5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。
(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回
(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
『諸君!』45枚
3月16日に書き始めて24日の夜中(25日の早朝)に最後の校正ゲラをもどした。脱稿は24日夕方である。9日間で90枚は私にしても珍しい集中度である。
ライブドア問題は日替りでニュースが動くので、早めに書き出すことができなかった。ようやく書き出すと、また動く。
(1)では新株予約権発行差し止めの判決の地裁までで時間切れだった。(2)は高裁判決を主に対象にしている。(1)を書き終えてから(2)を書いた。
ライブドア問題については「日録」にはいっさい私見を述べなかった。述べている時間的余裕がなかった。私の分析と考察はこの二作にすべて投入されている。
(1)で「無国籍者」と呼んだのは堀江貴文氏と村上世彰氏と鹿子木康裁判官である。判決文に対しては丁寧な心理分析をほどこした。
みんな同じ穴の狢である。高裁の鬼頭判事も例外ではない。アメリカの法律で日本を裁いている不可解さ。
校正ゲラを手直ししている日にソフトバンクの登場のニュースを知って大急ぎで加筆した。フジサンケイグループにとって前門の虎、後門の狼だと思った。誰かが「フジはチンピラが恐くてヤクザに救いを求めた」と言っていたが、そういうことかと思う。
最後に登場した北尾という人を見ていると、「株屋」という顔をしている。そういえばホリエモンも村上ファンドも昔流にいえば「株屋」である。
日本人にはお金が貯っても株を買う習慣はあまりない。普通の人は郵便局や銀行に貯金してきた。銀行が代表して株を買った。証券会社は個人投資家を育ててこなかった。
最近しきりに会社とは何かが問われる。会社は経営者のものでも、従業員のものでもなく、株主のものだと盛んにいわれるが、そういわれてピンとくる日本人は少ない。
日本の株主は経営に関心を持たなかったからだ。株の上り下りにだけ関心をもった。経営者はたしかにいわれる通り株主への利益配当に熱意がなかった。
日本の経営者は自社の製品の市場に占めるシェアーに異常な関心を示す。テレビの経営者なら視聴率にのみ関心を示す。株主への利益還元は二の次だった。
だから日本の企業は生産性は高く収益は上げているのに、時価総額が低い。アメリカとは逆である。敵対的買収者に狙われ易い構造である。これからはたしかに日本の経営者には辛い時代がくる。
フジテレビが1000円の配当金を5000円にして、自社の株をつり上げ、防衛策とした。他のテレビ会社は渋い顔をしているに違いない。相次いで同じことをしないと自社の株主たちの不満を買うことになるからだ。
フジテレビの事件は毎日関心をもって国中から見つめられ、他業種の経営者にもとてもいい教育効果があったはずである。系列内の株式の持ち合いに守られていた時代の安定度がきっと懐かしいだろう。日本の資本主義の良さはもっと顧みられてよいのではないか。竹中平蔵氏に丸投げしている内閣は困ったものである。
昨日、フジテレビが優良企業50社に自社の株を買って保有してくれと頼んだのは「株の持ち合い」策の復活である。安定経営が大切なのはどの社も同じである。
拙論二篇は以上述べたこととはまた別の、もっと重要な、数多くの論点――文明論を背景にした私なりの会社論――を書きこんでいる。いずれも月の初頭に店頭にでる。
グローバリズムの普遍性の怪しさ
『諸君!』や『正論』の出版を楽しみにしています。
以下の文章はある著名な方と意見交換していて出てきた今日の私の意見です。
今回の騒動でフジテレビ側は面白いことに反論に伝統的な商業資本で成立した考え方を適用し、堀江氏はそうじゃないという側面を見ています。別にフジテレビを弁護する目的で書いているわけじゃないですが。
フジテレビ側の正確な文言は書けないけど
①会社は株主だけのものじゃない。
②会社には社会的使命がある。
③ニッポン放送の従業員が自分たちが経営者の如く一斉に反発している。
④安定株主である、おそらく株の持ち合いしている多くの会社がTOBに添っ
て安い値段で応じている。
現代的な企業であるフジTVから②のような言葉が出てくるとは驚きですが、やはりこういう点(利益が目的ではない。利益は将来の成長のための原資である。利益そのものより社会性を重視すべきであるという江戸時代に作られた思想が背景にあるように思う。
①は大事のは株主だけじゃなくて、株主・経営者・従業員・取引先の一体化したものとして捉えているからでしょう。
特に③の部分は企業への忠誠という面で考えれば多くの企業で下っ端の従業員が「わたしの所では」という言い方で自分の勤めている企業への忠誠心を現しているという点で面白かった。
④でも安定株主であるということは株主として安定しているからこそ企業の経営が出来るからであって、株が上がったからといって売り払うような会社に安定株主になってくれとはニッポン放送も望まなかったでしょうし、株主としてキャピタルゲインを得るのが目的でないから株価が低くてTOBに応じても経営者が非難されることはないはず。
