西尾幹二、最後のメッセージ(三)


それは自由ではない

 結局のところ、西尾氏の苛立ちは西洋文明そのものよりも、それに正面から立ち向かおうとしなかった日本に向けられる。自分は日本人だという自覚がそうさせるのだ。例えば、16世紀以降、西洋がアメリカ大陸を「新大陸」と考えて覇を競っていた時代、当時、世界一の陸軍を持つといわれていた日本の織田信長も豊臣秀吉も、その後の徳川政権もこれに関心を持たなかったことを嘆いている。

《西洋文明がアメリカというものに総力を挙げて殺到していく長い時間に日本人は蚊帳の外にいた。西洋人の野心も夢もそしてまた狂気も、江戸・明治の日本人はつゆ知らなかった》

 秀吉については、明に戦いを挑み、朝鮮出兵したことを理由に狂気の人物のように描くのが多くの歴史本でもNHK大河ドラマでも定番だが、西尾氏は違う。

《秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ二世と同じ意識において世界地図を眺めていた。日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として立ち振る舞おうとしていた》

 日本はなぜ西洋と互角に争えなかったか、西洋を凌駕し世界をリードする存在になれなかったか。そういうスケールの大きい問題意識がそこにある。

 何より、この本で最も考えさせられるのは自由とは何かということだ。現代の日本人は500年の歴史の果てに「自由」な社会にたどり着いた。民主主義のルールさえ守っていれば、宗教や道徳、慣習にも縛られず、自由に自己実現を目指すことができる。生きる権利は国が保障してくれる。しかし、知らず知らずのうちに何かに囚われて生きていないか。結婚も自由、子供を持つも持たずも自由、自分が男か女かを決めることすら自由でなければならないという風潮の下、社会自体が少子化で存続の危機に立たされている。これは本当の自由なのか。

《私たちは自分の意志で行動を起こし、自ら決断し、何ごとか決定したつもりでいることが少なくない。希望の大学に合格したり、目的の事業に成功したり、ことごとく自分の思う通りだった、と。しかしひょっとしてその人の遺伝と環境が良かったせいであったのかもしれない。…どこまでが自分の自由であり、どこからが不自由であるかははっきり定めがたい。何か原因があって、あるいは理由があって、決断し決定を下したのだとすれば、それは自由ではない》

 自由、自由というが、人間はその実、ときの環境や風潮、時代の精神に支配されずにいられない。自由はそんな簡単なもんじゃないんだ。こう、西尾氏に叱られている気分になる一節である。

 それにしても、「最後のメッセージ」と言いながら、西尾氏は雄弁である。ドラマで見る人間の最期は、たいてい一言、二言を残して息絶えるものだ。これは個人の希望的観測であるが、「西尾幹二」は死なず、これからも「最後のメッセージ」を発し続けるのではないかと思う。

「西尾幹二、最後のメッセージ(三)」への2件のフィードバック

  1. 抜き書き『日本と西欧の五〇〇年史』

    『日本と西欧の五〇〇年史』という西洋の歴史とそれを動かす様々な力の姿を日本人の立場から巨視的に見て、それが日本とどう交わったかを描く、認識を一新させる書物である。本文を引用しながら思ったところを記してみたいと書き始めたが、無智無学の当方の手に余る作業であることは直ぐに分かった。自ずと著者の文章をそのままの姿で引用することで理解を深め、本文の精華を身に浴びたいという芸のない方法をとることになった。
    以下、引用につぐ引用であり、著者と書肆への営業妨害ではないかと恐れもしたので、氏の読者は刊行一ヶ月間に購入するであろうと考え、本日に投稿することにした。しかしながら、種明かしとなることも多々あるであろうから、未読の読者はこの投稿に目を通されないことをお願いする。併せて、ブログ管理人様におかれては、相当のスペースをしばらく占有することになるこの投稿が不適切とあらば、お手数ながら削除していただくようお願いします。
    この大著に、日本の読書界は正当な関心を払うだろうか。もはや本書の持つ知的衝撃力をすら受けとめられないほど鈍感なのだろうか。欧米の見方を摂取するばかりの自己を喪失した「専門家」の群れに期待はできないように思われる。
    東大総長が一昨日四月一二日の入学式式辞で「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)宣言」、「多様性の海へ」などと言っているのを知ると、今さらながらその空虚なアホらしさにあきれるのである。それもこれも言っていることが経団連と軌を一にしていることを見れば、そもそも奈辺から発しているか思い半ばに過ぎるのである。ハーバードビジネススクール教授の説なるものを根拠として、学生の女性比率目標三〇%以上、新採用研究者の女性比率目標三〇%以上などと結果の平等と競争の排除を推し進めかねない発言と、第一章で西尾氏が描くギリシャの「自由と調和」とを比べていただきたい。
    時代の纏う一切の衣装を疑い、素手でつかみ取ったものをしか信じない、自負心に満ちた若い人にこそ、本書は読まれるべきであろう。若き日の西尾幹二氏のような、日本人に新たな知的断面を提示する知性の出現を刮目して俟ちたい。
    この投稿は、本書の構成に沿って分割して五日間程度行う予定です。

    第一章 そも、アメリカとは何者か
     アメリカが成立したのはわずか三五〇年前である。
     「当時は、スペインやイギリスやフランスなどが世界に拡大し植民地を広げていた時代であった。アメリカはそのヨーロッパを醜いものと見立て、若い自分を純粋な存在だというふうに意識しつづけていたようだ。(中略)ヨーロッパは既に老成し、頽廃し、病んでいる、新大陸の野蛮人たるわれわれの素朴、健全、無垢を見よ、と」(P024)。
     それは生命讃美の詩人、ホイットマンの詩に典型的に表現されているように思われる。
     「アメリカ人よ!征服者よ!行進する人道主義者よ!先頭を行く者よ!進行する世紀よ!
    自由よ!全体よ!」(詩集『草の葉』、白鳥省吾訳詩を若干改変した)
     「わが僚友よ!
    汝の為に私と二つの偉大を分かとう、そして三つ目のものもまた分かち持たれて更に輝きを増す。 『愛』と『デモクラシイ』の偉大、そして『キリスト教』の偉大」(同上)
     「その情熱、その脈搏、またその活力に、宏大無辺の『生命』と、また神聖な法則のもとに打ち出されたその奔放不羈の行動のゆえに、つねに爽やかなる『近代人』を私は歌う」(同、長沼重隆訳)(以上、いずれも河出書房『世界文学全集48 伊藤整編 世界近代詩十人集』より)
     「憲法に『平等』を掲げて独立し」、「ナイーブなアメリカとすれっからしのヨーロッパ、若々しい無垢なアメリカに対する老いたる頽廃のヨーロッパ、こういう基本主題のバリエーションがアメリカ人のヨーロッパ観の中に長く生きつづけてきた」(P025)。

     アメリカの特徴を西尾氏は三つの命題として提出する。
    第一命題:アメリカは一つの国であるが、また一つの世界であると、そう常に主張しているかに見える。
    第二命題:アメリカはヨーロッパに比べいささかも頽廃していない、純潔そのものの国だという自己認識で生きて来た。
    第三命題:植民地を持たない脱領土的な世界支配という方式。金融と制空権掌握を通じた他者の遠隔コントロール。

