西尾幹二、最後のメッセージ(三)


それは自由ではない

 結局のところ、西尾氏の苛立ちは西洋文明そのものよりも、それに正面から立ち向かおうとしなかった日本に向けられる。自分は日本人だという自覚がそうさせるのだ。例えば、16世紀以降、西洋がアメリカ大陸を「新大陸」と考えて覇を競っていた時代、当時、世界一の陸軍を持つといわれていた日本の織田信長も豊臣秀吉も、その後の徳川政権もこれに関心を持たなかったことを嘆いている。

《西洋文明がアメリカというものに総力を挙げて殺到していく長い時間に日本人は蚊帳の外にいた。西洋人の野心も夢もそしてまた狂気も、江戸・明治の日本人はつゆ知らなかった》

 秀吉については、明に戦いを挑み、朝鮮出兵したことを理由に狂気の人物のように描くのが多くの歴史本でもNHK大河ドラマでも定番だが、西尾氏は違う。

《秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ二世と同じ意識において世界地図を眺めていた。日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として立ち振る舞おうとしていた》

 日本はなぜ西洋と互角に争えなかったか、西洋を凌駕し世界をリードする存在になれなかったか。そういうスケールの大きい問題意識がそこにある。

 何より、この本で最も考えさせられるのは自由とは何かということだ。現代の日本人は500年の歴史の果てに「自由」な社会にたどり着いた。民主主義のルールさえ守っていれば、宗教や道徳、慣習にも縛られず、自由に自己実現を目指すことができる。生きる権利は国が保障してくれる。しかし、知らず知らずのうちに何かに囚われて生きていないか。結婚も自由、子供を持つも持たずも自由、自分が男か女かを決めることすら自由でなければならないという風潮の下、社会自体が少子化で存続の危機に立たされている。これは本当の自由なのか。

《私たちは自分の意志で行動を起こし、自ら決断し、何ごとか決定したつもりでいることが少なくない。希望の大学に合格したり、目的の事業に成功したり、ことごとく自分の思う通りだった、と。しかしひょっとしてその人の遺伝と環境が良かったせいであったのかもしれない。…どこまでが自分の自由であり、どこからが不自由であるかははっきり定めがたい。何か原因があって、あるいは理由があって、決断し決定を下したのだとすれば、それは自由ではない》

 自由、自由というが、人間はその実、ときの環境や風潮、時代の精神に支配されずにいられない。自由はそんな簡単なもんじゃないんだ。こう、西尾氏に叱られている気分になる一節である。

 それにしても、「最後のメッセージ」と言いながら、西尾氏は雄弁である。ドラマで見る人間の最期は、たいてい一言、二言を残して息絶えるものだ。これは個人の希望的観測であるが、「西尾幹二」は死なず、これからも「最後のメッセージ」を発し続けるのではないかと思う。

「西尾幹二、最後のメッセージ(三)」への5件のフィードバック

  1. 抜き書き『日本と西欧の五〇〇年史』

    『日本と西欧の五〇〇年史』という西洋の歴史とそれを動かす様々な力の姿を日本人の立場から巨視的に見て、それが日本とどう交わったかを描く、認識を一新させる書物である。本文を引用しながら思ったところを記してみたいと書き始めたが、無智無学の当方の手に余る作業であることは直ぐに分かった。自ずと著者の文章をそのままの姿で引用することで理解を深め、本文の精華を身に浴びたいという芸のない方法をとることになった。
    以下、引用につぐ引用であり、著者と書肆への営業妨害ではないかと恐れもしたので、氏の読者は刊行一ヶ月間に購入するであろうと考え、本日に投稿することにした。しかしながら、種明かしとなることも多々あるであろうから、未読の読者はこの投稿に目を通されないことをお願いする。併せて、ブログ管理人様におかれては、相当のスペースをしばらく占有することになるこの投稿が不適切とあらば、お手数ながら削除していただくようお願いします。
    この大著に、日本の読書界は正当な関心を払うだろうか。もはや本書の持つ知的衝撃力をすら受けとめられないほど鈍感なのだろうか。欧米の見方を摂取するばかりの自己を喪失した「専門家」の群れに期待はできないように思われる。
    東大総長が一昨日四月一二日の入学式式辞で「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)宣言」、「多様性の海へ」などと言っているのを知ると、今さらながらその空虚なアホらしさにあきれるのである。それもこれも言っていることが経団連と軌を一にしていることを見れば、そもそも奈辺から発しているか思い半ばに過ぎるのである。ハーバードビジネススクール教授の説なるものを根拠として、学生の女性比率目標三〇%以上、新採用研究者の女性比率目標三〇%以上などと結果の平等と競争の排除を推し進めかねない発言と、第一章で西尾氏が描くギリシャの「自由と調和」とを比べていただきたい。
    時代の纏う一切の衣装を疑い、素手でつかみ取ったものをしか信じない、自負心に満ちた若い人にこそ、本書は読まれるべきであろう。若き日の西尾幹二氏のような、日本人に新たな知的断面を提示する知性の出現を刮目して俟ちたい。
    この投稿は、本書の構成に沿って分割して五日間程度行う予定です。

    第一章 そも、アメリカとは何者か
     アメリカが成立したのはわずか三五〇年前である。
     「当時は、スペインやイギリスやフランスなどが世界に拡大し植民地を広げていた時代であった。アメリカはそのヨーロッパを醜いものと見立て、若い自分を純粋な存在だというふうに意識しつづけていたようだ。(中略)ヨーロッパは既に老成し、頽廃し、病んでいる、新大陸の野蛮人たるわれわれの素朴、健全、無垢を見よ、と」(P024)。
     それは生命讃美の詩人、ホイットマンの詩に典型的に表現されているように思われる。
     「アメリカ人よ!征服者よ!行進する人道主義者よ!先頭を行く者よ!進行する世紀よ!
    自由よ!全体よ!」(詩集『草の葉』、白鳥省吾訳詩を若干改変した)
     「わが僚友よ!
    汝の為に私と二つの偉大を分かとう、そして三つ目のものもまた分かち持たれて更に輝きを増す。 『愛』と『デモクラシイ』の偉大、そして『キリスト教』の偉大」(同上)
     「その情熱、その脈搏、またその活力に、宏大無辺の『生命』と、また神聖な法則のもとに打ち出されたその奔放不羈の行動のゆえに、つねに爽やかなる『近代人』を私は歌う」(同、長沼重隆訳)(以上、いずれも河出書房『世界文学全集48 伊藤整編 世界近代詩十人集』より)
     「憲法に『平等』を掲げて独立し」、「ナイーブなアメリカとすれっからしのヨーロッパ、若々しい無垢なアメリカに対する老いたる頽廃のヨーロッパ、こういう基本主題のバリエーションがアメリカ人のヨーロッパ観の中に長く生きつづけてきた」(P025)。

     アメリカの特徴を西尾氏は三つの命題として提出する。
    第一命題:アメリカは一つの国であるが、また一つの世界であると、そう常に主張しているかに見える。
    第二命題:アメリカはヨーロッパに比べいささかも頽廃していない、純潔そのものの国だという自己認識で生きて来た。
    第三命題:植民地を持たない脱領土的な世界支配という方式。金融と制空権掌握を通じた他者の遠隔コントロール。

     アメリカは「戦争のたびに大きくなる国。少なくとも国家体質を大きく変化させる国。戦争が終わってではなく、戦争の真っ只中で変わる国。そしてそれで次の時代への適応を果たす国」(P037)であると西尾氏は言う。
     先の戦争でアメリカは昭和一八年を転機としてがらりとその様相を変えた。「酷薄で無慈悲になった。大量の弾薬を乱費するようになった。銃弾を前方にばら撒く作戦に変わった。集中砲火、絨毯爆撃というようなことが行われるようになった。火炎放射器が登場した」(P031)
    「戦争の性格がというよりも、アメリカという国家が、戦争によって質が変わったということが言いたいのである。これは過去の戦争においてもそのつど起こっていたことだが、第二次大戦においてもやはりそういう端倪(たんげい)すべからざる面があったということが言いたいのである」(同)。
     「マレー沖海戦(一九四一年一二月一〇日)で、行動中のイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとい巡洋戦艦レパルスは日本海軍の航空部隊によって撃沈された。(それまで空爆による行動中戦艦の撃沈は不可能というのが定説であった…引用者)これは戦史をくつがえす、世界をあっと言わせた出来事だったのだ。事実上それでイギリス海軍は全面敗北を認め、アジアの海域から撤退せざるを得なくなる。しかし一方これを契機にアメリカはがらりと戦争の方法を変えた。これからは飛行機だぞということになったのではないか。アメリカによる空の利用は前からあったが、大規模利用に転じた」(P032)。
     「よく日本はみすみす負けると分かっていた戦争に準備不足で突入した、愚かだと言われるけれども、私はそうではないと申し上げたい。むしろ声を大にして言いたい。相手が戦い半ばにして突如姿を変えたのである。(中略)イギリスやフランスが相手だったら日本は負けなかった。陸から海、海から空へ、戦略の様相の急激な変化に日本は追いつけなかった。零戦を造ったわが国航空技術も間に合わなかった」(P035)。
     「一九〇七-〇八年頃にアメリカは突然変化した。私がもう一つここで申し上げたいのは第一次大戦へ向かっていくアメリカの変貌である。あのとき日本人には理解できないことが数多く起こった。日本は戸惑い恐れ、何とか妥協し折り合いをつけようとしたが、アメリカは第一大戦の最中にまたまた変身を遂げている。
     なぜアメリカはくり返し戦争をする国なのか。戦争のたびに大きくなる国。少なくとも国家体質を大きく変化させる国。戦争が終わってではなく、戦争の真っ只中で大きく変わる国。そしてそれで次の時代への適応を果たす国。第二次だけでなく、第一次大戦でもまさにそうであった」(P037)。
     「第一次大戦の始まる前から歴史の進行はほぼすべて決まっていて、どう考えてもあとは運命の神に魅入られたかの如く、日本は中国大陸の問題を口実に引きずられていくのをどうにも避けようがなかった。もうこのあとは問答無用だった。幣原(しではら)外交の弱腰(よわごし)がいけないと言ったり、統帥権干犯(かんぱん)で日本政治が方向を間違えていたか否かとか、日本がこうすればよかったとかああすればよかったなんて話を議論したり反省したりするのはすべて虚しいと私は思う」(P037-8)。
     この西尾氏の指摘に、やはり私は小林秀雄の「放言」と言われた、昭和二十一年「雑誌近代文学」二月号「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」の言葉とほぼ同じであると思うのだが、どうだろうか。
     「大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心から起ったか、それさえなければ起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」。
     最後の言葉は単なる啖呵(たんか)ではない。戦時中の講演、『私の人生観』で語った宮本武蔵の言葉「我が事において後悔せず」が谺(こだま)しているのである。また、小林の言う「歴史の必然性」とは、日露戦争後、太平洋の両岸の新興国が激突せざるを得ない運命、アメリカの悪意を避ける術を持たなかった歴史的帰結を言ったものだろう。ただ、最終的に日本は自らの意志で起ち上がったことを忘れてはなるまい。それが依然として、かろうじて日本を「端倪すべからざる国」としている。

     「アメリカ外交の基調」として、西尾氏は「(一)モンロー主義、(二)汎米主義(パン・アメリカニズム)(三)門戸開放主義」を挙げる(P051)。パン・アメリカニズムとは「ラテンアメリカ諸国との協調を狙い」とするものだが、今やモンロー主義も汎米主義も「露骨なる覇道外交(道徳に基づかない政治)になり果てている」。「『門戸開放』の主張も中国大陸の利権に対する平等の要請であったが、アメリカは南米の利権を抱えていながら、それについては日本にも西欧諸国にも決して門戸を開放しようとしない手前勝手な言い分にすぎなかった。
     「膨張する必要がないのに『西進』という宗教的信条に基づいて膨張する国だった。西へフロンティアを求めて拡大するこのことは『マニフェスト・ディスティニー(明白なる宿命)』という神がかりのことばで呼ばれていたが。これは厄介で危険な精神である。旧世界はcorruption、新世界はinnocenceという例の彼らの、自分を神と直結させて絶対化する自己認識と深く関係している」(P055)。
     「本書の冒頭に私はアメリカにとって国際社会は存在しない、という命題を掲げた。同盟とか協商といったヨーロッパ的なやり方をアメリカはほとんど必要としない国だった。第一次大戦のあたりから(いつとは明確に私には今言えないが)、アメリカは自らの新しいやり方を他国に押しつけ始めた。大戦後のウィルソンの登場がそれかもしれない。日本の外交官・政治家にはまったく理解できない突然の変化だったし、ヨーロッパ人も戸惑いつづけた。理想の仮面を被った『世界政府』的強権主義の出現、今でいえばグローバリズムの『謎』である。イギリス人にも読めなかった『心の闇』と私は言った」(P057)。
     パリ講和会議(一九一九年…引用者)では、日本が自ら出兵して得た山東半島を、「アメリカは直ちに直接返還を要求する中国の肩を持ち、(中略)あくまで日本を排撃しつづけた」(P058)。「日米戦争は一九一九年に始まっていた」のであり、「やがて満州が焦点にならざるを得ない所以である」。日本は「同盟」、「協商」といったヨーロッパの外交方式を見習い、忠実に実行していた国際秩序の優等生だったのである。アメリカ式人権と民主主義の歴史以外は認めないという傲慢な方程式を世界に強いる時間軸の侵略は、戦後のわが国をも永く脅(おびや)かして今日に及んでいる(P059)。
     初代大統領ワシントンが誕生したばかりの共和国国民への遺訓とした「告別演説」で切実に訴えたのは国家としての「統合」だった。強い連邦政府を望むフェデラリスト、ハミルトンと弱い連邦政府と強い州政府を支持する反フェデラリスト、ジェファーソンとの閣内不一致にも見られるように理想の国家像は十人十色であった。「それだけに『統合』は次の一事をもって一挙に方向づけがなされたのだった」(P067)。
     「アメリカがアメリカになった瞬間、それは再び戦争である。戦争の只中(ただなか)においてこの国の国家体質を変え、基盤を新しく作り替えて行く。(中略)南北戦争こそまさに決定的にその代表例であったといえよう。今日われわれの知るアメリカという国家ができたのはこの戦争においてであった。しかも奴隷解放がメインの目的ではない。州権を抑えて、統一連邦権限を政治的にも法的にも他のあらゆる面でも確定する、そこに戦争の根本目的と結果があったということこそ肝要なのである。ヨーロッパも戦争に明け暮れた地域だが、戦争で統一連邦(EU)ができたわけではなかった。アメリカは一〇〇年も前に一息にヨーロッパを超えようとしていた」(P068-9)。
     「リンカーン(在位一八六一–六五年)は実際そのように行動している。リンカーンにとっては統一ある連邦の確立こそが戦争のための究極の目的であった。(中略)奴隷制を破壊しないで州権を抑えて連邦権力を確立することができるなら、むしろそうしたいというのがそもそものリンカーンの考えだった」(P068)。
     「リンカーンは冷徹な意志の人で、また非常に残酷な戦争指導者でもあった。(中略)歴史上、酷薄な指導者はいくらもいる。それが正義の顔をしているイメージと結びつくのもまた歴史のアイロニーである。(中略)南北戦争の戦争の仕方の過去に例のない凄まじさも、現代の全体(トータル)戦争(ウォー)を一時代早く先取りしたといわれる過酷さだった」(同)。
     「アングロサクソンの世界にずっと流れている戦争犯罪云々の思想、第二次大戦後の国際司法裁判の敗者に対する犯罪の概念はみんな南北戦争におけるリンカーンの正義の観念から出たのではないかと思っている」(P071)。
     「南北戦争は世界で最初の総力戦であったといわれる。二〇世紀の戦争の原型である。南北両軍で合わせて六二万人の死者を出した。(中略)犠牲者がいかに多かったかがわかる。足かけ五年かかった凄絶なる戦争だった。南部の抵抗もただごとではなかった。リンカーンの意志も強烈だった。彼はどう考えても奴隷のために戦ったのではあるまい。人種平等のために戦ったのでもない。連邦をつくるために、連邦国家統一のために、国家確立の正義のためにどんな残虐なことにもひるまなかったのだと思う。奴隷のために白人がそこまでやるとは考えにくい。しかし国家のためとあればやるだろう。それがアメリカではないか。独立はしたけれどまだできあがっていない国家だったのだ」(P71)。
     「北部が勝利することにより、アメリカは期せずしてヨーロッパ諸国と肩を並べる国、あるいはそれらを超える国に列することに成功した。独立戦争(一七七五-八三年)を始めた頃、ヨーロッパ諸国はまだ君主国家ばかりで、共和国などひとつも存在しない時代だった。アメリカ独立戦争がアメリカ革命と呼ばれる所以である。すなわち人民の合意によって政府がつくられる、被治者の承認によって統治がなされる、こんな国はまだ理論上の問題でしかなかった。アメリカの建国がフランス革命にほぼ同時代的に連動する世界史的な出来事であったと言われることには相応に理由がある」(P073)。
     「リンカーンは宗教的な人間であった。メシア的な感覚、救世主の感覚を持っていた。南北戦争は神の声に導かれていなければ起らなかったし、あそこまで戦えなかったとは、アメリカ人の歴史的記憶のなかにある」(P076)。
     「われわれ異教徒はこれをどう感じ、どう考えたらよいだろうか、信仰によってこれほどの殺戮が行なわれたのである、遠くからこれを眺める者に向かって共に祈れ、共に感動せよと言われてもそうは行かない」(P078)。
     アーネスト・テューブソンという人がキリスト教救済国家アメリカという意味の標題の本で次のように述べていることが紹介される。「キリスト教の黙示録的終末論意識、大地を揺るがす恐怖と荒廃、苦難の数々に襲われたのちにやがて湧き起こる千年(ミレニ)王国(アル)期待のハレルヤの歓喜法悦こそが南北戦争と世界大戦にアメリカ人が邁進していった心理的準備条件であった」(P079)。
     リンカーンの第二次大統領就任演説に先立つ四〇年前、会沢正志斎が『新論』で「遠くから敏感に何かを感じていて、キリスト教が軍事力と結びつく警戒を」(P079)語って卓説を開陳している。西尾氏はそれを、「正確に見るべきものは見ていたといえるだろう。維新に入ってからの日本人には見えなくなっていたものを見ていた。文明開化は日本人の目を狂わせるに足るものがあった」と述べ、続けてこう展開する。
     「幕末から先の大戦までの日本人の本当の心理は、私は最近何であったのかと思うのだが、当時の日本人はどうしていいか正直分からなかったんだと思う。アジアを解放するなんていうことではなく、アジアの仲間が欲しかっただけだ。恐怖と不安を仲間と分かちあいたかったんだと思う。(中略)ひたひたと迫ってくる不安があった」(P080)。
     「東日本大震災と福島の原発事故以降、なんとなく日本人の中で広島・長崎を思い出す人が多いのではないだろうか。(中略)あれ以来、アメリカに対するイメージも変わってきていると思う。アメリカ側も何か気にしている微妙なところがある。(中略)二〇一二年にはアメリカ大使だけではなく、(広島の八月六日の記念式典に…引用者)トルーマンの孫という人が出て来た。あれにはびっくりした。びっくりしただけでそこから先の言葉は私にはないし、日米両国民の誰にもことさら語るべき言葉はないだろう。しかしそれはまた語り出したら堰(せき)を切って言葉が溢れ出てしまう恐ろしさがあるということでもある」(P080-1)。
     氏はまた、長崎原爆投下で従兄を失った人である。
     いつだったか、N響を振ったヨーロッパの指揮者が、日本のオーケストラは楽譜を規矩正しく解釈して抑制的に音を鳴らす。第何楽章の何小節からと言うと即座に音を合せて響かせる。ある時、もっと歌ってくれと指示を出したら深い歌を歌い出したので驚いたとテレビで語ったのが印象に残っている。これは広島とは別の話である。ただ、古代では「沼や淵の水も深海の水に通じると信じられていた。底無し沼という名がそこに生じる」(西郷信綱『古事記註釈』ちくま学芸文庫第四巻161頁)。同じように、N響という湖水に溢れ出た「歌」は、先の大戦をめぐる民族の深い海の水のようにも思える。
     そして、「アメリカの歴史には『中世』が欠落しているのか、それとも『中世』が残存しているのか」(P089)が論じられる。意を尽くした考察であり、引用すれば全部となるであろう。氏の下した結論をのみ引く。「今のところ私はそれを決めないでおきたい。両者は結局同じことを言っているようにも思えるからである」。その次第は八五頁から八九頁に直接当たっていただくしかない。彫りの深い肯綮に当たる思索が知的快楽をもたらすであろう。
     最後に自由と平等の問題が扱われる。奴隷のいた古代ギリシャでは、アリストテレスもプラトンも奴隷を当然の存在としていて、その人権などというものはあってはならないとする。古代ギリシャでは賎民という概念がなく、特定の人種が奴隷として運命づけられているという思想もない。「戦争という暴力が自由人をあっという間に奴隷に落としてしまう。(中略)自由人は自分の共同体を持っているが、そうでない逆側に落ちてしまった者には自分自身の実存そのものがなくなってしまった。他人の意思によって生も死も、心から身体までもがすべて、所有される人間の手に堕ちてしまった。そういう区別が運命として少しも疑われずに前提とされている社会。プラトンもアリストテレスもそれを自明のこととしていささかも疑わない社会、それが古代ギリシャ世界であった。
     古代ギリシャには自由はあっても平等はなかったということだ。平等は問題として意識されていなかった。平等という観念が初めて登場するのは旧約聖書の世界である。(中略)自由があるといってもそれはまた社会的に限られていた。強者の自由はあっても弱者の自由はなかった。弱者の自由が初めて内なる自由として登場するのがヘブライの世界である」(P093-4)。
     「古代ギリシャに平等がなかったわけではない。自由なる市民の平等、強者の間の平等はあった。しかも条件を平等にして、つねに激しく競争し合うことがギリシャ人に求められていた生の形式であった」(P095)。結果の平等、競争の排除などはギリシャの精神とは相容れない。
     「美しいギリシャ古代の神殿や神像の数々、素晴らしい内容の哲学や文学やあるいはまたさまざま政治理念、民主政治、今日に残る深い内容の悲劇やその他の劇作品は、すべてみな奴隷制度が存在したことを前提として、自由なる市民のみが享受した『平等』の上に花開いた『競争(アゴーン)』の精華であった」(P095-6)。
     「ポリスの人口の半分以上を占める奴隷階級を考慮の外に置いた、今の時代からは信じることのできない社会構成の単純化が古代の美しい理想政治の前提であった。その壮麗な文化は『自由』と『競争』が調和し合って、近代のように『平等』の観念に煩わされなかったところに花開いた偶然にほかならない」(P097)。
     アメリカは最初インディアンを奴隷として使おうとしたが、勇猛果敢な民族で、気質も立派だったので奴隷にならない。抑えようとすると山奥に逃げてしまう。黒人が代わりに利用されたが、ヨーロッパからプア・ホワイトが大勢流入する。両者が結託して反乱を起すことを恐れ、プア・ホワイトの人権と諸権利を認め、黒人と分けた。そこで支配層とプア・ホワイトとの間に『平等』の概念が登場する。
     独立宣言に謳われた『自由と平等』はこのようなご都合主義に裏打ちされていた。片や、イギリス政府に対し植民地住民の『平等』の主張がなされなければならない。その中に、一緒に戦うべきプア・ホワイトは含まれる必要があった。彼らを味方にしないとイギリスと戦えなかったからである。(P097-8)「私は暴露心理でこう言っているのではない。(「平等」のような…引用者)美しい抽象理念だけがぽっと突然飛び出してくることはなく、現実の文脈から、必要との兼ね合いで、揉まれながら初めて言葉は生まれ、表現となるものだからである」(P98)。独立宣言の『平等』の中に黒人やインディアンが入っていなかったことはその後の歴史が証明する。(P99)。
     西尾氏は、アメリカ文明には一貫してある種の鎖国性がある」とし、「キリスト教がおそらく関係している」と述べる。おそらく、十字軍の精神が流れこんでいるのだ。「自らの文明をグローバリズムの名で、世界普遍性を主張した瞬間に、アメリカ人はより広い宇宙(コスモス)―アジア人にはそこから電磁波が感じられるーに対し自己を閉ざし、ある一定枠の意識の内部に閉じこめられているように見える。もちろん、その一定枠の中で『自由』と『競争』を最大限に活かすジャンル、例えば科学研究とか武器開発とか金融操作とかにおいては類例のない力量を発揮するのだが、政治や外交において最近の一〇〇年間にもとり返しのつかない失敗をくり返しているのは、みなこの独特の鎖国性のゆえであると思われる」(P100-1)。
     氏は、アメリカのグローバリムとはナショナリズムの表現であったことに世界はようやく気がつき始めているとして本章を結ぶ。第一章が雑誌『正論』誌上で完結したのは二〇一三年一〇月である。
     それから一〇年を超える時間が流れ、グローバリズムの破綻は今や明らかである。

