第17回坦々塾勉強会講演要旨(五)

平成22年3月6日(土) 第17回坦々塾勉強会 報告文

講師 西尾幹二先生
演題 「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」
浅野正美文責

 講義の冒頭、続漢書に描写されている九世紀唐の元会儀礼(新年元旦の宮中儀礼)の部分が西尾先生によって読み上げられた。続けて「日本古代朝政の研究」(井上亘著)から、我が国の同様の祭祀である、平安宮大内裏における元旦儀礼について書かれた部分が朗読された。当時の日本は中国に対抗して礼の競争をしていた。政治は形式化し、律令国家にあっては形式が政治そのものであった。礼は政治であるとともに戦いでもあり、諸国から使者を宴に招待する国家意思の表明であった。この時代の両国政治が、パノラマ化、劇場化していたことを表している。

 この時代の古代日本と東アジアを振り返ると、4世紀に朝鮮出兵しミナマに日本府が置かれる。百済と新羅を助けて高句麗と戦った。5世紀、倭の王が宋に使者を送り、世紀を通じてこれは10回におよぶ完全な朝貢国であった。6世紀589年、隋の統一がなり、7世紀大化の改新が成り、白村江の戦いでは唐・新羅連合軍に敗れ国内に大きな衝撃が走る。唐の攻撃を避けるために、都を近江に移すなど、国際社会との張り合いが必要な時代であった。

 天武天皇は中国皇帝にもっとも近い権力を掌握し、その存在は神そのものであった。壬申の乱を制して即位すると、中央豪族の政治干渉を廃し、大臣も置かず専制君主制を確立した。こうして唐に倣った立派な儀式を行う体制が整ったが、それは東アジアに我が国の国家意思を表明し、大国を標榜するためにも不可欠な行為であった。当時の日本は紛れもなく国際社会の一員であった。にもかかわらず、やがてこうした国家権力を目に見える形で表現する必要性を失っていく。

 894年、遣唐使を廃止、907年唐が崩壊する。これは東アジア社会にとって劇的な出来事であった。これ以降国家間の緊張を失い、大国たる威儀を誇る必要がなくなっていく。

 10世紀前半、我が国は事実上の半鎖国状態となり、王権は小さな世界に変化し、中国文明からも離脱する。これは中国文明からの離脱であり中国を中心とする東アジア世界を不要とする流れであった。これ以降、我が国は深く静かに国風文化を熟成させていくという見方もできるが、それは、この間の我が国が国家の体をなしていなかったということでもある。

 平安から明治維新にいたる10世紀前半から19世紀は、国際社会のない列島文化であった。日本の歴史、文化を考える上でこのことは非常に大きな意味を持っている。元寇、秀吉の朝鮮出兵も、国際社会がないゆえの事件ということもできるのではないか。国家間の緊張と軋轢のない、また必要としない時代であった。

 我が国の歴史において、平安末期から応仁の乱にいたる時間は、歴史のブラックホールであった。天皇家は武家と手をつなぎ、宗教的権威となっていった。

 我が国は大化の改新と明治維新において、外国から文明の原理を輸入した。古代中国と近代西洋はこの国を大きく揺さぶった。

 日本語には千年に近い沈黙の歴史があった。漢字が入ってきてから、それを受容するまで800年の時間を要している。これは我が国が無知蒙昧だったせいではない。新しく入ってくるものに対するためらいと、ひそかな抵抗がそうさせた。15世紀末から16世紀には西洋と触れ合うが、19世紀までためらい続け簡単には近づけなかった。長い沈黙とためらい、それが列島の文化であった。半鎖国状態のままに深呼吸している文明であった。二つの文化原理の輸入によって革命的な変動が起こったが、長い時間をかけて違うものに変えてしまった。

 こうした歴史を経験しながらも、天皇家という歴史の連続性だけはつながっている。なぜ天皇家は生き延びたのか。

 道鏡危機のとき女帝の危うさが刻印された。それ以降幼帝が即位するということが起きた。皇統断絶の危機に対しては、女帝よりも幼帝を立てた。幼帝が即位すると摂政の家柄が必要となり、後の藤原家の台頭を招く。幼帝が大嘗祭をお勤めになる際には、摂政が抱きかかえて殿中を回り、むずかるときには当時のお菓子であった干し柿をしゃぶらせたという記録がある。これはとりも直さず天皇が権力から離れて宗教的権威になっていったことをあらわしている。なぜ、そんなことが可能であったのか。

 武家と天皇家は持ちつ持たれつの関係にあった。この時代の権力構造を見ると天皇、武家、寺社、公家という四つの勢力があり、武家の権力だけでは国は治まらなかった。幼帝が成り立つということは権威と権力が分離していることを表す。国際社会の中で、東アジアの嵐の中で張り合っていた儀礼は国の威信をかけた戦争であった。唐が崩壊した10世紀以降、その必要がなくなった。幼帝の存在、権・権分離という二重構造が許されたのは、鎖国に関係があるのではないだろうか。

 西洋も大陸も戦乱につぐ戦乱の歴史であった。それは強力な国王が国家を統一し、強力な国王と国王が戦うものである。戦争に敗北するということは王権の消滅であるとともに、民族の消滅でもあった。仮に我が国がこうした国際社会の争いに巻き込まれていれば、幼帝を戴いて戦うことはできず、武家から王を出さざるを得なかっただろう。ところが我が国は鎖国状態にあったために、外国との戦争には巻き込まれなかった。国内では激しい内戦が続いたが、天皇家はそうした争いの外にあって、信仰と権威によって武家に対して官位を授けていた。武家はこの官位を後ろ盾に戦を戦った。天皇家に対する信仰、鎖国という必然があったために天皇家は残ったのであろう。

 また、足利義満による皇統簒奪の企みもあったが、彼が若くして病死するという偶然にも恵まれた。このように天皇家が残った所以には偶然と必然があったにせよ、この間わが国が半鎖国状態にあったということが何よりも幸いした。国際社会の軋轢に巻き込まれていれば、強い国王の下で外国の軍隊と戦わなければならなかったであろう。常に強い天皇が即位しているとは限らず、その場合武家の棟梁が王位について戦争をした可能性もある。 
 
 天壌無窮の神勅、天照大神から天孫降臨の御子孫としての天皇の御位を繋ぎたもうた、という日本人の神話への信仰へのためらいは、すでに大正、昭和の知識人も持っていた。戦後の歴史思想と同じ思想が、すでに戦前に出ていた。明治国家は支配の正統の根拠を、古代日本神話に置いた硬直史観で押し通した。戦前の日本は西洋思想との葛藤にあった。合理主義、開明主義、科学主義に基づく神話解釈はそうした明治国家の崩壊を意味する。神話に根拠をおいた歴史観に基づいて「国体の本義」は書かれたが、昭和になると国民が忠誠を尽くすに値する道徳観、倫理観を高める意識を強めない限り戦争は戦えないという考えの下、国体に関する激しい論争が沸き起こった。

 今日の講義は序論である。次回以降この国体論の出現を巡る論及を深めていきたい。

文責:浅野正美

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です