特別対談 西尾幹二先生 × 菅家一比古主幹(二)

●司馬史観の克服

菅家 歴史ブームの中で以前から違和感があるのは司馬遼太郎です。彼は小説『坂の上の雲』で乃木将軍を非常に批判的に描いています。
西尾 とんでもないですよ、あれは。『坂の上の雲』は途中まで読んで馬鹿らしくてやめました。
 日露戦争から帰ってきた乃木将軍が凱旋行進をした時、他の将軍はみな馬車に乗っているのに、乃木は一人馬上にあり、頭こうべを垂れ、深々と羞しゅうち恥と謝罪の感情を示しつつ、うらぶれた姿で歩んだ。そしてこれに民衆は感動しました。しかし、これを「乃木は芝居を打った、パフォーマンスだ」というのが司馬の見方です。
 同じく司馬が書いた『殉死』の乃木将軍像もおかしいですね。読んでいて腹が立ってきました。人間の高貴さとか、健気さとか、美しさとかを認めないで、賎しいものとして描く。特に愛国的な賎しさというものを茶化して、それに司馬好きの人は迎合してしまっています。
 例えば乃木将軍は若い頃酒乱で女遊びもしたけれど、ドイツに留学して心機一転した。ドイツ人の規律正しさと軍人精神の一貫性というのを目撃して、自ら反省して乃木は急遽変わったと。
 それから日常生活では私服を一切着ないで、軍服だけ着て日々を過ごす。家へ帰っても軍服を脱がない。寝る時も脱がない。
菅家 板の間に何か敷いて、軍服のまま寝ていたといいます。
西尾 これを司馬はパフォーマンスだという。儀礼的形式に一人酔っているヒロイズム(英雄崇拝主義)だというのですよ。
菅家 違いますね。それはパフォーマンスではない。パフォーマンスでは続かないでしょう。
西尾 パフォーマンスというか、そういう芝居がかったある種の自己満足的自己顕示欲、それが乃木を支配していたと司馬はいいますが、私は違うと思う。司馬は人間を信じることが出来ない男。何かが欠けている。
菅家 『翔ぶが如く』を読みまして、最後に司馬遼太郎はこう結論づけるのです。五年間も連載していながら「とうとう私は西郷のことが分からなかった」と。それでこれが司馬史観の限界だと思ったのです。
西尾 分からないと書いているなら正直まだいい。結局、分からない人のおしゃべりなんですよ、司馬の小説というのは。