     アメリカは「戦争のたびに大きくなる国。少なくとも国家体質を大きく変化させる国。戦争が終わってではなく、戦争の真っ只中で変わる国。そしてそれで次の時代への適応を果たす国」(P037)であると西尾氏は言う。
     先の戦争でアメリカは昭和一八年を転機としてがらりとその様相を変えた。「酷薄で無慈悲になった。大量の弾薬を乱費するようになった。銃弾を前方にばら撒く作戦に変わった。集中砲火、絨毯爆撃というようなことが行われるようになった。火炎放射器が登場した」(P031)
    「戦争の性格がというよりも、アメリカという国家が、戦争によって質が変わったということが言いたいのである。これは過去の戦争においてもそのつど起こっていたことだが、第二次大戦においてもやはりそういう端倪(たんげい)すべからざる面があったということが言いたいのである」(同)。
     「マレー沖海戦(一九四一年一二月一〇日)で、行動中のイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとい巡洋戦艦レパルスは日本海軍の航空部隊によって撃沈された。(それまで空爆による行動中戦艦の撃沈は不可能というのが定説であった…引用者)これは戦史をくつがえす、世界をあっと言わせた出来事だったのだ。事実上それでイギリス海軍は全面敗北を認め、アジアの海域から撤退せざるを得なくなる。しかし一方これを契機にアメリカはがらりと戦争の方法を変えた。これからは飛行機だぞということになったのではないか。アメリカによる空の利用は前からあったが、大規模利用に転じた」(P032)。
     「よく日本はみすみす負けると分かっていた戦争に準備不足で突入した、愚かだと言われるけれども、私はそうではないと申し上げたい。むしろ声を大にして言いたい。相手が戦い半ばにして突如姿を変えたのである。(中略)イギリスやフランスが相手だったら日本は負けなかった。陸から海、海から空へ、戦略の様相の急激な変化に日本は追いつけなかった。零戦を造ったわが国航空技術も間に合わなかった」(P035)。
     「一九〇七-〇八年頃にアメリカは突然変化した。私がもう一つここで申し上げたいのは第一次大戦へ向かっていくアメリカの変貌である。あのとき日本人には理解できないことが数多く起こった。日本は戸惑い恐れ、何とか妥協し折り合いをつけようとしたが、アメリカは第一大戦の最中にまたまた変身を遂げている。
     なぜアメリカはくり返し戦争をする国なのか。戦争のたびに大きくなる国。少なくとも国家体質を大きく変化させる国。戦争が終わってではなく、戦争の真っ只中で大きく変わる国。そしてそれで次の時代への適応を果たす国。第二次だけでなく、第一次大戦でもまさにそうであった」(P037)。
     「第一次大戦の始まる前から歴史の進行はほぼすべて決まっていて、どう考えてもあとは運命の神に魅入られたかの如く、日本は中国大陸の問題を口実に引きずられていくのをどうにも避けようがなかった。もうこのあとは問答無用だった。幣原(しではら)外交の弱腰(よわごし)がいけないと言ったり、統帥権干犯(かんぱん)で日本政治が方向を間違えていたか否かとか、日本がこうすればよかったとかああすればよかったなんて話を議論したり反省したりするのはすべて虚しいと私は思う」(P037-8)。
     この西尾氏の指摘に、やはり私は小林秀雄の「放言」と言われた、昭和二十一年「雑誌近代文学」二月号「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」の言葉とほぼ同じであると思うのだが、どうだろうか。
     「大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心から起ったか、それさえなければ起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」。
     最後の言葉は単なる啖呵(たんか)ではない。戦時中の講演、『私の人生観』で語った宮本武蔵の言葉「我が事において後悔せず」が谺(こだま)しているのである。また、小林の言う「歴史の必然性」とは、日露戦争後、太平洋の両岸の新興国が激突せざるを得ない運命、アメリカの悪意を避ける術を持たなかった歴史的帰結を言ったものだろう。ただ、最終的に日本は自らの意志で起ち上がったことを忘れてはなるまい。それが依然として、かろうじて日本を「端倪すべからざる国」としている。

