初冬到来(二)

 私が福岡に出かけたその日に、文藝春秋出版局より『江戸のダイナミズム』の再校用の校正ゲラがどさっと届いた。月末までに全文を少なくとも二度は読みあげ、残った疑問点をことごとく解決しなければならない。

 しかしその前に渡すべき「参考文献一覧」の原稿がまだ出来上がっていなかった。人には知られることの少ない秘かな困難事なのである。参考文献の著者名・題名・出版社名は大体今までにノート一冊に書き並べてあるが、それを写すだけでよいと安易に考えていたら、とんでもないのである。多岐にわたるので頭が混乱して収拾がつかない。分類を工夫して、目次風の方針を立ててみたら次のようになった。

 Ⅰ.宗教、 Ⅱ.始源、 Ⅲ.学問、 Ⅳ.社会 Ⅴ.文字、 Ⅵ.全集の6つに大別したあとで、それぞれをさらに細かく分別した。

Ⅰ.宗教・・・・・神道、仏教、五経(六経)、四書、儒教、日本の儒教、キリスト教、テキストとしての聖書、ニヒリズム。

Ⅱ.始源・・・・・神話一般、日本の神話、中国の神話、ソクラテス以前、ホメロス、古事記、万葉集、ケルト神話。

Ⅲ.学問・・・・・アレクサンドリア、エラスムスとヴィーコ、西洋古典文献学、解釈学、清朝考証学、国学、国語学、仮名遣い、新井白石、荻生徂徠、富永仲基、契沖、本居宣長。

Ⅳ.社会・・・・・江戸一般、江戸の政治経済技術、中国史一般、中国の法と社会、東西交渉史、ヨーロッパ思想、歴史一般。

Ⅴ.文字・・・・・文字の歴史、文字と音、木簡とパピルス。

Ⅵ.全集・・・・・大系、個人全集。

 一項目で30冊に達するものもあれば、3冊だけというのもあるから、見掛けの大袈裟に比べ、そんなに膨大量になるわけではないが、分類してみて私自身やっと落着いた。担当編集者は読者の便宜に適うだろう、と言ってくれた。

 ⅠとⅡを区別したのがこの本の特徴である。Ⅱに到達するのを妨害するものが数知れずあり、Ⅰもひょっとするとその中に入るかもしれない。われわれはⅢの手段をもって何とかしてⅡに到達しようとする。宗教は阻害要因になり得る。

 こんな図式的説明は予めしない方がいいかもしれない。著者の意図どおりに結果が出ているとは限らないからである。

 福岡では11月12日の日曜日の午後、友人に案内され久山町の温泉で3時間ほど湯と酒をたのしんだ。田の中から突然湧き出した温泉だそうである。

 入口で九百円払ってタオルと浴衣の入った袋を渡され、手荷物をロッカーに預けて一風呂浴びる。近隣からひょいと気楽に車で立ち寄る人のために大型の湯場が用意されていた。

 湯をあがってビールを飲んで着換えて車で博多空港にかけつけて帰京した。件の「参考文献一覧」に漏れがないか機中でもくりかえし点検し、残務作業をつづけた。すべてを完了し、宅急便で文藝春秋に送ったのがその翌日の13日(月)夜だった。やっと山を越えたという思いだったが、私の毎日はこのように次から次へとやることに追われる。

 16年使用した自宅のファクスの器械がこわれて、同じく老廃化したコピー器と一緒に廃棄し、ゼロックスのフルカラーデジタル複合機C2100型のファクス=コピーの一体器械に取り替える契約をすでに10日前に結んでいて、搬入の約束日は15日(水)午後2時だった。

 器械の取り替え設置は業者がやってくれるので問題はないが、本と紙の山を片づけ、通路から室内までのスペースを作るのは私ひとりの仕事である。日頃書類の山に埋もれて暮らしているので、これが容易ではない。

 いま私は約束どおり日記風に出来事を綴っているのである。14日午後4時スイスに住む若い友人平井康弘君が、夜久し振りに一緒に一杯やろうや、という約束で現われた。彼は見るに見兼ねて階段にまでぎっしり積まれた雑誌と本の山を移動してくれた。