株の売買で儲けることを江戸時代では投機といって(今でもそうだけど)、投機をやるべきでないし、やるような人間には商売上のつきあいをしてはいけないし、仮に大失敗してもそれを助けてはいけないと考えているようだけど。そういう伝統的な壁があったのだけどいよいよその壁も破壊されたのかなと考えています。
さて堀江氏側、または広くはソフトバンク側まで含めた話ですが
私は堀江氏は絶対的規準は銭であり、それ以外に信頼するものは何もないという臭いを感じているわけであって、それが日本の伝統的商業資本の考え方とは異質である点に違和感を感じているわけです。そして堀江氏を応援する多くの人間、おそらく大多数は主婦や学生や定年退職した老人であろうと思いますが、それらの人たちが堀江氏の言葉のマジックで騙されていないかという不安を持っています。
『WILL』5月号の「ホリエモン語録」という記事は私の印象を裏付けるものでした。ここで六頁にわたる語録の一例をあげますと
「カネで買えないものは、差別につながる。毛筋、家柄、毛並み。世界で唯一、カネだけが無色透明で、フェアな規準ではないか」(『日経ベンチャー』0五年二月)
「(おカネで計れないような価値を広めることに)何の意味があるのか。逆に教えて欲しいですよ。世の中おカネで買えないものはないし、おカネの前ではすべて平等なんです。いくら貧乏でも、才能があれば、それをおカネに換えられるし、頑張った分だけ報われる。頭がいいとか運動能力が高いとか芸術的な才能があるとかいって、絶対的な規準で比較は出来ない。でも、稼ぐおカネで推し量ることはできるのです」(『朝日新聞』Beフ
ロントライナー○四年十一月二十日)
おカネについては同趣旨の言葉が六つ続きます。その後【年寄りについて】、【性格について】、【家庭、故郷】、……と続きます。
実はこの程度のことは過去の日本の歴史に何度もあったことです。拝金主義といわれたものですな。一例をあげるとおカネの認識については私は「嗚呼この人は古典の名前は忘れましたがたが『○○鏡』にででてくる拝金主義者の主人公とおなじだ。社会が混乱しているとこういうものがでてきるのだな」と思った次第です。
もっとも『○○鏡』ではさらに進んでいてすべてのもの、地位や名誉や権力や芸術的才能でさえ、ましてや血縁・家柄でさえ系図買いが出来るのだからといたってさめた意見をかいていましたが(苦笑)。そういう点では堀江氏より「○○鏡」の作者はさめていますが。
こういう時代を経て貨幣経済どころか信用経済までに発展した段階で経済的な困窮を味わった武士や農民から商業資本階級に怨嗟の声があがるのはもっともなことであって、かつ当時は商業倫理なんてほとんどありませんでしたから……
ということで日本資本主義の精神へつながります。
むしろ語録で私が驚いたのは以下の【家庭・故郷】の中に出てくる認識です。
「世の中に暖かい家庭ってあるんですか?僕には信じられない。みんな飽きてないの?なぜ自分をガマンして偽って生きているのですか?」(『日経ベンチャー』0五年二月)
私が考えていた以上に堀江氏は家族や地域社会への拒否感もありそうです。そして宗教的な基礎を持った米国から入ってきたグローバリスムと共鳴を起こして、宗教観がない状態で資本には国境がないという判断に彼は至るのではないかと考えています。そして家族に愛情が持てない人間に愛国心を持たせようとするのは無理でしょう。
思い起こせば米国の映画産業を日本資本が買い取ったときに起こった反日運動の背景には米国なりの愛国心があったと思います。
そして彼には愛国心とか国防なんて毛頭考える気もないのでしょう。いわば銭が絶対であって、銭の実態が円であるかドルであるかユーロであるか人民元であるかはまったく関係なく、考え方によっては無意識で売国奴になりうる存在ではないかと不安に思っています。そういう意味では竹中氏もそれを重用した小泉首相も売国奴になりうる可能性があると思っています。
そういう意味ではグローバリストの怪しさはサヨクの怪しさと類似の点がありそうです。マルクス主義の普遍性に対する批判はそのままグローバリズムの普遍性に対する批判に通じるという意味ですけど。
竹中平蔵や小泉純一郎は「ニュークラシカル」と呼ばれる経済理論の信奉者です。いわゆる「小さな政府論」、「構造改革」を唱える人なのですが、彼らの最終的な目的は日本経済の破壊です。小泉政権の上げた効果として、日本の社会秩序を破壊していることがあげられます。今回の買収騒動も、従来の日本的システムを破壊してきた結果ではないでしょうか。
私は西尾先生が述べられているように、もっと日本的なシステムの良さを見直すべきだと思っています。もちろんグローバリズムに迎合することも大切なことかとは思いますが、アメリカは自分たちの都合でルールを書き換えてきた実績があります。アメリカのごり押し=グローバリズム、グローバルスタンダードでは困りますね。
素朴な疑問なんですけど、このホリエモンの買収とかに金を
出している人はだれなんでしょう?
