も、無論厳密には正しいものでも何でもない。それは憂いを有し、穏やかで、古来から人が依存するのも仕方ないことである、ある意味、均衡の範囲内と言えなくもない。
    しかし現代は、その愛や平和を「正しいと決めた」のである。「絶対善」として置いたのだ。今現在も、我が国の電波に乗る情報の九分九厘はそれであろう。人間の根元的な動力の源泉である「恐怖」と「孤独」を遠ざける。
    反面、善と正義が融合し言葉の武器となれば、いずれその言葉は、法や物質を纏いてそれを言いだす。神から「切り離した後の法」で他者を裁き、搾取し、正義や愛、平和の為に、剣を振り、銃を撃ち「正義の名の元に正義を創る」のだ。

    そして所謂、歴史を重ねた後の国家という枠組みになると、各々に訪れる「記憶の罪」とは様相をいささか変え「記録の解釈」という形で襲うのである。愚かなり、過去に正解不正解を纏わせれば、その都度舞う埃は耳目を潰す。
    現代とは、その「記録の中の罪」を探し、また同時に「記録の中の潔白」をも探しているのだ。

    「記憶」を、物語や神話として民に降らせていた時代、東洋西洋問わず、それらの言葉には、果てしないまでの人間性や、今で言う社会性の有り様を映し出していた。地中海の聖書、印のヴェーダ、北欧のエッダ、オリンポスの神々、そして多種多様な原住民の中の語り部、無論、我が国の古事記の中、いかなる時でも神は人と共に在り、そこには決して知識ではない、情感や喜怒哀楽、縦横の人間模様、闘いや争いの中の本能的な勇や胆、風土を背景にしながら、さながら人の世を映した小さな鏡の様に、言葉は民に寄り添っていたのである。そこには「⚪」も「×」もない、ただひたすらに物語であり、人間である。

    この「記憶」を「記録」とし、善悪や正誤を混ぜ、啓蒙の元に多数者にばらまいた時、その伝達速度が「それまでの生命体としての時間軸」とズレ始め、空間の膨張と重なり、その「記録の解釈の地獄」は口を開けたのだと考える。

    「人は何かを信仰しなくては、息すら出来ない」

    その背景には「正解」や「真実」、「進歩」、「生存」そして「言語化」への、狂信的なまでの「信仰」があり、先述した、硬質化した正義への服従精神が根底にへばりついている。これを野放しにしておくと、ベクトルは一層その方向を固定させ、画一化、正当化へと進み、酷い場合はその「一連の思考の合理化そのもの」に正義を被せようとする。この思考は「キリ」の如く尖る本質を有したままの言葉となり、政経や法や学に下り、民にまで下りてくる。

    一例を挙げると、所謂「科学的立証」や「統計」を着て、資本主義と経済的視点と混ぜる事がそれである。データ等による数値化、可視化されたものの前では、万人、卑屈なまでに言葉を失う。信仰と畏怖がそうさせるのだ。
    昨年、此処のコメントにも書いた様に、科学とは、その観察性や論理性が健全な場合でのみ、真理性を漂わす事は出来るが、それに正義を着せると、科学は自然を越える可能性があるのだという錯覚を植え付ける。
    しかしながら、科学とは「否定の学問」である。観察の元に、その現象の解釈を変えて、判してきた歴史である。ここに当たり前の様に「自然は必ずや一歩先を歩む」という現実があり、それは到底
    「正しさを纏うに値しない」ものだという前提があるのだ。こんなものに経済や行政を任せれば、人そのものを資本化、数値化しようとするベクトルを先鋭化させる思考に依存するだけだろう。依存は哲学を殺す。これらの人間こそ、釈迦の云う「馬鹿」である。
    苦の無き処から吠える馬鹿どもの言う「合理的思考」や「学術的見解」など、ネネ·デカルトが、自らの病に嘆きつつも、その合理性に希望を視た時のような、あの健全で純粋な眼差しなど一厘も無い。
    劣化著しい思考の氾濫もまた、天秤の均衡の崩れから生まれた、言葉自体の正義化の果てである。

    ···もはやこの先に訪れるは、過去の多様な文明の姿からも解る様に、自然は「その伝達の低速化」の方向へ舵を切る事になると考える。
    思い切りブレーキを踏めば、それは紛争や災害、或は法、科学となって、その個体数を削減するという伝達分断として現れる。これは痛みや苦しみを伴うが、能動、感受、共に他者への影響力や絆を強化させる。
    緩やかな減速をする場合、それは、個々に恐怖と孤独を下ろし、時間軸、空間軸、共通認識、共有の価値観などの分断として現れ「言語分断、言語多様化」や「思想の極化」として現れる。

    今の我が国は、これらが複合的に下りている。

    「誰もが自らの記憶、及び、記録に殺される」

    ニーチェ「も」、これで死んだのだ。私はそう思う。そして我が国は、それを受け入れ、遂に民に浸透した。人としての本質、根元、そこからの逃避や保身を続けてきた者を、自然は見逃しはしない、上とて民とて、必ずや各々、個々に追い詰めよう。再び文明は螺旋と知らせ、その根元に脈打つ「死んだら何もわからない」を「偽」としよう。

    「お前は、そう言いながら、お前の最も近しい者に何をしてきた?沈黙を畏れよ。無能を畏れよ。記憶を畏れよ。自然はお前の全てを知っている」

    ···見えない篩に、総ての民を放り込む。堕ちたくなくば、「上」に望むことを、己が触れられる己の周りに示せ。己が周りに他者居なくば、篩に入ることすら叶わぬ。

    最後までお読み下さり、ありがとうございました。

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