特別座談会 日本復活の条件(1)の(一)

ジャパニズム02 ジャパニズム02
(2011/06/25)
安倍晋三、青山繁晴 他

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JAPANISM 02より 
   
 まず戦争の問題から歴史を考えよう

東日本大震災が戦後日本の敗戦なら、日本の再生は可能なのか?
あえて知の領域から挑む、思想的、文明論的アプローチ。
大震災前に収録した、危機の本質を歴史的文脈から解き明かすドキュメントを、
震災後四カ月を控えて断続連載として掲載。

西尾幹二+古田博司+富岡幸一郎+西村幸祐

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歴史の解釈が第一条件

西村: 日本を取り巻く環境と現在のわが国の中で起こっている様々な事象を考えると、相当危ない所に来ているのではないかと思います。もちろん、悲観論をことさら煽ってよしとするのが私たちの立場でないことを最初に明確にしておきたいのです。というのも、最近は短絡的反応をする読者の方もいて、ちょっと本質的なことに言及するとすぐ「悲観論」だとか、果ては「陰謀論」とか平気で言い出す人もいる。何でもデジタル的に+か-かでしか判断できない傾向の表れだと思います。そんなことでは考えることさえ不可能になってしまうからです。
 
 もちろん、日本には今でも素晴らしい可能性がたくさんあり、過去のそういう資産に支えれて日本人の生活があります。そんなことは百も承知で、私たちには素晴らしい歴史や伝統、それに技術、ソフトパワー、人材、知的資産に溢れていると言っても過言ではありません。でも、にもかかわらず、日本は危機的な状況だと言わざるを得ません。
 
 それは日本の政治状況がひたすら退嬰的になっていて、デフレで苦しむ経済も一向に解決しない。おまけに世界の動きに全く対応できないで、アジアの中ですら支那や南北朝鮮の攻勢の前で何もできないで手をこまねいているだけです。尖閣諸島や竹島問題、拉致問題などは、その一つの表れにしか過ぎません。だから、これを日本の危機と言わずして何というのか。この危機の淵から、日本はどうやって復活できるのか、というのが今回のテーマです。
 
 具体的には日米関係をどうするのか。アメリカを基軸にした日本の外交の見直し。ヨーロッパとの関係を見直すべきではないのか、などなど色々出てきます。そんなところから考えてみたいと思ってるんですけども。あとは、個々の例として、日本のオリジナルというか、日本のアイデンティティーをどこで、どう発揮していくのか? どこに求めていくのか。結局それがはっきりしないと、このままポストモダン状況の中でどんどん日本が埋もれていってしまう。そんな気がするんです。

西尾: 僕は最近、いつも同じテーマなんだけど、戦争の問題ですよ。

西村: 戦争ですか?

西尾: 先の大戦をどう解釈するかということができないからおかしなことになるんで、初っぱなに申し上げれば、二〇〇一年九月十一日の同時多発テロが改めて認識すべき重大な問題だと思ってるんですが、風化しちゃってね、アメリカの行動の虚妄が拡大されたために、知識人にとって、あるいは日本人にとってどう考えるかっていうことも終わったように思っています。あのとき一斉に上がった声は、私は忘れもしないんだけど、保守の多くの人々があの事件に日本の真珠湾攻撃と、ひいては特攻隊を重ね合わせて議論したんですよ。みんな忘れちゃってるでしょう。驚くような人たちがそういうことを言ったんです。

富岡: 立花隆です。「文藝春秋」に書いた文章ですよ。

西尾: 立花隆のような人が言うなら驚かないですけど、そうじゃない、そうそうたる保守が皆そのような発想で、つまり、わが国の過去の戦争をビン・ラディンのごときテロリストと同じように認識してるという。これには、僕はびっくりしたね。

西村: 逆の意味で、筑紫哲也などもそういうふうに言ってました。

西尾: だから広範囲の認識がそうだった。アメリカから真っ先にその声が出たけど、それは違いますっていう激しい反撥の声が起こらないんだよ。

古田: 反論がなかったですよね。

西尾: 私だけだよ、「ノー!」と言ったのは。つまり、日本はあの戦争を滅茶苦茶なテロリストのように戦ったのでは全くなく、近代国家の重装備の、ほとんど諸外国と何の遜色もない強大な組織と政治力と軍事力を以て四年間戦ったわけです。飛べない飛行機を作ったわけでもなければ、政治思想においてもマルクス主義の洗礼は受け、ほぼ同時にゾルゲのごときスパイに翻弄されることもあり、アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連、それらの国と対等以上の強大な意志力を以て戦った。ビン・ラディンのごとき半端ものでは全くなかった。
 
 しかし、大東亜戦争をイスラム革命とか反近代とか、西洋近代合理主義に対決するアジアの反抗とか、そんな解釈から、ビン・ラディンを出した人がいた。でも、それは全く間違いです。まともな人でもビン・ラディンと西郷隆盛と一緒に挙げたりね。
 