  2. 抜き書き『日本と西欧の五〇〇年史』その二

    今日は第二章について。

    第二章 ヨーロッパ五〇〇年史
     最初に、西洋の五〇〇年を遡及した鳥瞰図が示される。
     「覇権国の移り変わりを現代から過去へさかのぼっていくとアメリカ、イギリス、オランダ、スペインの順であり、横側にフランスがいたりロシアがいたりで、ドイツは姿を見せず、イタリアは事実上西欧近世文化の中心でありつづけていたが、国民国家としての統一はドイツとともに遅れていたので覇権の歴史にその名は出てこない」(P109)。西尾氏は現在の「G7」にオランダとスペインの名がないことに言及し、「こういうふうにして消えるのである。わずか五〇〇年である」(P100)とし、最新のヘゲモニーを握ったアメリカとイギリスの地位が「半永久的であるかのごとく思うのは大きな錯覚ではないかと考えられる」(P111)と指摘する。
     「オランダとスペインはどのようにしていつ衰退したのか。なんと驚くべきことに、両国が最終的に覇権国として息の根を止められたのは、西太平洋、われわれの島国の目の前で起こったドラマであった。旧日本軍によってという意味では決してない。オランダはイギリスに、スペインはアメリカに窒息させられた」(同)。
     「五〇〇年史は(中略)王朝の戦争史だった。西欧の王朝の歴史がアジアを動かし、アジアの地図をこれまでいろいろに塗り替えてきた。王国は終わり、その中から近代国家が生まれてきた。王家同士の戦いの原因となったモメントを挙げると、ひとつには新教と旧教、プロテスタントとカトリックの争いだった。もうひとつの動機、もっとも決定的で重要な彼らの戦争の動因はイスラム教との戦いだった(同)」。
     「アジアの植民地獲得の競争は(中略)あくまで王朝の金庫を満たすための手段であった。欧州同士の戦争に成功を収めるための資金獲得の手段として、彼らはアジア、アフリカの植民地を必要とした」(同前)。
     「五〇〇年遡及史を考えてみて、もうひとつ気がついたことは、二本の糸が織りなされるように五世紀にわたって一貫して強大な覇権意志を示した、いわばこの歴史の代表チャンピオンとして二つの王国スペインとイギリス、カトリックとプロテスタントを代表する両国が挙げられることである。五〇〇年の歴史の流れを過去に向かってさかのぼっていくにつれスペインが強大化し、逆に二〇世紀に向かって下ってくるにつれイギリスが大きくなった。スペインとイギリスこそが五〇〇年の歴史を飾るヘゲモニーへの勝利の象徴的位置を占めている。
     そして、なによりも大切なことは、この二つの王国が行き着くところ共にアメリカの創造者だったことである。南北アメリカを区別して言っているのではない。どちらもアメリカであり、合わせて一つのアメリカである」(P112)。
     スペインの興隆は次のように始まる。
     一五世紀末にキリスト教徒が団結してイベリア半島からイスラム教徒を追い落とした失地(レコ)回復(ンキ)運動(スタ)、そしてコロンブスのアメリカ征服がもたらした富、さらには若き皇太子カルロスの神聖ローマ帝国カール五世即位によって辺境の一小国は一大帝国へと駈け昇った(P115-6)。「一五六五年、カルロスの息子フェリペ二世が帝位を譲り受け」、「有名なレパントの海戦(一五七一年)でアジアへの海路を妨害していたオスマン帝国を打ち破り、東方への路をつけた。当時のスペインは苛烈な異端審問制度でも知られる。海を越えてあるいはアメリカの新大陸へ、あるいはアジアの未知の地へスペインが雄飛したのはひとえに宗教的情熱のゆえであり、イエズス会がこれを先導した。イベリア半島からイスラム教徒を掃蕩したあのレコンキスタの情熱とアメリカ大陸征服の情熱はひとつながりであり、根底において一体のものであったと考えるべきである」(P116-117)。
     東方にはフェリペ二世と角逐の火花を散らすことになる関白秀吉が世界征服計画に乗りだしていた。朝鮮を越えて明、さらには天竺(現・インド)に及ぶ東アジア全域にわたる一大帝国を築き、「地球の半分を総攬(そうらん)すべき統括者になろうというようなこのうえもなく大きな企てであった。これはすなわち、中華中心の華夷秩序をも弊履(へいり)のごとく捨て去ってしまう日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者として立ち現われた点が注目されなくてはならない」(P117-118)。
     「秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ二世と同じ意識において世界地図を眺めていた、日本で唯一人の、近代の入口における『世界史』の創始者として振る舞おうとしていたというその意図がポイントなのである」(P118)。
     一五、一六世紀の地上において王権の正当性は『武威』に求められていた。日本も同様であった。朱印状の一節にある文言『日本弓箭(きゅうせん)きびしき国』が『大明の長袖(ちょうしゅう)国』に戦って負けるはずがないという、武力で天下を統一してきた秀吉の自信のほどがこの背景に現われている」(同)。
     この辺は『国民の歴史』以来のモチーフであり、西尾氏の筆勢は躍動する。
     「西洋史では大航海時代を以て『近代』の始まりとする。イベリア半島の辺境の一小国があっという間にヨーロッパ全域の超大国にのし上がったのも日本の戦国時代の『天下統一』の例に似ている。これがほかでもない、一六世紀という時代の共通の特色なのだ」(P119)。
     「秀吉は(フェリペ二世と交換した贈答品の…引用者)添え状の中で、日本は『神の国』であるからキリスト教の宣教活動は許されない旨書き送った」(P120)。
     「スペインが動けば世界が震えるといわれた時代だ。よもや自分に歯向かう者などいるはずもないと信じていたフェリペ二世は、地球の裏側で威嚇に一歩もたじろがない一人の男がいることを知り、どう思ったであろう。これは世界史的な二つの意志の激突の瞬間であった」(同)。
     「私たちは江戸時代が中間に入っているために歴史が一六世紀以来ずっとつながっていて、
    日本が世界との対決を忘れている間にも世界各国のパワーポリティクスは継続していた事実に対し意識が及ばない。近代日本人のいわば盲点である。秀吉の時代から太平洋の歴史は途切れずにずっとつづいていた。このことに深く思いを致すならば、秀吉の武威の発動は狂気ではなく、一六世紀人の『近代的な自覚』の発露であったと看做(みな)すことになんのためらいも要さないだろう。ヨーロッパ五百年遡及史の試みは、西欧を見直すためではなく、日本の歴史を複眼で捉え直すためにもっと利用されるべきである」(P121)。
     今回『国民の歴史』「第16 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか」を読み返してみたが、以上に書かれていることは既に縦横に論じられており、措辞も似通っている。氏は『国民の歴史』の歴史観を再度踏み固めながら本書の論考を進めている。小学生の西尾少年が尊敬する偉人として秀吉の名を挙げたことが、『少年記』に描かれている。担当教師が秀吉は民主主義者でないと撤回を求めたが(戦後とはそんな時代であった)、肯んじることはなかった。歴史を現在の目から見て疑わない教師と、当時の人の視点で想像力をめぐらして見ようとする西尾少年との対立であり、前者は相変わらず今日も跋扈している。それにしても、西尾少年の視程に秀吉の意志のどこまでが捉えられていたのだろう。
      一八九八年の米西戦争によりキューバに加えてスペイン領フィリピンが陥落し、「イギリス海軍は西太平洋をアメリカに引き渡し、艦隊を撤収した。スペイン帝国とイギリスとの積年の対決に終止符を打ったのはイギリスではなく、新興国アメリカだった。アメリカはこれによって一等国となり、太平洋はアメリカの海となった。以上は日清戦争(一八九四-九五年)と日露戦争(一九〇四-〇五年)の中間に起こった出来事である。日露戦争の勝利によって日本もまた一等国として台頭するに及んで、日米戦争は時間の問題となってくるのである」(P049-50)。
     「こうしてヨーロッパの五〇〇年遡及史の中で主役を演じていたスペインとオランダはいつの間にか影が薄くなり、現代のG7にもその名をとどめなくなった。日本がアジアを解放して両国を追い払ったからではない。スペインとオランダに関しては今次大戦の始まるはるか前に自滅していた」(P126)。
    「日本は内向きになったために近視眼となり、今次戦役の背景を知るのにせいぜい一〇〇年
    どまり。ペリー来航より以後しか見ないが、それではあまりに不十分である。
    五〇〇年くらいは射程に入れないといけない。正面から相手を見るだけでなく、アメリカやイギリスなど主役の背中を見ることから始めなければいけない」(同)。
      失地(レコ)回復(ンキ)運動(スタ)によって「ポルトガルがイスラム教徒を地中海の東方へ追い払ったちょうどその頃、東ヨーロッパは新たな異教徒モンゴル軍の侵掠によって大きな脅威にさらされていた」(P127-8)。
    「東ヨーロッパに侵入したモンゴル軍はオゴタイ・ハーンの訃を聞いて引き返し、しばらくヨーロッパに平和がつづいたが、ちょうどその頃オスマントルコが勃興してきて、小アジアに足場を固め、バルカン半島の征服に乗り出した。一三五六年オスマントルコはヨーロッパの東部に猛烈な進撃の歩を進めた」(P128)。
      当時のキリスト教徒たちは「ヨーロッパの西隅に押し込められて逼塞した心理状態にあった」。「彼らは世界の終末が近づいていると感じていた。イスラム教徒の圧力はオスマン・トルコの台頭で一段と厳しさを増していた。一四五三年にはコンスタンチノープルが陥落して、ビザンツ帝国は亡びた。オスマン軍の艦隊は一四八七年頃には地中海の西方にまで深入りして、フランスやスペインの沿岸を襲ってさえいた。ヴァスコ・ダ・ガマの船出の十年ほど前の風雲急を告げる事態であった。当時のヨーロッパ人は弱気になり、自分たちを脅かしていたモンゴル人に同盟を申し込んで、イスラムに対向しようとさえ計画する人が現れたくらいである」(P134)。
      「こういう事態だから、東方の海への出口は希望の高まる救済の道であり、信仰の思いを確かめる唯一の開放の道で窓でもあった。(中略)世界の終末は近づいていた。最後の審判の前にひとりでも多くの異教徒を改宗し、地上のすべての民に福音をとかねばならないのだという固い信念は、あらゆる物事の前提として、キリスト教世界を覆っていた」(P135-6)。
    中南米でのスペインの残虐行為を告発したラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を見ても、彼自身のこの異教徒を改宗させるという「固い信念」だけは疑われることなく、牢固として揺るぎない。
      「アラビア海からインド洋全域に及ぶヴァスコ・ダ・ガマの暴力的海域制圧」(P137)、「ガマの行為は現在の私たちが知っている外交儀礼から見ると常軌を逸している」(同。羽田正氏『東インド会社とアジアの海』からの引用)。そのような暴力行為に「ガマは顔色一つ変えなかったと言われる。イスラム教徒は殺害してもよいのである。許しがたい仇敵なのだ。それは十字軍の精神でもある」(P138)。
      「それでいてガマはモザンビーク付近の海岸で、永年探しつづけていた(ヨーロッパでは当時、アジアかアフリカのどこかにいると信じられていた…引用者)あの伝説の王、キリスト教の王プレスター・ジョンの存在について原住民に聞きあさり、ありそうもない不確かな噂を耳にしただけで『われわれは嬉しさのあまり泣き出してしまった』と記録されてもいるのである。
      これをどう解釈したらよいのだろう。キリスト教徒はこのとき一般に信仰上のことで何か追いつめられた心理に駆り立てられていたようである。信仰と殺戮、幻想と暴力の二律背反の矛盾はここにはない。彼において非合理と合理は一体化していた。抑圧されてきた閉鎖文化圏ヨーロッパからの脱出と解放は、いずれにせよ他害的破壊的様相を辿らざるを得ない。インドやアフリカという多神教の融和と温順に満ちた世界にやってきて、そこで見せた一神教の自滅的悲劇の表現というべきである。しかしそのこのましくない噂、そして影響は遠く時代をへだてて今日の世界に及ぶほどに広範囲で、深い」(P138-9)。
      「海に国境は存在しない。地中海は不自由だったが、インド洋は自由だった。それなのにポルトガル人はインド洋にラインを引いてこれを囲い込むことをした。沿岸の一つひとつの港町は地図の上でばらばらに散らばる点でしかなかったのに、それらの点をつないで線をなし、“ポルトガルの鎖”と名づけられた海上の囲い込みを実行した。その中で貿易に従う船はすべて通行証(カルタス)を備えていることが要求された。いざといときにそれを示せないと、積み荷は没収され、乗組員の生命は保障されなかった。貿易船はもちろん港町に税を収(ママ)める義務があるが、それとは別に、海を支配するポルトガル人にも税を支払わねばならなかった」(P139-40)。
     羽田氏は、「『ポルトガルの鎖』の内部は海なのである。ポルトガル人のインド領は。この海における交通と貿易を支配し、そこからあがる税収をその主たる収入とする『海の帝国』だった」と書いている。「しかもこのシステムは一八世紀になってイギリスの東インド会社でも採用され、運用されるようになった。軍事力を背景に、地球の広大な領域に自由勝手な線引きをして、その内部を囲い込でで管理し、支配するというこの発想は、人類史上ことのほか深刻で、影響の大きい意味を持っている。アングロ・サクソンがこれを引き継ぎその後の歴史で大規模に展開したことはよく知られる」(P140)。
     一四九四年にローマ教皇認可のもとに、「トルデシリャス条約」なるスペインとポルトガル間で世界を幾何学的に領土分割する「境界(デマル)画定(カシオン)」がなされる。「世界の終末は近いというあの千年王国の幻想と危機感、自己破滅と自己膨張の一体化した、地球全体を神の名において統括し救済せんとする特異なイデオロギーの表現」(P141)である。この「自由な空間に境目をつけるというものの考え方は一種の排除の論理」(P142)であり、「後のアメリカの帝国主義的グローバリズムにもまっすぐにつながっている何かがあるように思える」(P142-3)。
      「本書の第一章で私はアメリカを論じて次のような特徴を挙げた。アメリカ人は自らを一つの世界と思っていて、彼らにとって国際社会は存在しない。アメリカは戦争をするたびに大きく姿を変える国、戦争のさ中にその体質がダイナミックに変わる国である。脱領土的な世界支配をめざし、植民地はもたないが、その代わりより広大な空間の全域支配を狙い、他国操作の遠隔化、間接的な空間コントロールを特徴とする。その手段の一つは金融であり、もう一つは制空権の掌握である。(中略)アメリカの意図するグローバリズムは“ポルトガルの鎖”になんと似ていることであろう。ポルトガルもまたインドなどの内陸の王権とは共存共栄で、脱領土的な世界支配を狙っていた」(P143)。
      「ポルトガルやスペインが手を染めた『大航海時代』における空間の拡大は、中世末の閉塞し押し潰された精神の暗闇、モンゴルとイスラムに追い詰められたヨーロッパ人の絶望が突如反転して爆発した自己救済の運動といってもよかった。時間にも空間にも自足していたインド洋沿岸の人々にはただひたすら驚愕(きょうがく)で迷惑だったに違いない。同じように三五〇年前にアメリカという国家の出現を海の彼方に見て首を傾げつつその進出と接近に不安を抱いたわれわれ日本人は、空間でなく時間の充実に、ヨコ軸でなくタテ軸の深化と成熟に、生を賭する民族だった」(P144)。
