第17回坦々塾勉強会講演要旨(一)

 第17回坦々塾勉強会講演要旨 平成22年3月6日(土)

講師 佐藤 松男
演題「福田恆存の思想と私」
(年号はすべて昭和で記載してゐます)

Ⅰ 評論―D.H.ロレンスのアポカリプス論との出会ひ

 福田先生は「私に思想といふものがあるならば、それはこの本によつて形造られたといつてよからう。」(57年 中公版「黙示録論」訳者あとがき)と述べてをり、卒論もロレンス論であることから、先生にとつてロレンスは教祖であり、「アポカリプス論」はバイブルであつたと言つてよい。従つて、先生の考へをより深く識るためには、ロレンスの「アポカリプス論」を解剖する必要がある。
アポカリプス(新約聖書「黙示録」)は弱者の歪んだ自尊と復讐の書といはれる。世には二つのキリスト教があり、一つはイエスに中心を置くもので、互ひに愛せよと無我の同胞愛を説く愛他思想である。

 もう一つは、ヨハネの黙示録に中心を置くもので、強きものを打倒せよ、貧しきものをして栄光あらしめよとの教へであり、弱者の支配欲、権力欲等の我意(エゴイズム)である。

 権力欲は金銭やパンより人間にとつてアダム以来の根源的な欲求であり、決して消滅することはない。しかし、イエスはこのやうなエゴイズムを絶対に認めようとはしなかつた。だが、エゴイズムはいくら否定されても消滅することはないため、否定されれば地下に潜り、しかも、死に絶えることなく、大義名分といふ美名に覆はれ、地上に再び姿を現す。かうして、エゴイズムを大義名分に擦り替へる自己欺瞞が生まれることになる。

 福田先生の評論における自己欺瞞を衝く視点は、かうしたロレンスのアポカリプス論から学んだものと言へる。

 自己欺瞞の具体例と脱却について
(1) 「文学と戦争責任」(21年11月15日)
戦争を否定するイデオロギー(大義名分)と個人生活を破壊していく戦争への不平(エゴイズム)と、ぼくはぼくのうちのこの二つの要素にあくまで同席を許すまいとした(擦り替へ、混同)。

 他に、「一匹と九十九匹と」、「現代の悪魔」、「平和の理念」等で自己欺瞞の具体例を紹介

(2)福田先生は、自己欺瞞からの脱却方法として44年、「諸君」創刊号に「利己心のすすめ」を著し、「利己心に徹したらどうか、さうして初めて人は利己心だけでは生きられないといふ事実を痛切に感じるであらう。」と説いた。

Ⅱ 芸術論、人間の生き方―O・ワイルドとの出会ひ

 「芸術とは何か」の中で初めて論じた「演戯論」は「汝自身たれ」といふワイルドの言説に基づいて展開されてをり、更に、福田先生の最高傑作である「人間・この劇的なるもの」に於いても、「舞台ではハムレットがハムレット役を演じてゐるが、現実の人生では、ローゼンクランツやギルデンスターンがハムレット役を演じさせられてゐる。」とのワイルドの考へを基に、現実の人生は、ままならぬが故に、我々が欲してゐるのは、自己の自由ではなく、自己の宿命である。自分が居るべき所に居るといふ実感―宿命観とはさういふものであるとの福田人間観の集約が語られてゐる。

 「日米両国民に訴へる」に於いても、「結婚の第一の基盤は相互の誤解である。→結婚の最大の障害は理解である。」とのワイルドのエピグラムを引用し、日米関係といふ結婚においても、相手を理解したとは思はず、自己の貧弱な理解力の中に相手を閉じ込めず、相互に相手方を「敵」以上に始末に負へぬ「敵」と見做し、その実情に関する知識、情報の収集に努めなければならないとした。

 このやうに見てくると、福田恆存へのワイルドの影響は、決して小さくはない筈だが、ワイルドとの関連について言及した福田論を未だ寡聞にして知らない。

つづく

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