SAPIO9/30号より

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以下はSAPIO9/30号からの抜粋です。

私の理想だった「深窓の令嬢」が目の前に現れた

東大の学生たちがみなボーッとしてしまった ミッチーブームとは?

「世紀の御成婚」から50年――民間出身の初の皇太子妃となった美智子妃への熱狂と現象は、いまも語り草となっている。そのミッチーブームを、同時代人はどう見ていたのか。舌鋒鋭い評論で知られる西尾幹二氏が、当時を語る。
              
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 私が「正田美智子」という名前を知ったのは、実に半世紀ほど前、東京大学文学部独文科を卒業し、独文専攻の大学院修士1年に在籍していたころであった。

 昭和33年11月27日、皇太子明仁親王とのご婚約記者会見が行なわれた。以後、新聞はもちろんのこと、創刊ラッシュに沸いていた週刊誌や、グラフ誌、あるいはモノクロのテレビなどで、皇后陛下の「画像」が世に溢れかえることになる。

 それを見て、私は正直大変に驚いた。「本当にこんな人がいたんだ」と。

 それはまさに「深窓の令嬢」を絵に描いたようなお姿であった。ちなみに、私は昭和10年生まれで当時23歳。美智子妃は昭和9年、明仁親王は昭和8年のお生まれだから、まさに同世代の出来事であった。

 現代と違って男女の付き合いは簡単ではなかったし、文学青年というのは幻想肥大で、頭の中だけで「ノーブルな女性」に憧れる傾向がある。当時の東大でも多少は女子大との交流もあったものだが、出会った女性を仲間内で品定めをして騒ぐといった程度で、その意味では私もこの時代の平均的な若くて普通の男児であった。とはいえ、現実には、正真正銘の「深窓の令嬢」などなかなか存在せず、結婚相手として頭の中で想像するだけで、憧れは憧れに留まっていた。

 そんなとき、若かりし美智子妃を見たのである。私は東京出身であるが、まず聖心女子大学なるものが存在することを知らなかった。日本はまだ貧しく、戦後の混乱の只中にあり、食糧不足はつづいていた。何より、軽井沢の別荘や「テニス」など、自分の人生に関わることなどと想像したことすらなかった。

 この時代、大半の学生は貧しいのが当たり前であった。昼飯は生協で買ったコッペパンと牛乳があれば上等という「コッペパンの青春」なのだ。

 ゆえに皇太子殿下と美智子妃殿下のラブロマンスは、当時の若者たちにとって夢物語のようであり、美智子妃殿下が記者会見で語った「ご誠実でご立派な」という発言は流行語にもなった。

 この報道の後、私だけでなく、いつも一緒にいた生意気な文学青年たちも美智子妃のことを話題にしては、みながみな、ボーッとしていたことをよく覚えている。大学院には年上の同僚や結婚していた者もいたが、みな、同じような憧れの目で見ていた。

 私はといえば、美智子妃殿下とご結婚なされる明仁親王に「負けた」と思いつつ「皇室なら仕方ないな」と思ったものである。

 昭和33年末からご成婚のあった昭和34年は、60年安保を控え、左翼学生が幅を利かし、学内は殺伐とした空気に満ちていた。共産党は当時、「天皇制打倒」を謳っていたはずだが、考えてみれば、学内で「ご成婚」に反対する動きは不思議とまったくなかった。

 左翼学生も同じ気持ちだったのだろうか。

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ブームの背景にあった美智子妃の「覚悟」

 ともあれ、婚約記者会見から以後、世に言う「ミッチー・ブーム」が巻き起こった。次々と創刊された週刊誌により、やれファッションがどうだ、どこで何をしたといった情報が巷間に氾濫し、一般家庭ではご成婚パレードを見たさにテレビが売れに売れ、200万台を突破した。そのご成婚のパレード当日、皇居から渋谷までの8.18kmの沿道に53万人が集ったというのだが、私はさすがに見に行っていない。

 こうした熱狂は、天皇と国民の距離が最も近かった良き時代だったことも要因の一つであろう。昭和天皇に気さくな「天チャン」という愛称が奉られ、みんながなれなれしく天皇について語り、批判も含めた皇室への言論は今よりはるかに自由で、のびのびしていた。そうした空気が一変するのはご成婚の2年後(昭和36年)に起こった「*風流夢譚」事件以後のことである。

 だが、あれほど国民が熱狂したのは、メディアのいうところの「昭和のシンデレラ」的な甘い夢物語とは違う。ブームの最中、皇后陛下の楚々とした態度のなかにお見せになられる、大変な緊張というか、「覚悟」のようなものを、どこかで国民が感じていたからであろう。

 ちょうど60年代は、「革命」が現実味を帯びていた時代だった。私のような保守学生は、左翼学生から「お前をいつか人民裁判で死刑にしてやるぞ」などといわれていたものだ。革命が起きれば皇室がどうなるかは天皇陛下も十分ご理解していたはずである。婚約前の昭和33年7月、イラク国王ファイサル二世が軍部のクーデターと民衆蜂起により暗殺されたその日、学友の橋本明氏に「きっと、これが僕の運命だね」とこぼされたという。陛下自身、革命が起こりうるかもしれない時代の空気を察していたであろうし、その皇室に嫁ぐことがどういう意味を持つか、この時代を生きてきた皇后陛下も十分にご承知なされていたと思う。

