日本人の「上下」について――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 早く会社組織から離れてしまった私は、家計の財政逼迫に苦しんだことはあるものの、日常、上下と横につながる人間葛藤に骨身をけずるという経験はほとんどなくなった。それでも、かつての同僚や後輩に会ったりすると、何とはなしに組織で平和に過ごすことのむずかしさ、具体的に言えば上司と反りが合わないという典型的な苦労話の聞き役になる。

 「何、そんなに気にすることはない。いずれ人事異動もあるじゃないか。台風が過ぎるまで待っていたら」と言ってやっても有効な助言にはならない。ゲーテを持ち出して「人を見るな、事柄を見よ」という話をしても無駄である。こんな格言めいたフレーズも昔、自分が七転八倒していたときに駅のホームで呟いていたもので、現実には職場の葛藤から解放されるほどの霊験はなかった。

 どういう形にしろ、会社(組織)を勤め上げられるような人は、忍耐があって偉いという気持ちが自分にはある。単純に尊敬してしまう。だから、有効打を出してあげられないが、時々、易にも聞いたりして話につきあう。

 どれほど悪い上司といっても悉くがそうであることはない、とある時、私の職場の大先輩は言った。「人間としてあやまちはあっても、人間である限り温情をもってする忠言にはしたがうことが多いものである。上司を裁こうとする気持ちは、些事を大事として我意を通そうとするものだ」。

 「また上司の心は全的には把握できないものである」とも彼は言った。その意味で、君、君たらずとも、臣は臣たれ、という言葉が生きてくる。そんな話であった。先輩が言うほど大時代的な問題ではなく、われわれは自分にとって都合のいいものを抱き、愛し、歓迎する。それが自分の邪魔になるときは憎しみ、怒り、足ずりをする。「それだけのことです」と親切な助言に対して、何だか捨て鉢な返事をしたことを覚えている。

 だが、振り返ってみると、先輩の言うことは適っていると思う。助言の中でも、「上司の悪いのは下の者の悪が反映していることが極めて多いのだ」という言葉が妙にこころに響いてくる。

 下の者の悪が最初で、その悪感情が無限のコンプレックス(複合)を描いて、上司に伝わる。届いた悪感情は上司の煩悶を呼ぶが、大概の場合、上司は部下よりも大きな義務を持っている。愛情の行使で返しきることもあるが、上司は会社を守ろうという「公心」に立てばこそ号令もかけなければならない。

 そして、これも大概の場合、下の者は「自分は正しい」という観念にとりつかれているものだ。正しさに二つはない、自分が正しいなら相手の上司がまちがっているに決まっているから、上司が折れたとしたら、さらに自分が正しかった、と部下の溜飲は下ることだろう。

 会社に限らない、組織で悪人がある如く見えるのは、多くの場合に下の者が反逆心を有する反応として起こることが少なくない。伝統的な年功序列を少しずつ壊していった組織では、単純な話、上司がバカに見えて仕方がない、といった風潮が起きただろうと思う。稼げない人間、稼ぐ頭やテクニックのない人間は要らない。合理的大小を最高の価値としたならば、そうなる。

 合理的大小だけを重んずる場合、ことごとに上司が悪と映りやすい。その結果、悪ならぬ上司も悪と見えるか、もしくは悪となるのである。

 善しも悪しくも上司の命ずるところにしたがう。何の変哲もないことだが、これも歴史が培って来た内面の約束ごとである。これを打ち立てておくことである。上司といえども悪なる時はこれを退けることを可とする、と組織が宣言したなら組織は自壊作用を起こすだろう。

性善だとか性悪だとか、それも閑葛藤にすぎない。人間に、本来悪人はいないことは自明である。それにもかかわらず、どこにも悪人があるとしてかかる。そこから煉獄がはじまる。

つづく

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