 つまり、何が問題かっていうと、自分たちの過去の実像が見えてないっていうことなんです。もっと分かりやすく言うと、わが国が戦争した場合に、どういうわけかみんなが内向きのことばかり言って、自分たちがいかに失敗したか。前はいかに犯罪を犯したかだったんだけど、最近は犯罪がなくなって、その代わり、いかに愚かだったかと。

西村: 失敗の話ばかりになってきましたね。

西尾: その話ばかりになって、昭和史と称して、その内側でそれを延々と論ずるということで。もっとびっくりしたのは、渡部昇一さんがこういうことを言ってるんですよね、ずっと一貫して。渡部昇一さんのワックから出てる昭和史で、昭和史の柱をたった一本でずっと書いてる。その中心のテーマが統帥権の失敗と暴走なんです。でもそれは、昭和史の伏線の一本にすぎないので、それだけで日本はリーダーなき迷走をしたと。そして、日本には主体がなかったと。これはどっかで聞いた話なんです。

富岡: 丸山真男ですね(笑)。

西尾: そう。保守の真ん中に丸山真男が突然として出てくる。その渡部さんの本は最後には、日本の迷走を食いとめたのは広島、長崎の原爆であったと書いてある(笑)。なぜ、そういうことが起こるかっていうと、パースペクティブを間違えてるんです。内側ばっかり見てるんです。自分の国のことばっかり。世界が日本をどうしたのかっていうことを考えないんですよ。今でもそうでしょう。

西村: NHKが今年になってその路線をやり始めている。

西尾: あの戦争を回顧するとき考えなくてはいけないのは、アメリカが日本を籠絡し、攻略することは作戦・策定の中に早くからあったということです。どうじたばたしても、日本は宿命として米国と戦わざるを得なかったので、最終的には武力とか科学の力に優れていた方が強かったというだけの話です。日本も同じように強い武力と強い科学の力を持っていて、近代が近代と衝突したのであって、前近代が近代に反抗して敗れたって話では全くないんですよ。

 アメリカの第二次大戦の仮想敵は決してドイツではないですよ。日本だったんですから。それから、アメリカの戦争の動機は満州を獲るという経済的乱暴に他ならなかったんで、ナチスを倒す英米の戦いは西洋における内戦ですが、日本に対する欧米の戦いは西洋の内戦ではないから戦う根拠も何もない。理由もないんです。

つづく

「特別座談会 日本復活の条件(1)の(一)」への7件のフィードバック

  1. 体調不良故、短文で失礼します。
    1)「真珠湾攻撃」
    攻撃者の正体までではなく、米国本土に与えた衝撃の形にのみ注目して真珠湾と比喩的に考えました。
    2)「世界が日本をどうしたのかってことを考えない。」
    私は、満州事変という、日本が世界の一応は肯定できる世界秩序に挑戦したことを大戦の主因と見做します。これは動かせない事実に基づいていると判断します。
    3)「最終的には武力とか科学の力に優れていた方が強かったというだけの話です。」
    小泉信三氏(三島さんの影響であまり買っていないのですが)の言葉に仔細は忘れましたがこんな言葉がありました。
    ”物質の力に敗れたのではない。民主主義の力に敗れたのだ。”と。

    以上、先大戦の話となると先生とは立場が反対に成り大変残念です。
    未来志向の建設的なお話をお待ちしております。
    (蛇足:漫画表紙はいただけません。漫画には、自己研鑽、自己陶冶、自己犠牲等、自己に対する厳しさに欠け、なんとも”安易な”雰囲気が漂い、長く観ていられません。)

  2. 日本復活の条件ーまず戦争の問題から歴史を考えよう。賛成です。
    超端的に言って、日本復活の条件は、私は明治にありと考えます。
    戦争は、戊辰、日清、日露に限ります。(笑)
    この豊穣で偉大な時空は、大正昭和平成から想像し難いものがあると思っています。皆さん、歴史を想像力をめぐらしてひも解き、明治を回顧復興しましょう。勿論、天皇制を巡って議論もあるでしょう。しかし、現代も君主制、民主制を上手くコンバインしている英国を考慮してみるのも良いでしょう。
    司馬遼太郎氏の小説からその受け継がれた精神を体感するのも面白いでしょう。
    西尾先生、米国が帝国主義者流から理想主義者流に豹変した様に、日本がその逆を行った事もあり得ると、私は考える者です。
    粗放の言ですが起爆剤になればとてコメントしました。

