続・民主教育の矛盾と欠陥
知育偏重とよく言われるが、けっしてそういう事実はないのである。これは大学だけではない。中学や高校の教科内容においても大学と同様、知識の過剰が教育を歪めているのではなく、制度や組織、あるいは方法や動機の方に問題があるのである。
六三三制の採用は12才から18才までを二分し、二度の受験によって生活から落ち着きや持続性を奪うという弊害があり、そしてこれは事実なのだが、受験のための詰め込み勉強そのことが悪いのではない。試験の内容や方法がいかにも悪い。私自身の経験からも言えることだが、○×式・穴うめ式試験方法は、大量の受験生をさばくために公平を期すという機能面にとらわれすぎて、大事なことが見失われているように思える。
自分の言葉で自分の思考を発展させて行く前に、他人の言葉で自分の思考が規定されてしまうのである。しまいには他人の言葉がなければ思考できず、他人の言葉を符牒のように受けとって一定の条件反射を繰返す型の知能を生み出す。競争が激化すればするほど試験の《形式》に自己を適応させて行くのが受験生の習性である。
今日行なわれている試験は、思考能力を問うているというより、その適応能力を問うているといった方が正しい。問題を正直に考え過ぎる人間はかえって損をする。果たしてどの程度のことが問われているのか、などと予め出題の動機まで見抜いてかからなければ答えられないような問題さえなかにはある。
こうした出題がなされているかぎり試験競争はたしかに有害であるし、これはぜひとも至急改めてもらわなければならない。最大の教育問題の一つなのである。しかし、競争そのことが有害なのではけっしてない。これはいくら激化しても憂うる心配はなに一つない。一部の民主教育理論家が言うように、試験によって人間の能力を判定している社会の価値観は人格に差をつけようとする思想の反映である、などという理屈は成立たない。
逆に民主主義がすすみ、既成の価値観が壊滅し、人間が平均化すればするほど、エリート養成法として最も安易で人工的な「試験」への要求度は高まるだろう。どんな社会にもエリートは存在するし、また必要とされる。問題は、教育の機会均等という美名の下に戦後20年正しいエリート教育の在り方が一度も真剣に討議されなかったことの方にある。エリート教育とは、精神の貴族主義を養成することであって、権力への階段を約束することではない。
知識習得への情熱は、本来無償の情熱である。それは真理への情熱だと言ってもいい。権力への情熱でもないし、世に言う教養のためでもない。が、今日ほどこういう言葉が迂遠に響く時代もないだろう。今日夥しい数の受験生を支えている衝動は一体何か。知識欲だとはお世辞にも言えまい。快適な生活、安全な身分保証、適度の権力欲――要するに自己逃避へ欲求以外の何物でもない。しかもこの逃避に負けず自己と戦う受験という試練に耐え抜かねばならないのである。これは明かに矛盾である。
一年乃至数年の熾烈な禁欲に耐える予備校の浪人達こそ、教育とは自己教育であるという教育精神の真諦をいわば体得した人達であり、現代日本で教育を受ける苦しみとそして喜びとを知り得た数少ない例外者達だが、奇怪なことに、彼らの教育へ真の情熱は、将来の生活保証という、まことに見窄らしい思想によってしか支えられていないのである。かつて維新の開国期に「緒方塾」に参集した福沢諭吉ら青年壮士を支えたような情熱はむろんどこにもない。逃避のあるところにしか教育がない――これが戦後教育の反語的現実である。
好むと好まざるとにかかわらず、これは私達の現実である。そうはっきり認めたうえで、私はすべてを善しとするつもりはない。これが事実であることをどこまでも誤魔化さずに見抜いておくことが現代の教育論議の前提だというのである。私はそう悟った上ですべてを悪とみる。受験生に理想がないからではない。今日の日本に、あるいは近代文明そのもののなかに、どんな理想も存在しないし、存在したところで、それは結局作り物の合言葉で終るしかないように思えるからである。
1965 年(昭和40年)『自由』7月号
つづく