     「アメリカ外交の基調」として、西尾氏は「(一)モンロー主義、(二)汎米主義(パン・アメリカニズム)(三)門戸開放主義」を挙げる(P051)。パン・アメリカニズムとは「ラテンアメリカ諸国との協調を狙い」とするものだが、今やモンロー主義も汎米主義も「露骨なる覇道外交(道徳に基づかない政治)になり果てている」。「『門戸開放』の主張も中国大陸の利権に対する平等の要請であったが、アメリカは南米の利権を抱えていながら、それについては日本にも西欧諸国にも決して門戸を開放しようとしない手前勝手な言い分にすぎなかった。
     「膨張する必要がないのに『西進』という宗教的信条に基づいて膨張する国だった。西へフロンティアを求めて拡大するこのことは『マニフェスト・ディスティニー(明白なる宿命)』という神がかりのことばで呼ばれていたが。これは厄介で危険な精神である。旧世界はcorruption、新世界はinnocenceという例の彼らの、自分を神と直結させて絶対化する自己認識と深く関係している」(P055)。
     「本書の冒頭に私はアメリカにとって国際社会は存在しない、という命題を掲げた。同盟とか協商といったヨーロッパ的なやり方をアメリカはほとんど必要としない国だった。第一次大戦のあたりから(いつとは明確に私には今言えないが)、アメリカは自らの新しいやり方を他国に押しつけ始めた。大戦後のウィルソンの登場がそれかもしれない。日本の外交官・政治家にはまったく理解できない突然の変化だったし、ヨーロッパ人も戸惑いつづけた。理想の仮面を被った『世界政府』的強権主義の出現、今でいえばグローバリズムの『謎』である。イギリス人にも読めなかった『心の闇』と私は言った」(P057)。
     パリ講和会議(一九一九年…引用者)では、日本が自ら出兵して得た山東半島を、「アメリカは直ちに直接返還を要求する中国の肩を持ち、(中略)あくまで日本を排撃しつづけた」(P058)。「日米戦争は一九一九年に始まっていた」のであり、「やがて満州が焦点にならざるを得ない所以である」。日本は「同盟」、「協商」といったヨーロッパの外交方式を見習い、忠実に実行していた国際秩序の優等生だったのである。アメリカ式人権と民主主義の歴史以外は認めないという傲慢な方程式を世界に強いる時間軸の侵略は、戦後のわが国をも永く脅(おびや)かして今日に及んでいる(P059)。
     初代大統領ワシントンが誕生したばかりの共和国国民への遺訓とした「告別演説」で切実に訴えたのは国家としての「統合」だった。強い連邦政府を望むフェデラリスト、ハミルトンと弱い連邦政府と強い州政府を支持する反フェデラリスト、ジェファーソンとの閣内不一致にも見られるように理想の国家像は十人十色であった。「それだけに『統合』は次の一事をもって一挙に方向づけがなされたのだった」(P067)。
     「アメリカがアメリカになった瞬間、それは再び戦争である。戦争の只中(ただなか)においてこの国の国家体質を変え、基盤を新しく作り替えて行く。(中略)南北戦争こそまさに決定的にその代表例であったといえよう。今日われわれの知るアメリカという国家ができたのはこの戦争においてであった。しかも奴隷解放がメインの目的ではない。州権を抑えて、統一連邦権限を政治的にも法的にも他のあらゆる面でも確定する、そこに戦争の根本目的と結果があったということこそ肝要なのである。ヨーロッパも戦争に明け暮れた地域だが、戦争で統一連邦(EU)ができたわけではなかった。アメリカは一〇〇年も前に一息にヨーロッパを超えようとしていた」(P068-9)。
     「リンカーン(在位一八六一–六五年)は実際そのように行動している。リンカーンにとっては統一ある連邦の確立こそが戦争のための究極の目的であった。(中略)奴隷制を破壊しないで州権を抑えて連邦権力を確立することができるなら、むしろそうしたいというのがそもそものリンカーンの考えだった」(P068)。
     「リンカーンは冷徹な意志の人で、また非常に残酷な戦争指導者でもあった。(中略)歴史上、酷薄な指導者はいくらもいる。それが正義の顔をしているイメージと結びつくのもまた歴史のアイロニーである。(中略)南北戦争の戦争の仕方の過去に例のない凄まじさも、現代の全体(トータル)戦争(ウォー)を一時代早く先取りしたといわれる過酷さだった」(同)。
     「アングロサクソンの世界にずっと流れている戦争犯罪云々の思想、第二次大戦後の国際司法裁判の敗者に対する犯罪の概念はみんな南北戦争におけるリンカーンの正義の観念から出たのではないかと思っている」(P071)。
     「南北戦争は世界で最初の総力戦であったといわれる。二〇世紀の戦争の原型である。南北両軍で合わせて六二万人の死者を出した。(中略)犠牲者がいかに多かったかがわかる。足かけ五年かかった凄絶なる戦争だった。南部の抵抗もただごとではなかった。リンカーンの意志も強烈だった。彼はどう考えても奴隷のために戦ったのではあるまい。人種平等のために戦ったのでもない。連邦をつくるために、連邦国家統一のために、国家確立の正義のためにどんな残虐なことにもひるまなかったのだと思う。奴隷のために白人がそこまでやるとは考えにくい。しかし国家のためとあればやるだろう。それがアメリカではないか。独立はしたけれどまだできあがっていない国家だったのだ」(P71)。
     「北部が勝利することにより、アメリカは期せずしてヨーロッパ諸国と肩を並べる国、あるいはそれらを超える国に列することに成功した。独立戦争(一七七五-八三年)を始めた頃、ヨーロッパ諸国はまだ君主国家ばかりで、共和国などひとつも存在しない時代だった。アメリカ独立戦争がアメリカ革命と呼ばれる所以である。すなわち人民の合意によって政府がつくられる、被治者の承認によって統治がなされる、こんな国はまだ理論上の問題でしかなかった。アメリカの建国がフランス革命にほぼ同時代的に連動する世界史的な出来事であったと言われることには相応に理由がある」(P073)。
     「リンカーンは宗教的な人間であった。メシア的な感覚、救世主の感覚を持っていた。南北戦争は神の声に導かれていなければ起らなかったし、あそこまで戦えなかったとは、アメリカ人の歴史的記憶のなかにある」(P076)。
     「われわれ異教徒はこれをどう感じ、どう考えたらよいだろうか、信仰によってこれほどの殺戮が行なわれたのである、遠くからこれを眺める者に向かって共に祈れ、共に感動せよと言われてもそうは行かない」(P078)。
     アーネスト・テューブソンという人がキリスト教救済国家アメリカという意味の標題の本で次のように述べていることが紹介される。「キリスト教の黙示録的終末論意識、大地を揺るがす恐怖と荒廃、苦難の数々に襲われたのちにやがて湧き起こる千年(ミレニ)王国(アル)期待のハレルヤの歓喜法悦こそが南北戦争と世界大戦にアメリカ人が邁進していった心理的準備条件であった」(P079)。