  3. 西尾先生の意見立場に随って論を展開するのが礼儀と思われますが、ここは、有益と思われる自論を展開する無礼をお許しください。(ジャポニズムのつづきは勿論論及致します。)
    「坂の上の雲」ということばがあり、昨今では「西洋を坂の上の雲に見立てて日本は坂を上り続けたが、日本は坂の上に到ってしまって、もう西洋に学ぶことは無くなって、途方にくれている。」という私に言わせれば俗説があります。何故か。西洋に並んでいるのは経済のみでありましょう。政治、外交、軍事は果たして、極東で更には世界で西洋に(特に米国に)並んでいるでしょうか。実態は並んでいるどころか、未だに後追い状態ではないでしょうか。暗に人種差別と戦いながら、極東では西洋の容喙を許さなかった明治の先人から観れば、現状はお笑い種でありましょう。「坂の上の雲」は一種類ではないのです。政治、外交、軍事に限らず、教育、科学、工学、文学、医学等々、あらゆる職業でその道の最高権威、創設者を辿って行くと、大抵どの職業も明治時代人に行き着くのではないでしょうか。平成の各職業人がその道を、体を張る覚悟を持って極めることが、計らずも明治の精神を復興する事に繋がり得ると私は思います。又それは歴史的な新しい平成の精神の誕生とも言えるでしょう。粗放の言を慎み、地道な方法を試みました。
    先生、政論家ではやはり、池辺三山、三宅雪嶺、徳富蘇峰は毀誉はありましょうが偉大な人格と言えないでしょうか。いわば「永遠の時」から時論を論じ得る真のジャーナリストでした。時論を何度も読ませてひとつも飽きさせないのは真に神業です。

  4. 漫画の表紙は別に西尾先生が決めた訳ではあるまいに。私もあの画風は嫌いですが、八つ当たりはおやめなさい!司馬遼太郎で歴史を知ったかのような自分を含めての日本人に欠けているものは、当時の人々の肉声です。大正生まれの私の父は農家の五男坊、旧制中学から陸軍の特別気象班に入り、武漢にも駐在していました。私の母親の兄はインパール作戦での戦死者です。歴史とはそのように連続しています。一世代前はその時代だったのです。どこか抽象的な空語になってしまいがちな歴史論議も、生きた人間の行為の総体としてみれば、当時の日本人は結果はどうあれ、世界のなかでプレイヤーの一員であった。個性をもち、主体性を持った一主体であった。刀折れ矢尽きて敗れはしたが、勝負は時の運。悪いから負けたなどと、いまどき漫画の世界でも通用しません。アメリカ人だけではありません。中国人。ロシア人。ヨーロッパ。皆プレーヤーでした。しかし、現代日本人は…

  5. 訂正:先述の私のコメント3.に語句の追加訂正を加えます。
    (訂正前)ー暗に人種差別と戦いながら、
    (訂正後)ー暗に、未だ厳しかった人種差別と戦いながら、
    人種差別と戦って、何がしかの権利を回復した人々の業績を忘れていたと思い誤りを訂正致します。

  6. nagasaku氏のコメントのある部分が、頭から一週間離れず、ここに一応の結論を見出しました。
    「日本人に欠けているものは、当時の人の肉声です。」
    「どこか、抽象語になってしまいがちな歴史論議」
     以前テレビで浜田幸一氏がこういう主旨の事を言っていた。「愛する家族と敢えて別れて、国のためと思って死んだ兵士に、あの戦争は馬鹿なものだったと言えるか。」
     本日NHKで原爆証言者が言っていた。「熱線で顔を焼かれて死んでいく女子挺身隊の娘が「いいのよ、悲しまないで。私はお国のために立派に死んでいくのだから」と美しい顔をして死んで行ったのを見てきました。」
    とまあ、ここまで当時の国民の肉声を伝聞して、言葉の継げなくなり絶句する事もありました。
    私はこう思いました。崇高で立派な敗北もあったのだ、一国民としてふさわしい主体性もあったのだと。一方、指導者層では、愚昧で卑小な敗北もあった、指導者にふさわしい主体性に欠けていた。同様に米国側にも、愚昧で卑小な勝利、例えば民間人を殺傷して得た勝利、崇高で立派な勝利、例えば基本的人権擁護の理想の勝利もあった事でしょう。
    総ずれば、戦争を総体として観ると、勝ち負けの判定は一視点からの判定でしかあり得ない。繰り返すが、崇高で立派な敗北もあれば、低劣で矮小な勝利もあり得るということが言えるのではないか。
    私は、この事は現在全世界に展開する米国軍について以前感じた事もあり、我が身の小ささも省みず某紙に投稿した事がある。
    イラクでもアフガニスタンでも、大義に沿っていれば敗北でも名誉な事があり、大義から外れれば勝利でも不名誉なことがある。と。まあ理想主義が過ぎるとして無視されたようですが。

  7. 先述のコメントに追加します。いわば画龍点睛を欠きました。
    (追加)
    戦争に、勝ったか負けたかは一結論である。
    しかし如何に勝ったか、如何に負けたかは、その重要な内容である。

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