      「異教徒の海を武力占拠し、原住民を奴隷化してもよいという正当戦争の根拠について」、ポルトガルのジョアン三世」(P144)が一法学者から得た答申を紹介し、氏は「ことごとく手前勝手な論理であることには呆れ果てる(P145)と言うが読者も同感であろう。キリスト教による救済、宣教師の布教の正当性を主張し、異教徒の自然法に反する罪深い悪習を捨てさせ正道に導く戦争の正当性を言いたてるのが常である。「文明が野蛮を制するというロジックは現代アメリカの政治や外交の底流にあることは、歴史からの遠い信号として見逃せない」(同)。五〇〇年遡及史の功徳と言うほかあるまい。
      そもそも自然法に反する罪深い悪習とは、人肉嗜食(じんにくししょく)や人身御供(ひとみごくう)が含意されていたらしい。しかし「自然法という概念は広くて曖昧である。アウシュヴィッツを裁いた法的には疑問の多い『人道に対する罪』も自然法に論拠を求めていた。人間ならそんなことはしない、あんなことをするのは人類のうちに入らない、そういう漠然たる判断が自然法の前提である」(P146)。これは「ときには大変に常識からかけ離れたものの考え方や逸脱を生む可能性がある。『人間』とか『人類』という概念の基準をいったい誰が決めるのかがつねに大きな問題だからである」(P146-7)。「すべてを常識やコモンセンスの判断に委ねる平和で健全な市民社会」(P147)でだけ適用を限定すべき法規範だったというべきだろう。「異教徒の支配権や財産権を尊重する論拠を宗教の違いに求めれば争いは収まらない。それでもっと違う普遍的規範はないかと考え、これを自然法に求めた。(中略)ここにも落と
    し穴があるのだ。(中略)自然法の規範である『何人も占有していない空間は誰もが占有し得る』は広いインド洋をポルトガル人がひとり占めする恰好の口実にならなかったであろうか。自然法を抜け道にする論争の自由が中世末のヨーロッパの思想界を混沌に陥(おとしい)れたのだった」(P147)。
      ヨーロッパ世界は「古代ローマ文明からある要素を受け継ぎ、キリスト教という普遍宗教を心の支えとしてはいたものの、極端に閉ざされた精神文化圏であって、圧力をかけてくる異民族、異文化に対しては当然ながら不寛容で、攻撃的であった。自己を基準にして他を測る排他性は異教徒の社会との緊張が高まれば高まるほど激しくなっていくのは自然の成り行きであるが、外への拡大が政治的征服ではなく、異民族に福音を伝えたいという願望、宗教的情熱を伴っていたことが著しい特徴だった、それは一面からいえばこの文明の光と闇を抱える複合性、二重性、ダイナミックな思想性の証明であったが、他面からいえば救い難い自己欺瞞のおそれを孕んでいた」(P148-9)。
     「異教徒との主な戦いは四つあった。聖地イエルサレムの奪回をめざした十字軍、ドイツ騎士団がポーランドやエストニア地方を劫掠した北の十字軍、イベリア半島からイスラム教徒を追い落とした失地(レコ)回復(ンキ)運動(スタ)、そしてきわめつきはスペインによる新大陸発見とポーランドによるアフリカ南端を回ってのインド洋と太平洋への進出であった」(P149)。新大陸発見後のスペイン人たちを動かしたのは「経済的欲望だけではなく、中世に書かれていた幻想的物語(『黄金伝説』等…引用者)が久しく与えてきた幻であり、世界の終末は近づいている、あと一五〇年もすると世界は終わるというキリスト教徒に特有の黙示録的信念がそこに重なっていた。
     「コロンブスは大西洋を横断する自らの行動を聖霊によってインスピレーションを与えられた宗教的一大事業と考えていたに違いない。イベリア半島からイスラム教徒を追い払った年(一四九二年…引用者)に船出したのは決して偶然ではなかった。スペインがイスラム教徒とユダヤ教徒を追放したうえでのキリスト教大同団結の年に、自分は世界的大使命を果たすのだと秘かに自負していたに違いない。イエルサレムの奪還という十字軍の狙いとアメリカ大陸発見の目的とは根は一つなのである。コロンブスは大陸で出会う異教徒をすべてキリスト教に改宗させ、スペイン国王の忠実な下僕にすることをことあるごとに誓っていたし、また国王にそう書き送ってもいた」(P149-150)。
      「この同じ中世のスペインに、一〇〇〇年以上も闇に埋もれていた一群の文書が日の目を見て、ヨーロッパ精神史上に革命的な結果をもたらすという事件が起こっている。文書の中の代表の位置を占めていたのはアリストテレスの著作群だった。ギリシャ語ではなくアラビア語に翻訳されていた。しかも土中に埋もれていたのを発掘されたのではなく、驚くべきことにコルドバやトレドなどの大学の図書館に所蔵されていたのだ。イスラムの支配からスペインが解放されたときにそれが分かった」(P150)。
      「三〇〇〇ページにも及ぶその著作は(中略)西ヨーロッパ文明のその後の展開の基礎となる思想であるし、また事実その通りになったのである。そうであるならキリスト教徒は、これまで敵視してきた異教徒、よりにもよって最大の敵であったイスラム文明が、このように進んだ合理的知的体系を保存し、育成し、伝播(でんぱ)と普及に貢献していたことを知ったとき強い羞恥の念に襲われなかったのであろうか。異教徒や異文化に対する認識を改めなかったのであろうか。自分の文化圏の外で仮に違う体形、違う肌の色をした民族に出会ってとしても、自分の尺度で相手をきめつけてはいけない、地上には自分など及びもつかない『他者』が存在するのだという謙虚な認識に立ち至らなかったのであろうか」(P151-2)。
      「国王カルロス一世が神聖ローマ皇帝(カール五世)に選出されてからはインディアス(スペイン人の植民地)から流れ込む金銀は王室財政を大きく潤し、なくてはならない帝国最大の支柱となった。スペイン人が野蛮人とみなすインディオの土地や財産を奪うことは果たして許されるか否か、その前にインディオはそもそも人間であるのか否かが、あらためてドミニコ会の修道僧を中心とする神学的哲学的論争の最も関心の集中するテーマとなった。そのとき討議者たちがつねに意識する思想的規準は聖アウグスティヌスであり、聖トマス・アクィナスであったが、しかしそれをさらに超える亀鑑(きかん)として仰ぎ見られていたのは、ほかでもない、アリストテレスであった」(P152)。
      次に、「征服の中止を訴えつづけてきたドミニコ会士のラス・カサス」と「アリストテレス学者のセブール・ベダという当代きっての哲学者」さらに「スペイン・スコラ哲学の良心といわれるビトリア」(P153)の三者によるインディアス征服戦争は是か非かをめぐる論述が紹介される。ラス・カサスがインディオとインディアスについて語ったことは、(中略)およそ正常な感覚をもってみつづけることができないこと、キリスト教徒がしたことなら信仰を覆さずにはいられないようなこと、信徒なら心の奥底をかき乱され天を仰いで絶句せずにはいられないこと、『人類』などという収まりのいい安定した甘い概念など糞くらえと投げ出したくなるようなことばかりであった。
      ラス・カサスは叫びつづけたのである。その声はセブール・ベダも、ビトリアも、凡百のあらゆる観念的思想家の言葉をはるかに飛び越えて今日に聞こえてくる。
      本人はキリスト教の司祭であり、神聖ローマ皇帝としてのスペイン国王への忠誠心に篤いと自らそう思っていただろうけれども、彼の言葉は共同幻想の外に立っていたのだ」(P170)。
      コロンブスの息子ディエゴが一五一二年にキューバ征服軍を出動させたとき、「ドミニコ会士モンテシノスという司祭が植民者の蛮行・非行をはげしく糾弾する説教を行った。(中略)植民者を擁護するフランシス会とドミニコ会との争いにも発展した。国王は神学者や法律家に命じて会議を開かせ、討議させた。ここから世紀の大論争が始まった。そもそもエスパニューラ島(現在のドミニカ共和国とハイチ共和国…引用者)等で見出されたインディオたち原住民は果たして人間であるのかどうかという疑問が打ち出された。これまでに叙述してきた通り、一六世紀当時のヨーロッパではキリスト教徒の社会のみが真の人間の社会であり、その外部には化け物や妖怪の存在が予想されていたほど無知だった。イスラムやユダヤ教徒などの異教徒を含んだ『人類』の概念は未発達だった。人文主義思想はまだ根づいていない。(中略)一般には国王も聖職者も民衆も、キリスト教中心の考え方にとどまっていて、異教徒に『万国法』(後の国際法)を適用する必要を認めなかった。まして理性を持たない野蛮人(バルバロ)は奴隷化するも生かすも殺すも勝手という判断は一般的だった」(P176)。
      「そもそも教会こそ十字軍の発起人だった。教皇は内部の異端に厳しく対処し、精神の純化を図り、そしてその上で外部に対し激しく戦闘し、ヨーロッパ世界を拡大した。東のイエルサレムや地中海域のイスラム教徒を追い落とし、その同じ勢いがアメリカの新大陸発見へ向かった。しかし拡大がある範囲を越えると、異教徒との妥協をさぐり、融和的にならざるを得なくなるのは必然である。だから教皇(インノケンティウス四世…引用者)の寛容とは外の世界に対するある種の政治的表現の信号にほかならないのである」(P182-3)。
      「さてそこで、インディアス問題に直かに関係するが、異教徒が占有または所有している土地を奪うことは許されるか否かという問題は、外部へ拡大するキリスト教徒にとって中世の早い段階から難問だった。インノケンティウス四世はこれを自然法に反すると考えた。(中略)自分が欲しないことを他人にしてはならないのが自然法の教えだからである」(P184)
     しかし、「異教徒もキリスト教徒も含めてそれらの上位に立つべきローマ教皇(中略)は異教徒に対しても裁判権を持たなくてはならない」(P184)。「かくて彼が出した解決策は、武力を行使して異教徒を処罰することが許される正当な理由を自らのために二つ見出すことだった。その一つは異教徒が自然法に対する蛮行、男色とか一夫多妻、偶像崇拝などに陥っている場合に、これに対し刑罰戦争を命じることができるとする点である。二番目は、異教徒に信仰は強制すべきではないが、信仰の説得役、すなわち伝道者や宣教師を受け入れるよう求めることはできるので、これを拒否したり妨害したりする者には宣戦布告できるとする点である。十三世紀のインノケンティウス四世のこの認識と判定は次の世代に与えた影響力がきわめて大きかった。歴代の教皇がこれに倣(なら)った(同)。
     「以上を見ると、自然法は異教徒を迫害から守る楯にもなるが、迫害に口実を与える矛にもなる、文字通り『矛盾』そのものの扱いを受けていることになる。征服者コルテスの友で、アリストテレスを拡大解釈したかの『帝国主義者』セブール・ベダも、ほぼ同じ論法でインディオの自然法違反を侵掠の口実に利用していた(中略)。異教徒に融和的であることで歴史に名を遺したインノケンティウス四世の寛容の正体は暴露されている。
      異教徒もキリスト教徒もともに共通の本性によって普遍的な『人類』であると、初めて高らかに謳った『国際法の父』ビトリアは、近代西洋の民主主義その他の法意識の伝統につながっていくが、その彼を思想的に背後から支えていたのも、三世紀前のインノケンティウス四世であった。そしてインディオを『人間』として位置づけたその堂々たる主張が、打ち割ってみると、セブール・ベダとそう大きな違いはないと知ることは、ある意味で大変に大きな驚きである。われわれ日本人がキリスト教的世界としての近代西洋というものの全体の正体が何であるかを見据えるためにも次の苦い認識から目をそむけてはならない。
      ビトリアは、『インディオについて』第一部第三章で、野(バ)蛮人(ルバロ)に自由に福音を伝えることが妨害された場合、「応戦したり宣戦を布告することができる」と言っている。
      『もしも他の方法をもってしては宗教のためにならないという理由があれば、スペイン人が彼らの土地や地方を占領し、新しい支配者を任命してそれまでの支配者を退位させることが、そしてその他の正戦において許されているすべてのことを実行し、正しい戦争の法を行使することができるということである』。(『人類共通の法を求めて』所収。以下同)
      『もしも一部のバルバロがキリスト教に改宗したとして、彼らの君主が暴力をもって、あるいは脅しをもって彼らを偶像崇拝に引き戻そうと望む場合、スペイン人はそれを理由として、必要とあらばそして他に方法がないのであれば、戦争を起こし、そうした不正を止めるようバルバロを強制し、聞きわけのない者たちに対して戦争の法を適用することができる、というものである。そしてその結果として、その他の正戦の場合同様、ときには彼らの支配者を更迭することもできる』。キリスト教への改宗が目的のすべてであって、それが個々のインディオの宗教心や幸福にどうつながるかなどが念頭にない観念論である。これがビトリアの『人類』の観念である」(P186-7)。まことにあられもない「近代西洋の正体」である。そして氏は次の一文で決定的なことを述べる。インノケンティウス四世、セブール・ベダ、ビトリアに代表されるキリスト教中世が変わることなく近代に接続しているのである。
      「キリスト教的近代西洋は一つの大きな閉ざされた意識空間で、最初から中世西洋の闇に蔽われ、近代が始まった時点で外部の世界を見ない、あるいは自分に都合よくしか見ない、一つのフィクションであったことを暗示している」(P187)
     「余談になるが、原爆投下に対しトルーマン大統領は(在任1945-53年)は『獣と接するときは相手を獣として扱わねばならない』と言った。アメリカは日本を何とかしてキリスト教化しようとして失敗した。日本人の天皇信仰はキリスト教徒の目からすれば『偶像崇拝』であって、まさしく『自然法』に反するのである。だから日本人は生まれつき攻撃的・侵略的・軍国主義的な国民であると決めつけることに躊躇しなかった。アメリカ合衆国は私の目から見ると、ヨーロッパ諸国―啓蒙主義を知っているー以上に中世西洋の暗い翳りをどことなく背負っている。
      本年三月二五日、ティム・ウォルバーグ米国下院議員は「『我々はガザ人道支援にこれ以上びた一文使うべきではない』と力説、『ナガサキやヒロシマのようにすべきだ。手っ取り早く終わらせよう』と演説した」とCNNは伝えている。西尾氏の次のような文章が思い浮かぶ。
    ヴァスコ・ダ・「ガマは顔色一つ変えなかったといわれる。イスラム教徒は殺害してもよいのである。許しがたい仇敵なのだ。それは十字軍の精神でもあった」(P138)。かつて日本人がそうであったように、少なくとも一部のアメリカ人にとって、ガザの人々も殺害してもよい仇敵だという意識なのであろう。今に至るも、十字軍の精神、大航海時代の野蛮は棒のごとく貫かれていると言うべきか。
      「コロンブスの史上最大の批判家ラス・カサスの言葉は、キリスト教的西洋世界の内側だけが世界ではないことを初めて知らせた雷鳴のような言葉であった。恐るべき真実を世界中に告知した原初の言葉だった。
      近代はキリスト教的西洋世界が決してすべてではない。私たち日本人はそのことを一五〇年間体験しつづけてきたのである。そしてインディオには自らを表現する言葉がないけれども、私たちには言葉があるのである」(P188)。西洋に与えられた世界史の解釈をではなく、私たち自身の目に映る世界史を語る必要があるとは、著者が『ヨーロッパ像の転換』や『ヨーロッパの個人主義』以来力説し実行してきたことである。