 平井君はスイスの世界有数の農薬会社の社員で、バーゼル本社から韓国出張を命ぜられて短期間日本に滞在する時間の空隙を見ての拙宅訪問である。

 いつものように雑談しながら、私のパソコン指導を2時間たっぷりしてくれた。年賀状のシーズンが近づいている。まず何よりもその準備がなされた。今年は宛名だけでなく、裏面の挨拶文もパソコンでやることが可能になりそうだ。

 15日ゼロックスの業者が出入りしている最中に東京新聞から「教育基本法が衆議院を通過することになりますがどう考えますか」という質問の電話がきた。私から「大歓迎だ」のことばを記者は多分予想していたのではないかと思う。

 私はいつも考えている持論を述べた。

 「昭和22年制定の現行教育基本法には悪いことは何も書かれていませんよね。たゞ〈個人の尊厳〉〈個性の尊重〉〈自主的精神〉〈自発的精神を養う〉などの美辞麗句に満ちているわけですが、これらの言葉の影、裏側が書かれる必要があったのです。

 悪いことが何も書かれていないことが悪いのです。

 〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。

 その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。それなのに〈愛国心〉がどうとかばかり言っている。

 〈愛国心〉も悪いことではありません。善いことです。善いことばかり言っているのではダメだと私は言っているのです。

 善いことばかり言って人をかり立てるのは政治です。〈個性〉や〈自主性〉ばかりを言い立てるのも政治であって、教育ではない。その逆も同様です。

 教育基本法の改正は教育の基本に立ち還ってもらいたいと思います。」

 新聞記者は私の反応が予想外だったらしく、あるいは理解を超えていたのか、要するに衆議院可決には賛成なのか反対なのか、と問うてきた。

「どちらでもありません。選挙法改正案とか郵政法案とかの是非ではなくて、教育の基本を正す法律案なら、教育の原理に立ち還ってもらいたいと言っているのです。」

 翌日の東京新聞に私のコメントは掲載されたのか否かは、確かめていない。記者はどう書いてよいか分らず多分採用しなかったのではないかと思う。

 11月中旬の私の生活をいま日記風に綴っている。二つの月刊誌の〆切りが残すところあっという間に2日間になり、シマッタと思ったが、時間的に押されて16日に『WiLL』に、17日に『諸君!』に約各10枚の、短文と思って不用意にも甘く見て、〆切りが目前に迫り蒼くなった。いつもの悪い癖である。

 『WiLL』は「核論議私はこう考える」で中川昭一自民党政調会長の核武装発言について私見を述べる。『諸君!』は特集「もしアメリカにあゝ言われたらこう言い返せ」の中の「オレンジ計画は単なるプランでしかなかった。太平洋戦争の真因は日本の膨張政策にあり、と言われたらこう言い返せ」である。

 『WiLL』は11月25日(土)に、『諸君!』は12月1日(金)に店頭に出るのでここで詳しくは書けないが、それぞれ小文ながら意を尽くしたつもりである。

 私は日本人がアメリカの行動や決断を「運命」のごとくに受け入れていることに疑問をもっている。核実験にまでついに至った北朝鮮の今日の事態はアメリカの失政にある。北を「悪の枢軸」呼ばわりして寝た子を起こした以上、アメリカは中国に頼るのではなく、しっかり自己責任を果すべきである。

 NPT体制は核保有の米露英仏中の5カ国の責任を前提としている。さもなければ不公平である。日本に核武装論議が起こるのは当然である。

 「中川昭一氏は核武装せよ、と言っているのでは決してない。核攻撃を受ける可能性を今目前に見て、自ら核武装の議論一つできないことなかれの怠惰な精神は、生命の法則に反すると言っているのである」と私は『WiLL』に書いた。

 20日ベトナムのAPECの会議後に安倍首相は日本政府は核保有論議をしないと記者団に語り、中川発言の鉾を収めようとした。アメリカの指示(あるいは暗示)に首相はここでも過剰に反応しているようにみえる。「日本政府は核武装する気はないが、与党内での自由な論議を禁じるつもりもない」くらいのことを言ってもいい局面であろう。

