全集というと著者の昔の本をたゞ集めて並べるだけと思われがちだが、それは誤解である。たゞ集めて並べるだけなのは著者の死後に作られる全集である。
著者がまだ生きている生前全集はいろいろな作品を再編集し、未発表稿なども入れて、作り直して出すのである。少くとも私の場合はそうなっている。
第一回配本の『光と断崖――最晩年のニーチェ』は翻訳がひとつ入っているが、それを除けばすべてまだ本に収録されていない、未刊行の文章から成り立っている。筑摩書房が一冊にまとめる計画が私のつごうで延び延びになっていた。最重要な刊行予定がたまたま残っていたのである。だからこれを第一回配本とした。
自分としてはこんな大切な仕事がまだ本になっていなかった、これは勿怪の幸いだと思った。
そういうわけで整理も大変だったが、「後記」にも力を入れ、60枚も書いている。渾身の一冊なのである。
現在少しづつ他の巻の目次も確定し、印刷も進行している。第一巻と第二巻の目次が定まり、すでに校正中である。以下に示す第二巻の目次は、「内容見本」(カタログ)よりさらに進化している。
色変わりの文字の部分は「内容見本」には出ていない。これらは最後に加えられて、目次が確定した。
I 悲劇人の姿勢
アフォリズムの美学
小林秀雄
福田恆存 (一)
ニーチェ
ニーチェと学問
ニーチェの言語観
論争と言語政治と文学の状況
文学の宿命-現代日本文学にみる終末意識
「死」から見た三島美学
不自由への情熱―三島文学の孤独Ⅱ 続篇
行為する思索―小林秀雄再論
福田恆存小論 五題
福田恆存(二)
“大義のために戦う意識”と戦う
現実を動かした強靭な精神―福田恆存氏を悼む
時代を操れると思う愚かさ
三十年前の自由論
高井有一さんの福田恆存論
田中美知太郎氏の社会批評の一例
田中美知太郎先生の思い出
竹山道雄先生を悼むⅢ 書評
福田恆存『総統いまだ死せず』 三島由紀夫『宴のあと』 三島由紀夫
『裸体と衣装』 竹山道雄『時流に反して』 竹山道雄『ビルマの竪琴』
吉田健一『ヨオロッパの世紀末』 中村光夫『芸術の幻』 佐伯彰一『
内と外からの日本文学』 村松剛『歴史とエロス』 江藤淳『崩壊から
の創造』Ⅳ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学
一 知識人の政治的言動について
二 「和魂」と「洋魂」の戦い
三 ロレンスとキリスト教
四 「生ぬるい保守」の時代
五 エピゴーネンからの離反劇
六 「真の自由」についてⅤ 三島由紀夫の死と私
一 三島事件の時代背景
二 一九七〇年前後の証言から
三 芸術と実生活の問題
四 私小説風土克服という流れの中で再考するⅥ 憂国忌
三島由紀夫の死 再論 (没後三十年)
三島由紀夫の自決と日本の核武装 (没後四十年)追補 福田恆存・西尾幹二対談「支配欲と権力欲への視角」
後 記
「悲劇人の姿勢」ということばは私の第一エッセイ集の標題である。Ⅰはそのときの目次を踏襲している。最も初期の私の思索の結晶である。
小林秀雄、福田恆存、ニーチェを並べたのは私の若さである。若書きの未熟な作かもしれない。しかしこの三人が、私の掲げた旗なのである。不遜にも自分もこの人たちのように生きようと宣言したも同じである。そうこうしているうちに三島由紀夫が自決した。
Ⅰのさいごの二篇「『死』から見た三島美学」「不自由への情熱――三島文学の孤独」は、第一エッセイ集には入っていない。第一エッセイ集『悲劇人の姿勢』は三島の自決直後に出されたのだが、この二篇はあえて入れていない。
「論争と言語」というのは同人誌に書かれたもので、本邦初公刊である。1962年、27歳の執筆の奇妙なニーチェ論である。
Ⅱの「“大義のために戦う意識”と戦う」も「田中美知太郎氏の社会批評の一例」も、ともに私の本には収録されていない未公刊の文章である。後者は田中美知太郎全集の月報である。
巻末に追補として掲げた福田恆存先生との対談は貴重な記録で、未公開である(一度当ブログに出したことはある)。いま福田恆存対談・座談集全7巻が玉川大学出版部から刊行中で、その中にも収められる予定である。私の36歳の折の、理想視していた先生との対談であるから、貴重な記録なのである。
私はこの巻に名を挙げた諸先生から注目され、期待され、希望に溢れて生きていた。その唯中へ、三島の自決事件が起こった。
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(追記・内容見本は国書刊行会03-5970-7421に電話すれば送ってもらえます。)