わたしの知るかぎり、ライブドアはエッジというPHPのデータ通信つなぎ放題で
急成長した会社でしょ。でも、その程度の商売でテレビ局が買収できる
ほどの金があるとは思えない。野球球団くらいならわかるけど。
だれが貸してるんでしょう。
本当のホリエモンのバックはだれ?どういう勢力?銀行?
ま、どうでもいいけど。
リクルートの江副さんとか思い出すなァ。なつかしい。
ちなみに韓国紙の記事だけど、いくらホリエモンがバカでも、
そんなとんちんかんな事は言わないでしょう。
一応、ネット産業の人ですし。
韓国のITレベルは日本以上どころか、はっきり台湾・中国以下ですね。
キルギス共和国並み。中国はけっこう侮れませんが。
[西尾幹二考・1 <ホトトギス>]
▼5月号付けの、保守系を代表する二冊の月刊誌、『正論』『諸君!』において、西尾幹二先生はひとり気を吐いて二つの評論をものしている。
『ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ(『正論』)』
『日本を潰すつもりか
・・・朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法案(『諸君!』)
どちらにも共通するのが、【日本を蔑ろにする者どもの糾弾】と言うテーマである。
さて、私は、前者は二度ゆっくりと読んだが、後者の熟読はまだである。故に、その「双子の論文」の解析は、後に譲るが、ちょっと残しておきたいことがあるので、書く。
▼私が以前お世話になっていたインターネット掲示板で、こんな内容の投稿をしたことがあった。
それは、哲学研究家(?)・小熊英二と言う人物を巡る、西尾幹二と大月隆寛の小熊批判の手法についてだった。
今、その投稿は存在していないので詳しくは書けないのだが、真っ向から小熊批判をした西尾先生(『諸君!』2003/9)に対し、大月BD(暴力でぶ)先生が、 [そんな真っ当な批判が通用する相手じゃないですよ、そんな批判は、小熊にとっては、保守派の重鎮様、批判して頂き、ごっつあんです、てなもんですよ]と、西尾先生の批判手法とは違った、外見への攻撃を交えた小熊批判を繰り広げたのでした(『諸君!』2003/12)。
その、大月隆寛氏の、歯に衣着せぬ豪快な批判は、本来ならば邪道であるかも知れないが、ふにゃけた面して外見に変な自身を持っていると思われる小熊英二氏に、とても作用していたと思う。
私は、その大月BD先生の手法に感激したものだ。
真っ当な言説を持てない私のような者への「福音」だとさえ思った^^
かくして、それについての、長い投稿を何回かに分けて行なった。
しかし、いつもの如く、その結末には至らず、未完投稿になっていた・・・^^;
確か・・・、「大月氏の小熊批判は、その手法の大胆さもあり、私のような者はとても勇気づけられた。
だが、正しいのは、西尾先生による小熊批判だろう・・・」で展開が終わっていたと思う。
最終回では、何故、西尾先生の批判手法の方が正しいのか? を、記さなくてはならなかった・・・。
その結論をここに書いておこう。
【大月BD先生の、小熊批判は、小熊英二に何がしかのダメージを与えられただろうし、私のような八流文章家に希望を与えてくれた・・・。しかし、小熊英二に、次元の違いにより、何のダメージを与えられなかったかも知れない西尾先生による小熊批判は、だが、小熊英二を真剣に仰ぐ真面目な学生や、その真面目な読者には、強烈なイメージを与えられるだけの真っ当な、真っ向勝負の批判ではあった!】
である・・・。
つまり、小熊英二に向けた批判でありつつも、そもそも、次元の違う動機で執筆活動を行なっている小熊英二であるから、西尾先生の言説が全く通じない可能性もあった。だが、それでも、小熊英二の取り巻き連中の二十人弱ほど(推測^^;)の心に、何かを通じさせることの出来る「洗脳解除」目的の言説ではあった訳だ。
大月隆寛氏の言説には、果たして、そのような副次的な効果があったか・・・。
より広範囲の影響力を持てたか・・・。そこをポイントとしたかった。
▼私は、西尾・大月両者の批判を行なうに際しての手法の違いを考えたとき、これを思い出した。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を、ホトトギスをテーマにした句に表わした、有名な例えだ。
織田 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
豊臣 「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