 もちろん、それも一端であったとして、それだけが皇后陛下の「ご覚悟」のすべてであったということはあるまい。

 もっと別な理由があった。それを私が理解する契機になったのが、ご母堂の冨美(のちに富美子に改名)夫人の記者会見であった。

正田家と皇后が理解していた「カミ」という概念

 ミッチー・ブームの最中、「深窓の令嬢」としての皇后陛下の優雅さに惹かれる一方で、冨美夫人の皇后陛下とはまた別な明治の貴婦人のごとく凛とした美しさに感嘆した記憶がある。

 それにもまして興味深かったのは、冨美夫人が記者会見で「娘には天皇は神であるとは教えてこなかった」といった趣旨の発言をされたことだ。

 当時の私は、それを言葉通りに受け取った。戦前の時代背景を考えれば、随分としっかりした考えを持った家族なのだな、という程度の認識である。

 しかし、その後、正田家は、この発言とは正反対の行動を取り続けることになる。ご夫君正田英三郎氏は日清製粉の社長であったが、ご成婚後、会社の代表を退かれ、極力、表舞台には出ないようにしてきた。皇室の外戚に当る会社で何かあれば迷惑がかかるというのが理由であったという。また、よほどのことがなければ皇后陛下の里帰りさえ許さず、常に遠くから見守るだけであった。英三郎氏が逝去した時、皇后陛下は将来天皇になられる方であるという理由で、わが子浩宮殿下の弔問をお避けになったのは語り草である。正田家は、娘を皇室に嫁がせた瞬間、一切の私的な交流を絶ってきたのである。

 ここにあるのは、平等であるとか人権であるとか民主主義であるといった近代の理念がまったく立ち入ることのできない「界域」としての「皇室」である。天皇家に嫁することは、同時に俗世間との境を超越することを意味していることを皇后陛下はご理解なされていた。

 巨樹にしめ縄を張って、それをカミとして祈るように、日本人は、自然の中に我々とつながる命をみて、そこにカミが宿るという宗教観念を持っている。天皇が「カミ」であるとは、そんな日本人の信仰世界、神道の祭祀役という意味においてのことであり、西洋的な絶対神とは明らかに違うご存在としてである。それゆえ天皇は、あらゆる「俗世間」から切り離される。その境を越えて「カミ」になる覚悟、いや、畏怖の念といっていいお気持ちを皇后陛下は持たれていた。それを肌で感じたからこそ私を含めて国民が、「ご成婚」に熱狂したのだと、今では思う次第なのである。

 私は、昭和50年ごろ、中軽井沢の駅のホームで、当時は皇太子であった天皇ご一家のお振舞いをそば近くで目撃する幸運に恵まれたことがあった。

 まだ新幹線ができる前で、同じ車輌に偶然、乗り合わせたのだ。天皇皇后両陛下に、秋篠宮殿下、紀宮内親王の4人が歩いておられた(皇太子殿下は留学中だったのであろう)。ちょうど、そのところに私たち家族も車輌を降りて、一緒に駅のホームを歩くことになったのだ。格別の警備も警護も見当たらず、一家は自由に一般市民と立ち交じっておられた。私は天皇陛下の斜め横2mの位置で後ろをついて行った。

 階段の下には、地元の女子高生が数名、居合わせて黄色い声をあげて固まって座っていると、陛下は彼女たちの前で、身を屈めて、一人一人に握手をなさった。少し後ろにいらっしゃった皇后陛下は、やはり少し腰を屈め、優しい、そして静かな笑顔を彼女たちに投げかけられていた。

 実に自然なお姿と仕草で、私はきっと天皇ご一家は日ごろ、国民とこんな風に接しておられるのだな、と想像することができたし、事実、今現在でも全国いたるところで似たような光景が繰り返されていることであろう。

 だからこそ私は、こう思うのだ。

 ここに至るまで、皇后陛下が、どれだけのご苦労を、強い意志で乗り越えられてきたのかということを。戦後間もないあの時代に、ごく普通の女性が、皇室に入り「カミ」となるのだ。並大抵のご苦労ではなかったことであろう。皇后陛下は、一生をかけてその答えを出そうと、すべてを捧げてこられてきたに違いない、と。

 若かりし頃に憧れた「深窓の令嬢」の面影ではなく、また、ご母堂の冨美夫人のような貴婦人のような美しさでもなく、そこに私が見たのは、国民の中心として平成という時代を天皇陛下と共に支え「国家の魂」となられたご存在だった。

 それを昔の人は「神」と呼んだのである。

*「中央公論」1960年12月号に掲載された作家・深沢七郎氏の小説「風流無譚」の中で、天皇ご一家が革命家らに襲われる描写が不敬であるとして右翼が抗議。61年2月には右翼団体に所属する少年が中央公論社社長宅に押しかけ、社長夫人が重傷を負い、家政婦が射殺された。

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