     リンカーンの第二次大統領就任演説に先立つ四〇年前、会沢正志斎が『新論』で「遠くから敏感に何かを感じていて、キリスト教が軍事力と結びつく警戒を」(P079)語って卓説を開陳している。西尾氏はそれを、「正確に見るべきものは見ていたといえるだろう。維新に入ってからの日本人には見えなくなっていたものを見ていた。文明開化は日本人の目を狂わせるに足るものがあった」と述べ、続けてこう展開する。
     「幕末から先の大戦までの日本人の本当の心理は、私は最近何であったのかと思うのだが、当時の日本人はどうしていいか正直分からなかったんだと思う。アジアを解放するなんていうことではなく、アジアの仲間が欲しかっただけだ。恐怖と不安を仲間と分かちあいたかったんだと思う。(中略)ひたひたと迫ってくる不安があった」(P080)。
     「東日本大震災と福島の原発事故以降、なんとなく日本人の中で広島・長崎を思い出す人が多いのではないだろうか。(中略)あれ以来、アメリカに対するイメージも変わってきていると思う。アメリカ側も何か気にしている微妙なところがある。(中略)二〇一二年にはアメリカ大使だけではなく、(広島の八月六日の記念式典に…引用者)トルーマンの孫という人が出て来た。あれにはびっくりした。びっくりしただけでそこから先の言葉は私にはないし、日米両国民の誰にもことさら語るべき言葉はないだろう。しかしそれはまた語り出したら堰(せき)を切って言葉が溢れ出てしまう恐ろしさがあるということでもある」(P080-1)。
     氏はまた、長崎原爆投下で従兄を失った人である。
     いつだったか、N響を振ったヨーロッパの指揮者が、日本のオーケストラは楽譜を規矩正しく解釈して抑制的に音を鳴らす。第何楽章の何小節からと言うと即座に音を合せて響かせる。ある時、もっと歌ってくれと指示を出したら深い歌を歌い出したので驚いたとテレビで語ったのが印象に残っている。これは広島とは別の話である。ただ、古代では「沼や淵の水も深海の水に通じると信じられていた。底無し沼という名がそこに生じる」(西郷信綱『古事記註釈』ちくま学芸文庫第四巻161頁)。同じように、N響という湖水に溢れ出た「歌」は、先の大戦をめぐる民族の深い海の水のようにも思える。
     そして、「アメリカの歴史には『中世』が欠落しているのか、それとも『中世』が残存しているのか」(P089)が論じられる。意を尽くした考察であり、引用すれば全部となるであろう。氏の下した結論をのみ引く。「今のところ私はそれを決めないでおきたい。両者は結局同じことを言っているようにも思えるからである」。その次第は八五頁から八九頁に直接当たっていただくしかない。彫りの深い肯綮に当たる思索が知的快楽をもたらすであろう。
     最後に自由と平等の問題が扱われる。奴隷のいた古代ギリシャでは、アリストテレスもプラトンも奴隷を当然の存在としていて、その人権などというものはあってはならないとする。古代ギリシャでは賎民という概念がなく、特定の人種が奴隷として運命づけられているという思想もない。「戦争という暴力が自由人をあっという間に奴隷に落としてしまう。(中略)自由人は自分の共同体を持っているが、そうでない逆側に落ちてしまった者には自分自身の実存そのものがなくなってしまった。他人の意思によって生も死も、心から身体までもがすべて、所有される人間の手に堕ちてしまった。そういう区別が運命として少しも疑われずに前提とされている社会。プラトンもアリストテレスもそれを自明のこととしていささかも疑わない社会、それが古代ギリシャ世界であった。
     古代ギリシャには自由はあっても平等はなかったということだ。平等は問題として意識されていなかった。平等という観念が初めて登場するのは旧約聖書の世界である。(中略)自由があるといってもそれはまた社会的に限られていた。強者の自由はあっても弱者の自由はなかった。弱者の自由が初めて内なる自由として登場するのがヘブライの世界である」(P093-4)。
     「古代ギリシャに平等がなかったわけではない。自由なる市民の平等、強者の間の平等はあった。しかも条件を平等にして、つねに激しく競争し合うことがギリシャ人に求められていた生の形式であった」(P095)。結果の平等、競争の排除などはギリシャの精神とは相容れない。
     「美しいギリシャ古代の神殿や神像の数々、素晴らしい内容の哲学や文学やあるいはまたさまざま政治理念、民主政治、今日に残る深い内容の悲劇やその他の劇作品は、すべてみな奴隷制度が存在したことを前提として、自由なる市民のみが享受した『平等』の上に花開いた『競争(アゴーン)』の精華であった」(P095-6)。
     「ポリスの人口の半分以上を占める奴隷階級を考慮の外に置いた、今の時代からは信じることのできない社会構成の単純化が古代の美しい理想政治の前提であった。その壮麗な文化は『自由』と『競争』が調和し合って、近代のように『平等』の観念に煩わされなかったところに花開いた偶然にほかならない」(P097)。
     アメリカは最初インディアンを奴隷として使おうとしたが、勇猛果敢な民族で、気質も立派だったので奴隷にならない。抑えようとすると山奥に逃げてしまう。黒人が代わりに利用されたが、ヨーロッパからプア・ホワイトが大勢流入する。両者が結託して反乱を起すことを恐れ、プア・ホワイトの人権と諸権利を認め、黒人と分けた。そこで支配層とプア・ホワイトとの間に『平等』の概念が登場する。
     独立宣言に謳われた『自由と平等』はこのようなご都合主義に裏打ちされていた。片や、イギリス政府に対し植民地住民の『平等』の主張がなされなければならない。その中に、一緒に戦うべきプア・ホワイトは含まれる必要があった。彼らを味方にしないとイギリスと戦えなかったからである。(P097-8)「私は暴露心理でこう言っているのではない。(「平等」のような…引用者)美しい抽象理念だけがぽっと突然飛び出してくることはなく、現実の文脈から、必要との兼ね合いで、揉まれながら初めて言葉は生まれ、表現となるものだからである」(P98)。独立宣言の『平等』の中に黒人やインディアンが入っていなかったことはその後の歴史が証明する。(P99)。
     西尾氏は、アメリカ文明には一貫してある種の鎖国性がある」とし、「キリスト教がおそらく関係している」と述べる。おそらく、十字軍の精神が流れこんでいるのだ。「自らの文明をグローバリズムの名で、世界普遍性を主張した瞬間に、アメリカ人はより広い宇宙(コスモス)―アジア人にはそこから電磁波が感じられるーに対し自己を閉ざし、ある一定枠の意識の内部に閉じこめられているように見える。もちろん、その一定枠の中で『自由』と『競争』を最大限に活かすジャンル、例えば科学研究とか武器開発とか金融操作とかにおいては類例のない力量を発揮するのだが、政治や外交において最近の一〇〇年間にもとり返しのつかない失敗をくり返しているのは、みなこの独特の鎖国性のゆえであると思われる」(P100-1)。
     氏は、アメリカのグローバリムとはナショナリズムの表現であったことに世界はようやく気がつき始めているとして本章を結ぶ。第一章が雑誌『正論』誌上で完結したのは二〇一三年一〇月である。
     それから一〇年を超える時間が流れ、グローバリズムの破綻は今や明らかである。

