中国人スパイ事件と八木秀次氏(二)

 日本にいま求められているのは「戦う保守」の精神である。そして、あちこちに雨後の筍のように増えているが、本当は日本にいまいない方がいいのは「自閉的右翼」である。左翼が現実の力を失ってしまったために、保守がいたるところに蔓(はびこ)り、贋物の保守のことを私はそう呼ぶが、彼ら「自閉的右翼」はアメリカの対応いかんであっという間に中国迎合に向かうだろう。

 外交官だけでなく、日本に来ている研究者も留学生もみんな情報戦を担っているといわれるほどの中国人を相手にして、実に不用意に対応した八木氏のケースは好見本である。つくる会理事会に相談もなく訪中し、プライヴェートな旅行だから文句あるかと嘯(うそぶ)き、外国に観光旅行に行っていけないという決まりはつくる会にはない、と、米国旅行と同じように見るまぜっ返しをひところしきりに言っていた。無知もきわまれりである。プライヴェート観光旅行でなぜ中国社会科学院が原稿まで準備して八木氏一行を迎えたのか。中国側とは最初から連繋があったに相違ないのである。八木氏たちは国家的工作に「取りこまれた」と見るべきである。会内部での充分な議論もつめず、若い事務局員に会代表の名において、しかも南京問題など微妙なテーマの討議に参加させるほどの無責任ぶりである。

 討議をしてはいけないというのではない。それはそれなりの用意が必要である。「戦う保守」の名に値する論客を揃えて立ち向かうべきである。

 『環球時報』(3月9日)は、「右翼雑誌『正論』は、中国側の発言と討論の中味を併記しているため、ある意味では中国側の主張宣伝の作用を及ぼした」(宮崎正弘氏訳)と述べている。これは控え目な表現で、ネットの掲示板などでははっきり「投降」と書いている例もあるそうである。『正論』には公表されていないさまざまな内容が社会科学院のホームページには掲載されている。

 「新しい歴史教科書をつくる会」を創設した本来の精神は、「一文明圏としての日本列島」を堂々と胸を張って言いつづけることに外ならない。自己を普遍と見なし、決して特殊と見ないことである。中途半端な受け身の姿勢、謙譲、相対主義的立場をとらないことである。中国や西欧を相手にしたときにはとくにそうである。相手の尺度をいったん受け入れたら無限後退あるのみである。理解と寛容を美徳とする心やさしい日本人には難しいかもしれない。しかし中国や西欧は日本に対し、理解と寛容ではなく、まずは主張と決めつけから始めることを知っておくべきである。

 それを弁(わきま)えていれば、やすやすと謀略にさらされたり、工作に取りこまれたりすることはないであろう。

 つくる会がなぜ混乱したかの究極の理由を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれない。なにか外からの強い力が働いた結果という印象を多くの人が抱いていると思う。歴史教科書はとまれ靖国に次ぐ重要な政治的タームである。八木元会長の油断はスキを与え、中国が久しく狙っていたつくる会の切り崩しをやすやすと成功させたということになるのかもしれない。

拙著『国家と謝罪』徳間書店刊93-98ページより)

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「中国人スパイ事件と八木秀次氏(二)」への2件のフィードバック

  1. スパイや情報工作ということについて、私は事実的な指摘をする以前に、原則原理的な思想をしっかりふまえておかなければならないと思います。物事はなんでもそうですが、ことこの問題に関しては、それをしないと、わけのわからないことになってしまう、と考えるからです。

     かつて吉本隆明氏が、とある左翼過激党派と言い争いをしたことがあったんですが、そのとき、その党派が「ある敵対党派が、実はスパイを通じて権力とつながっている。だから我々の方が正しい」という論理を押し出してきた、それに対して吉本氏が「そういう論理は絶対にだめだ、そういう論理を言うこと自体が、あなた方の党派が思想的に壊滅していることを意味している」として頑強に反論した、そういう言い争いでした。

     吉本氏がそのとき言いたかったことを要約すると、「革命派でも保守派でも、政治組織党派が実は敵対勢力と隠れてつながっている、ということは、党派として当然の防御段階としてあるべきであって、それが第一の批判言論として出てくること自体が、その組織の脆弱さ、思想的壊滅ということを意味している」ということです。

     吉本氏の言いたいことは私は非常によくわかる気がする。たとえば、ロシア革命のボリシェヴィキの最高幹部17人のうち4人が実は皇帝派のスパイだったことがあとで発覚しています。ではなぜロシア革命が成功したのか、といえば、ボリシェヴィキは、「スパイがいる(いるかもしれない)」という状況を、当然の政治的状況としてやり過ごし、あるいは利用したからです。ボリシェヴィキに比べて戦前の日本共産党が駄目なのは、途中から「スパイがいる(いるかもしれない)」という状況を自家中毒に悪化させ、スパイ査問その他で組織壊滅に至ってしまったことだと思います。吉本氏と言い争いをしたその左翼過激党派の行く末は、戦前の日本共産党と同じことで、実際、そうなってしまったんですね。