 中川氏は6カ国協議を前にこれ以上の発言を封じられていると私は見た。安倍外交は「主張する外交」を自称するが、決してそうではない。アメリカに完全に仕切られている。

 北朝鮮のではなく、日本の核保有の可能性を永久に封じ込めるのがそもそも6カ国協議の、他の5カ国の最大のテーマ、最終の目標であることは私がかねて指摘してきたことだが、いよいよはっきりしてきた。それが日本の同盟国の意志であることを他の4国はさんざんに利用するであろう。

つづく

読売新聞 11月24日付朝刊4面に以下の記事が掲載されています。

保守主義インタビュー
 「日本の良さ 競争主義によって崩壊する」 西尾幹二

 日本では「保守」といえば「反共」と思われがちだが、本来は違う。保守とは簡単に言えば「昨日までの暮らしを変えたくない」という「暮らしへの守り」のようなものだ。「保守的態度」というものはあるが、「保守主義」というものはない。「保守思想」というものがあっては逆にいけない。思想になった途端、保守は「反動」になる。

 保守的な暮らしは大事だ。日本には平等という観念はなかったが、公平という観念があった。小学校は公平でないといけないとか、医療体制が公平だとか、郵便局、鉄道が全国津々浦々に行き渡るというのも日本が持っている良さだ。

 公平の観念とマーケット至上主義は、完全に逆の位置にある。日本が地域の文化を大事にするのは欧州と似ている。米国のような極端な平等主義、観念的な競争主義がないのも欧州と似ていた。米国は保守ではない。

 ところが、米国は1980年代以降、民主主義の名の下で、極端な自由主義、平等主義、競争主義という自分の尺度をどんどん日本に持ち込んできた。防衛だけでなく経済まで抑え込みにかかっており、日本の良さがどんどん壊れている。終身雇用制、会社への忠誠心など日本が持っていたものが根こそぎつぶされている。

 日本の保守はこの十数年で崩れ、今後はもっと崩れてしまう恐れがある。私たちの文化、暮らし、歴史を守ることと「アメリカニズム」は両立しないのだが、安倍首相は分かっていないのではないか。

 首相は身内で固めた「党内党」のような内閣を作った。自分がやりやすいチーム編成で「真正保守」の政策を実行するのかと思っていたら逆で、おやおやと思っている。「村山談話」「河野談話」を容認し、祖父の岸信介・元首相の戦争責任を認める発言まであった。「憲法改正に5年かける」と言っているのも、「改正はやらない」と言っているのと同じだ。

 村山談話などをめぐる首相の発言には「本心は別だ」との見方もあるが、大きな間違いだ。政治家が一度発言したことは元に戻らない。政治家は自分の発言に縛られる。今やいわゆる平和主義者の方が、首相を買っているのではないか。

「初冬到来(二)」への14件のフィードバック

  1.  先生の教育基本法改正案の衆議院通過についてのインタビューの件、核武装論議についての文章を読んで、胸がすく思いです。早速『WILL』を買いに行こうと思います。(ついでに讀賣新聞も。)

  2. >〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。

    >その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。

    さすが西尾先生。ここが肝心なのであって、いかに条文で美辞麗句を弄しても本質からずれては意味がない。何故、各界の専門家が集まって議論し、枝葉末節で争うだけでなく、本質のところでコンセンサスが得られないのか。

    それは、教育に限らず、人間そのものの捉え方が基本的に食い違っているからだと思う。子供たちは、本能的に大人の価値観の大分裂を見抜いているから、学校にも社会にも全幅の信頼を置かなくなっているのではないのか。

    国旗だろうが国歌だろうが、愛国心だろうが国を愛する態度だろうが、唾棄すべき価値観だと思っている教師に、国のマニュアルどうり教えられてもその欺瞞は子供に見抜かれるだろうということも問題だ。

    しかし、そうした法律の文言以前に、この世に生を受けた人間がいかにして成長していく存在なのかを正しく認識していなければ、正しい対処は出来ないだろう。もちろんその見えない毒は、すでに国民全体を覆っている。

  3. 「読売新聞の4ページに・・・」と読売を取っている友人に電話したら、ページを開き「そうそう、西尾幹二のでしょ。あなたのことを思ったわ」と言って友人が記事を読んでくれた。1980年以降、自由主義・平等主義・競争主義が、経済までがどんどん壊れてきた。終身雇用制も・・・。書き写したつもりが、もう大分忘れている。友人はコピーしておいてあげると。メモのうち、1980年以降、保守こわれ、経済までどんどんこわれて、の文字が気に掛かった。