●三島事件の意義を問い直す

菅家 日本の歴史を考えた時にどうしても不思議なことは、危機的状況の時に、救世主型の人物が現れてきます。例え二十三歳の執権が、元軍を退けます。これが文永の役でし。そして三十歳の時、弘安の役で元軍を退けた後、すぐ死んで逝きます。
 或いは坂本龍馬という人間が現れる。しかし使命を果たした後、すぐ天が召していく。これも三十三歳。西郷と言う人物も、吉田松陰という人物も児玉源太郎もそうです。
 東郷平八郎は、連合艦隊を率いてあんな働きをするとは誰も予想しなかったわけですから、奇蹟的な人物だと私は思っています。それを作戦参謀として活躍したのが秋山真之。そのように日本の歴史を見渡すと、危機的状況の時に必ず救世主型の人物が現れました。
西尾 戦後史はどうですか?
菅家 人物と言っては失礼ですが、昭和天皇様のご存在がなかったら、戦後日本の復興はなかったのではないでしょうか。
 個人的にもう一人挙げるとすれば、三島由紀夫です。 三島由紀夫事件の歴史的な位置づけもやはりその時代によって変わってくると思いますが、今こそあの事件の意義を見直す必要があるように思うのですが。
西尾 誰の三島論を評価しますか?
菅家 今までかなり色々な方たちの三島論を読みましたが、どうもいま一つピンときませんでした。 
 ただフランス文学者で評論家の村松剛先生が、書かなかったけれども私に語ったことがあります。私は若い頃村松先生と親しくさせていただいた時期があったので、ある日ホテルで聞いてみた事があるのです。 「村松先生、どうして三島先生のことを語らないのですか?」と。
 その時、村松先生はこう言われました。 「口に出せば空しくなる。あのことは口に出したら空しくなってしまう。だから言わないんだ」と。
 要するにいくら言っても、誰も分からないだろうというようなニュアンスでした。
西尾 私は三島氏の死後四十年忌に「三島由紀夫の自決と日本の核武装」という題名の論文を雑誌『WiLL』に発表しました。
 三島さんは単に内面の死を遂げたのではなく、外の世界に政治的対応物があったと書きました。あの最期の「檄文」をもう一度丁寧に読んでください。あの中にはっきりと、NPT(核拡散防止条約)への憂慮が書かれてあります。
 そしてあの時の政治状況を考えてください。私は佐藤内閣の動きを全部丁寧に順を追って書きました。佐藤栄作の政治とやはり関係があるのです。佐藤はあの時、三島さんを気き違ちがいだなんて言いましたが、政治家には全く理解できない、非政治的政治行動だったのです。
菅家 三島由紀夫事件の、先生なりの歴史的位置づけというか、ご意見を聞かせて頂けますか。あれほど謎に満ちた、評価の分かれる事件はないわけです。
西尾 たびたび考えて、それで結局いつも徹底して考える事が出来ないテーマなんですよね。
菅家 でも西尾先生の論文を大変評価された方がおられましたね。澁澤龍彦氏は今まで三島関係の論文の中で一番的を射た、秀でた論文だというふうに評価していましたが。
西尾 それは私が三島さんの死の直後に書いた「不自由への情熱」という小さな論文のことでしょう。
 三島さんもよく知っているフランス文学者の澁澤さんが、直後に書いた私の文章を、「三島の死のラディカリズム、これはニヒリズムとラディカリズムの結合である。それ以上のものでもそれ以下のものでもない。そのことを正面からはっきりわかって書いた人は、西尾幹二の他にはいなかった」と評してくれました。
 「左翼にも三島由紀夫のファンがたくさんいるのは当然である」と、左とか右とかの話ではないということも澁澤さんは言っていましたね。
菅家 三島先生はこう言っていました。「私は目に見えない天皇に忠義を尽くすのだ」と。
西尾 それは私も同じ気持ちです。目に見えない天皇、つまり憲法の枠を超えた天皇、神話から始まる皇室の歴史、そういうものに対する帰依の意識だと思います。
菅家 私は若い時から古神道をやっていますから、その「目に見えない天皇」というのは、天皇、皇室を〝顕あらしめてやまないもの〟のことであることがわかります。
 天皇と皇室、日本というものを顕らしめているものはいったい何なのか、そこを三島由紀夫先生は見ていたのだと思うのです。
西尾 おっしゃる通りですね。
菅家 ですから政治的云々ではなくて、三島先生にはかなりの危機感があった。このまま日本の文化がどんどん衰退していって滅んでいくのか。あるいは日本の伝統文化を全面的に取り戻して、日本を立ち直らせるのか。さあどっちだと突き付けたのがあの『文化防衛論(三島由紀夫著)』の主旨でした。
 それがあの昭和四十五年十一月二十五日の市ヶ谷に至ったのではないですか。
西尾 だから死ななきゃいけないというのは困るけどね。
菅家 でも三島先生があのようなかたちで死んだあとから、日本の言論界が変わってきたように思います。
西尾 三島事件と三島さんを失った衝撃は、当時相当なものでした。
菅家 三島由紀夫事件以降、言論活動が盛んになって、良識派、保守派の巻き返しが始まったのではないでしょうか。
西尾 雑誌『諸君!』の役割もあったかもしれません。その『諸君!』も廃刊されて、最近の『文藝春秋』
は左傾化してしまっています。
菅家 でも三島先生は私の心の中に生き続けてくれました。「後に続く者を信ずる」私の中には未だその言葉が生きております。言論と具体的な大衆運動を通してやっていくのみです。それが美し国「日本蘇り」運動です。

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です