  2. 抜き書き『日本と西欧の五〇〇年史』その二

    今日は第二章について。

    第二章 ヨーロッパ五〇〇年史
     最初に、西洋の五〇〇年を遡及した鳥瞰図が示される。
     「覇権国の移り変わりを現代から過去へさかのぼっていくとアメリカ、イギリス、オランダ、スペインの順であり、横側にフランスがいたりロシアがいたりで、ドイツは姿を見せず、イタリアは事実上西欧近世文化の中心でありつづけていたが、国民国家としての統一はドイツとともに遅れていたので覇権の歴史にその名は出てこない」(P109)。西尾氏は現在の「G7」にオランダとスペインの名がないことに言及し、「こういうふうにして消えるのである。わずか五〇〇年である」(P100)とし、最新のヘゲモニーを握ったアメリカとイギリスの地位が「半永久的であるかのごとく思うのは大きな錯覚ではないかと考えられる」(P111)と指摘する。
     「オランダとスペインはどのようにしていつ衰退したのか。なんと驚くべきことに、両国が最終的に覇権国として息の根を止められたのは、西太平洋、われわれの島国の目の前で起こったドラマであった。旧日本軍によってという意味では決してない。オランダはイギリスに、スペインはアメリカに窒息させられた」(同)。
     「五〇〇年史は(中略)王朝の戦争史だった。西欧の王朝の歴史がアジアを動かし、アジアの地図をこれまでいろいろに塗り替えてきた。王国は終わり、その中から近代国家が生まれてきた。王家同士の戦いの原因となったモメントを挙げると、ひとつには新教と旧教、プロテスタントとカトリックの争いだった。もうひとつの動機、もっとも決定的で重要な彼らの戦争の動因はイスラム教との戦いだった(同)」。
     「アジアの植民地獲得の競争は(中略)あくまで王朝の金庫を満たすための手段であった。欧州同士の戦争に成功を収めるための資金獲得の手段として、彼らはアジア、アフリカの植民地を必要とした」(同前)。
     「五〇〇年遡及史を考えてみて、もうひとつ気がついたことは、二本の糸が織りなされるように五世紀にわたって一貫して強大な覇権意志を示した、いわばこの歴史の代表チャンピオンとして二つの王国スペインとイギリス、カトリックとプロテスタントを代表する両国が挙げられることである。五〇〇年の歴史の流れを過去に向かってさかのぼっていくにつれスペインが強大化し、逆に二〇世紀に向かって下ってくるにつれイギリスが大きくなった。スペインとイギリスこそが五〇〇年の歴史を飾るヘゲモニーへの勝利の象徴的位置を占めている。
     そして、なによりも大切なことは、この二つの王国が行き着くところ共にアメリカの創造者だったことである。南北アメリカを区別して言っているのではない。どちらもアメリカであり、合わせて一つのアメリカである」(P112)。
     スペインの興隆は次のように始まる。
     一五世紀末にキリスト教徒が団結してイベリア半島からイスラム教徒を追い落とした失地(レコ)回復(ンキ)運動(スタ)、そしてコロンブスのアメリカ征服がもたらした富、さらには若き皇太子カルロスの神聖ローマ帝国カール五世即位によって辺境の一小国は一大帝国へと駈け昇った(P115-6)。「一五六五年、カルロスの息子フェリペ二世が帝位を譲り受け」、「有名なレパントの海戦(一五七一年)でアジアへの海路を妨害していたオスマン帝国を打ち破り、東方への路をつけた。当時のスペインは苛烈な異端審問制度でも知られる。海を越えてあるいはアメリカの新大陸へ、あるいはアジアの未知の地へスペインが雄飛したのはひとえに宗教的情熱のゆえであり、イエズス会がこれを先導した。イベリア半島からイスラム教徒を掃蕩したあのレコンキスタの情熱とアメリカ大陸征服の情熱はひとつながりであり、根底において一体のものであったと考えるべきである」(P116-117)。
     東方にはフェリペ二世と角逐の火花を散らすことになる関白秀吉が世界征服計画に乗りだしていた。朝鮮を越えて明、さらには天竺(現・インド)に及ぶ東アジア全域にわたる一大帝国を築き、「地球の半分を総攬(そうらん)すべき統括者になろうというようなこのうえもなく大きな企てであった。これはすなわち、中華中心の華夷秩序をも弊履(へいり)のごとく捨て去ってしまう日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者として立ち現われた点が注目されなくてはならない」(P117-118)。
     「秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ二世と同じ意識において世界地図を眺めていた、日本で唯一人の、近代の入口における『世界史』の創始者として振る舞おうとしていたというその意図がポイントなのである」(P118)。
     一五、一六世紀の地上において王権の正当性は『武威』に求められていた。日本も同様であった。朱印状の一節にある文言『日本弓箭(きゅうせん)きびしき国』が『大明の長袖(ちょうしゅう)国』に戦って負けるはずがないという、武力で天下を統一してきた秀吉の自信のほどがこの背景に現われている」(同)。
     この辺は『国民の歴史』以来のモチーフであり、西尾氏の筆勢は躍動する。
     「西洋史では大航海時代を以て『近代』の始まりとする。イベリア半島の辺境の一小国があっという間にヨーロッパ全域の超大国にのし上がったのも日本の戦国時代の『天下統一』の例に似ている。これがほかでもない、一六世紀という時代の共通の特色なのだ」(P119)。
     「秀吉は(フェリペ二世と交換した贈答品の…引用者)添え状の中で、日本は『神の国』であるからキリスト教の宣教活動は許されない旨書き送った」(P120)。
     「スペインが動けば世界が震えるといわれた時代だ。よもや自分に歯向かう者などいるはずもないと信じていたフェリペ二世は、地球の裏側で威嚇に一歩もたじろがない一人の男がいることを知り、どう思ったであろう。これは世界史的な二つの意志の激突の瞬間であった」(同)。
     「私たちは江戸時代が中間に入っているために歴史が一六世紀以来ずっとつながっていて、
    日本が世界との対決を忘れている間にも世界各国のパワーポリティクスは継続していた事実に対し意識が及ばない。近代日本人のいわば盲点である。秀吉の時代から太平洋の歴史は途切れずにずっとつづいていた。このことに深く思いを致すならば、秀吉の武威の発動は狂気ではなく、一六世紀人の『近代的な自覚』の発露であったと看做(みな)すことになんのためらいも要さないだろう。ヨーロッパ五百年遡及史の試みは、西欧を見直すためではなく、日本の歴史を複眼で捉え直すためにもっと利用されるべきである」(P121)。
     今回『国民の歴史』「第16 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか」を読み返してみたが、以上に書かれていることは既に縦横に論じられており、措辞も似通っている。氏は『国民の歴史』の歴史観を再度踏み固めながら本書の論考を進めている。小学生の西尾少年が尊敬する偉人として秀吉の名を挙げたことが、『少年記』に描かれている。担当教師が秀吉は民主主義者でないと撤回を求めたが(戦後とはそんな時代であった)、肯んじることはなかった。歴史を現在の目から見て疑わない教師と、当時の人の視点で想像力をめぐらして見ようとする西尾少年との対立であり、前者は相変わらず今日も跋扈している。それにしても、西尾少年の視程に秀吉の意志のどこまでが捉えられていたのだろう。
