非公開:私のうけた戦後教育(五)

教育におけるペシミズム

 教育が問題になるということは、あるいは教育の危機が論ぜられるということは、すでに教育が自分一人の力では手に負えない現実に直面している証拠であろう。教育がさほど問題にならない時代には、教育者はいかにして子供に知識や技術を能率的に伝授するかという方法に腐心していさえすればよかった。

 あとのことは社会が引き受けてくれる。そういう時代には教育上の特定の理想などはなくてもよい。信仰が生きている時代とは、進行を意識化、計量化する必要のない時代なのである。

 教育の問題を真剣に考える人は、かならずあるペシミズムに突き当たるはずである。「教育」とはけっして「学校教育」のことではない。学校教育は教育のごく一部分、しかもさほど本質的でない小部分を代表しているにすぎず、早い話が学校がどのように立派に完備したところでどうにもならない現実があり、教育学者、教育理論家の全部とはいわない、その大多数がこの事実に気がついていない。いや、気がついてもできるだけ影響を小さく見ようとする。さもないと学としての教育学の存在理由――理想としての教育の自律性という観念が破壊されるからだろう。

 戦前戦後をつうじ日本の教育が政治に従属し自律性を失ってきたのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、教育がこの自律性という観念を過信してきたためである。教育の危機は日本の文化の危機である。あるいは近代文明そのものの危機にかかわりがある。教育だけで解決できる問題はなにひとつないし、教育だけが自己の能力を過大視してはならないはずだ。にもかかわらず日本の教育学者、教育理論家は、戦前だけではない。戦後の「民主教育」においても、《教育を通じて》人間を改変し、現実を動かし、危機を克服しようとする理想にのみ自己の存在理由を賭けてきた。

 彼らの言う教育の自律性とは、要するに教育万能論でしかない。そこには一片のペシミズムもなく、教育とは救済手段の別名にほかならない。しかし、現実を早急に救い、困難をたちどころに解決するような力は教育にはないし、そんな使命もない。目的実現に急な日本の教育が、現実の困難に向い合うことを避けた必然の帰結として、教育の外からの安易な理想、出来合いの政治理念を借りてきて己れの楯としたことは、蓋し当然の結果と言うべきだろう。

 「忠君愛国」の政治教育から解放された戦後の教育は、あの時期に、一切の政治原理、原則からの独立を覚悟するべきではなかったろうか。目標がなければない方がよい、それ位の意志力が必要ではなかったろうか。「主権在民」や「戦争放棄」があの時いかに切実なものであったとしても、それはあくまでも政治上の要請であって、教育上のモラルや理想になすべき性格のものではない。にもかかわらず私が受けてきた戦後の教育では、とくに昭和23~6年頃の少年期に、こうした政治用語が道徳上の価値観念として「上から」与えられてきたのであった。

 子供は国際平和に寄与するような役割を演ずることができない。従って毎日の生活に生かすにはあまりに無形で、とらえどころのない「平和」というようなモラルは、子供の感覚や思惟に一種の麻酔作用を及ぼすことになる。子供は平和と戦争との複雑な関係に思い及ぶ前に、平和を絶対善、戦争を絶対悪と単純に割り切る思惟様式に次第に馴れて行くのである。尤も子供のうちはまだいい。子供は観念に動かされない。「平和を愛する民主的な人間」は、ただただ有難い本の中の言葉、符牒か暗号のように受取る以外に手がなく、実際には運動や喧嘩の能力が切実なものとして子供の現実を支配している。

 問題なのは、他愛のない政治用語を教育上のモラルとして繰返し耳に吹込まれているうちに、成人に達するころ人間が馬鹿になってしまうことである。私はそういう人達を沢山見てきた。頭が観念的になる年頃、慣れ親しんだ政治用語がいつしか固定観念と化し、たった一つの言葉を中心に形作られるもやもやした感情を思想のように錯覚して、知能のお化けが生まれるのである。今日そういうおめでたい人はじつに多い。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

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