私といういわば機械の外から見た動きは万人から見えましょうが、内部構造となると専門家にしか解らない所が多い。とは全ての職業に言える事ではないでしょうか。私は機械を一度工場に戻し、隅々まで点検する必要を”今”感じています。機械が擦り切れて上手く働かない所もあるし、耐用年数もそろそろ終わりに近いかも知れない。何より汚れていて清潔にしなければ使わんという人も居そうです。そこで、失礼ながら恰好の現代日本人エンジニアが小林、福田、三島、西尾各氏という訳です。各氏で徹底検分を試みたいと思います。迂闊に呼んでぶっ壊されるという危険もありますが。(笑)丸山真男、大江健三郎各氏も腕利きですが別工場です。無礼千万失礼致します。
補遺と成りますが、では西尾先生の、私の主要設計者は誰か。という問題があります。私見では、やはり先生のそれは外国人ではニーチェ、ショーペンハウエルと推察しております。先生が時として私と意見、立場が異なるのは、私のそれがヘーゲルである所が大きいとしばしば感じています。というといかにも我々が独創性に欠けて西洋思想の亜流が浅薄な争いをしている様にも観えましょうが、事実は逆とも言えます。若かりし頃から、先生はニーチェに自分自身を見出し、私はヘーゲルに自分自身を見出して来たのです。因みにレーニン、毛沢東の主要設計者がマルクスだとして彼らの独創性が果たして減じるでありましょうか。
こんな誇大とも言える議論をするのも、先が長くも無いかもしれない私が、今の若い世代に早く松明の火を受け継いでもらいたいからであり、ヘーゲルが茨の道の隘路の末に見出した光を時代、民族、大陸を超えて引き継いで行きたいからです。
時代に抗して敢えて言いたい。青年よ大志を抱け、と。
第二巻の詳しい目次を拝見して、懐寒い私でも是非手に入れたいと思いました。
死後に出される全集は他人が勝手に編集したものでしょうから、先生自身の手にかかった今回の全集は現代にも後世にも大変貴重なものです。
大体今の学生は「自由とはなにか」なんて考えているのでしょうか?
就活には「英語・簿記・コンピューター・プレゼン力」だと言い、さらに「内向きだから海外留学に行け」とマスコミ、識者、政府までが言う。そのくせ留学生(中韓)は優秀だと褒め、ハーバード入学者数、アメリカの大学の博士号取得者数を比較して、日本の学生はダメだと言う。
日本の若者は既に「自由」の意味を考える余裕がない位「不自由」なのではないでしょうか?
「安保闘争」や「全共闘」など実感もイメージもわかない世代にとって、先生の著作は我が国の戦後を知る格好のテキストとなると思います。そして
日本人の精神に肉薄する三島論は、我々日本人のための、そして自己を知るための一級の精神史となるでしょう。
6月のブログ「鈴木尚之さんを悼む」の中で、先生は「つくる会」の活動が「冬の時代」に入ったと書かれていますが、「国民の歴史」効果はジワジワと確実に浸透していると思います。私が使った高校の「世界史」(昭和47年度山川出版)にトルデシリャス条約なんて書いてありませんでした。
最近中国の軍人が太平洋米中分割論を出したということですが、10余り前に「国民の歴史」を読んでいたので、「成程、面白い」と思いました。
この全集が出されたら、敵(或いは敵国)は真っ先に入手して研究するのでしょうか?
先生の著作が我が国において「青年の必読書」となった時、我が国は精神的、経済的、軍事的独立を果たしているでしょうか?
青年たちが真の「思索」の意味を理解した暁には、「戦争も想定外」なんてことは想定外になるでしょう。
そして、その時は「あの時代、『つくる会』にちょっかいを出してきたのは、思索とは何の関係もない、時の首相菅直人だった」というのが「笑い話」となるのでしょう。
はじめまして、カーステン ソルハイムというハンドルネームでゴルフのブログを立ち上げていました。大学時代に中央公論社から出た「ショーペンハウアー」を買ったのですが、当時、ショウペンハウエルなんかやるのもは哲学の素人という雰囲気があり、なぜ、いま、ショウペンハウエルなのかという驚きがありました。私は関口存男先生の著作に惹かれ、斉藤秀三郎の辞書にも魅了され、谷崎潤一郎の「文章読本」の復刻版で旧漢字に魅了され、福田恆存の「私の国語教室」で旧漢字の正当性を理論上、納得した思い出があります。「新しい歴史教科書」で朝日新聞のキリシタンの踏み絵のような弾圧に違和感を覚え、教科書を買い求めたのが、大学以来の先生との再会でした。いま、愛国心故にマトモなことを発言すると同じ日本人に潰されるという時代にこれからの日本を引き継ぐ若者にどういう路線でこれを切り崩せるか思案しています。マスコミに騙されない眼力はどのように身につけるのでしょうか?今後ともご指導のほどよろしくお願い致します。