  3. 抜き書き『日本と西欧の五〇〇年史』その三
    今回は第三章の前半部分を掲載します。

    第三章 近世ヨーロッパの新大陸幻想
     「イギリスがインドを制圧し、植民地にしたことは、イギリスが支配空間を率先して拡大していく最初の最も重要な歴史の一つであった」(P190)と本章は始められる。「イギリスにはイギリスでなければ考えつかない独自の方策があった。(中略)ポルトガルから学び、オランダと競争し、そしてフランスを寄せつけなかった、あの徹底して『海』から『陸』を抑えこむという独自な知恵である」(同)。
     「手に入れたインドというものをいかにして英本国とつなぐか」が「最大の課題」であり、「インドとインド洋を取り囲む要地はすっかりわがものとしていた。いわばインド洋を内海化する企てに成功したと言っていい」(P192)。「近世ヨーロッパの空間革命」として『海』から『陸』を抑えにかかるイギリス海軍の先手必勝の作戦が十六-十九世紀の西洋の歴史を動かした決定要因であった」(P193)。   
     「トラファルガーの海戦(一八〇五年)の勝利を経てイギリスの制覇はほぼ確定的になった。他の欧州諸国の全艦隊の合計を超える海軍力をイギリスは保持するに至った。制海権の独占こそがこの国に栄光ある孤立を豪語させる自由を与えたのである」(P194)。
     フランシス・ドレイクという名だたる海賊がいる。コロンブスのアメリカ発見の前後に、「英王室の勅許によって略奪と襲撃を公認されていた危うい国民的英雄で」(P198)、世界周航に成功している。「貧しかったチューダー朝を財政的に支えたのも、中南米から戻ってくるスペインの金銀船団の待ち伏せ掠奪をくり返し成功させたのもドレイクの業績であった。一五八八年のスペイン無敵(アル)艦隊(マダ)を迎え撃ち撃破敗退せしめたのも、ドレイクらの海賊船団と王室海軍との一体化のおかげであった。あの『海』から『陸』を抑えるというイギリス国家の強さの秘訣は軍の起源が『海賊』にあったせいではないか。そう考えるほかないほど、十六-十八世紀において国家の背後に潜む非合法勢力のイギリス史における暗部の存在は隠すべくもなく、歴史的考察の網の目から漏らすわけにはいかない重大な事実である」(P198-9)。
     「イギリスの奴隷貿易への関与は一五六〇年代に始まり、廃止は一八三三年で、約二七〇年間にわたる。(中略)この間に一〇〇〇万人以上の黒人奴隷がカリブ海やアメリカ大陸に売却された。大切なことはエリザベス女王が最初から深く関与し、貧しい二流国家だったチューダー朝が台頭し、スペインを破り、オランダに追いせまる過程で、奴隷貿易が決定的な役割を果たしていたことだった。一回の貿易で一年間の国家予算の五パーセントにものぼる金額を稼ぎ出したという(P199-200)。「ただ、同じ時代のカリブ海の悲劇に関与しながらイギリスにはひとりのラス・カサスも出現しなかったし、『インディオは人間か』をめぐってスペイン王室が知識人を動員して大討論会を開かせたようなことも起こらなかった。イギリスの司祭が黒人奴隷の是非をめぐって神学論争に明け暮れたという話もついに聞かない」(P205)。
     「私は前に『ポルトガルの鎖』について(中略)、海上に鎖のように軍艦を配置して、港に出入りする沿岸各国の船を臨検、税を徴収するという海上帝国の本領をいかんなく発揮したいきさつを叙述した。(中略)イギリス海軍はポルトガルのこの精神を継承しているのだと考えている。つまり『海』から『陸』を抑え込み、大陸全体をコントロールするというあのイギリスの一貫した方式はポルトガルに先例を見る」(P207)。
     アメリカの提督で軍事戦略家アルフレッド・マハンの「アメリカは『島』であるは意表を突く表現であるが、島だからこそ陸にとらわれず、イギリスのように海上に出て、陸を外からコントロールする自由を確保できる。アメリカはたしかに伝統的に領土に関心がない国なのだ。脱領土的世界支配に知恵を磨いてきている。しかし世界を全土としてコントロールしたいという他国干渉欲をつねに持っている」(P208)。「イギリスが『海』を制し、それをアメリカが『空』で引き受けた」(P209)。
     「十四世紀後半から徐々に、モンゴル帝国の衰退が始まった。ユーラシア大陸の中心部のパワーが衰えるにつれ、大陸の西端と東端、すなわちモンゴルに痛めつけられなかった二つの地域、ヨーロッパと日本が徐々に本格的に動きだした、そして『海』の時代が幕を開けたのだ」(P209)。
     「日本の起ち上がりは明治維新と日露戦争では必ずしもない。(中略)なぜ倭寇と呼ばれる海上勢力が動きだしていたのか。なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか。なぜ支倉常長は『西欧偵察外交』(1613-20)をあえて試みたのだろう。山田長政ほか東南アジアになぜあれほど多数の日本人が出て行って活動したのだろう。倭寇が海賊なら、ポルトガルもスペインもオランダも海賊であり、イギリスの海賊性がなかでも群を抜いていたことが本書において今回確かめられたのである」(P210)。
     「十六-十八世紀に『海』に躍り出て行く願望においてヨーロッパ人も日本人も共通するものがあったのに、前者に強くあって後者に欠けていたのは、歴史家が見落としがちだが、突如出現した南北アメリカ大陸の暗闇の魔的なもののもつ牽引力である。ヨーロッパの歴史をあのとき始動させ、今も動かしているのは『新大陸幻想』であって、これだけは日本人がわがものとして感じることがどうしてもできない代物であった」(P210-1)。
     「西洋の歴史は休みない戦争の歴史である」(P211)。「イコール掠奪の歴史でもあった、掠奪は経済活動ですらあった」(同)。「他人のものを奪うということは命がけではあったが、正常な経済活動であって、非道徳でも逸脱でもなかった」(P213)。「ホッブズの言う『万人の万人に対する戦い』という人間社会の自然状態を定義したあの有名な標語は、中世と近世初期のヨーロッパの現実の歴史的観察の上に成り立っている」(P214)。
     「戦争が日常であり、掠奪が合法であり、プライベートな反逆とか復讐とかが当たり前なこととして横行していた」(同)。この後、ノルベルト・エリアス『文明化の過程』やホイジンガ『中世の秋』、マルク・ブロックの『封建社会』から、血と残酷が習俗化して社会に公認され、見物することが喜びとされ、裁判があてにならず、人がびくびくして不安の中で生きねばならなかった次第が示される。
     「あるとき黄文(こうぶん)雄(ゆう)氏が『戦いに負けた方は匪賊になり、勝ち進んだ方は軍閥になる』という面白い言い方をされた。国家というものが確立されていなかった時代の大陸の無法状態の中で、匪賊という強盗集団と、軍閥という地方権力とはパワーに大小の違いはあるものの、同根であり、同質であるという意味である」(P216)。
    八世紀の西洋のある法典にも「七名までは窃盗、七名から三五名までは窃盗団、それを超えるものは軍隊である、という規定がある。盗賊と軍隊との違いは単に数の相違でしかなかった」(P216-7)。
     「中世ヨーロッパに特有の未成熟、飢えと戦乱と伝染病のゆえに永く地上に生を保てないあの時代の生と死の観念、カトリック教会が司る『神の国』への信仰は、このような制約された現実の条件と深く関係していたに相違ない」(P217-8)。
    「ヨーロッパはいつまでもこんな状態がつづくわけもなく、暴力の沈静化、十六世紀から一八世紀にかけて公権力が成立するにつれ、治安の維持が図られるようになる。ここでいう公権力の成立とは、国王や皇帝といった世俗権力が強くなるということである」(P218)。
     西洋は、江戸の日本と同様人民の大半を非武装化することで反乱や内戦を防ごうとするが、今までとは別な理由から、果てしない戦争、泥沼のような戦乱に突入する。国土は荒廃し、血を血で洗う死闘が全ヨーロッパで繰り広げられた。「国王同士が率先して国家同士の戦乱に明け暮れた。国王や皇帝など世俗権力が力を得て、教会が権力を失ってしまうと、それと同時に、信仰というものがカトリック教会の一元的な統制を離れて、個人の心の問題、信仰は個人の自覚の本来性に戻れ、という新しい波が生じ、周知の通り宗教戦争が勃発し、世俗権力をまき込んでヨーロッパ全土を破局の嵐に追い込んでいった。
     ルターやカルヴァンが登場し、カトリックとプロテスタントが骨肉相食む争いを重ねたこの近世ヨーロッパの混乱、例えば三十年戦争(1618-48年)に代表される混乱は、最初に述べた中世の無差別で野放図な無秩序とは性格を異にしていることは明白である。そして、新しいこの混乱に類似の出来事が日本の歴史にまったく起こらなかったことも特筆されてよい。
    信長による比叡山焼討ちや秀吉による切支丹の成敗は、宗教が政治を動かす衝動の芽をいち早く摘んだ象徴例である。徳川幕府は神道を仏教に従属させ、その仏教を巧みに管理する知恵と権能を有していた。仏教は腐敗したが政治的にコントロールされ、宗教独自の不合理な反社会的魔力と情念が西洋におけるようにいっぺんに解放され、威力を振るうことは起こらなかった」(P220-1)。
     「明治以来自らの内部に育んだ『内なる西洋』を咀嚼(そしゃく)し自家薬籠中のものとしつつ、しかし一方、厳然としてわれわれとは別個である『外なる西洋』を距離をもって冷淡に、他者として突き離して観察する二重の姿勢を忘れてはならない」(P222)という大事な言葉がここで挟まれる。この後氏は、十六-一八世紀の凄まじい宗教戦争、内乱を克服してたどり着いた啓蒙主義は、理性や自制は本物だったのか、と問う。「じつはその分だけこのあとヨーロッパ人の暴力は、(中略)千数百年の内乱と殺し合いをようやく抑えこんだのも束の間」(P222)、ヨーロッパの外、「アジア、アフリカ、中東に溢れ出したからである」(同)。「このことを西洋の歴史家は書かない。本当に書かない。西洋の歴史に自分を寄り添わせている大抵の日本の歴史家も書かない。帝国主義の時代というような概念は書くが、実態は書かないし研究もしない」(同)。氏はここで、近年の名著としてウォーラステインの『近代世界システム』とブローデル『地中海』を挙げ、「それぞれ立派な歴史叙述で、十六-一九世紀の西洋の拡大の必然性を深く見事に描き出している」と讃辞を惜しまないが、しかし「西洋から世界を語っているだけで、われわれ日本人の視点からみた世界史像では決してない。私たちにとってはこれは決して歴史ではない。参考書に過ぎない」(P223)。
     西尾氏の視座は処女作『ヨーロッパ像の転換』以来変わらず、単独者のものであり続けている。同書の三島由紀夫の推薦文を読み返し、三島の慧眼と卓抜な文章を改めて感得してみたい。
     「西尾幹二氏は、西洋と日本との間に永遠にあこがれを以て漂泊する古い型の日本知識人を脱却して、西洋の魂を、その深みから、その泥沼から、その血みどろの闇から、つかみ出すことに毫も躊躇しない、新らしい日本人の代表である。西洋を知る、とはどういふことか、それこそは日本を知る捷径ではないか、・・・・・・それは明治以来の日本知識人の問題意識の類型だったが、今こそ氏は『知る』といふ人間の機能の最深奥に疑惑の錘を垂らすことも怖れない勇気を以て、西洋へ乗り込んだのだった。これは精神の新鮮な冒険の書であり、日本人によってはじめて正当に書かれた『ペルシア人の手紙』なのである」。これはそのまま本書への評言とすることに何ら差し支えないところに、三島由紀夫の凄みがある。
     「明治以前の日本人の視点に立った『外なる西洋』に映し出されたヨーロッパ人は決して文明人ではなく、黒々とした深い闇をたたえた蛮族だった。例えば水戸学の会沢正志斎の『新論』(一八二五年)が見ていた西洋人像はそうだった。(中略)東アジアと太平洋を襲った近代史の二〇〇年は、『新論』の予言の正しさを一部裏書きしている」(P223)。ニーチェ、荻生徂徠らと同様、藤田東湖、会沢正志斎は西尾氏の「精神の血族」(確か長谷川三千子氏の言)である。
     「今のわれわれは内なると外なるの両方への複眼をもたなくてはいけないのだ。ウォーラステインやブローデルがいくら近代世界に新しい歴史解釈を持ち込んでくれたからといって、われわれは彼らに科白をつけられて、またしても自らの歴史を西洋中心史観で語ることを慎まなくてはならないと自制するもう一つの自分が必要なのではないか」(同)。
     「本書は暴力世界としてのヨーロッパを考察している。そしてそれは中世初期から近世の宗教戦争を経て、近代の帝国主義戦争まで一貫してつながる何かがあると予想している。簡単には説明できないが、間違いなくつながっていて、われわれとは異質な何かである。その見地に立つとそもそもの始まりの中世キリスト教世界は何であったかを問わずにはいられない。教皇と聖者、正統と異端がせめぎ合う精神の葛藤の一大世界、『神の国』の秘蹟の神秘を湛え聖なる光に包まれた崇高な世界とばかりは言えない何かがある。われわれ東アジア人はあらためてそう問う権利を有している」(P224)。近代においてヨーロッパ人の暴力はアジアにも「溢れ出した」(P222)からである。
     「遠望すれば『神の国』は一つの閉ざされた世界だった。そしてくっきりした境界を持っていた。内と外、キリスト教世界と異教徒の世界、神と悪魔を截然と区別する意識だけはつねに強く持っていた。それでいて、その境目は固定しているのではなく、絶えず動き拡大した。一つは伝道によって、しからざれば力によって、キリスト教世界が拡大し伸張することに対してローマ教皇は責任と義務を負っていた。それはキリスト教徒のためではなく、何をおいても異教徒の魂を救済するために拡大と伸張が必要だという言い方がなされたのである。これは彼らの使命でさえあった。
     異教徒に対しときに力による強制を示すことは許されている、というのは聖アウグスティヌスの言葉の中にある。やがてそのための殺害や放火や略奪は罪一等を免除されるという考えに進み、これが例えば十字軍を生みだしているエネルギーだった。
     四つの方向と進路で中世ヨーロッパは拡大した。(一)イエルサレムの奪還―十字軍。(二)北方の十字軍といわれるドイツ騎士団によるポーランドからエストニア等、東方地域へかけての拡大。(三)イスラム教徒が支配していたイベリア半島から彼らを追い落とす失地(レコ)回復(ンキ)運動(スタ)。(四)アメリカ両大陸の発見と征服。
     「カトリック世界は拡大するだけでなく、休みなく自己を浄化し、内部の異端を排除していく、教皇を中心に据えた自己収斂の政治世界に見える。はじめは一方に皇帝という世俗権力が存在し、政治は聖俗混交の二重構造の体制だったが、(中略)一〇七七年の有名な『カノッサの屈辱』によって皇帝はいったん破門され、屈服し、(中略)ローマ教皇はキリスト教世界全体の上に立つ指導者の立場を確立した。宗教が政治を支配する時代が訪れたのである。十字軍という聖地イエルサレム奪還の運動は、教皇権力のこの強化とそこからの熱い呼び掛けがなければ起こらなかったろう。だが、キリスト教徒たちの間に世界の終末は近いという切迫感がみなぎっていたからこそ呼び掛けは成功したのである。キリストの死後一〇〇〇年が過ぎてからそういう空気は一段と激しさを増していた
     最初の十字軍は一〇九六年である。もし世界の終末が到来するのなら、その破局と最後の審判の日をイエルサレムで迎えたい。そして至福千年の民となりたい。キリスト教徒たちはそう思いつめた。だからこそ群をなし、聖地への軍勢に加わったのである」(P224-6)。
    「キリスト教徒たちはイエルサレムに近づくことを拒まれていたのではない。居住も許されていた。巡礼も許されていた。それなのにキリスト教徒たちは大軍でイスラム国家に襲いかかったのだ。ある神殿に押し入って一万人を打ち首にしたという記録もある。イスラム教徒は婦女子を含め一人も生きることの許されないという場所が、イエルサレムのいたるところに生じた。まさに大虐殺が相次いだのである。
     終末の日の接近に戦(おのの)いていたキリスト教徒は、罪を背負ったまま死に臨むのを恐れていた。教会はその恐怖を利用した。イスラム教徒をひとりでも多く殺害すれば、あなたは罪を許される、との教皇からのご託宣は、キリスト教徒たちを狂気に走らせた。神の恩寵を得るための戦いであるから、ここで『聖戦』の観念が与えられ、実行に移されたといっていい。(中略)このキリスト教的終末意識と閉ざされた『聖戦』の観念は十字軍だけでなく、本書で再三述べてきた通り、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマを動かし、ピューリタン革命のクロムウェルや南北戦争のリンカーンに取り憑いていた想念に通底している。
     中世で起こったことは、同じレベルとはいえないが、ずっと後の時代に連動している。十字軍は十六-十八世紀の宗教戦争とも、東アジアや太平洋への侵略とも決して無関係ではない。歴史とはそういうものである。われわれは新しい時代の到来を新しい標識で飾るのではなく、過ぎ去った遠い昔の道標をそこに読みこんで、昔の人が前を向いて、すなわち今に向かって歩いたように、もう一度同じ道を踏み固めるようにして歩くべきものなのではないか」(P226-7)。
     ひときわ長い引用となったが、ここで本書のテーマが存分に展開され、叙述は意を尽くして余すところがない。だが最後の文章は必ずしも易しくはない。温故知新というだけでは足りない。故きを温め昔の道標を読みこみながら、昔の人が歴史を今に向かって歩いたごとく、われわれ自ら歴史を歩いてみなければ新しきを知ることはできない、ということか。
     「ホッブズの言う『万人の万人に対する戦い』という自然状態は、武力を持った領主や主君という『主権者』の出現によって克服され、Commonwealth(国家)が成立するのである。ヨーロッパではそのような主権国家の誕生は、一六四八年のウェストファリア体制の成立によるとされる。そして世界の歴史学はそれに従っている。しかし、事柄はそう簡単ではない。十六-一八世紀の宗教動乱は簡単には終わらず、中世の自然状態とは違った原因と原理に基づく無秩序がヨーロッパ社会を再び、以前にも増して圧倒したことは、先に見た通りだ(例えば、ハプスブルク・ブルボン両家の対立を背景に新旧両教徒の抗争から始まった三〇年戦争…引用者)。それによってヨーロッパは一面において荒廃し、他面において人間哲学を磨き、国際法学を精緻に組み立て、軍事技術の長足の進歩を可能にした。自然科学の推進にも寄与したかもしれない」(P229-30)。
     翻ってわが国の近代国家の成立はいつかが検証され、「いずれにしてもわが国では国民国家というものはすでに(江戸時代に…引用者)形づくられていたのだ」(P231)という確信が吐露される。「国内を形づくるための格別な努力はもう要らない。国内はまとまっているし、外からの心配もない。もういいじゃないか、というのが『鎖国』とみられた現象の正体であろう。
    西洋が近代国家へ向かって一歩踏み出した時期に日本は幕藩封建体制に留まり停滞した、と従来の西洋中心史観は語るのが常だが、しかし政治が宗教を閉め出した江戸時代の日本は遅れていたわけではなく、少なくとも優劣の問われる問題ではない。西洋の宗教が暴力を内蔵していたのに反し、日本の宗教はそうではなかった点において日本文明はある段階から優良な文明であることを明示した、むしろそう考えるべきである」(P231)。しかし、西洋の歴史を尺度にして余念なく、「異質な文明同士の並列と等価値が相変わらず分かっていない進歩主義史観の迷妄」(同)は拭いがたい。
     「革命というものが近代史の劈頭を飾るべきというひと昔前のドグマがまず滑稽だが、ピューリタン革命こそキリスト教の千年王国論の独走、狂気の暴力の爆発した事件で、この宗教と政治の一体感がニューイングランドすなわちアメリカ植民地の建設に深く関与したことが歴史により大きな波動を引き起こしたのだった。
     日本は十六-一八世紀に宗教的内乱を経験しなかった国である。そのことをもって進歩に取り残されたとする歴史観の訂正をまず訴えたい」(P231-2)。
     「ヨーロッパの暴力の世界というテーマを取り上げたが、これがじつは一直線につながっている国、それがアメリカなのである。ホッブズは『リヴァイアサン』の中で、国家が生まれる以前の無秩序の世界、例の『人間は人間にとって狼』である世界からどのようにして国家が生まれるかを解き明かしたこの本の中で、無秩序の典型に当然中世ヨーロッパを認識しているのであるが、同時に当時出現したアメリカという新大陸をもその中に加えているのである。新大陸と中世ヨーロッパは同じである、と。そして、それにさらに追加して私が言えば、その後のアメリカの三〇〇年の発展は中世ヨーロッパのあの拡大と伸張の仕方に類似しているのではないかということである。これこそ世界にとって端倪すべからざる深刻な問題にほかなるまい」(P232)。
     「Manifest(明白なる) Destiny(運命)」なる自らのミッションを傍若無人に振りかざし、暴力による介入を繰り返すアメリカという存在が、ということであろう。
    このあとに、キリスト教の「世の終わり」とは「いったいどういうことなのだろう」という氏の考察がなされる。
     「神によって約束されている世界(千年王国…引用者)が未来に必ずやって来るのである。そしてそれは『世の終わり』と共に訪れる。未来へのこの期待が歴史であり、歴史は過去から来るものなのではなく、つねに未来から来る。しかも雷鳴とどろく嵐とともにやって来る。ユダヤ人はこれを預言者の思想と呼び、キリスト教徒は承け継いで終末思想と名づけた」(P234)。これは私の手には負えない。彼らはもうわれわれとは根元から違う人間ではないかと思わざるを得ない。
     「国王チャールズ一世を斬首したピューリタン革命こそが暴力革命でなくていったい何であろう」(P235)と氏は問い掛ける。
     「一六世紀後半から一七世紀前半へかけて、千年王国論的終末感情は国内で最高度に盛り上がったといわれる。スペインの無敵(アル)艦隊(マダ)撃破(1588年)の際に起こった民族主義的熱情、ホーキンズやドレイクといった海賊たちの勇気と侠気と合理的リアリズムーこれらエリザベス朝時代を特色づけていた明るくて、後先を顧みない大胆さ、暴力そのものを王室もろともに肯定するような空気は何ものかへの反逆を含んでいる。中世の暗い秩序といったものへの挑戦であり、破壊行為でもある。イギリスが近代を切り拓いたというのはこのような意味においてであって、マックス・ウェーバー的な明るい近代性の濫觴という意味にだけ方向づけるのは間違いである」(P236-7)。
     こういう見逃しがたい「神を宿す」細部を随所に持った書物であるから、本文を引用するにも容易に取捨選択を許さない。なおこれは、長い間われわれが押し戴いてきたマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に向かって放たれた本質的な批判であろう。
     千年王国論には三つの考え方の型がある。(一)まず神が地上に現われる。激しい争闘、変革の嵐、戦争が起こり、その後に真の至福の王国が千年続く。「前千年王国論」といい、過激で急進主義的で、革命幻想の原型でもある。(二)神の来臨を千年王国の実現の後の遠い未来に置く「後千年王国論」。漸進主義的、保守主義的である。(三)教会こそがすでに「神の国」であって、神の地上への来臨は起こらないとする「無千年王国論」。聖アウグスティヌスの説くところであり、カトリック教会の立場がこれである。
     「千年王国論はこの時代特有のものではなく、古代からずっとあるものである。そもそもキリスト教会が誕生したとき以来の二律背反、組織と信仰、集団と個人、権力と救済、一口で言えば正統と異端の対立が宿命的に抱えている矛盾がときとして奔流のごとく爆発する中世史の一こまのように思える」(P235)。ここで言う「組織」{集団}「権力」とは教会を様々な側面から言いなし、「信仰」「個人」「救済」とは教会に拠らない前千年王国論的激情を同様に言い換えたものと思う。「正統」はカトリック、「異端」はプロテスタントという理解でさほど誤りではあるまい。
     「一三世紀中頃純粋な使徒的生活を忘れたカトリック教会に対する批判的感情が民衆の間に野火のごとく広がり、教会の手に負えなくなるのもそれ以前からくり返されてきた各種の修道会の純粋な宗教運動の再来でもあった」(P236)。カトリック教会は、民衆の間に時に燃えさかる千年王国論の炎を消し止め、教会の中に「神の国」を設定する「巨大な政治体制」であると西尾氏は言う。また、「ここに見られる三つの見解の相剋は大局から見て政治と宗教の対立図そのものの世界」(P238)だとも言う。ここで言う「政治」とは「巨大な政治体制」としての教会であり、「宗教」とは前千年王国論のような純粋を志向する宗教運動かと思う。
    死後千年を経て地上に立ち現われたイエスに向かってドストエフスキーの描く大審問官が発する言葉、「お前はわれわれを邪魔しに来たのか。民衆の真の信仰は教会にとって迷惑であり、民衆は真の信仰、真の自由なんかに耐えられる存在ではない」(P239)と喝破する巨大な問いは、純粋な宗教、個人としての信仰、真の自由というドグマを否定し、巨大な政治体制としてのカトリック教会の立場を代弁してもいる。
     カトリック教会は神の恵みの器であり、秘蹟(洗礼、堅信、聖体、悔悛、終油、叙品、婚姻の七つ…引用者)を保ち、聖霊に導かれる場所、恩寵(おんちょう)の宝庫なのであるから、教会の営みに加わることはそのまま恩寵への参与を意味する。カトリック教徒は教会の中で生まれるのである。教会のこの上ない聖性はそこに属する個人の人間的聖性のいかんによるのではない。秘蹟と聖霊によるのである。秘蹟はそれを授ける人間の聖性とは関係ない。三位一体の名において手続きを踏んでなされればすべて有効である。また一度行われたらそれは有効でありつづける。それがアウグスティヌスの判断だった(P247)。
     恩寵が与えられるかどうかは個人の意識的努力、自覚とは関係ない。人間を超えた、人間よりもはるかに大きな何ものか、目に見えぬ聖霊への帰依が前提とされている。しかもそれは教会という『場』を必要とする」(同)。
     「私は中世ヨーロッパは神と聖霊に守られた巨大な政治体制であったとあらためて思う。一六世紀のルターやカルヴァンが登場するよりはるか前に、否、原始キリスト教会の誕生そのときから、各人の自覚や魂の救済を社会組織より上に置くプロテスタント的な告発や、弾劾はずっとあった。ただ一五〇〇年間抑止されていた。時代と共に抑止が効かなくなり、人はそれを『自由』と呼んだ。ピューリタン革命もフランス革命も反カトリック暴動にほかならない」(P249)。
     このあと、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の一節がまとまって引用される。大審問官が一五〇〇年ぶりに復活して現れたイエスに、人間は自由に耐えられるのか、人間の自由を増大させたキリストは永久に手に負えない自由という苦しみを人間に背負わせたのだと宣告する。これが、宗教的哲学的な根源的な問いであるばかりでなく、一五〇〇年間の抑止を跳ね返す『自由』の暴動へのカトリックからの肺腑を突く問いでもあったことに、西尾氏の叙述によって初めて気づかされた。本書序文『はじめに』は次の言葉で結ばれている。
     「これ(上記249頁の叙述のこと)に続く次の小節はドストエフスキーの『大審問官』からで、あのイワン・カラマーゾフの大胆な独演です。先立つ私の書いた小節は、拙いながら、ドストエフスキーの人生と文明の根源にかかわる大疑問の前座の役割を十分に果たしていることを信じつつ、筆を擱きます」(P020)。大審問官の問いがこのような新旧キリスト教の相剋を背負ったものであることを指摘したのは西尾氏の創見なのであろうか。どうあれこれは重要な観点である。
     その上で、西尾氏は「人間の意志は自由であるか」と新たに別の本源的な問いを発する。「意志は意欲、欲望、情念、衝動などを孕む概念である。私たちは外的な束縛からは仮りに解放されても、何かを欲するそのことに、つまり意欲し欲望をもつこと自体に、すなわち心の中の世界に縛られて生きていないであろうか」(P254)。意欲、欲望、情念、衝動などを含まない純粋意志、「そういう意志が先行するいかなる原因や理由もなしに決断する、そこに行為の真の自由を見たいのであるが、キリスト教文化圏ではそういう自由は全知全能の神のみのなし得る自由というであろう。そしてそれを恩寵という言葉で表すであろう。そういう意味における意志の自由は人間の身には決して起こり得ないと考えられるのが通例である」(P255)。この後、ドストエフスキー系の惑星(中村光夫『異邦人論Ⅱ』の言葉)であるカミュの『異邦人』を、西尾氏は「人は神になり得るかという意志の文学的実験」とし、「『異邦人』のムルソーのような『意志の自由』は神ならぬ身の人間世界には想定できないのである」(P256)と言う。
    「私たちは平生、私たちの意識が行動を決めているような気がしている。しかし意識は判断を下す司令塔ではない。意識とは、脳の無意識の部分が動いた結果を単に受動的に受け取って、あたかも自らが主体的に決定したかのように錯覚する機能にほかならない。私たちは無意識という幻の中を漂って生きているのである。
     『意志の自由』は通例、意識の主体性を前提とする。それを妨げ、人間から責任観念を少しずつ弱めてきたのは貧困など社会環境の認識と、人間の心身全体を司る無意識界の発見であった、マルクスとフロイトの出現は個人の良心の自律性というものを絶望的なまでに危うくしたのである。だが、奇異なことに、その『個人』を確立せしめたのはキリスト教であり、と同時に、同じ『個人』を窮境に追い込んだのもキリスト教であった」(P257)。
     「『個人』を確立せしめた」とは、思想史的に然るべく説明できようが、私は次のような大審問官の言葉が当て嵌まるかと思う。「人々の自由を支配するかわりに、おまえはそれを増大させ、人間の魂の王国に、永久に自由という苦しみを背負わせてしまった。(中略)確固とした古代の掟にしたがうかわりに、人間はその後、おまえの姿をたんなる自分たちの指針とするだけで、何が善で何が悪かは、自分の自由な心によって自分なりに判断していかなくてはならなくなった」(P251)。「『個人』を窮境に追い込んだ」とは、例えばカトリックの七つの秘蹟(サクラメント)、とりわけ洗礼は幼児に与えられて「本人の選択の意志ないしは自覚ははなから無視されて」(P246)おり、「個人の自覚的努力などというようなことを言い出すと、それがすでに異端の表現」(P247)とされる点に表れている。