      一八九八年の米西戦争によりキューバに加えてスペイン領フィリピンが陥落し、「イギリス海軍は西太平洋をアメリカに引き渡し、艦隊を撤収した。スペイン帝国とイギリスとの積年の対決に終止符を打ったのはイギリスではなく、新興国アメリカだった。アメリカはこれによって一等国となり、太平洋はアメリカの海となった。以上は日清戦争(一八九四-九五年)と日露戦争(一九〇四-〇五年)の中間に起こった出来事である。日露戦争の勝利によって日本もまた一等国として台頭するに及んで、日米戦争は時間の問題となってくるのである」(P049-50)。
     「こうしてヨーロッパの五〇〇年遡及史の中で主役を演じていたスペインとオランダはいつの間にか影が薄くなり、現代のG7にもその名をとどめなくなった。日本がアジアを解放して両国を追い払ったからではない。スペインとオランダに関しては今次大戦の始まるはるか前に自滅していた」(P126)。
    「日本は内向きになったために近視眼となり、今次戦役の背景を知るのにせいぜい一〇〇年
    どまり。ペリー来航より以後しか見ないが、それではあまりに不十分である。
    五〇〇年くらいは射程に入れないといけない。正面から相手を見るだけでなく、アメリカやイギリスなど主役の背中を見ることから始めなければいけない」(同)。
      失地(レコ)回復(ンキ)運動(スタ)によって「ポルトガルがイスラム教徒を地中海の東方へ追い払ったちょうどその頃、東ヨーロッパは新たな異教徒モンゴル軍の侵掠によって大きな脅威にさらされていた」(P127-8)。
    「東ヨーロッパに侵入したモンゴル軍はオゴタイ・ハーンの訃を聞いて引き返し、しばらくヨーロッパに平和がつづいたが、ちょうどその頃オスマントルコが勃興してきて、小アジアに足場を固め、バルカン半島の征服に乗り出した。一三五六年オスマントルコはヨーロッパの東部に猛烈な進撃の歩を進めた」(P128)。
      当時のキリスト教徒たちは「ヨーロッパの西隅に押し込められて逼塞した心理状態にあった」。「彼らは世界の終末が近づいていると感じていた。イスラム教徒の圧力はオスマン・トルコの台頭で一段と厳しさを増していた。一四五三年にはコンスタンチノープルが陥落して、ビザンツ帝国は亡びた。オスマン軍の艦隊は一四八七年頃には地中海の西方にまで深入りして、フランスやスペインの沿岸を襲ってさえいた。ヴァスコ・ダ・ガマの船出の十年ほど前の風雲急を告げる事態であった。当時のヨーロッパ人は弱気になり、自分たちを脅かしていたモンゴル人に同盟を申し込んで、イスラムに対向しようとさえ計画する人が現れたくらいである」(P134)。
      「こういう事態だから、東方の海への出口は希望の高まる救済の道であり、信仰の思いを確かめる唯一の開放の道で窓でもあった。(中略)世界の終末は近づいていた。最後の審判の前にひとりでも多くの異教徒を改宗し、地上のすべての民に福音をとかねばならないのだという固い信念は、あらゆる物事の前提として、キリスト教世界を覆っていた」(P135-6)。
    中南米でのスペインの残虐行為を告発したラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を見ても、彼自身のこの異教徒を改宗させるという「固い信念」だけは疑われることなく、牢固として揺るぎない。
      「アラビア海からインド洋全域に及ぶヴァスコ・ダ・ガマの暴力的海域制圧」(P137)、「ガマの行為は現在の私たちが知っている外交儀礼から見ると常軌を逸している」(同。羽田正氏『東インド会社とアジアの海』からの引用)。そのような暴力行為に「ガマは顔色一つ変えなかったと言われる。イスラム教徒は殺害してもよいのである。許しがたい仇敵なのだ。それは十字軍の精神でもある」(P138)。
      「それでいてガマはモザンビーク付近の海岸で、永年探しつづけていた(ヨーロッパでは当時、アジアかアフリカのどこかにいると信じられていた…引用者)あの伝説の王、キリスト教の王プレスター・ジョンの存在について原住民に聞きあさり、ありそうもない不確かな噂を耳にしただけで『われわれは嬉しさのあまり泣き出してしまった』と記録されてもいるのである。
      これをどう解釈したらよいのだろう。キリスト教徒はこのとき一般に信仰上のことで何か追いつめられた心理に駆り立てられていたようである。信仰と殺戮、幻想と暴力の二律背反の矛盾はここにはない。彼において非合理と合理は一体化していた。抑圧されてきた閉鎖文化圏ヨーロッパからの脱出と解放は、いずれにせよ他害的破壊的様相を辿らざるを得ない。インドやアフリカという多神教の融和と温順に満ちた世界にやってきて、そこで見せた一神教の自滅的悲劇の表現というべきである。しかしそのこのましくない噂、そして影響は遠く時代をへだてて今日の世界に及ぶほどに広範囲で、深い」(P138-9)。
      「海に国境は存在しない。地中海は不自由だったが、インド洋は自由だった。それなのにポルトガル人はインド洋にラインを引いてこれを囲い込むことをした。沿岸の一つひとつの港町は地図の上でばらばらに散らばる点でしかなかったのに、それらの点をつないで線をなし、“ポルトガルの鎖”と名づけられた海上の囲い込みを実行した。その中で貿易に従う船はすべて通行証(カルタス)を備えていることが要求された。いざといときにそれを示せないと、積み荷は没収され、乗組員の生命は保障されなかった。貿易船はもちろん港町に税を収(ママ)める義務があるが、それとは別に、海を支配するポルトガル人にも税を支払わねばならなかった」(P139-40)。
     羽田氏は、「『ポルトガルの鎖』の内部は海なのである。ポルトガル人のインド領は。この海における交通と貿易を支配し、そこからあがる税収をその主たる収入とする『海の帝国』だった」と書いている。「しかもこのシステムは一八世紀になってイギリスの東インド会社でも採用され、運用されるようになった。軍事力を背景に、地球の広大な領域に自由勝手な線引きをして、その内部を囲い込でで管理し、支配するというこの発想は、人類史上ことのほか深刻で、影響の大きい意味を持っている。アングロ・サクソンがこれを引き継ぎその後の歴史で大規模に展開したことはよく知られる」(P140)。
     一四九四年にローマ教皇認可のもとに、「トルデシリャス条約」なるスペインとポルトガル間で世界を幾何学的に領土分割する「境界(デマル)画定(カシオン)」がなされる。「世界の終末は近いというあの千年王国の幻想と危機感、自己破滅と自己膨張の一体化した、地球全体を神の名において統括し救済せんとする特異なイデオロギーの表現」(P141)である。この「自由な空間に境目をつけるというものの考え方は一種の排除の論理」(P142)であり、「後のアメリカの帝国主義的グローバリズムにもまっすぐにつながっている何かがあるように思える」(P142-3)。
      「本書の第一章で私はアメリカを論じて次のような特徴を挙げた。アメリカ人は自らを一つの世界と思っていて、彼らにとって国際社会は存在しない。アメリカは戦争をするたびに大きく姿を変える国、戦争のさ中にその体質がダイナミックに変わる国である。脱領土的な世界支配をめざし、植民地はもたないが、その代わりより広大な空間の全域支配を狙い、他国操作の遠隔化、間接的な空間コントロールを特徴とする。その手段の一つは金融であり、もう一つは制空権の掌握である。(中略)アメリカの意図するグローバリズムは“ポルトガルの鎖”になんと似ていることであろう。ポルトガルもまたインドなどの内陸の王権とは共存共栄で、脱領土的な世界支配を狙っていた」(P143)。
      「ポルトガルやスペインが手を染めた『大航海時代』における空間の拡大は、中世末の閉塞し押し潰された精神の暗闇、モンゴルとイスラムに追い詰められたヨーロッパ人の絶望が突如反転して爆発した自己救済の運動といってもよかった。時間にも空間にも自足していたインド洋沿岸の人々にはただひたすら驚愕(きょうがく)で迷惑だったに違いない。同じように三五〇年前にアメリカという国家の出現を海の彼方に見て首を傾げつつその進出と接近に不安を抱いたわれわれ日本人は、空間でなく時間の充実に、ヨコ軸でなくタテ軸の深化と成熟に、生を賭する民族だった」(P144)。