徳川 「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
いや、西尾・大月両氏が、どれに当て嵌まるかなどとは申しません。
ただ、私は、西尾・大月両氏とは違った手法を用い、違う結果をもたらしたいと考えているのです。
▼私は、例えば、批判ならば、批判対象そのものだけをピンポイント攻撃したいのだ。
・・・と言いましょうか、どうやら、私の文章は、それだけしか出来ないらしい^^;
批判に限らず、私の書いた文章は、その対象にしか届かない、と言うことが最近分かった。
批判に限らず、投稿内で、対象の肯定や、感想などを書く。例えば、とある漫画家さんの作品を誉めたとする。
すると、その方から、温かいメールを頂いたりする。
私は、私の書いたこと(一種の評論)が正しいと分かり、非常に喜ぶ。
だが、その周りの者(ファン連中)には、私の文章の正当性が理解して貰えないのである・・・。
例えば、私がある者を批判したりする。
すると、それは当たっているにもかかわらず、本人の心を直撃しているにもかかわらず、その周りの者が猛反発しだしたりするのだ。
しまいには、図星を指され、うろたえていたはずの本人も、心を立ち直らせて、「それは違う」などという始末・・・。
そういう時、私は、真顔でこう言うことにしている。
【『それは心から本気で言ってるのか?』】
【『その言葉に命を賭けられるのか?』】
【『その言葉、神に誓えるのか?』】
思想に忠実であろうとする<勤勉で真面目なおっちょこちょい>ほど、私の言葉の前にはうな垂れるしかない。
▼・・・だが、である。
ホリエモンなのである。
おそらく、この投稿のはじめにタイトルを列記した、西尾幹二渾身の二つの評論文であるが、金儲けに突出した人格行動を取る、無思想の浅はかなバカ・ホリエモンの心には全く届くまい・・・。
西尾先生も、それは百も承知であろう。今回の評論文、感傷的な部分が全くない。西尾先生は、硬派な文体でもって、淡々と国民に訴えている。
「騙されるな! 戦え!」と・・・。
了解しました^^
私はあくまでも、ホリエモン的人物の心にピンポイント攻撃を仕掛けます。
初めてお便り差し上げます。
初めまして。
文筆業の末席におります松岡と申します。
その昔、御著書「異なる悲劇 日本とドイツ」を
初めて拝読した折には
痛烈なカルチャーショックを受けました。
それまでは両親の影響で、
「朝日新聞に書いてあることが全て正しい」
と考えて育った少年時代でしたが、
永い眠りから覚めたような思いがしました。
こうして書き込みさせていただけること、
大変光栄に存じます。
さて、小生がライブドアについて
書き溜めたものを数本ほど、
不躾ながらトラックバックお願いしました。
今後ともよろしくお願い致します。
ホリエモンってやっぱり外資だったんですね。
投資銀行リーマン・ブラザーズ証券ですか。
ニュース・ステーションでもやったらしいですね。
ただ、ホエリモンに限らず、最近東大の法学部などを出た人に
外資系のために働く人が多いですね。
官僚になっても、タダで公費留学しといて、さっさとやめて
外資で高給とか。渉外弁護士事務所を開いて、外資系のために
働くとか。
しかし、これはしょうがないと思います。
エリートを大事にせずに、その特権的な部分を削って、
おまえらだけただで国民のために汗水垂らして働けと言っても、
それは無理です。
基本的にこれは、グローバリゼーションという掛け声の下に、
年功序列を簡単に廃止したり、首切りや肩たたきが行なわれても、労組が何も言わなかったり。すべて同時進行なんですよね。
所得が2極化していることとも。
小泉構造改革という名の下に、こういう世相が当たり前になって、国民みんなが自分さえよければという態度ならば、
官僚だって、東大生だって、そうなります。彼らだけ清廉と
いうわけにはいきません。これはニワトリと卵ですが。
国民年金だって誰も払いません。
国会議員だって払ってないわけですから。
相互不信、親方日の丸さえ信用できない。
いわゆるAntagonismusですよね。
この状態で、国益とかいっても、連帯とかいっても、空疎すぎる。外資に襲われて、テレビ局があわてても、リストラされた
おっさんはいい気味くらいにしか思わないでしょう。
なんで、民間のテレビ局だけが例外なものか。
隣のおっさんを肩たたきして、自分はベンツにのって労組幹部
まで平気なら、なんで東大生が外資のために働くことを責められましょう。
下請けを肩たたきしても、自分たちは肩たたきされないと思い込んでいた、ニッポン放送の幹部たちが東大銭ゲバ小僧に襲われて、あわてているわけですねぇ。こっけいですねぇ。