  4. 抜き書き『日本と西欧の五〇〇年史』
    今回は第三章の残りすべて。

     「エラスムスは人間の理性を信頼していた、今日で言う社会常識に近いところから問題を考えようとしているさまが窺える。それに対しルターは人間の理性を信頼しなかった。神の全知全能と人間の無力が彼の思想の出発点である。救いは人間の意志や努力に関係なく、神の恩寵にのみ関係があるということを徹底化している。近代人のように人間を中心に据えて神を見るのではなく、むしろ神のために人間は存在するのである。(中略)ルターの有名な神秘的体験、『塔の体験』で彼が悟ったのは、『神の義』(正しい人間として神に認められること、罪の赦し)は自分で努力して獲得するのではなく、神から与えられるものをただ受容するだけの、どこまでも受け身の活動である。神はすべてを独占していて、予めある者を救い、ある者を滅びに任せる選択は、前もって神が予定している思想のうちに入っている。救いの根源は神のこの選びにある。人間の側の善行や功績はまったく無力であり、救いは神の意志によって定められているのみで、人間の自由意志は認められないとされる。『奴隷意志論』(ルターの著作の標題…引用者)とはそういう方向のことである」(P261-2)。
     「このように人間の自由意志というものはまったく認められていない。もしほんの少しでもこれを認めれば、人間は徹底的に謙遜にはなれない存在だ、とルターは考える。(中略)謙遜とは彼の場合、(中略)神の前における自分の悪、汚れ、無力を認識して、自己を嫌悪し、否認するに至ることである」(P263)。
     「前にも述べた通り、アウグスティヌスは中世カトリック世界を指導し統合した存在で、いわば政治勢力としてカトリック教会の思想的象徴であるが、今にしてみればキリスト教の歴史の中でマルティン・ルターに最も精神的に近い存在はアウグスティヌスである」(P264)。氏の言うとおり「これは逆説でも何でもない」(同)、しかし驚くべき指摘である。 「救いに関してすべての決定権は神にあるとする点で両人は徹底している。対立関係とは思えない」(同)。
     「ただルターには心理的欺瞞をえぐりだす近代人らしい鋭い勘、意識下の世界をも見抜いてわずかの自己錯覚をも許すまいとする犀利な洞察眼がある。(中略)人間が定めている善悪基準をどう超えて行くか。善は神が与えてくれるものであって、何が善悪であるかは人間には分からない。それだけに自分の自由意志で律法を守ろうとすればするほど、神の義、神から与えられる赦しに対しては、事態はどんどん悪化する。ルターは意識の及ばない心の奥を見てそう考える。フロイトにつながる意識下が意識世界を縛り不自由にする心の全像の認識こそが『意志の不自由』論の実相で、アウグスティヌスとは異なる近代人ルターの一種の科学精神である。
     私は少し前に、真の自由な行動には、それに先立つ原因も理由も見定められないはずだと言った。キリスト教文化圏ではそういう自由は全知全能の神のみのよくなし得ることで、人間には許されず、わずかに恩寵という言葉で言い表わされるだろう、とも付け加えた」(P264-5)と確認した上で、著者が「わが文化の中で強いて対応するものはと」(同)として挙げるのが『歎異抄』なのである。
     「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、・・・・・弥陀の本願には、老少、善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。・・・・・本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと云々」(P265。『歎異抄』第一条)。
     「まことに本願の力は絶対で、世の中のいっさいの相対的善悪を問題にしないと喝破している。親鸞の言う阿弥陀仏のお力にまかせ切るという他力本願は、姿を替えた『奴隷意志論』のことである。『自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり』(第三条)」。
     ルターは神は愛であるという。人間の感覚や理性から神は隠されているという。人間性にとって隠された神である。これは真意が私にはまだよく分からないがー『愛』という文字を使われると東洋人には手に負えないー、親鸞の言う『浄土の慈悲』にひょっとして似ているかもしれない」(P265-6)。
     ルターを語るに、われわれに親しい親鸞を以てす。古今東西の古典を自家薬籠中のものとした放れ業と言うほかはあるまい。
    もはや本文を部分的に引用することは不可能で、ますます長くなるのをとどめがたい。 
     「私は本書で、中世ヨーロッパ世界といわれるものは信仰と暴力から成る一大政治勢力であると見立ててきた。ここに十六世紀の科学精神がつけ加わって、地球上の他の地域に対し怖いもののない自己中心の拡大運動体となった。破壊と文明、闇と光の二重性をその特色としてきた。
     「近代」とはひとりヨーロッパだけが生み出したものではない。日本の『近代』は独自の歴史の古層からの結実である。けれども西欧のそれは強力であった。地球の他の地域にとってつねに模範であり、尺度であった。それは中世ヨーロッパに深い関係がある。信仰・暴力・科学の母胎は中世に始まる。近代西欧のさまざまな構成要素は中世にすでに形成されていた。
     中世、近世から近代へ時代が下るにつれて西欧文明のたたずまい、その外容は、地球の他の地域のそれに似てくる。二十世紀以後になると、地表の文明の外見は均質化し、平板な共通性が当たり前になってくる。そのため今、ヨーロッパ・キリスト教世界がアメリカに広がり、さながら地表全体を蔽い尽くしているかのような感覚的錯覚が生じている。経済や社会思想だけで歴史を語り、宗教を中心に据えずに叙述している世界の歴史家、人文学者は、おおむねこの錯覚に囚われて学問を展開している。日本の学者で反旗を翻す者はいない。西欧の学者にのみ自らを世界の中心の座標軸と考えたくなる環境が与えられているのである。フェルナン・ブローデルやイマニュエル・ウォーラステインが最近では日本の学者の規矩準縄になっているさまを見るがよい。
     近世から中世へと時間を少しずつさかのぼって行くと、彼我の間の相違は否でも応でも誰の目にもはっきりしてくるだろう。信仰が中心になるからである。違いが大きく見えれば、現代の違いの少なさは目の錯覚であると気がつくだろう。そこで遠い過去から、順を追って近代や現代を透視するようにしていけば、今までの日本の歴史の学問が宗教を死物のように扱っていたための間違い、例えば宗教改革が果たした『近代』を誕生させた役割としての意義などについてあらためて考えが及ぶに相違ない。
     日本の知識人は相当程度にキリスト教の理解者であろうとしている。教養としてのキリスト教に関心が深い。けれども大半は信者にならない。それでいてヨーロッパ・キリスト教世界の歴史に自己の歴史を無反省に寄り添わせてきた。日本の歴史に関する説明の泉をヨーロッパ史から汲み取ってきた。が、二つの歴史像は近づけても重なることはない。時代が遠くなると、ますます大きく距離を開いてしまう。別の文明なのだから当たり前である。それでいてヨーロッパの『近代』は模範であり、尺度でありつづける」(P266-8)。
     「国民の歴史」や「江戸のダイナミズム」でわれわれが経験した息をのむような剔抉である。これは学者、知識人だけの話ではない。ケインズが言ったように「「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である」 (『雇用・利子および貨幣の一般理論』塩野谷祐一訳)。
     「ヨーロッパにおける『近代』の成立は宗教の歴史と切り離せない関係にある。近代とは『個人』を確立させた時代であるとひと口で言っていいと思うが、その『個人』とは信仰を自ら選び取るという自覚においてスタートした。エラスムスふうの楽天的人間主義によってではなく、ルターからカルヴァンに進む過激なまでの自己否定の論理、自己の心の甘さの追放劇を潜り抜けなければ信仰を十六世紀に自己のものに再生はできなかったのである。私はそのことを概念的スケッチでもいいから伝えたかったのである」(P268)。ルターは中世カトリック世界を導いたアウグスティヌスをなぞるように、「回心の神秘的ドラマ」(P264)を経てプロテスタントとして近代を切り拓いたのであった。
     中世ヨーロッパでは、ゲルマン人とローマ人が混血し、そこに他民族が動乱とともに流れ込んできて、「個人と個人が、民族と民族が、宗派と宗派が突っ張り合う多様性の坩堝(るつぼ)であった」(P269)。同時に部分と部分の「離合集散のプロセスのなかで、全体の統一性が自動的に成立する」(同)「文化的統一体としてのヨーロッパは、昔から単純な神権政治で支配されるような画一的世界ではなかった。中世カトリック教会は権威であって、権力では決してない。多様な全体を柔軟にまとめる精神的権威であって、地上の権力は皇帝に委ねられていた」(同)。『ヨーロッパ像の転換』や『ヨーロッパの個人主義』の若き西尾幹二の口吻を彷彿とさせる記述である。
     「しかし。ある時期からカトリック教会はにわかに政治権力に化したのである。なぜか分からない。十字軍(第一回一〇九六年)がその最初の現われである。教会は信仰と暴力から成る一大政治勢力として動きだした。十字軍はイエルサレム、北方バルト海域、イベリア半島のイスラム勢力の掃蕩に向けられた。アメリカ大陸の発見と征服もその大きな流れに沿った動きだということはこれまでにも何度も書いた。ヨーロッパ中世世界の力ずくでの境界の拡大が始まった。そして二十世紀におけるソ連や中共と同じように、外に拡張すると共に、内に異分子を粛清する力学も動きだす。それはヨーロッパ内部に向けての『十字軍』のことであって、次に述べる通り、壊れかかった中世世界を建て直す引き締め行為だった」(P270)。
     そもそも中世ヨーロッパは、ことに北方はケルト、そしてその宗教ドルイド教に代表される多神教風土に蔽われ、その他、神秘主義哲学のグノーシス主義、ペルシャ発祥のゾロアスター教、太陽崇拝のミトラ教、二元論的教義を持つマニ教等が存在し、パレスチナに起源を持つユダヤ教、キリスト教は数ある宗派の一つに過ぎなかった。
     「ルターの宗教改革は、ヨーロッパ内部に残存している異端的な心性、二元論的宇宙観とか多神教とか汎神論への心の傾きなどに対する一神教からの最後の、徹底した攻撃であり、排除の運動であったとはいえるだろう。その意味で宗教改革こそが、もう一つの『十字軍』だった」(P271)。「彼が確信していたのは、一神教としてのキリスト教の信仰を選ぶのにあれかこれかではなく、どこまでも『個人』の自覚に俟(ま)つべきだ、ということにほかならなかったのである。『近代』の確立とはそういうことであった」(P272)。復習すれば、ルターは「救いは神の意志によって定められているのみで、人間の自由意志は認められないとする『奴隷意志論』を説いた。ほんの少しでも自由意志を認めれば、「人間は徹底的に謙遜になれない存在である。自己の救いに対して、どれほど些細なものであれ、自分はなにごとかをなし得ると確信している限り、彼は自己信頼に留まり、自分自身に徹底的に絶望するには至らない」(P263)からである。「謙遜とは彼の場合、(中略)神の前における自分の悪、汚れ、無力を認識して、自己を嫌悪し、否認するに至ることである。言いかえれば自己の罪の意識、すなわち罪人としての自己認識が必要だということである」(P263)。ルターが「『個人』の自覚に俟(ま)つべきだ」とした「個人」とはこぅいう個人のはずである。このすぐ後に西尾氏は「さて、ここがどうしてもいまひとつ私には分からない点だった。なぜここでひとっ飛びに『罪』という概念が出てくるのか」と付け加えている。キリスト教の「愛」について、も氏が同様の感慨を洩らしているのを考えれば、あらためて西洋との間の溝の深さを思わざるを得ない。
     「ヨーロッパ文明は宗教改革によってじつは再統一を計ることに成功したのである。(中略)カトリック教徒が(傍点引用者)新教の呼びかけによって目覚め、あらためて自覚的に自らの信仰を選び直すということが起こったからだ。私がマルティン・ルターにいちばん似ているのは聖アウグスティヌスだと言ったことの暗示的意味がお分かりになるであろう」(P272)。「恩寵が与えられるかどうかは個人の意識的努力、自覚とは関係ない。人間を超えた、人間よりはるかに大きな何ものか、目に見えぬ聖霊への帰依が前提とされている」(P247)というアウグスティヌスの思想をルターは共有している。西尾氏はニーチェの言葉を引用する。「ルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ」(『アンチクリスト』)。ニーチェは地上から消えてなくなるはずだったキリスト教が息を吹き返したのを嘆いているのである」(同)。
     「新約聖書の原書はギリシャ語であった」(P273)が、「イスラムの急激な進出によって、(中略)西欧世界ではギリシャ語を理解する人がいなくなった」(同)。「新約聖書のギリシャ語の原典を復元する必要を痛切に自覚したのはエラスムスだった」(同)。「じつに驚くほどの忍耐と苦心」の末に「紆余曲折を経て、一五一六年に、ギリシャ語新約聖書の最初の校訂版をラテン語の翻訳と註釈をつけて出版した。聖書の文献学史における目を見張らせる成果であり、偉業である。ルターとはまた違った通路から彼は信仰への道を開拓したといえる」(P274)。
     「さりながら問題はまさにここに胚胎していた。西欧の地域は大略七世紀から十六世紀まで、荒れ果てた野蛮の地となり果てていた。一四-一六世紀はことに飢饉と病気と戦火に見舞われ悲惨だった。これが西洋史の起点である。西洋は中世に始まり、古代ギリシャとは関係がない。古代ローマとはある種のつながりはあるが、西洋人が古典古代世界を自らの古代史に仕立てるのはルネサンス期に生じたイデオロギーにすぎない。それにもかかわらず、否、それだからこそヨーロッパ人は学問に、哲学に、芸術に、絶え間なくギリシャを追い求め、讃仰するのである。
     エラスムスが身をもって示したのは、自らの聖典を原書で読むことを拒絶されていたこの文明の根源的な飢えの姿である。ヨーロッパはその歴史の始原において癒やし難い不安を蔵していたといえないだろうか。中世に始まり近代に及ぶ外への拡張と内への引き締め、侵略と粛清のあのドラマは、最初に根差す飢えと不安のいわば姿を変えた自己露出であり、手負いの傷の自己治療の欲求の姿なのではあるまいか」(P275)。
     思えば、本居宣長や梨壺の五人等先人の手を経て、古事記や万葉集を当時の言葉で一応の理解が可能なわれわれは遥かに自己充足的である。