      「異教徒の海を武力占拠し、原住民を奴隷化してもよいという正当戦争の根拠について」、ポルトガルのジョアン三世」(P144)が一法学者から得た答申を紹介し、氏は「ことごとく手前勝手な論理であることには呆れ果てる(P145)と言うが読者も同感であろう。キリスト教による救済、宣教師の布教の正当性を主張し、異教徒の自然法に反する罪深い悪習を捨てさせ正道に導く戦争の正当性を言いたてるのが常である。「文明が野蛮を制するというロジックは現代アメリカの政治や外交の底流にあることは、歴史からの遠い信号として見逃せない」(同)。五〇〇年遡及史の功徳と言うほかあるまい。
      そもそも自然法に反する罪深い悪習とは、人肉嗜食(じんにくししょく)や人身御供(ひとみごくう)が含意されていたらしい。しかし「自然法という概念は広くて曖昧である。アウシュヴィッツを裁いた法的には疑問の多い『人道に対する罪』も自然法に論拠を求めていた。人間ならそんなことはしない、あんなことをするのは人類のうちに入らない、そういう漠然たる判断が自然法の前提である」(P146)。これは「ときには大変に常識からかけ離れたものの考え方や逸脱を生む可能性がある。『人間』とか『人類』という概念の基準をいったい誰が決めるのかがつねに大きな問題だからである」(P146-7)。「すべてを常識やコモンセンスの判断に委ねる平和で健全な市民社会」(P147)でだけ適用を限定すべき法規範だったというべきだろう。「異教徒の支配権や財産権を尊重する論拠を宗教の違いに求めれば争いは収まらない。それでもっと違う普遍的規範はないかと考え、これを自然法に求めた。(中略)ここにも落と
    し穴があるのだ。(中略)自然法の規範である『何人も占有していない空間は誰もが占有し得る』は広いインド洋をポルトガル人がひとり占めする恰好の口実にならなかったであろうか。自然法を抜け道にする論争の自由が中世末のヨーロッパの思想界を混沌に陥(おとしい)れたのだった」(P147)。
      ヨーロッパ世界は「古代ローマ文明からある要素を受け継ぎ、キリスト教という普遍宗教を心の支えとしてはいたものの、極端に閉ざされた精神文化圏であって、圧力をかけてくる異民族、異文化に対しては当然ながら不寛容で、攻撃的であった。自己を基準にして他を測る排他性は異教徒の社会との緊張が高まれば高まるほど激しくなっていくのは自然の成り行きであるが、外への拡大が政治的征服ではなく、異民族に福音を伝えたいという願望、宗教的情熱を伴っていたことが著しい特徴だった、それは一面からいえばこの文明の光と闇を抱える複合性、二重性、ダイナミックな思想性の証明であったが、他面からいえば救い難い自己欺瞞のおそれを孕んでいた」(P148-9)。
     「異教徒との主な戦いは四つあった。聖地イエルサレムの奪回をめざした十字軍、ドイツ騎士団がポーランドやエストニア地方を劫掠した北の十字軍、イベリア半島からイスラム教徒を追い落とした失地(レコ)回復(ンキ)運動(スタ)、そしてきわめつきはスペインによる新大陸発見とポーランドによるアフリカ南端を回ってのインド洋と太平洋への進出であった」(P149)。新大陸発見後のスペイン人たちを動かしたのは「経済的欲望だけではなく、中世に書かれていた幻想的物語(『黄金伝説』等…引用者)が久しく与えてきた幻であり、世界の終末は近づいている、あと一五〇年もすると世界は終わるというキリスト教徒に特有の黙示録的信念がそこに重なっていた。
     「コロンブスは大西洋を横断する自らの行動を聖霊によってインスピレーションを与えられた宗教的一大事業と考えていたに違いない。イベリア半島からイスラム教徒を追い払った年(一四九二年…引用者)に船出したのは決して偶然ではなかった。スペインがイスラム教徒とユダヤ教徒を追放したうえでのキリスト教大同団結の年に、自分は世界的大使命を果たすのだと秘かに自負していたに違いない。イエルサレムの奪還という十字軍の狙いとアメリカ大陸発見の目的とは根は一つなのである。コロンブスは大陸で出会う異教徒をすべてキリスト教に改宗させ、スペイン国王の忠実な下僕にすることをことあるごとに誓っていたし、また国王にそう書き送ってもいた」(P149-150)。
      「この同じ中世のスペインに、一〇〇〇年以上も闇に埋もれていた一群の文書が日の目を見て、ヨーロッパ精神史上に革命的な結果をもたらすという事件が起こっている。文書の中の代表の位置を占めていたのはアリストテレスの著作群だった。ギリシャ語ではなくアラビア語に翻訳されていた。しかも土中に埋もれていたのを発掘されたのではなく、驚くべきことにコルドバやトレドなどの大学の図書館に所蔵されていたのだ。イスラムの支配からスペインが解放されたときにそれが分かった」(P150)。
      「三〇〇〇ページにも及ぶその著作は(中略)西ヨーロッパ文明のその後の展開の基礎となる思想であるし、また事実その通りになったのである。そうであるならキリスト教徒は、これまで敵視してきた異教徒、よりにもよって最大の敵であったイスラム文明が、このように進んだ合理的知的体系を保存し、育成し、伝播(でんぱ)と普及に貢献していたことを知ったとき強い羞恥の念に襲われなかったのであろうか。異教徒や異文化に対する認識を改めなかったのであろうか。自分の文化圏の外で仮に違う体形、違う肌の色をした民族に出会ってとしても、自分の尺度で相手をきめつけてはいけない、地上には自分など及びもつかない『他者』が存在するのだという謙虚な認識に立ち至らなかったのであろうか」(P151-2)。
      「国王カルロス一世が神聖ローマ皇帝(カール五世)に選出されてからはインディアス(スペイン人の植民地)から流れ込む金銀は王室財政を大きく潤し、なくてはならない帝国最大の支柱となった。スペイン人が野蛮人とみなすインディオの土地や財産を奪うことは果たして許されるか否か、その前にインディオはそもそも人間であるのか否かが、あらためてドミニコ会の修道僧を中心とする神学的哲学的論争の最も関心の集中するテーマとなった。そのとき討議者たちがつねに意識する思想的規準は聖アウグスティヌスであり、聖トマス・アクィナスであったが、しかしそれをさらに超える亀鑑(きかん)として仰ぎ見られていたのは、ほかでもない、アリストテレスであった」(P152)。
      次に、「征服の中止を訴えつづけてきたドミニコ会士のラス・カサス」と「アリストテレス学者のセブール・ベダという当代きっての哲学者」さらに「スペイン・スコラ哲学の良心といわれるビトリア」(P153)の三者によるインディアス征服戦争は是か非かをめぐる論述が紹介される。ラス・カサスがインディオとインディアスについて語ったことは、(中略)およそ正常な感覚をもってみつづけることができないこと、キリスト教徒がしたことなら信仰を覆さずにはいられないようなこと、信徒なら心の奥底をかき乱され天を仰いで絶句せずにはいられないこと、『人類』などという収まりのいい安定した甘い概念など糞くらえと投げ出したくなるようなことばかりであった。
      ラス・カサスは叫びつづけたのである。その声はセブール・ベダも、ビトリアも、凡百のあらゆる観念的思想家の言葉をはるかに飛び越えて今日に聞こえてくる。
      本人はキリスト教の司祭であり、神聖ローマ皇帝としてのスペイン国王への忠誠心に篤いと自らそう思っていただろうけれども、彼の言葉は共同幻想の外に立っていたのだ」(P170)。
