『男子、一生の問題』を一冊の本として、内容を広く伝える評文を書いて下さったのは「無頼教師」さんの次の文章である。とりあえず全文を紹介する。
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2004年06月26日
『男子、一生の問題』と戦後の日本
最近、といってももう10年以上は経つだろうが、めっきり年長者の小言というものを耳にしなくなった。私の父方も母方も祖父母ももう亡くなって久しい。テレビでみかけることも、ことさら少なくなった。昔の日本、そう昭和の日本であれば小言も聞けたものなのに、と思うのは私だけだろうか。
『男子、一生の問題』の特徴は、そのタイトルにもあるように「男子」というものの生き様である。戦後が男性原理が徐々に浸食されてきた過程であるとすれば、この書物はそうした流れに対する雄弁な反論であるといえるだろう。女性という存在が無視されているわけではないが、戦後という時代の持つ喪失感に対する異議申し立てが、非常に個人的な視点から語られているという点が、この書物の第一の魅力であろう。
たとえば、この書物の末尾において「右記二例、じつは今はしらふでいうのだが、私の言ったことは正当で、間違っていなかったとあらためて確認している。酔った口調の台詞であったとしても、台詞の内容は少しも酔っていない。/むしろ、四十年前の日本の世相の方が酔っていたのである」とあるが、時代との緊張関係を西尾氏が片時も忘れていなかったことを示していると言えるだろう。西尾氏の三つの戦い、すなわち(1)平成元年~平成四年「外国人単純労働者の受け入れ」に反対、(2)平成六年ごろ「戦後補償問題」のドイツ見習え論に反対、(3)平成八年「歴史教科書改善運動」へのとりくみは有名なところだが、日頃からの同時代との緊張関係がなければ、そもそもあり得なかった戦いであったことが、こうした発言から裏付けられる。
こうした同時代との緊張関係が一番濃密に現れているのが、「嗚呼、茶髪の醜さよ!」の章ではないだろうか。ここに見られるようなストレートな拒絶は、最近では見られなくなったものであるだけに、より一層新鮮である。昔の日本であれば、当然聞こえたであろう声を耳にすることができる。これは西尾氏と同世代の人にとってだけでなく、それより若い中年もしくは青年の世代にとっても、改めて鮮烈に響くのではないだろうか。こうした本音の声を聞くことができなくなってしまった事が、日本人の活力の減退を想像させるだけに、貴重といえるだろう。
次に、この第一の魅力に勝るとも劣らないのが、著者である西尾幹二氏の個人的な発想の核心のような部分が平明に述べられている点だろう。西尾氏が自らの過去の失敗も、そして成功もありのままを語っており、何よりも筆者が「行動の人」であることを告白しているのは、今回の書物が始めてではないが、その核心を結集したという意味では、鋭く切れ味の良い書物であるといえるだろう。(とはいえ、やはり「人前で話す前、もう一度「時と場所」を考えよ」の章に紹介されているような、結婚式でのスピーチは、された側はたまったものではないだろうと思われた。同じスピーチでも種子島氏のスピーチは、西尾幹二氏を背後からバックライトで暖かく映し出す優れたスピーチではあったのだが。)発想の核心とは、別の言葉で言い換えるならば、事物に対する評価ともいえるだろう。批判の視線は、小泉首相、外務官僚、文化勲章、出版界、学会へと縦横自在に向けられている。しかし、これらが単に批判されているのではない。「国際政治をあれこれ解釈するだけで終わるな」の章の「いざとなったら、解釈は必要ない。/求められているのは行為なのである」という発言にも現れているように、ひとえに行動を前提とした批判なのである。それだけに、これらの批判は、実質的な批判であるといえるだろう。
この書物の魅力は、それだけにとどまらない。この書物の読者は、世代も職業もそれぞれさまざまであろうと予想できるが、どのような世代、どのような職業の人間が読んでも、それなりに益するところが多いのも、この書物の第三の特徴である。たとえば親や教師、あるいは人を指導する立場の人間であれば、「有能な教師は~」「人をほめることの~」などは、必読であろうし、子を持つ人であれば、「父性の欠落は、家庭内の順位の混乱を招く」「今の子供は、大人になる困難を知らない」などの章はやはり利するところが多いだろう。とはいえ、この書物の潜在的な最大の受益者は、作家もしくは批評家志望の青年ではないだろうか。というのも、西尾幹二氏の物書きとしての戦術が、余すところなく、明かされているからである。「論争はすべからく相手の神を撃て!」を筆頭に、「世の中の真ん中」を気にしないで行け」「「公論で闘っている人」はまずのびない」など、非常に耳の痛い、それでいて核心をとらえた発言が目白押しである。これを利用しない手はない、と部外者である私には思えるのだが。
魅力の多いこの書物だが、物議を醸すであろうと予想される章も見受けられる。たとえば、インターネットやハンドルネームに関する議論がそれだ。実名で書かなければ、自己欺瞞なのか?これは議論が分かれるところだろう。「ハンドルネームで論争までして思想サークルを作り、一定の範囲で仲間を囲い込み、思想信条の違う者を囲い込み、思想信条の違う者をはじき出す」といった表現に、その通りだという人と、鼻白む人がいるだろう。こうした異なる評価が生まれる理由は、インターネットにも、歴史があり、その歴史からくみ取る教訓の違いに求められるのではという気がする。
改めて振り返ってみれば、年長者の小言という表現も適切さを欠いているように思える。年長者に見られがちな、関心の閉塞はまったく見られず、年老いてなお盛んな好奇心の発露が至るところに見いだせるからだ。しかし、西尾氏の世代の発言は、たとえ個人的な視点からであろうと、もう少し世に出される必要があると私は考える。日本が国家としての岐路にさしかかっている現在、読者がこうした直言に謙虚に耳を傾けることは、決して意味のないことではないだろう。
(無頼教師)
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