     次に著者は、モンテーニュ『エセー』の「食人種について」に言及する。新大陸アメリカでは山の向こうの民族と戦争をしたとき、捕虜を連れ帰ると、長い間十分にもてなし、思いつく限りの便宜を与えた上で火炙りにして殺し、皆で食べ、その場に来なかった人にも肉片を届ける。殺される方も最初からそのことを承知していて従容として死に就く。モンテーニュの発する驚くべき観察と思想は全文を引かせていただく必要がある、
     「新大陸の国民について私が聞いたところによると、そこには野蛮なものは何もないように思う。もっとも、誰でも自分の習慣にないものを野蛮と呼ぶなら話は別である。まったく。われわれは自分たちが住んでいる国の考え方や習慣の実例と観念以外には真理と理性の尺度をもたないように思われる。だがあの新大陸にもやはり完全な宗教と完全な政治があるし、あらゆるものについての十全な習慣がある。彼らは野生である。われわれが、自然がひとりでに、その自然な推移の中に産み出す成果を野生と呼ぶのと同じ意味において野生である。しかし実際は、われわれが人為によって変容させ、自然の歩みから逸脱させたものをこそ野生と呼ぶべきである。(中略)われわれは自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまりに多くの作為を加えすぎて、これをすっかり窒息させてしまったのだ。けれども自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつまらない試みに赤恥をかかせている」(P276)。
     西尾氏が評するように、この「判定は当時の人だけではなく、今の人をも真に驚かせるに足るものがある」(同)。「モンテーニュは自分の尺度というものに囚われないで、他人の中にある自分と違うものを信じ、世界には互いに反発し合う多種多様な生き方が存在することを、単に理解するだけでなく、相対化して判断されたその尺度を、自分を越えた一つの規範として確立する地点にまで高めたのである」(P277)。文化人類学などなかった当時において、既にその視座に立ってものを見ているばかりか、正に「自分を越えた一つの規範にまで高め」ていることに驚かされる。学生の頃私は、『エセー』を読み始めてこの章のあたりでモンテーニュの言っていることが分からず放棄した覚えがある。今回西尾氏の解説でそんなことが書かれてあったのかと了解することができたように思う。まことに「先達はあらまほしきものなり」と言わなければならない。続いて西尾氏の言を聞こう。
     「日本人は近代化=西洋化をめざしてからあとヨーロッパ文明国の視座の外に立ってものを見ることがかえって難しくなっているが、モンテーニュはここ(ボルドー市のシャトー…引用者)で暮しながら意識は例外的に外に立ち、外から内を見ようとしている。ヨーロッパ人(主に征服スペイン人)の暴虐と非道に対し彼は容赦ない」(P279)。
     「真珠と胡椒の取り引きのために、これほど多くの都市が劫掠され、これほど多くの国民が絶滅され、何百万という人々が刃にかけられ、世界で最も美しい土地が転覆されたのである。何と卑劣な勝利ではないか」(前掲『エセー』)(P281)。
     一方、ラス・カサスの「書き残した告発の言葉は数世紀をへだててなお今日に強い衝撃力を持っている。自分の生きている国家や社会の通念を突き破って、ヨーロッパ人の共同幻想の外に立っている一面があるからである。その点でモンテーニュと同じ精神を具えていたともいえる。彼らは何らかの固定観念に基づかない。概念で世界を組み立てて見ない。ヨーロッパの思想家の中では数少ない例外者である」(P281)。
     モンテーニュの「『習慣』の恐るべき力についての洞察は鋭く、深い。どの国にもどの民族にもある自らの文化を絶対視させる原因のひとつは、たしかにこの習慣の力である。そう内省する彼は、一方では、野蛮と見なされる遠い異域にも違う習慣が同じ力で支配しているであろうことを見逃さない」(P283)。
     「日本では支配階層に『切腹』という制度があった。もしも当時モンテーニュの耳に達していたとしたら、これも『習慣』のうちに入れられたであろう。世界には信じられない不思議な習慣がある、と。ただし西洋人が平気で行っている行為、例えば『魔女裁判』を日本人が見たらやはり信じられない行為と思われるであろう、と付け加えることを忘れなかったに相違ない。彼が決定的に他の西洋の思想家とは異なった点である。当時としては考えられないほどにヨーロッパの自己中新思想を免れた人であった」(P283)。

     一三世紀半ばのローマ教皇インノケンティウス四世は、「異教徒といえども服属の意を示す限り、攻撃を加えない。十字軍そのものは認めたが、いたずらに異教徒と戦うことは望まなかった。
     彼が許した十字軍は異教徒から奪われたものは奪い返す、という範囲の論拠に限られ、殲滅的な聖戦論に立つものではなかった。異教徒の支配権や財産権を決して否定しない、という点でかのビトリアに先がけていて、ビトリアに指導的理念を与えていたともいっていい。近代は中世に根を持つのである。インノケンティウス四世にとって重要なのは、異教徒か否かではなく普遍的規範に則っているかどうかであり、その規範とはほかでもない『自然法』なのである」(P285-6)。
     「『何人も占有していない空間は誰もがこれを占有し得るが、いったん誰かによって占有されている空間は何人も侵略することが許されない』。そのような侵略は『自然法』に反する。と彼は述べる」(P286)。
     「カトリック教会はとりあえずここで自他の対立と相違の枠を取り払う共生の観念を打ち出したのである。
     けれども、自然法はもうひとつの別の逆説的結果を引き起こした。自然法に反する行為をした場合にローマ教皇は違反者を罰することができるとしたからである。神を崇めることは自然であるのに、偶像を崇拝した異教徒はこの点において処罰に値する。とりわけ人肉嗜食人身御供は自然法に反する大罪である。ここでまたしても『食人』が大きな鍵をなして立ちはだかった」(P287)。
     インノケンティウス四世がアリストテレスを奉じる「国際法の父」ビトリアに指導的理念を与えていたことから分かるように、「近世ヨーロッパの人文(ヒューマ)主義(ニズム)は中世に深く根を持っている。(中略)文明と野蛮との間に『境界』を設け、前者が後者を『裁く』という、これ以後の地球を動かしていく思想の流れは、宗教戦争に終止符を打ちたいと願った人文主義そのものの中に胚胎していたのである。グロティウスはいわばその中心にいた主導者の一人であった」(P287)。
     続けて西尾氏は山内進氏の『「正しい戦争」という思想』から以下の一節を紹介していて有益である。
     「近世ヨーロッパにあっては、宗派の論理を超えるものとして人文主義の思想が力を得ていた。人文主義は、キリスト教以前のギリシャ・ローマの古典に回帰することで、新しい価値原理を設定することを求めていた。人文主義は、個人と都市の独立性と存在を重視し、個人や集団の自己保存と自己保全を最高の価値とみなした。また、その個人や団体の本質を理性に求めた。その論理にしたがえば、理性によって支配される文明的ヨーロッパが野蛮な世界を支配するのは不正ではない。それどころか、文明化するのは文明の義務である。『文明』が『野蛮』を制し、教え、支配する。文明の規準による戦争、野獣に対するような野蛮人への戦争を正当とする論理がこのような人文主義的思想のもとに成立した」(P287-8)。
    大切なことは、「非ヨーロッパ世界に対する一七世紀より以後のヨーロッパの植民地獲得競争と二つの世界大戦における『正しい戦争』の理念に」、国際法の開祖フーゴー・グロティウスが決定的役割を果たしてきた事実である」(P288)。
     「グロティウスは『戦争と平和の法』の最初の一文で、多数の国家と国民の法を包括的にまた一定の秩序に従って論じた者は今までひとりもいない、自分がそれを行うのは『人類』(humanigeneris)の利益のためである、と言っている。人間は個別国家の枠組みを超えて『人類』という『大共同体』を構成している。この共通利益を侵す国家に対して、国際社会のすべての構成員が起ち上がって正当に戦争を行使し、損害を賠償させ、刑罰を与えることは可能である、という考えに立つ。別のところで、圧迫されている一民族があれば圧迫者に対して戦争を行使することはできるし、そうすべきだと考える。特定の一民族を圧迫する悪い国家は攻略してよい、と。国家主権への侵害、内政干渉をあえて主張しているのである。人道的干渉は人間の権利であるとも言い、『正しい戦争』『刑罰戦争』を合法化してさえいる。われわれは『人類』という大共同体の中に生きるのであるから、苦しんでいる被圧迫民族が助けられるのは自然の願いに合致するゆえ、刑罰権の行使は『自然法』に従う行為なのだ、と。」(P289)。
     「高らかに掲げられた『人類』という言葉は人文主義の理性への信頼とキリスト教徒からの要請であることは間違いない。ただそれは余りにもキリスト教徒にとっての身勝手なロジックではないだろうか。いったいどこの誰が『人類』の名において善悪を判定し、あらゆる国家の上に立って、神のような裁きの主になる資格があるというのか。
     よく考えればこれもそれもインディオのあの『食人』の話から始まっている。食人は単純な野蛮か、それとも知られていない民族の倫理性すらある習慣なのか、中世人のいわゆる「自然法」は果たして本当に普遍的なのか。ただ、確実なのは、モンテーニュが『人類』というような空虚な概念を思考の起点にはしなかったということだ。モンテーニュはヨーロッパ・キリスト教文明圏の共同幻想から最も遠くに立っていた人である。西洋の思想界では、彼の後にはショーペンハウエルとニーチェまでそういう人は現れていない」(P289-90)。それほどの長期間(モンテーニュが執筆に没頭し始めた一五七〇年から『意志と表象としての世界』の出版一八一九年までとして二四九年間)にわたる価値相対論者の不在に目の眩む思いがする。
    十九世紀の戦争は、文明の秩序を前提に「決闘」に似て、ルール化され、ジュネーブ条約やハーグ陸戦法規が制定されたが、「第一次大戦を経て国際法の考え方に変化が訪れた。明らかにドイツを念頭に、不正な国家を処罰する考え方が出現し、グロティウスの復活が図られた。『人類』の名における正義の戦争観が堂々と語られた。あらゆる国家の上に立って、神のような裁き手となるアメリカ合衆国という新しい時代の『ローマ教皇庁』が世界政治を裁量するようになったのである」(P290)。
     「もうひとつの問題は、『自然法』に従えばこの世のすべてのものは最初は『共有』であったというインノケンティウス四世のあの認定だ。誰かに『占有』されればもう侵略できないが、『占有』されていない空間は誰もがこれを占有し得る。ほとんど人のいない空間は侵入してもよいのだ、と言っているようなものである。
     ジョン・ロックが『統治論』の中で驚くべきことを言っている。つまるところアメリカは先住民のものではなく全人類のものであり、植民はすべての者に開かれている。(中略)
    ロックのこの思想はニューイングランドの植民地政策に合致し、一八,一九世紀のアメリカに於けるインディアン対策に影響を与えたといわれる。オーストラリアやカナダのケースにも当て嵌まるだろう。これがまた植民地主義を一つの解放理念と見た当時の世界の流行思潮でもあって、満州開拓は紛れもなくその影響下に行われたと考えてよいだろう」(P291)。
     「十六-十七世紀はイスラム勢力が最高潮に達した時代」(P293)であり、「ヨーロッパが本格的に世界史の主要舞台に登場してきたのは、やっと一七〇〇〇年代終わり頃から一八〇〇年代にかけての時期である。江戸時代もすでに半ばを過ぎている。
     先立つ一五〇〇-一六〇〇年代(一六-一七世紀)に何か決定的なことが起こっていたのだろうか。この二世紀はヨーロッパのどん底時代であったが、精神史上の二大重大事件があった。」(P294)。コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、そしてニュートン等の名と結びついている「科学革命」とヨーロッパ全土を三〇〇年間狂気のごとく吹き荒れた「魔女狩り」の嵐である。この二つは、「光と闇という相互に正反対に顔を向けている無関係な現象」(P295)と見えても、「どちらもキリスト教が自己を問い直した、脱中世の時代の信仰革新と切り離せない」(同)と氏は言う。「信仰革新」とは、カトリックがゆるやかに許容していたキリスト教内部の異教的要素を撲滅し純化しようとするの運動であり、もう一つの十字軍のというべきプロテスタントによる宗教改革のことである。