      コロンブスの息子ディエゴが一五一二年にキューバ征服軍を出動させたとき、「ドミニコ会士モンテシノスという司祭が植民者の蛮行・非行をはげしく糾弾する説教を行った。(中略)植民者を擁護するフランシス会とドミニコ会との争いにも発展した。国王は神学者や法律家に命じて会議を開かせ、討議させた。ここから世紀の大論争が始まった。そもそもエスパニューラ島(現在のドミニカ共和国とハイチ共和国…引用者)等で見出されたインディオたち原住民は果たして人間であるのかどうかという疑問が打ち出された。これまでに叙述してきた通り、一六世紀当時のヨーロッパではキリスト教徒の社会のみが真の人間の社会であり、その外部には化け物や妖怪の存在が予想されていたほど無知だった。イスラムやユダヤ教徒などの異教徒を含んだ『人類』の概念は未発達だった。人文主義思想はまだ根づいていない。(中略)一般には国王も聖職者も民衆も、キリスト教中心の考え方にとどまっていて、異教徒に『万国法』(後の国際法)を適用する必要を認めなかった。まして理性を持たない野蛮人(バルバロ)は奴隷化するも生かすも殺すも勝手という判断は一般的だった」(P176)。
      「そもそも教会こそ十字軍の発起人だった。教皇は内部の異端に厳しく対処し、精神の純化を図り、そしてその上で外部に対し激しく戦闘し、ヨーロッパ世界を拡大した。東のイエルサレムや地中海域のイスラム教徒を追い落とし、その同じ勢いがアメリカの新大陸発見へ向かった。しかし拡大がある範囲を越えると、異教徒との妥協をさぐり、融和的にならざるを得なくなるのは必然である。だから教皇(インノケンティウス四世…引用者)の寛容とは外の世界に対するある種の政治的表現の信号にほかならないのである」(P182-3)。
      「さてそこで、インディアス問題に直かに関係するが、異教徒が占有または所有している土地を奪うことは許されるか否かという問題は、外部へ拡大するキリスト教徒にとって中世の早い段階から難問だった。インノケンティウス四世はこれを自然法に反すると考えた。(中略)自分が欲しないことを他人にしてはならないのが自然法の教えだからである」(P184)
     しかし、「異教徒もキリスト教徒も含めてそれらの上位に立つべきローマ教皇(中略)は異教徒に対しても裁判権を持たなくてはならない」(P184)。「かくて彼が出した解決策は、武力を行使して異教徒を処罰することが許される正当な理由を自らのために二つ見出すことだった。その一つは異教徒が自然法に対する蛮行、男色とか一夫多妻、偶像崇拝などに陥っている場合に、これに対し刑罰戦争を命じることができるとする点である。二番目は、異教徒に信仰は強制すべきではないが、信仰の説得役、すなわち伝道者や宣教師を受け入れるよう求めることはできるので、これを拒否したり妨害したりする者には宣戦布告できるとする点である。十三世紀のインノケンティウス四世のこの認識と判定は次の世代に与えた影響力がきわめて大きかった。歴代の教皇がこれに倣(なら)った(同)。
     「以上を見ると、自然法は異教徒を迫害から守る楯にもなるが、迫害に口実を与える矛にもなる、文字通り『矛盾』そのものの扱いを受けていることになる。征服者コルテスの友で、アリストテレスを拡大解釈したかの『帝国主義者』セブール・ベダも、ほぼ同じ論法でインディオの自然法違反を侵掠の口実に利用していた(中略)。異教徒に融和的であることで歴史に名を遺したインノケンティウス四世の寛容の正体は暴露されている。
      異教徒もキリスト教徒もともに共通の本性によって普遍的な『人類』であると、初めて高らかに謳った『国際法の父』ビトリアは、近代西洋の民主主義その他の法意識の伝統につながっていくが、その彼を思想的に背後から支えていたのも、三世紀前のインノケンティウス四世であった。そしてインディオを『人間』として位置づけたその堂々たる主張が、打ち割ってみると、セブール・ベダとそう大きな違いはないと知ることは、ある意味で大変に大きな驚きである。われわれ日本人がキリスト教的世界としての近代西洋というものの全体の正体が何であるかを見据えるためにも次の苦い認識から目をそむけてはならない。
      ビトリアは、『インディオについて』第一部第三章で、野(バ)蛮人(ルバロ)に自由に福音を伝えることが妨害された場合、「応戦したり宣戦を布告することができる」と言っている。
      『もしも他の方法をもってしては宗教のためにならないという理由があれば、スペイン人が彼らの土地や地方を占領し、新しい支配者を任命してそれまでの支配者を退位させることが、そしてその他の正戦において許されているすべてのことを実行し、正しい戦争の法を行使することができるということである』。(『人類共通の法を求めて』所収。以下同)
      『もしも一部のバルバロがキリスト教に改宗したとして、彼らの君主が暴力をもって、あるいは脅しをもって彼らを偶像崇拝に引き戻そうと望む場合、スペイン人はそれを理由として、必要とあらばそして他に方法がないのであれば、戦争を起こし、そうした不正を止めるようバルバロを強制し、聞きわけのない者たちに対して戦争の法を適用することができる、というものである。そしてその結果として、その他の正戦の場合同様、ときには彼らの支配者を更迭することもできる』。キリスト教への改宗が目的のすべてであって、それが個々のインディオの宗教心や幸福にどうつながるかなどが念頭にない観念論である。これがビトリアの『人類』の観念である」(P186-7)。まことにあられもない「近代西洋の正体」である。そして氏は次の一文で決定的なことを述べる。インノケンティウス四世、セブール・ベダ、ビトリアに代表されるキリスト教中世が変わることなく近代に接続しているのである。
      「キリスト教的近代西洋は一つの大きな閉ざされた意識空間で、最初から中世西洋の闇に蔽われ、近代が始まった時点で外部の世界を見ない、あるいは自分に都合よくしか見ない、一つのフィクションであったことを暗示している」(P187)
     「余談になるが、原爆投下に対しトルーマン大統領は(在任1945-53年)は『獣と接するときは相手を獣として扱わねばならない』と言った。アメリカは日本を何とかしてキリスト教化しようとして失敗した。日本人の天皇信仰はキリスト教徒の目からすれば『偶像崇拝』であって、まさしく『自然法』に反するのである。だから日本人は生まれつき攻撃的・侵略的・軍国主義的な国民であると決めつけることに躊躇しなかった。アメリカ合衆国は私の目から見ると、ヨーロッパ諸国―啓蒙主義を知っているー以上に中世西洋の暗い翳りをどことなく背負っている。
      本年三月二五日、ティム・ウォルバーグ米国下院議員は「『我々はガザ人道支援にこれ以上びた一文使うべきではない』と力説、『ナガサキやヒロシマのようにすべきだ。手っ取り早く終わらせよう』と演説した」とCNNは伝えている。西尾氏の次のような文章が思い浮かぶ。
    ヴァスコ・ダ・「ガマは顔色一つ変えなかったといわれる。イスラム教徒は殺害してもよいのである。許しがたい仇敵なのだ。それは十字軍の精神でもあった」(P138)。かつて日本人がそうであったように、少なくとも一部のアメリカ人にとって、ガザの人々も殺害してもよい仇敵だという意識なのであろう。今に至るも、十字軍の精神、大航海時代の野蛮は棒のごとく貫かれていると言うべきか。
      「コロンブスの史上最大の批判家ラス・カサスの言葉は、キリスト教的西洋世界の内側だけが世界ではないことを初めて知らせた雷鳴のような言葉であった。恐るべき真実を世界中に告知した原初の言葉だった。
      近代はキリスト教的西洋世界が決してすべてではない。私たち日本人はそのことを一五〇年間体験しつづけてきたのである。そしてインディオには自らを表現する言葉がないけれども、私たちには言葉があるのである」(P188)。西洋に与えられた世界史の解釈をではなく、私たち自身の目に映る世界史を語る必要があるとは、著者が『ヨーロッパ像の転換』や『ヨーロッパの個人主義』以来力説し実行してきたことである。

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