第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」 要旨(三)

このシリーズは第三回「西尾幹二全集刊行記念講演会」での録音を起こし、要旨を文章化したものです。  

 

 真贋ということ ー 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって ー

文章化担当:中村敏幸(つくる会・坦々塾会員)
                   平成二十四年五月二十六日 於 星陵会館

 そこで、今日は真贋についてお話しているので、福田恆存の真贋について考えてみたいと思いますが、福田恆存は、自分は本物であると意識したかもしれないが、真贋の違いに敏感であった。小林さんを意識したが、一方で、小林さんは真贋と一度言っただけであり、本物を仰ぎ見て、それに近づこうとした人生であったが、福田さんは本物とニセ物を峻別する人生であり、真贋の概念を思想的に展開している。そして、ニセ物を批判し、ニセ物に対し手厳しかった。しかし、自分の中のニセ物性をも強く認識する人でもあった。福田さんは自覚の人であって、自覚出来ないものでも自覚しようとする、そういうタイプの激しい自己認識の人でした。

 従って、自己表現の中には、自己表現の怪しさについては小林秀雄と同じように辛辣でした。

 自己表現の中には権力意識というものが含まれている。そういうことを言い続けたのか福田恒存で、文学者の自己表現が安易であるのは、自らの権力感情に気が付かないからで、それ程非文学的行為はない。

 小林秀雄の中には自己表現のうちに、表現者の権力意識という発想はありませんでした。これは福田恆存の新しい意識であると同時に、ロレンスというものに取組んだことと関係があると思います。

 つまり、西洋的な自我を意識し、小林さんよりはるかに西洋的であった。かつ倫理というものに強くひかれる人でもありました。エゴティズムとか自己愛に強い問題意識を持った人であった。
 
 福田恆存に「俗物論」という大変面白い評論があります。俗物とはニセ物のことです。これは、すべての本物はすぐにニセ物になるという、非常にめまぐるしい世界をえがいている評論で、

 「私たちの仲間(作家)では、原稿の注文が降るようにあるのを言外に示す俗物がゐると同時に、それをかたはしから断ることに快感を感じる俗物がゐる。しかし、かれはその断ったことを黙ってはゐられない。あれやこれやを断ったといふ話を人にせずにはゐられぬのである。そのとき彼は俗物になる。かうして、自己拡大慾は、つねに他人の目を必要としてゐるのである。いや、おれは他人の眼はこはくない、自分を見てゐる自分の目がこはいのだ、といってみてもはじまらぬ。自分の眼などといふものはありはしない。それは結局、他人の眼が自分の中にはひりこんだといふだけの話だ」
 
 「俗物の特徴として、自分が仲間入りしたい上流階級、あるいは文壇とか学会とかの悪口をいふ性癖がある。これは一見颯爽としてゐるやうだが、やはり他人の眼を気にしてゐるさもしさには変わりがない。さういふ俗物に限って、その目ざす世界に仲間入りできたあとでは、猫のようにおとなしくなる。つまり『孤独俗物』は水の向けやうで、容易に『交際俗物』に転化するのである」。

 これはもう、私たちの世界で日頃よく見聞きすることですが、こういうことをあらゆる局面について書いています。そうすると世の中のすべての人間が俗物になる。これは価値基準というものは無いということで、一番最初にお話した。ニセ物が本物になるという露伴の話にも通じているところがあります。

 「パスカルの世界」と「江戸の戯作」にはこういう点で、皆さんは意外に思われるかもしれませんが、相通じるところがあって、これは通の世界ですか。俺は通だと言ったらとたんに野暮になる。通と野暮、本物とニセ物の関係はめまぐるしく入れ替わる。いきがっていると、たちまち野暮になる訳です。
 
 一般の社会、会社や官庁では人格と評価は別かもしれない。しかし、作家、思想家、芸術家の世界はやっかいである。作家、思想家、芸術家の人格と表現は一致するものである。
 
 書き手の人格、語り手の精神の高さが勝負どころであり、何を語るかではなく、どう語るかである。人間性は仕事に表われます。そのことを、私は、小林さんや福田さんや三島さんの文章を読んでいる時に痛切に感じました。

 私は今度の本の解題の中でも次のように書いています。「政治や世相を語っても、単に政治や世相を言葉として語るのではなく、語り手の精神の高さが同時に問われていることが、往時に於いては普通であった。何を語るかではなく、どう語るか、語り手の倫理的動機が常に問題であった。論じる人の精神の高さが勝負だった。文章に表われる人品が問われていた。読者が本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題であった。読者の関心は常にそこに集まっていた。政治や世相を論じる方も読む方もある意味で私小説的であった。しかし、いつの間にか語り手の人品のの魅力よりも情報や知識が多いか少ないかが決め手になった。どう語るかよりも何が語られるかが中心になった。(中略)精神の価値の下落である」。これが、いま起こっている世界です。

つづく

文章化担当:中村敏幸

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