     「十六-十七世紀のあの天体研究家たちは決して反宗教的でも非宗教的でもなかった。彼らが抱いた仮説は中世の神学を母胎にしていた。宗教的信念のなかに科学活動の導き手となったものがあった。宗教と科学は対立し合うどころか互恵的でさえあった」(P296)。
    「コペルニクスは太陽を灯火であるとか、宇宙の精神であるとか、宇宙の支配者であるとか呼んでいる。『見える神』とも名づけていた。そういう記録が残っている。近代天文学の祖コペルニクスの思考回路がきわめて神話的であったというこの事実ほど興味深い逆説的事例はないであろう」(P297)。
     一方、「聖書直解主義を批判し、十六-十七世紀の自然の科学的研究の発展の障害になるような硬直した観念を予め取り除こうとした自由な思想家の筆頭に挙げられる人は、かのジャン・カルヴァン(一五〇九-六四)であった。原罪を直視し、過激なまでに純化(傍点引用者)された教義を貫こうとしたプロテスタントの中の最高度の急進派が、他方ではこのような自然科学の囚われのない自由な推進者であることは何かを物語っていると言えないだろうか」(P299)。
     プロテスタントの最高度の急進派カルヴァンの宗教的純粋主義は、同時に彼の自然科学の「純粋な」推進に通じていた。そして科学革命の立役者たちの数学的純粋性は、キリスト教の「純粋な」信奉者であることと彼らの精神において分かちようもなく結びついていた。
     「カルヴァンは自然科学による創造の詳細な研究を通して、神を知ることができるとした。自然研究は天と地に美しい秩序の存在することを教えてくれる。自然の整然たる法則を知れば知るほど神の偉大さを知ることになる。そのような調和的自然観、神と天地の一致を見る思想家は当時少なくなかった、しかも彼らの神学思想のほうはたいてい相当に過激だった。アイザック・ニュートン(1642-1727)はおそらくその典型であろう。日本の子供でもその名を知る『万有引力の法則』の発見者は、ピューリタン革命の嵐の原思想ともいうべき『前千年王国論』の信奉者であった。しかもキリストがまず地上に再臨したのちに至福の千年王国が訪れるという、明日にも神が地上に降り立ち、法悦と動乱が同時にやって来るというあの『前千年王国論』の論者だった」(P299-300)。
     ニュートンは地上と天体の解明に伴い、宇宙が一定の法則によって動く偉大な機械であると考えるようになった。世界が機械である以上、「設計図」が想定された。設計者はいうまでもなく神である。世界の秩序正しさに特別の意味を見出す彼の思想は、「理神論」と呼ばれる大きな意味を持つ宗教的展開を見せ、十八世紀の理性尊重のイギリス社会に受け入れられた(P300)。
    「ここで大切な点は、天体研究に始まった十六-十七世紀の『科学革命』は、自然と世界の数学化という原理に集約されるとみてもいいことである。それは豊穣な自然と世界を計量化し、数式と分類に定型化し、境い目をきわ立たせる結果を招来することである。そして、そのような機械論的解明と組み立てが、一方で人間の理性の所産ではあるが、それが神の摂理の実現であると考えられていたのである」(P300-1)。
     「『純粋(ピュア)』であらんとすることがこの時代の精神の特徴であった。しかし自然と世界、もちろん人間も、永遠に不純で、不可測で、計量不可能なものではないだろうか」と西尾氏は疑問を突きつける。
     「十六-十七世紀のヨーロッパに荒れ狂った『魔女狩り』は、(古代オリエントの神々と戦ったユダヤ教の…引用者)古代の宗教感情の尾を引いているとはいえ、思えば「『純粋(ピュア)』をめざすすぐれて近代的な現象であったと解すべきである」(P301)。
     「嵐」を「扇動したのは無学な民衆であったかもしれないが、心理的根拠や確信を彼らに与えていたのは一流の知識人や学識者たちだった。すべてはキリスト教の信仰の枠内で起こったことである。神を信じるものは悪魔の存在をも信じる者でなくてはならなかった。明日にも千年王国の出現を夢見た十六-十七世紀のヨーロッパ人は、仮想敵として何らかの悪魔の化身を必要とした」(P302)。
     「中世を通じヨーロッパは安定したキリスト教支配の地帯では決してなかった。南方の地中海世界も、北方のゲルマン神話やケルト神話の世界も、民俗的な多神教の世界であって、ここにはキリスト教が生み出したような悪魔の観念はみられなかった。キリスト教は他の宗教の知らない『原罪』という意識―これは日本人の私にはどうしても分からないーを引っさげて、自然と和解している豊穣な森の文化や海の文化の諸宗教と立ち向かわなければならなかった。戦いは中世を通じて行われた。切っても切っても野草がはびこるように繁茂する異端の思想との防戦をしつこく重ねなければならなかった。
     前にも書いたが、プロテスタントの運動とはキリスト教内部の浄化運動であるが、見方を替えれば、カトリックがゆるやかに許容していたキリスト教世界内部の異教徒的要素を撲滅し、排除する運動で、キリスト教世界の内に向けられたもう一つの『十字軍』であったといっていいのだ。悪魔を信じない者は神をも信じていない者だ、という合言葉はここから来る。それは『純粋(ピュア)』なるものをひたすら求める求心力になって行く。」(P304)。
     「ヨーロッパ・キリスト教文明は母なる大地、大自然と和解せず、これを征服し、支配しようとしてきた父権的なる文明である。魔女狩りが狂気のごとく燃え広がった同じ時期に、天体研究が人類史上画期的な一歩を示したのは偶然ではない。これが牽引力となってヨーロッパは西方の閉ざされた一地方文明から世界文明へと引き上げられた。人はとかく世界文明へと上昇した光の部分のみからすべてを見ようとするが、背後に置き捨てられた歴史の闇の部分にこそその文明の原動力がある。裏の衝動が表の文明を支えるダイナミズムをよく見ておかなければならない。
     光は闇があって初めて輝くのである。闇が光を動かしている。としたら、われわれが『コペルニクスの転回』以来仰ぎ見てきたヨーロッパ文明の光の部分、あの世界の『数学化』は今日なお動かぬ先導的位置を占めているが、背後に死を蔵していないとどうして言い切れよう。光と闇は歴史という一筋のラインの中では一体化して簡単には区別がつかないが、見える者にはその区別ははっきりしているのである」(P304-5)
     「『自然の数学化』というガリレオとデカルトの引き起こした自然学上の革命的影響はこの上なく大きかった。その意味は(中略)、感覚的性質を物から排除して人間の『意識』あるいは『精神』のなかに押し込めたことである」(P306)。バークレイ、ヒューム、カントなどによる「哲学史の上での批判や懐疑とは関係なしに、ガリレオ、デカルト両名による『自然の数学化』は、われわれの日常の暮らしの世界を無視するかのごとく、その外で、独立した自然科学の方法論として、離れて独り歩きを始めた。色、音、匂い、味、手触りなどの感覚的諸性質を人間の主観の中に閉じこめることで、自然科学を『人間的あいまいさ』から切り離してしまう措置は、科学にとって便利この上ない方法だったからである。かくて自然はただ幾何学的・運動学的にのみ死物として線引きされ、区分けされ、数値化されて、その死物世界が『客観世界』として有無をいわせぬ勢いで人間の目の前に突きもどされてきた」(P307)。
     「『自然の数学化』に無理があることは素人がちょっと考えても分かることである。(中略)無色透明も、無味無臭も、無音静寂も、感覚的性質であることが見落とされているからである。目で見ることがなければ何も分からない」(同)。
     「人間は人間の身体も細部に分解し、物体化し、やがて人間の精神も脳生理学の対象として物質の法則に従わせる。すべては自然を『死物』として探求していることに、研究者自身が気づいていないからだ。自然は、人間の長い歴史のなかでこのように乱暴に他者として扱われてきたことがあるであろうか。人間にとって自然はいったい何であったし、何であり得るのか。
    近代以来、自然に加えられているこの仕打ちは未曾有(みぞう)のことである。『自然の数学化』という十六,十七世紀以来のこの蛮行にくらべれば、近代の他のいっさいのこと、核戦争も環境汚染もーこれらはその結果でしかないー取るに足りない小さな現象にほかならないのである」(P308-9)。
     これは確か『あなたは自由か』で論じられた問題のはずである。中学校の理科、高校の物理、化学で感じた違和感、物の性質を抽象的に数学化、記号化していくことへの拒否感の正体を説明してもらった気持がするが、だが私はまだ氏の所見を十分に理解し得心するに至っていない。
     「自分の立つ大地を球体であるとつきとめ、全体を客体として対象化することを可能にした科学的地理学並びに製図学の確立は素晴らしいことではあるが、ただ今日ここで私が問題にしているのは、それがどんなに客観的で中立的であろうとしても、価値中立的にはなり得ず、そもそも地球にラインを引いたときから政治的であることを避けられなかったという事実なのである。
     ロンドン郊外のグリニッジを標準に子午線を設定したのは科学的な理由によるからでも、単なる偶然でもない。(中略)地球の表面に先に線(ライン)を引いたほうが勝ちで、人類はイギリスがかぶせた網の中に閉じこめられたのである」(P310-311)。

  5. 抜き書き「日本と西欧の五〇〇年史」
    今回を以て終わります。長々と失礼しました。

    第四章
     「中世および近世ヨーロッパは三つの要素から成り立っていたように思える。
    くり返しになるが、一つは信仰である。明日にも神の再臨があるとする切迫した終末論的危機意識に裏打ちされた頑なに閉ざされた信仰である。二番目は暴力である。ホッブスが描いた、各人が自分で自分を守るしかない恐怖の無秩序である。暴力はヨーロッパの内にあり、外にも出て行った。そして三番目は科学である。これあることによってヨーロッパは現実世界を動かす力を手に入れた。何処に行くか行く先も分からなかったこの文明は、科学が出現したおかげで世界に大きな覇を唱えることに成功した。
     明治日本は西洋をめざしたといわれるが、あの暗い闇を抱えた、何処に行くか本当は行く先も分からなかった西洋の現実が、果たして明治の日本人に見えていたのだろか、西洋の正体を誤認していたのではないか」(P317-8)。
     同時に西尾氏はこうも言う。
     「明治の日本人は西洋ばかりを見ていて、自分と世界全構図を見ていなかったのではないか。単眼だったのではないか。正確に言えば、西洋の表面だけを見ていて、幾層をも成す深淵に及ぶ構造とその上に頑健に築かれていた『政治』の岩盤は見えていなかったのではないだろうか。西洋の進出は政治意志そのものだった。しかも信仰がいっさいに優先し、明日の自己救済を求めて必死にあがき、焦っていた」(P319)。
    「ポルトガル人とスペイン人の『地理上の発見』が、キリスト教終末思想に閉ざされた危機的世界観の内部の自己救済のイデオロギーに由来するものだったということは、本書がくり返し協調してきた」(P322)。
     「中世末期に西洋では大地は球形であり西回りでインドに到達することは分かっていたが、自らとインドとの間に途方もなく巨きな大陸が二つ(南北アメリカ大陸…引用者)存在することは当初まったく予想もされていなかった。好奇心を呼ぶこの巨大な未知の空間の突然の立ち現われに西洋世界は浮き足立ち、やがて全文明をあげて立ち向かった。それが近世ヨーロッパの歴史である。
     このあと約四〇〇年にわたって彼らは地球全体にラインを引いて、分割占拠することに熱中するが、それには理論武装が必要であった。アイデアのほとんどすべては中世に培われていた。中世ヨーロッパが『新大陸』に似ていたからである。これはギョッとするような話だが、『暴力』ということである。野放しの暴力と自由との関連である」(P323)。中世ヨーロッパが新大陸に似ているとはどういうことか、第三章の記述を引いて確かめたい。「ホッブズは『リヴァイアサン』の中で、国家が生まれる以前の無秩序の世界、例の『人間は人間にとって狼』である世界からどのようにして国家が生まれるかを解き明かしたこの本の中で、無秩序の典型に当然中世ヨーロッパを認識しているのであるが、同時に当時出現したアメリカという新大陸をもその中に加えているのである。新大陸と中世ヨーロッパは同じである、と」(P232)。
     「十六世紀から十八世紀にかけてヨーロッパ人も日本人も海に躍り出て行く願望において共通するものがあったのに(たとえば倭寇や山田長政…引用者注)、彼らに強くあって、日本人に端(はな)から欠けていたものがある。とても大事な一点だが、日本の歴史家は気がついていない。見落としている。突如出現した南北アメリカ大陸の暗闇の魔力というものを感じたヨーロッパ人と感じなかった日本人との違いである。アメリカ大陸は日本の隣国なのである」(P324)。
     「これが先ほど言った、あの七〇年(明治維新から国家総動員法に至る明治・大正・昭和の時代・・・引用者注)が苦しい激動の七〇年になってしまった根本の理由である。西洋世界がアメリカというものに総力を挙げて殺到していく長い時間に日本人は蚊帳(かや)の外にいた。西洋人の野心も夢もそしてまた狂気も、江戸・明治の日本人はつゆ知らなかった。
     この欠落の感覚こそわが国の歴史の基本に据えてつねに意識しておかなくてはいけない。我が民族のもはや取り戻せない宿運かもしれない」(P324-5)。私には西尾氏の痛憤が十分に理解できない。可能な限り想像力の羽を広げてみよう。 西尾氏は第二章でこう書いていた「秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ二世と同じ意識において世界地図を眺めていた、日本で唯一人の、近代の入口における『世界史』の創始者として振る舞おうとしていたというその意図がポイントなのである」(P118)。どうポイントなのか。「「私たちは江戸時代が中間に入っているために歴史が一六世紀以来ずっとつながっていて、日本が世界との対決を忘れている間にも世界各国のパワーポリティクスは継続していた事実に対し意識が及ばない。近代日本人のいわば盲点である。秀吉の時代から太平洋の歴史は途切れずにずっとつづいていた。このことに深く思いを致すならば、秀吉の武威の発動は狂気ではなく、一六世紀人の『近代的な自覚』の発露であったと看做(みな)すことになんのためらいも要さないだろう。ヨーロッパ五百年遡及史の試みは、西欧を見直すためではなく、日本の歴史を複眼で捉え直すためにもっと利用されるべきである」(P121)。「近代的な自覚の発露」が秀吉を動かしていたということがポイントなのだ。しかしその後日本は「鎖国」に入る。それは ポルトガル、スペインからオランダ、イギリスへと海上の覇権が移りつつある激しい時期で、謎めいていた南北アメリカ大陸への進出の夢が西洋各国を揺さぶってもいた。同じ時代に日本が対外戦争のために武装する必要を認めないという政策に踏み切ることができた理由は、どうやら日本の内部にはなく、地球上のある種の偶然が重なって、日本列島を外からは見えないブラックホールにしてしまった特殊な条件下に起こった出来事であったと私には見える」(P342)。鎖国は「対外的危機意識の突然の消滅と、対内的治安意識のにわかな高まりが同時に起こった現われであることは間違いない」(P342)。氏はまた、後段でこうも述べる。「列島から見て東側の太平洋はまったくの闇だった。ヨーロッパ人からの間接情報もなかった。あり得るはずもなかった。このことがわが国の近代史の孤独に深く関係したことは間違いない」(P352)。西尾氏は、日本が太平洋に乗り出さなかった事情に重々理解を寄せながらそれでも、「アメリカ大陸は日本の隣国なのである」とほとんど切歯扼腕していることになる。とすれば、秀吉の「近代的な自覚」は長い眠りに落ちてしまい、日本人は太平洋の暗い波濤を越えて行く「野心も狂気も夢も」持つことなく、「暗闇」に見入り魅入られることなく、「熱狂」に参画しないまま幕末に至って列強の来襲を迎えた。問題は太平洋ではなく意志にあると氏は言うのであろう。そのことが痛憤となって、氏は慨嘆していると理解してよいだろうか。文明として西洋とは異なる形で近代を所有していた日本が、明治に「文明開化」などという自己否定をする愚を冒すことはなかったはずである。開化の必要は科学技術と議会制度ぐらいのもので、文明にあるのではないという自覚と自信を持てたはずだ。明治以降の日本は別の歩みがあり得た。それはすなわち、あらゆる分野において西洋に屈従するばかりの今日とは違う日本があり得たということである。
     「江戸の日本人が西洋に魅せられた最大のものは科学である。科学は朱子学の概念を用い、当時『窮理の学』と呼ばれた」。(P325)
     「『科学と宗教』は対立概念では決してない。一体化した相関関係にある」。(P326)
     「ニュートンはピューリタン革命の嵐の原思想ともいうべき『前千年王国論』者であった。科学者なのに最も宗教的に過激な思想を展開したのが、何とかのニュートンだったのだ」(P327)。また、聖書の中にはいろいろ非科学的な記述が散見されるが、これは科学の発展の妨げになるから囚われないようにしましょう、としきりに聖書の矛盾を排し、自由な思想の推進を図ったのは、誰あろうかのカルヴァンであった。プロテスタントの中の最高度の急進派である。ピューリタン革命を動かした非寛容なドグマと宗教権力の体現者が自然科学の最高の擁護者でもあったのだ。
     これを見るだけで西洋における『科学と宗教』が単純な対立構造を形成していないことが理解されよう。江戸の日本人が考えた『窮理の学』とは著しいへだたりがあると思われる」(P327-8)。
     「そこで考えを転じて、そもそも日本は何であったか。これこそ今からわれわれが深く考えなければならない主題であろう。(中略)近代性ということでいえば(明治の開国とともに…引用者注)襲ってきたものの前近代性・非合理性というものがむしろ今問われるぐらいである。が、ともあれ、素性も由緒も知れない怪異なるものの幾重にも層となる他国の歴史の総体に、わが国は襲来されたのだ」(P330)。たとえば日露戦争後、誰も文句を言えない美辞麗句で装いながら、対日戦争に向かって突き進むアメリカの底知れぬ悪意と最初の一発を撃たせようとする挑発に苦慮しながら対処をし続けた日本が、ついに屈せず起ち上がったことこそわが民族の自己証明の道であった。「当時の日本人に同情するし、政治の間違いとか、失敗とかいろんなことが言われてきたが、しかし私に言わせれば日本の国内の責任などほとんどなかったと言ってよいように思う。ことに最後は相手が理不尽すぎる」(P330)。
     この後、「日本は何であったか」が問われる。まず「日本は世界で最もイデオロギーを持たない民族である」(P331)。「日本は二つの神様を持つ。天皇という『生き神』とそれから天竺にある『超越神』。そうした二重の信仰というか、神様を二つ持つことにより、一神教の独善を避け、暢(の)びやかにバランスよく生きるうえで、日本の歴史にとっても個人の私生活においても、これは非常に大切な恵みであった」(同前)。「キリスト教もイスラム教も韓国儒教も、そしてじつは中国の儒教も静かに拒絶している。けれども仏教に対してはそうではない。なぜか。今挙げたすべての宗教は背後に政治制度、社会風俗、法的価値観を抱えている。しかし仏教にはそういうものがない」(P332)。江戸の統一日本の姿を形づくった儒教も静かに拒絶しているというのは、前のページ(P331)で「『論語』は政治教本と私は思っているが、日本人はもっぱらこれを道徳教本としてのみ受けとめた」と書かれていることに、「拒絶」の内実が示されているだろう。日本人は『論語』が纏っている「政治」臭を洗い落として読んだのである。統治体制としては、中国儒教と一体であった「科挙を基本に擱く文民支配の高度官僚体制」は、「日本にはまったく入ってこなかった」(「江戸のダイナミズム」P78)という点に明確に「拒絶」の意志が表れている。一方、「仏教はすべての神学的展開を、最後の八世紀の密教に至るまで、発祥の地インドで果たして、そして忽然としてそこから消えてしまった。何もかも無くなった。経典もなくなれば、坊さんもいなくなった」(同前)。インドでの仏教消滅の事情は、天馬空を行くがごとき光彩陸離たる書物『江戸のダイナミズム』の一章「世界史に先駆ける富永仲基の聖典批判」に気が遠くなるような物語として精密に叙述されている。氏は「日本人が遠いインドの仏教に何の抵抗もなく入信(にゅうしん)するのは、背後に社会的なものがくっついてないからだと思うのだが、いかがであろう」(P333)と読者に問い掛ける。「仏教は日本人の『無』の感覚にこよなくフィットしているのである」(同前)。
     続いて日韓の比較がなされ、「韓国人はだから日本はセコハン文明だと馬鹿なことを言いたがるが、いわゆる文明のオリジナル論は議論に値しない。キリスト教もアルファベットも西洋文明の基本をなすものだが、西アジアの起源である。文明とは伝播であり、受容であり、融合であり、そしてその中での創造である」(P336)という文章が置かれる。西尾氏の読者は『国民の歴史』以来、この趣旨は頭に収まっており「オリジナル論」など歯牙にも掛けないはずである。セコハン論など笑止であることは、対馬の仏像を盗んでおいて最高裁から返還命令が出ても知らぬ存ぜぬを決め込んでいるのを見ても明らかであろう。
     平安時代に入って一〇〇年すると学ぶものがなくなって遣唐使派遣は打ちきられ、かつ唐が崩壊した東アジアに緊張関係は消滅したため、天皇が権力の主流から退くということが起こった。上皇が登場し、さらに武家の世になる。「九世紀以後、明治維新まで、日本は実質的な鎖国状態にあったと言っていいのではないだろうか」(P337)という大胆な明察が示される。「権力を持たない天皇と、遠い天竺にあって日本人の生活や政治を縛ってこない御仏と、この生き神と超越神のバランスの中で自分を「無」にするということは、西洋流にいえば自分を『自由』にすることなのだ」(P338)。
     明治以降、日本は「専断的に抑えこんでくる相手、自分の思い通りにはいかない相手を師表として仰ぎ見て生きるという矛盾に耐えた。(中略)西洋文明というものが学ぶべき手本として安定していた時代に、日本はいつか西洋のようになる、西洋化=近代化だという理想化の道を歩んできたが、韓国や中国にはそういう夢の時代がないのである。いいかえれば、自分を空しくして他に学ぶ、自分を『無』にする経験に乏しい。(中略)日本人の理想としての既成のこの西洋像が今ぐらついて、根底から問い直す必要があるのではないかと言っているのが本書の趣旨ではある」(P335-336)。「近代西洋はもう基準にならない。そういうもう一つの別の問題を私は取り上げてもきた。両国の知らない日本特有の孤独な課題の存在をこれからも取り上げて行くつもりである」(P339)。