     「日本人がスパイや情報工作に弱い」ということはもちろん、スパイに対しての法的整備が弱いことをも意味します。しかしもっと重要なことは、スパイや情報工作という名前を前にすると、たちまち大真面目に受け取りすぎる、ということではないか、と感じます。凄惨な政治工作の歴史をもつ欧米では、スパイ疑惑で政治組織が自己懐疑に陥り精神的に自滅してしまう、ということはざらでした。だからスパイ疑惑に対しても、裏の裏をかいて泰然自若としたり、またスパイを二重スパイにするなんていうこともおこなってきました。「日本人がスパイや情報工作に弱い」ということの真意は、そういうことだったのだろうと思います。これが事実的指摘の前に把握しなければならない原理原則でしょう。そうでないと、ああだこうだの疑惑を言うだけになって、結局、人間は疑いというものに耐えられませんから、戦前の日本共産党みたいなことになってしまうのではないでしょうか。

     当時のつくる会問題内部の中国工作員の潜入問題は、おおいに追及指弾されるべき問題だと思います。また、西尾先生のご指摘のように、八木氏たちの訪中に、軽薄な準備面があったであろうことにも同感します。ただ、そういう事実指摘が、第一義的に出てくるようなロジックには私は必ずしも賛成しません。それは情報工作をめぐる歴史の流れに反すると考えるからです。あくまで付随的なロジックとして、中国の対日情報工作の事実問題は指摘糾弾されるべきでしょう。我が国だって情報工作員やスパイをつくっていかなければならない国であるのは自明であり、そのことそのものが非道徳なことではない、それをまず認識しなければ、情報工作の問題を騒ぐことは、逆に国家意識の劣化を招く恐れさえある、と私は思います。

  2. 今から6年前の論評、再び拝読しました。
    あの頃はこのブログが「炎上」したようになって、次から次へと書かれるコメントを読むだけでも大変でした。
    「なにか外からの力」と指摘されたのが、今回李春光にスポットライトが当たったことで、驚きよりは、「やっぱり…」と多くの人にハタと膝を打たせ、改めてそのことが「証明された」ようで、感慨深い気がします。
    このスパイ事件のニュースそのものはどんな経緯で出現したのかは分かりませんが、まともな人ならそれほど驚く内容ではなかったと思います。
    「公私混同」はどのような方面でも中国の「お家芸」であり、外交官がアパート経営して儲けていた、などは一般の中国人が手を出す「違法」と大して変わりません。問題は我々が「違法だ」「常識ではやってはいけない」と普通に感じることが彼らには通用しないことです。
    昔から「罪の意識」のある罪人は許せるが、「罪の意識のない」罪人は許されない、始末に負えない、というのと同じです。
    最近は教科書の問題がまるで火が消えたように見えますが、6年前より確実に増えているであろう在日中国人に対して、日本人も確実に見方が変わってきたと思います。直に接する機会が増えたことにより、また他国における中国人の情報も伝えられ、実態が分かってきたからでしょう。
    何も尖閣問題だけではなく、あれ程パンダのことばかり報道したり、NHKが何かというと「大国中国」の持ち上げ番組を作り、ムキになっているのが面白い位に見え見えなのが昨今です。
    産経の報道にもありましたが、「日中友好」という言葉ほど「黴臭い」言葉はありません。唱えれば唱えるほど逆効果なのに。
    さてあの頃、八木氏は一生懸命、「弁明」を試みていましたが、「自覚」があったのか、なかったのか、我々からはすっきりとは見えませんでした。
    しかし、「善意」であったとすれば、それこそ「救いようがない」、とんでもない「自信過剰」と言われても仕方がないでしょう。
    八木氏は相手とぶつかったら、すぐに席を立って帰国すべきでした(そもそも出かけていくのが間違いですが)。
    そうしたのは現役時代の田母神俊雄さんでした。だから(DVDを見ると)中国の軍人が来日した時、真っ先に「田母神幕僚長は元気か」と聞いたのです。
    今回の論評を改めて読むと、「つくる会」や八木氏の一件は、今の日本の教育や学問の在り方の問題をありありと象徴しているように思いました。
    小学校から恐らく大学まで、実践とはかけ離れた所で、何か延々と終わらない議論を子供に強制し、覚えさせ、神経をすりへらさせている状況。
    「ゆとり」と言いながら、一方では「もっとやれ、もっともっと覚えろ…」と言い続け、肝心の本質には決して至らない無意味な「学問」。
    しかし子供は学校(或いはセカンドスクール)以外で、本当のことを学びます。
    ネットの様々なサイトを見るにつけ、またほんの些細な噂からでも「国民の歴史」の余韻は、確実に若者の耳に共鳴していると私は確信しています。

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