    1980年代の日本の総理大臣は?と調べたら中曽根康弘氏。
    あぁ、この人も米国大統領とちゃんちゃんこを着て写真にうつっていたなぁ。
    当時中国の総書記胡燿邦を兄弟分とも思い、彼を庇って靖国参拝を止めたと語った日本の総理大臣だったなぁ。

    小泉総理大臣も米国大統領と、別荘に招かれた写真やプレスリーの真似をした写真があったなぁ。

    国は違っても男と男の友情は存在する。って? 勿論。

    日本人は男でも女でも外国人の愛情や友情の表現に免疫が無く、どうもポーと逆上せてしまうのではないか? 俺だけが、私だけがもてたのよ。

    政治家の仲良しの写真の裏には必ず何かある。
    大分前、ドイツのコール首相とシラク大統領が仲良くソーセージを食べている映像をテレビで見た。これも裏がある。でもこの二人は共にしたたかだから、損をすることには注意深い男達。

    日本はどうしても米国のいう事を聞かなければならない(知らぬ間に聞いてしまっている自分があるのか)事情があるのか。何故か?

    日本人には「人生の栄光」は永遠に来ないのか?

    自国を守ることを考えたくない、守らなくなった日本人には「人生の栄光」を子供に語れないだろうし、「栄光」なんて言葉はもう忘れたであろう。

    核論議をしないなんて、それこそ他国は泣いて喜ぶ。というより、腹の中は軽蔑しているだろう。もっともっといい子ぶりなさい。この偽善者よと。
    この世の中に存在する事柄で、議論できないことは何も無いはず。
    何かを恐れている偽善者よ。と世界のトップが日本のトップをあざ笑っているのか?
    小さい国のトップはなおのこと、腹の中では軽蔑しているだろう。
    お金の使い方も知らない、去勢された成金大国は困ったものだと、ため息をつきながらも次の作戦を立て、じわじわとくじりに来るだろう。

  4.  昨日(24日)は、先生の教育基本法改正についてのアンケートについて、「胸のすく思い」と書きましたが、実は、「眼からウロコ」という感じでもありました。
     基本法を改正したほうが現行よりはマシだろう、と考える人が多いようですが、私は、このような中途半端な改正案を強引に通過させたことは、安倍さんのキズになるだろうと考えていました。愛国心についても、子供達に「如何にそれをそれを教えるか」、という以前に、それを議論している大人達、就中、議員達に愛国心とは何たるかの理解もはっきりさせず、文言のみをこねくり回した妥協の産物を採択したのでは、教育の混乱を長引かせるだけだろうと。
     しかし、さらに突き詰めて考えるならば、「教育とはなんぞや、」という根本に遡らなければ、今日の教育の荒廃の克服はあり得ず、国と国民、社会の中に欠けてしまった「教育力(教育的機能)」の回復はあり得ないだろう。国、国民、社会のそれぞれの責任を明らかにすることなくして、教育に対する「不当な支配」の問題も解決は難しい。その意味で、安倍内閣の教育の取り組みは安易と言わざるを得ない。
     全く、田舎のダンディさんのいうとおりだと思います。

  5.  松井さんの投稿を見落としていました。
     松井さんは、【〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。】という部分が理解できないと言われていますが、続きの【その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。】の部分を読めば、松井さんの言われていることと矛盾しないと思うのですが。
     上記引用は、全く田舎のダンディさんの引用している部分です。