     徳川幕府は一六三五年に「海禁政策に踏み切り、日本人の海外渡航と帰国をも禁じた」。「翌年、長崎の出島が完成し、ほどなく平戸を閉鎖している。オランダとのみ交易することに正式に決定した」(P341)。「世界の他の地域が争いもない平和で安定した時代に入っていたからではない。むしろ反対である。ポルトガル、スペインからオランダ、イギリスへと海上の覇権が移りつつある激しい時期で、謎めいていた南北アメリカ大陸への進出の夢が西洋各国を揺さぶってもいた。日本が対外戦争のために武装する必要を認めないという政策に踏み切ることができた理由は、どうやら日本の内部にはなく、地球上のある種の偶然が重なって、日本列島を外からは見えないブラックホールにしてしまった特殊な条件下に起こった出来事であったと私には見える」(P342)。
     「対外的危機意識の突然の消滅と、対内的治安意識のにわかな高まりが同時に起こった現われであることは間違いない」(同前)。
     「ポルトガルもオランダもまだ力が弱く、列島が侵略される恐れはないし、他方、物産と金・銀・銅の埋蔵の優位がわが国の安全を保障していたのである」(同前)。
     「世界全体の海におけるヨーロッパの力による均衡状態が確立したからとも考えられる。南北アメリカ、アフリカ、インド洋はもとよりマラッカ海峡に至る南アジア周辺の海はヨーロッパ人が支配するものとする。ただし極東アジアはその圏外に置くという秩序である。これは無言のうちに日本を世紀のブラックホールにした偶然の条件である」(P343)。
     「私はそもそも江戸時代の日本人は自国を取り巻く海、とりわけ太平洋がどういう存在であるかをほとんど認識できていなかったのではないかという疑念を抱く」(同前)。
     「ごく大雑把にいえば、一八世紀までの日本人はその最上部の指導層においてすら、自国の西については多少の知識を持っていたが、自国から東については、現代人が太陽系惑星圏の外を見ているのと同じような無限定なものへの眩暈(めまい)にも似た感覚であったろう。
     序にいえば、ジェームズ・クックはロシアと結んで秘かに日本の軍事侵略を企図していたが、徳川幕府の知るところではなかった。西に比べて東の太平洋のほうは広すぎて知識不足であった。日本人のこの姿勢は、二〇〇年後の第一次、第二次世界大戦まで根深く尾を曳いていたように思われる」(P349)。
     「列島から見て東側の太平洋はまったくの闇だった。ヨーロッパ人からの間接情報もなかった。あり得るはずもなかった。このことがわが国の近代史の孤独に深く関係したことは間違いない。日本列島は永い間、人影も、船影も、島影も見えない、何日かかっても陸地に辿り着きそうもない北太平洋という無の深淵につながる絶壁上に横たわっていたのである」(P352)。
    この後、西尾氏はマゼラン(西)、ドレイク(英)、クック(英)の世界一周の航路をたどる。クックは第二回航海マゼラン海峡を経て南極圏にまで突入する。アムンゼン(ノルウェー)、スコット(英)、白瀬中尉(日)の戦陣争い(スコットは南極点到達後凍死)に先立つこと約四〇年であることを思えば、すでにしていかに挑戦的であったか想い半ばに過ぎる。「こうしてみると航海は困難で、冒険的で、危険を孕む行為であって、地球規模で競い合って動いていた当時のヨーロッパ人のパワーには何のかんのいってもやはり脱帽せざるを得ない。江戸の小春日和をのんびり愉しんでいた日本人は一〇〇年後に手ひどい目に遭うことになる」(P368)。これは年代からして、幕末の列強の襲来を指すのであろう。
     一八世紀に入ると、「今まで魔海であった太平洋の北半分が動きだした。一八世紀の前半はロシアの伸張、後半はイギリスの拡大が目立つ」(P371)。しかしわが国は、「北太平洋でロシアとイギリスがにわかに急激な速さで列島の近辺に迫るに至った理由がラッコという小動物の毛皮の獲得と交易にあったこともまったく気がついていなかったろう。オランダはその経済的争いに関しても場外にいた」。「オランダ一国にのみ門戸を開いていた日本は、こうした世界の動きをどこまで知っていたか。オランダが国際場裡でどのようにして力をうしなっていったかについてもおそらく知識を持たなかったであろう」。「日本の『鎖国』とは何であったかを新たに理解するためにも、北太平洋の歴史知識は不可欠である」(P372)。「科学と冒険心と愛国心と、それに経済的動機が一体となった(中略)限界への挑戦の情熱の場が、この時代の少し前まではインド洋と南太平洋であった。人類の地理的空間の大規模な移動の場は北太平洋に替わった。北極海経路の回路にとり替わった。それが一八世紀人の夢だった。ロシアとイギリスが夢を牽引した。ロシアとイギリスがユーラシア大陸を二分して政治的、軍事的に対決する次の世紀の『グレート・ゲーム』を引き起こす素地はすでにここにあった。そして、それは東アジアをも引き裂き、開国して間もないわが国が日露戦争に引きずりこまれる背景でもあった」(P374-5)。
     「『鎖国』日本と『孤島』ハワイとは西洋人から見て永い間不可解な類似の存在だったのではないだろうか。この二つの王国は自ら努力することなくして海による安全、遠隔と孤絶という地政学的ともいえる有利さを享受していた。ハワイは一二〇年後にそれを奪われ(アメリカによる併合・・・引用者)、日本も追いかけるように存立を危うくする危機に出会っている」(P381)。この「危機」とは日清・日露の戦争を指す。
     「しかし現代のわが国に対しても私がしばしば口にする標語は、“日本、この悠々たる孤独の国”である。いまなお十六-十八世紀のイメージの延長線に置いて見ている。日本は『鎖国』を強いられたのでも、求めたのでもない。何もしなかっただけである。自然がそれを与えたのである。自分に関する政策を欠いている国、あるいは政策なしで放って置いても何となくうまくいく国とういうべきか。日本はもの言わず、黙っていても守られ、自ずと前進する国であるのかしれない」(同前)。警世の論客にしてこの言ありというべきか。私はこのまま受け取る。
     「ヨーロッパ人のこの烈しい地球争奪の戦い、地上に線を引いて囲い込み線の外側へ一歩でも先を争って出ようとする熱病のようなパッション」」(中略)には、「ガリレオとデカルトの幾何学的精神が大本にあると考えることに格別の無理はないだろう。科学とキリスト教の信仰と暴力は三位一体である。これは日本にだけでなく、中国にも、インドにもなかったものである」(P383-384)。ラス・カサスの時代の信仰と暴力の結合に加えて、近代ヨーロッパは科学、すなわち幾何学的精神による世界制覇に向けて先を争った。それはワンワールド実現に向けた野望となり金融と軍事を通じて今も続いている。
     西尾氏の鎖国論はこの後も続く。それは背後から現代日本を規定しているものを正確に見定めるために必須な検証である。
     「幕府がキリシタン禁止令を決め、すべての貿易を国家統制下に置き、日本人の海外渡航を禁じたのは、日本の“守り”であると同時に“余裕”でもあった。国家安全保障の見地から当時ヨーロッパ諸国との関係に限界を設けはしたが、他国との交流を閉鎖しようとしたわけではない。(中略)日本は侵すことも侵されることもなく、四辺に独自の外交圏をつくろうと努め、それにも成功した」(P385)。
     「実際に国を閉ざす意志は日本にはなかったし、そんな必要はなかった」(P386)。
     「地球規模でものを見れば、十六-十八世紀はユーラシア大陸の東端と西端がほぼ同時期に長い暗闇からめざめたときにあたる。ヨーロッパの中世末から近代への展開に照応するのが日本の江戸時代である。どちらも長い間自分を抑えていた抑圧の世界に行方を遮られていた。すなわち西欧を抑えたイスラムと日本を抑えていた中国である。ここから、それぞれ自分を解放するという自由への方向を切り拓いて、どちらも自己自身への蓄積と集中を経て、世界史的に新しいステージに立つことを可能にした」(同前)。平安時代の国風文化勃興に先駆けてもはや必要のない遣唐使の打ち切りがあったように、この時新たな国風文化ともいうべき元禄文化が興った。
     「江戸時代を通じて、『鎖国』を意思しなかったのは事実だけれども、ほとんど他者の存在を気にしないで済むほどにも地勢的・環境的条件に恵まれていただけの話ではないか。開幕から二〇〇年経つか経たぬうちに、海上四囲の情勢が急速に変化することにも気にしないでのほほんとしていられたほどにも日本は深い眠り、じつは『鎖国』に嵌まり込んでいたというのが真相ではないだろうか」(P390)。続いて、クックとラペル-ズの探検船が日本列島南北の海岸線を通過した事実を指摘し、氏は言う。
    「さんざん虚仮(こけ)にされていたのである。これでも『鎖国』はなかった、というのだろうか。
     この迂闊さ、外の世界への無関心、小さい孔から外部の一点を見て世界全体を見たと思い込んでしまう非現実性、認識の幻想性は、今に至るも変わらぬわが国知性の欠陥である。(中略)江戸時代に余りにも地理的環境に保護されて、『鎖国』をも自己認識できないほどの深い『鎖国』がつづいていた歴史的帰結なのだと今にして思うべきではないのだろうか」(P391)。
    氏は、この後、ヨーロッパ人にも鎖国意識があるとして、その「閉ざされた意識を文明の名において非ヨーロッパ圏に拡大し、それを普遍性の記号で表記し、非ヨーロッパ圏の人々が僭称された記号を受け入れて世界を語り、自分を位置づけるしかなくなっていると言う。日本の歴史の学問は身動きでないほどそれに侵されている。近代史を展望する人で、F.ブローデルの地中海論やI.ウォーラステインの近代システム論に呪縛されていない人を探す方が難しい」(P391-392)として、「ことに後者は」「十分に説得的であり、学問的で」「日本の学者が呪縛されるのもよく分かる」と同情的である。しかし、「ヨーロッパ人の書く世界史はイスラム世界と戦った戦跡や、一五-一七世紀の大航海時代の活動や、南北アメリカの大陸への進出や。アフリカ黒人を奴隷化した残虐の実態については、それぞれ相応に言葉を惜しまない。しかるにインド以東のアジアへの侵略には綜合的な叙述がほとんどないのだ。ことに東南アジアや太平洋諸島への侵略の実態はブラックホールである」(P392)。「ここから私の言いたいのは」、日本の「文明を拒絶するその意志の堅固さは『野蛮の代表』に見えたであろうことである。太平洋の島嶼群同質性は言わず語らずとも彼らの認識の内部に居座りつづけたことであろう」(P395)。
     「一八世紀までの日本とハワイ王国はある種の相似形である。(中略)私は奇を衒って、日本との“雙生児(そうせいじ)ハワイ”を吹聴しているのではない。日本史研究家が「南蛮」ばかりを見て南の海上の異国船打払いを歴史のドラマに仕立てたがるのに対し、なぜさして努力もしないで幕府がイギリスやロシアから侵略されないで済んだのか、という秘密、北太平洋という地理的幸運がもたらすプラスとマイナスがその後の歴史のうねりを形成していることを見落としているのではないのか、と示唆することが本論考の目的の一つである」(P401-2)。
     キャプテン・クックは何百年もの間、未踏の海であった魔界とも言うべき北太平洋に入りハワイ諸島に接岸した。満帆の風を受けた巨大なクックの船が姿を現したとき、誰かがあれはロノ神ではないかと口走ったが早いか、噂はあっという間に広がった。ロノ神とはハワイの四つの神の一つで、雲や風や雷などを司る収穫の神である。クックは上陸すると、礼拝にも近い尊崇を受け、英国人探検家は神格化された。その後彼は、「北西航路」発見に向けていったん島を離れたが、ベーリング海峡から先は氷に阻まれて探検を中断せざるを得ず、越冬する目的でハワイに戻ってきた。しかし人々の感情はがらっと変わっていた。クックの自分たちに対する態度は少し傲慢ではないか、島の墓地の木柵を壊すなどやりたい放題ではないか、船のマストが折れて帰ってきたというが、神の船ならばダメージを受けるはずがないのではないか等の反応が巻き起こったらしい。群衆に襲撃されて殺害される。「崇敬化の極みに起こった破壊衝動―それが西洋文化に初めて出会った太平洋の孤島に起こったドラマである」(P398)。しかし「ハワイ人は本当にクックを人の姿をした神とみなしたのか。(中略)熱烈な歓迎を受けたが、クックの『神話化』はハワイ人というよりも、文明の象徴としてヨーロッパ人の英雄を神に祀り上げるヨーロッパ人による『神話化』の働きではないか。スリランカ人の文化人類学者は大著を上梓して「スキャンダラスともいえる論争を巻き起こし」(P401)て一〇年に及んだ。ここから著者は、ハワイとの同質性を持つ日本にも同じことが起こったとする。「戦争が終わってからの日本の国内心理に、アメリカの力に対する屈服、卑屈なまでの崇拝が起こり、それを占領軍が利用するという構造が発生した」(P404)。マッカサーを崇め奉りアメリカに合併してもらうことによってのみ日本は救われるという唾棄すべき手紙が紹介される。「日本大衆のこの破廉恥な自己卑下を占領軍側が利用しないという手はないのだ」(P406)。「二世紀前のジェームズ・クックの『神話化』は、ハワイ民衆の心情によるものと、近代西洋側の価値の投影という二重性が認められる」。
     「同じことがわが国にも起こった」(P404)。「六〇年安保騒動(昭和三五年)でアイゼンハワー米大統領の訪日を空港の狼藉で阻止した(ハガチー事件)」(P407)ことは、「クックの「神格化」と農民たちの騒乱の中での彼の殺害を連想させる」(同前)。絶海の孤島の同種の長い時間を過ごしたハワイと日本の姿である。「アメリカ占領政策はいまもなお目に見えないかたちでわが国のありとあらゆる公的文書の美しい理念の部分を形成しつづけているのである」(同前)。これが結末の文章である。

     マッカサーはアメリカ軍事委員会で、アングロサクソンが科学、芸術、宗教、文化において成長段階から言えば四五歳であるとすれば、ドイツも同様に成熟していた。しかしながら日本は、一二歳の少年のようなものだと言ったのは周知のとおりである。もうマッカサーがどう言おうが問題ではないが、米国駐日大使はいまだに同じ趣旨の発言をして恬として恥じないばかりか、LGBT理解増進法を成立させた岸田首相のリーダーシップを褒め上げた。(二〇二三年六月一六日付け駐日米国大使XPost)。首相は、国会で同法案は議員立法でありコメントを控えると頬被りをしたが、大使がその後首相を賞賛したのは種明かしにしか見えない。最高裁判所は、性同一性障害の人の性別変更には生殖能力をなくす手術が必要とした二〇一九年の判断を覆し、昨年その法律を違憲とした。冒頭に引いた東大総長の式辞は経団連“Policy & Action”「2030年30%へのチャレンジ<#Here We Go 203030>」なるものと瓜二つである。それにしても経団連の標語の軽薄さにはあきれる。
     ギリシャにアリストパネスがいたように、時代の愚劣と狂気から精神の健康を保つには、卓抜な喜劇が本来必要である。令和の御代に福田恆存がいれば、総理大臣、最高裁長官、東大総長、経団連会長が駐日米国大使にかしづき、その指揮棒に合わせて科白を与えられる辛辣にして痛烈な痴愚神たちの喜劇を書いて喝采を浴びたかもしれない。「戦争が終わってからの日本の国内心理に、アメリカの力に対する屈服、卑屈なまでの崇拝が起こり、それを占領軍が利用するという構造」(P404)は、何も変わらず今に受け継がれている。
     西尾氏は、ロシアの作家ゴンチャロフがペリー来航の翌月長崎に来て次のように書いたと述べ、反論している。「この国は『鍵をなくして閉ざされたままの玉手箱』であり、『文明の監督』をああだこうだといって逃げつづけ、『自らの知性と法律で生き延びようとした家族の大集団』であり、『蟻塚の勝手気ままな国内法』を楯に『ヨーロッパ流の正義と不正義』の区別に対決しようとしている国だ、と書き記していた。
     しかしここで今一度立ち止まってもらいたい。ゴンチャロフのこの物言いこそ『鎖・文化圏』にとらわれた一方的、盲目的、自閉的、自己納得的、惰性的なものの言い方なのではないか」(P396)。
     ここで「鎖・文化圏」とは、西洋文化圏以外への理解を鎖(とざ)すという意味である。ゴンチャロフの描いた幕末の日本人には、今のわが国の統治機構の指導者には薬にしたくもない、西洋流の正義と不正義の区別と対決する自己があった。戦後にも、占領軍は日本国民の沈黙に不服従の意志を見た。指導層がどうあろうと、われわれ国民の多くは今も変わっていないのかもしれない。

     これを以て引用だらけのこの文章を終わる。途中挿入した解釈や意見には誤りがあるかもしれない。ご海容をお願いするほかない。私としては本書から、西洋とはアメリカとは何者か、咀嚼未了とはいえまざまざと教えられた思いであり、氏ご自身が「正真正銘これが最後の心意気」(「はじめに」P011)とされる書物の、歴史解釈と叙述の鋭利さ見事さと、文章の諧調のもたらす知的愉悦を存分に味わったのであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です