  6. >その女 ソルベさんへ
    読売新聞の内容をさきほどアップしておきました。
    一日たったので、よいかなぁと思いまして、ご参考までに。

  7. 長谷川さん

    インタビュー記事を掲載して下さり、ありがとうございました。

  8. やはりわからないです。埼玉県人さんの丁寧な返事は読みました。

    私の疑問は「基礎」がない教育はだめだという点では何も反対をしていません。それは前回でも書きました。しかしその基礎は誰が教えるのですか。

    基礎がなければ疑問は生じません。

    疑問というものは何から生じるのでしょう。ある事象Aを仮に事実か標準として認めましょう。すると事象Aに対する疑問は事象Bという別のこととの比較で生じるはずです。または帰納や演繹という言葉を使えば、過去に4本足の羊の研究者が5本目の足を持って羊を見つけて大発見と騒ぎます。これも羊は4本足であるという前提で帰納的に見ているから5本足の羊がいたから大発見と思うわけです。もう一つの疑問が生じる可能性は演繹的にあるべき姿を想定してそこと現実の比較で疑問を生じる場合があるでしょう。
    どちらにしろ何か蓄積されたものがないと疑問は生じません。最近の自然科学論でもそうですね。事実があるからそれを根拠にして理論を組み立てるという考え方が事実そのものが確かなものなのかという疑問が認識論や脳の研究の発展に伴いいわれるようになり、むしろ科学とは同一の基礎を持った仮説の体系であるといわれています。この場合でも共通の基礎なしで自然科学は成立しません。

    西尾先生は親や教師が教えるものではないと明確にお書きです。すると生き様や基礎は誰が教えるのでしょうと書いたのです。どこに私の誤解があるでしょう。意味を誤解している可能性はあります。西尾先生の意味は親や教師ができることではなく立法の責任者である議員が法律に書かなければならないことなのだという意味でしょうか。そういう意味には受けとられないが。逆に法にすることがおかしいすると愛国心を教育基本法に書くのは意味のないことなんでしょうか。

    以上に書いた内容は西尾先生の論旨への疑問を自分なりに理解したものです。この理解が間違えている可能性は大いにあります。

    もっとも基礎そのものも何が基礎か混乱しています。
    特に近代以降に導入された新規概念や造語で語られる日本語(山本七平的にいえば「空体語」)を使えばその被害は計り知れません。典型的なのが小泉前首相の修辞法と「です。ます」調と「である」調を混在して使った語り口であり、典型的なのが非公式に記者を集合させ質問者は若い女性か若い男性にして語るまともな質問ができない記者をやおもてに立たせて行った突発的に見えるが実際は準備周到な毎日数回行った記者会見です。日本の大学教育は国民を賢くするのでなく空体語かたりにしただけです。

    この結果は自由民主党は郵政民営化党になり、国民もそれを認めました。政策に反対して離党処分も受けず幹事長になった人間が離党処分者を批判する矛盾を誰も感じない党になりました。平沼氏が一人抵抗していますが郵政民営化党に入党したいのなら入る必要はないでしょう。これらも日本での基礎のない技のなせるものなのかもしれません。

  9. 大変ご無沙汰しております。

    >〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。

    私は個人主義というものは、本能に近いものではないかと感じます。
    つまり、教えられて身に備えるものではなく、それぞれが得る経験とともに研ぎすまれていくもの・・・とでも表現すれば宜しいでしょうか。
    そしてこの領域には他人が入り込めるような空間は存在しない。いや、本人でさえそれがいったいどんな形で存在しているのか分からなくなるものとさえ言えるのかもしれません。

    それに比べ、保守の概念というものは、一種の知恵であり、それは理性によって支えられ、経験によって影響を受けやすい要素が充分あるんだと思います。

    そのことから個人と保守とは対比するようなものではなく、両方が何らかの関連性を保ちながら、独立して存在しているのではないかと思うのです。

    たしかニーチェも保守の概念を知恵という角度から説いていたかと記憶します。
    よって保守の概念はいくらでも鍛えようがあり、成長するものなんだろうと思います。

    たしか以前西尾先生は『歴史を裁く愚かさ―新しい歴史教科書のために 』にて、日本の教育現場の今後を憂い、このままでは保守の概念は捻じ曲げられ、個人主義というものがまちがった概念によって子供たちに定着してしまうことに警鐘をならしました。つくる会を立ち上げた骨子となる問題の提唱であったわけです。
    そして個人主義は教育によってどうにかなるものだという政府の見誤った判断がこれ以上続けられてしまうと、日本の将来は本当に取り返しのつかない現実に嵌ってしまうと注意を促しました。

    「美しい日本」とか「愛国心」とか一見聞こえの良いフレーズに目をとられていると、本来の正しい個人主義の概念がむし取られ、本来鍛え上げなければ育たない保守の精神が教育の現場から姿を消してしまうだろうと思います。
    そのことは先ほど紹介した著書のなかにもしっかりと説かれています。

    また、卓上の教育にしか感心を寄せない教育関係者に対し、ニーチェの言葉を引用して批判しています。
    本が今手元にございませんので、記憶を辿りながらその言葉を紹介することをお許し下さい。

    『人間は常に歩きながらでないと思考は働かない。机に向かってでも思考は働くと勘違いしているニヒリストたちよ、人は経験によって成長することに目覚めよ・・・』

    こんなような文章だったと思います。

    つまりこの言葉は西尾先生に教育現場の問題解決に立ち向かう勇気を与えた言葉でもあるわけです。
    何もしないで得意な分野だけをこなしていれば済むと思っていたら大間違いだということです。
    西尾先生を突き動かしたこの言葉こそ、真の保守活動を支える言葉と言えるでしょう。

    <身辺情報>
    現在個人的な都合により、ネット活動を休止しようと思っています。早くても来春までは書き込みが出来ないと思います。
    先生の今後益々のご活躍を祈念してご報告とさせていただきます。

  10. お久しぶりです松井課長さん

    課長さんの、誰にも阿らぬ真っ直ぐな気持ちの表れたコメントを拝見し、私も再コメントの必要を感じた。

    私はもとより西尾思想や西尾哲学をまともに理解できるとは思っていない。また、ブログ上の記述でも疑問に思うことが無いわけでもない。ただ、凡人では到底及ばぬ西尾先生の非凡な視点や表現に触発される事が多いのは事実である。

    教育基本法に関する今回の先生の記述を、正しく理解したかも分からない。ただ、私が日頃から考えている事と一致していると感じたためにコメントしたが、奇しくも、課長さんが疑問を感じた部分と重なった。それが下記の部分だ。

    > 〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。
    >その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。・・・。

    私は、人間の個性や特性や能力は、生まれながらに相当部分内在されていると考えている。その中には「自主性」や「自発性」もある程度は含まれているかもしれない。しかし、親や教師など周りの希望でその個性とかけ離れた事を望むのも問題だが、個性だから野放図にしていても自然に望ましい形で発現すると考える事も問題だ、と思っている。

    引用部分の趣旨は、少なくとも、幼少時代は、親や学校や社会全体が、勉強とともに自律性や社会性をある程度厳しく教え続けなければ、子供は内在する個性にだけ流され、すべてとは言わないが、相当数、手に負えない子供に育つだろう。逆に、自律性や社会性を陶冶された人間の個性は、自発性や自主性を伴い、周りの愛情とも相まって大きく羽ばたくだろう・・・と言う意味だと理解した。

    つまり、幼少教育の優先順位(あるいは教える順序)を述べているのであって、家庭や学校がその役割を誰かに委ねるべきだと言っているのではないと理解したが、松井課長さんどうでしょう。

  11. 松井様

     正直申し上げて、貴方が「よくわからない」と言っておられることが、何を、また何故、分からないと言っているのか、それを理解するのに苦労します。

     西尾先生のこのたびの「教育基本法問題」について述べられていることを要約するならば、

     ① 現行教育基本法は、<個人・個性・自主性・自発性>等、善いことばかり書いてあるが、その裏が書かれていない。
     ② 上記の「裏」とは、「教育は訓練であり陶冶である」、という教育の基本原理である。
     ③ <個人・個性・自主性・自発性>等は、「自然に生まれるべきもの」であり、「学校や親が計画して育てるべきものではない」。
     ④ <愛国心>という善いことを書いても、それは同じことが言える。
     ⑤ 教育基本法の改正は、教育の基本原理に立ち還るべきである。

    といったことであろう。(②と③は、実際に書かれている順序とは逆にしてある。)

     貴方は、上記、②と③に相当するところ、特に②が「わからない」、と言っておられる。それは、明文で次の通り。

    >わからないのは以下の文章である。
    【〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。
     その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。それなのに〈愛国心〉がどうとかばかり言っている。】(25日投稿。以下、25日投稿をA,26日投稿をBとする。)

     ところが、上記西尾先生の引用部分の前半部(〈個人〉や〈個性〉は求めて……自ずと生じるのではないですか。)を再度引用した後、

    >…すると基盤となる精神は誰が教えるのだろう。親でもなし、教師でもなし、それとも子供が勝手に相互研鑽で鍛錬するものだろうか。(A)
     
    と書かれている。
     しかし、上記先生の文章において、「求めて得られ」ないもの・「学校や親が計画して育てるべき」でないものは、あくまでも、<個人・個性・自主性・自発性>等であって、「基盤となる精神」を鍛錬(=訓練・陶冶)することは、「学校や親が計画して」行うべきものであることは明らかではないだろうか。しかし、

    >私は自分の狭い経験からやはり親の責任が大きいと考えている。多くの社会人は給与生活者であって以下の私の経験が得るような機会はないと思うが、やはり親の背中を見ることは大きな教育要素ではないのか。かならず朝の8時には店にでて夜の7時のNHKニュースを見るまで店で働き、それと同じ行動パターンを私に小学校5年の夏休みから大学に入るまで長期休みの場合はかならず店に出て無料で働かせることを強いたし私もそれを許容した。/いまでも何かあると思わず腰が浮いて行動したくなり、他部署にちょっかいだす習慣はこれらの経験が背景になるのだろう。

    と続けられる以上、私は、貴方の主張していることは、【カッコ】内に引用した先生の文章全体と矛盾していないのではないか、と書いたのです。何か勘違いがあるのではないか、と。ところが、翌日

    >西尾先生は親や教師が教えるものではないと明確にお書きです。すると生き様や基礎は誰が教えるのでしょうと書いたのです。どこに私の誤解があるでしょう。…(B)

    と言われた。そこで、貴方が、「求めて得られ」ないもの・「学校や親が計画して育てるべき」でないものに、「基盤となる精神」の鍛錬(=訓練・陶冶)を含めるという「誤読」を犯していると断定せざるを得ないと考える次第です。
     しかし、貴方の文章の、以下のような記述をみると、全体の文脈との関連が分かりづらく、「誤読」ではなく、何か全く別の主張が含まれているのだろうか、との疑問も残ります。

    >私は近代化教育は徳育教育から知育教育に、それも一律の型をはめる教育を行ってきたことに疑問を持っている。さらに現在の生きる力は西洋型の弱肉強食の世界でも子供が生きられるように教育するのかと思いきや、まったく違う点にも違和感を持っている。/そして江戸時代の教育は徳育であり基礎教育は徹底した暗記型の教育であったと考えている。誤解があるといけないが日本人がやってきた小学校から中学校までの基礎教育はやはり日本が優れているが、それ以降の義務教育以降では生徒が先生へ質問をめんどくさがらずに正直に答えてあげて、答えられない質問にはここまではわかっている、または考え方を助言することではないかと考えている。(A)

    >基礎がなければ疑問は生じません。/疑問というものは何から生じるのでしょう。ある事象Aを仮に事実か標準として認めましょう。すると事象Aに対する疑問は事象Bという別のこととの比較で生じるはずです。または帰納や演繹という言葉を使えば、過去に4本足の羊の研究者が5本目の足を持って羊を見つけて大発見と騒ぎます。これも羊は4本足であるという前提で帰納的に見ているから5本足の羊がいたから大発見と思うわけです。もう一つの疑問が生じる可能性は演繹的にあるべき姿を想定してそこと現実の比較で疑問を生じる場合があるでしょう。/どちらにしろ何か蓄積されたものがないと疑問は生じません。最近の自然科学論でもそうですね。事実があるからそれを根拠にして理論を組み立てるという考え方が事実そのものが確かなものなのかという疑問が認識論や脳の研究の発展に伴いいわれるようになり、むしろ科学とは同一の基礎を持った仮説の体系であるといわれています。この場合でも共通の基礎なしで自然科学は成立しません。(B)

  12. 同感です。
    >〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。

    以前首都圏の有名私立小学校の校訓を調べてレポートを書いたことがありますが、ほとんどに「自主性を育てる」というのがありました。でもわたしは自主性は力がついた結果に自然とでてくる「結果」ではないか、なんか違うなと違和感を持っていました。

  13. ピンバック: ブック 単品 Check

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です